2017年12月12日

大気の循環一天気と気候に影響を与える大規模変動

10 大気の循環一天気と気候に影響を与える大規模変動 米山 邦夫先生

 定常的な大気の状態に対し、発生間隔は変化するものの、ある程度の周期性を持ち、各地の天気や気候を根幹から変える力を持つ代表的な大気変動現象について解説します。

10.1 熱帯と中緯度の基本状態

 中緯度の天気は、基本的には地球の自転と南北方向の温度差に端を発する偏西風の変動に支配され、準地衡風近似の方程式を解くことでおおまかな運動が説明されます。

 一方、温度の水平勾配が弱い熱帯では、強い日射を受けた地(海)表面とその上空との間の鉛直方向の不安定を解消する形で、積雲・積乱雲の発達が卓越します。

 とくに陸面と海面の比熱の違いに起因して、インドネシア多島海では対流活動が活発で、大規模なウォーカー循環を作り出しています。

 現実には、このようにしてできた流れの場が常に続いているのではなく、様々な時空間スケールでずれた状態が発生しています。

10.2 エルニーニョ/南方振動現象

 太平洋の熱帯海洋上では、恒常的な東風により表層の暖かい海水が西部太平洋に蓄えられ、暖水プールと呼ばれる地球上で最も海面水温の高い海域を形成します。

 暖水プール上空では蒸発した水蒸気が積雲・積乱雲を活発に作り出し、世界有数の降水域をもたらしています。

 一方、東部太平洋では西に輸送された表層の海水を補うように下から海水が上がってくる赤道湧昇が見られ、湧昇海域は冷たくなり東西の海面水温の差は大きくなります。

 通常は西部太平洋表層海水の東向圧力が貿易風と釣合い暖水プールが維持されますが、貿易風が弱まると平衡状態が崩れ、暖水は東部太平洋へ伝搬しエルニーニョ現象が発生します。

 エルニーニョ現象とは、西経150−90度、南北5度で挟まれた監視海域での5ヵ月の移動平均を取った海面水温が6ヵ月以上連続して気候値を0.5℃上回ったときを言います。

 エルニーニョ現象は、赤道湧昇のため通常海面水温が低い東部熱帯太平洋が数年に一度気候値に比べ高くなり、全球の気象や気候に数力月から年単位で影響を与えます。

 地球上では、しばしば数千km以上離れた場所でいくつかの物理量に強い正または負の相関であるテレコネクションが見られます。

 インドネシア多島海に近いダーウィンの地上気圧と西経150度付近のタヒチの地上気圧に見られる、片方が高くなると片方は低くなるシーソーのような関係の南方振動はその一つです。

10.3 マッデン・ジュリアン振動

 米国のマッデンとジュリアンは、1971年と1972年に、赤道に沿ったインド洋から太平洋にかけての地域で、海面気圧と風の東西成分に40−50日の周期性があることを発見しました。

 マッデン・ジュリアン振動=MJOは、それ自身が熱帯の気象や気候を左右するだけでなく、種々の現象に影響を与えながら、全球の気候変動に影響を与えていることが知られています。

10.3.1 マッデン・ジュリアン振動の基本構造

 マッデン・ジュリアン振動によると、主にインド洋の熱帯海域上空で積乱雲が発達し、その後東西方向に数千km規模の雲群へと1〜2週間かけて成長します。

 巨大雲群になった後、赤道に沿って東進を始め、インド洋から太平洋にかけての海域では約5 m/sで進みます。

 そして比較的海面水温が低い日付変更線付近で対流はしばしば衰退し、一方、上空の風のシグナル=東西風偏差だけはその後も、速さを上げて赤道上を周回しインド洋に到達します。

 この1周期に30〜60日を要し、1つのマッデン・ジュリアン振動現象が発生しているとき、別のマッデン・ジュリアン振動に伴う巨大雲群は観測されていません。

 なぜそのような巨大な雲群が発生するか、赤道に沿って約5m/sという速さで東進するかについては、現在諸説あり解明されていません。

10.3.2 マッデン・ジュリアン振動が全球の天気や気候変動に与える影響

 マッデン・ジュリアン振動の発生過程や東進するメカニズムについては現時点では断定的な1つの答えはありません。

 人工衛星による雲や風の分布から、現在ではマッデン・ジュリアン振動対流がどこにいるのか各国で気象予報を担当する現業官庁がモニタリングを行っています。

 理由は、マッデン・ジュリアン振動が熱帯地方の天候に決定的な役割を果たすだけでなく、主に他の現象との相互作用を介して、全球的な大気の運動に影響を与えているからです。

 西風バーストが赤道上を吹くと、やや高緯度側の貿易風などの東風との間に低気圧性の渦を生み出し、対流の南北に熱帯低気圧をしばしば発生させます。

 西風バーストが西部赤道太平洋で活発に起きると、海洋中の温度躍層を押し下げ、東部太平洋の海面水温が高くなり、エルニーニョ現象が発生します。

10.4 北大西洋振動

 北大西洋には亜寒帯のアイスランド低気圧と亜熱帯のアゾレス高気圧が、停滞性の高・低気圧として存在し、両者の間に生じる気圧傾度力が偏西風を生み出しています。

 この高・低気圧が冬季に共に強まる(弱まる)と、テレコネクションの1つである、北大西洋振動=NAOと呼ばれる変動が起きます。

 NAO指数が高いほど偏西風が強まり、南西風をヨーロッパに運ぶため、ヨーロッパは比較的暖かく水蒸気の多い冬となり、逆にカナダなどでは乾燥し気温も下がる傾向があります。
 
 NAO指数が低いときには偏西風も弱まり蛇行しやすくなり、その結果、ヨーロッパでは平年に比べ寒冷な冬になることなどが統計的に示されています。

10.5 まとめ

 地球規模で気象や気候を大きく変える変動は、他にも、

 熱帯を起源とするものでは台風、
 インド洋におけるエルニーニョ現象とも呼ばれるインド洋ダイポール現象、
 大陸と海洋との比熱の違いに起因し季節的に風の向きや雨量が変化するモンスーン、

など多々存在します。

 実際の地球上では、これらの各種の現象が複雑に絡み合いながら大気の流れを決定しています。

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2017年12月10日

ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド

 ”ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド ”(2014年7月 春秋社刊 D.S.ブレイク著/細野容子監修/浅田 仁子翻訳)は、19世紀植民地下のアイルランドで世界初のホスピスをつくったマザー・エイケンヘッドの生涯と功績を紹介している。

 ホスピスは緩和医療のことで、治る見込みのない病気の患者の苦痛や死の恐怖を和らげ、尊厳を保ちながら最期を迎えるケアである。近代ホスピスの5人の母と称されるのは、マザー・メアリー・エイケンヘッド(1787-1858)、フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)、シシリー・ソンダーズ(1918-2005)、キュプラー・ロス(1629-2004)、マザー・テレサ(1910-1997)である。このうちマザー・エイケンヘッドは、ホスピスケアの原点を創ったことで知られている。

 著者のジューナル・S・ブレイク氏は、アイルランド・コーク生まれ、コーク大学にて修士号、ハル大学にて博士号取得した。現在、ダブリンのマリノ・インスティテュート・オヴ・エデュケーションの学寮在住の、著述家・修道士=クリスチャン・ブラザーズである。

 監訳者の細野容子氏は京都府生まれ、住友病院、新生会第一病院などで臨床看護を経験し、広島国際大学をへて、岐阜大学医学部看護学科教授を務めている。

 訳者の浅田仁子氏は静岡県生まれ、お茶の水女子大学文教育学部文学科英文学英語学専攻卒業の翻訳家である。

 ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指していた。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。近代的ホスピスの源はアイルランドのメアリー・エイケンヘッドの働きに遡るが、ホスピス運動が普及するには1967年に創設された英国:聖クリストファーズ・ホスピスを待たねばならなかった。

 メアリー・エイケンヘッドは1787年にアイルランドのコークで生まれ、1858年にダブリンで71歳で亡くなった。当時のコークは人口8万人の港町で北玄関橋と南玄関橋の間には、旧市街の壁に囲まれた地域が広がり、住民の多くが密集して暮らしていた。メアリーの父親のディビッドはスコットランド出の医師で、薬局を運営する薬剤師でもあった。ディビッドはプロテスタントであったが、母親のメアリー・スタックポールはカトリックで商家の出であった。当時、宗派の違う者が結婚した場合、息子は父親の宗派を継ぎ、娘は母親の宗派を継ぐのが普通であった。しかし、エイケンヘッド夫妻の場合は、まだ若くて愛に夢中になっていた母親が、生まれる子供はみな父親の宗派で育てることに合意していた。子供は4人で、メアリーを筆頭に、ふたりの娘アンとマーガレット、息子セント・ジョンを授かった。息子は病気がちで、10代後半に亡くなった。メアリーは、1878年4月4日に、父親の教区教会のセント・アン教会、通称シャントン教会で英国国教会派聖公会の洗礼を受けた。メアリーは体が丈夫でなかったため、当時の医療通念に従い、イーソンズ丘に住んでいた乳母のメアリー・ローク夫人に養育してもらうことになった。イーソンズ丘はシャントン教会北の高台にあり、低地より健康に良いとされていた。また、若いエイケンヘッド夫人は、自分の子供たちがプロテスタントとして育てられることを気にかけて、敬虔なカトリック信者のローク夫人に娘を託したようにも思われる。ミー・ローク、つまりロークお母ちゃんと、その優しい夫のダディー・ジョン=ジョンお父ちゃんは、この後メアリーの教育に重要な役割を果たすことになった。

 ローク夫人は成長の段階に合わせて幼子の世話をし、メアリーは深い愛情を込め、夫人を第二の母として生涯敬慕した。夫人はカトリック教会の儀式に従い、秘かに幼いメアリーにカトリックの洗礼を受けさせたといわれている。エイケンヘッド医師と若い妻は週に一度やってきて、娘の健康の改善状況を調べ、維持費と衣類を渡していた。ローク夫人はメアリーを実の子のように世話をし、自立することを教えた。メアリーもときどきはグランド・パレードを訪ね、妹たちに会っていた。1793年にメアリーが6歳になったとき、エイケンヘッド医師はドーンツ・スクェアの家族のもとにメアリーを戻そうと決意した。メアリーは近くのプロテスタントの学校に通って、読み・書き・計算にフランス語、刺繍、音楽、ダンスのほか、社交上のたしなみなどを教わった。エイケンヘッド医師はフランス革命のスローガンである、自由、平等、博愛に大きな影響を受け、プロテスタント、カトリック、非国教徒の尊厳と雇用に対する公正な扱いに賛同していた。この運動の国民的指導者に対し軍の報復運動が発生したとき、その指導者をエイケンヘッド家にかくまったりした。エイケンヘッド医師には、信仰の問題や病弱な息子の健康問題で悩まされていた上に、1798年の暴動による政治的副産物に悪影響を受けるようになった。そこで、今までずっと働きつづけ充分な蓄えもできたので、診療所を売り引退して暮らそうと決意するに至った。その結果、一家は転居しなくてはならなくなり、1799年にコーク市南部のラトランド通りにある、以前よりはるかに大きくて広々とした家を購入した。

 このころ、エイケンヘッド夫人の姉妹の未亡人で、長く大陸で暮らし、夫の死後、ブルージュのあるカトリックの修道院に付設された賄いつきの寄宿舎に移り住み、修道女の生活を忠実に真似た信仰生活を送っていたレベッカ・ゴーマン夫人がアイルランドに帰ってきた。ゴーマン夫人は、12歳となった利発なメアリー・エイケンヘッドに多大な影響を与えることになった。メアリーは信仰について何度も長く話しこみ、借りたさまざまな本を熱心に読んだ。やがて、エイケンヘッド医師は1801年の年末に重体に陥り、所属する教会から牧師が来て共に祈ったが亡くなった。死に瀕して、自分からカトリックの司祭に会わせてほしいといい、妻の教派のカトリック教会に入った。父親の改宗と死は、メアリーがカトリック教会に入る道を開いた。それから何年もの後、メアリーは、貧しい人びとのひどい状態を思うと、心が震えてなりません、でも、みじめな金持ちのことを思うときのほうが、はるかにおぞましくなります、と書いている。メアリーは、心から神を信じ熱心に祈りを捧げた敬虔な女性であった。しかし、数多くの心配事や問題に対処しなくてはならなかった上に、病気や激痛にも苦しんだ。体の痛みは年齢と共に悪化していき、晩年はベッドから離れられないようになり、移動には車椅子が必要であった。メアリーには長年抱いていた夢があり、貧しい人びと、特に、貧しさゆえに医療を受けられない人びとが年齢にも信条にも関係なく診てもらえる病院を開こうとした。こうして、1834年にダブリンにセント・ヴィンセント病院を開院し、一病棟にシスターをふたり、医師をひとり置いた。この病院は、神に仕える女性たちが開き経営した最初の病院になった。この種はしっかり根を張り、オーストラリアを含む世界の数多くの地域に広がり成長しつづけている。

第1章 幼少期―里親に育てられたコークでの日々/第2章 慈愛の種―シャンドンの鐘の近くで/第3章 貧しい人びとの叫びを聞く/第4章 使命を明確に―「神さま、道をお示しください」/第5章 成長と拡大―駆け出しの修道会/第6章 新たな冒険と先駆けの日々/第7章 混乱期―成長の痛み/第8章 病床からのリーダーシップ―衰弱と苦悩の只中で/第9章 ハロルズ・クロス―「主よ、汝の与えたまいしときは尽きました」/参考資料

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2017年12月08日

大気の循環一基本的な大気の流れ

9 大気の循環一基本的な大気の流れ 米山 邦夫先生

 地球上を循環する大規模な大気の流れについて、その基本的な構造を理解します。

 大気の流れを作り出し、また逆に流れによって作り出される雲の主要な発生メカニズムが、熱帯と中緯度で大きく異なることを理解します。

9.1 大気大循環

 地球上の水のうち約97%は海水、残りの3%は淡水で、ほとんどが北極や南極に氷として存在し、大気中に存在するのは僅かに約0.001%です。

 しかし、大気中の水は熱の授受を行うため、水蒸気を含んだ大気の循環が地球全体の熱バランスを決める主要な要素となっています。

 熱帯として定義したおよそ南北30度を境に赤道側と、極域へと向かう高緯度側では大きな特徴の違いが認められます。

 高緯度側では南北方向に海面水温が大きく変化しているのに対し、熱帯では南北方向に大きな変化はなく、むしろ東西方向に水温勾配が存在しています。

 赤道付近で生じた上昇気流は対流圏界面で高緯度側に向きを変え、南北30度付近で沈降する循環場を作り出します。

 沈降した空気は海(地)面で再び赤道に向かいますが、コリオリの力のために北半球では北
東、南半球では南東寄りの風となります。

 一方、極域では冷たい空気が沈降するため中緯度へ向かう流れを作り出し、南北60度付近
で上昇域となる極循環を形成します。

9.2 中緯度を支配する基本的な流れ

 南北方向に大きな温度勾配が存在する中緯度では、大規模な大気の流れは温度風の関係を満たす偏西風に支配され、中緯度の天気は西から変わります。

 気圧傾度力とコリオリの力が完全に釣り合ってしまった状態では変化のない定常な状態に
なりますが、現実には均衡から少しずれた準地衡風の状態になっています。

 温暖前線では暖気が上昇し水平方向に層状性の雲が発達し雨も穏やかに降る一方、寒冷前線では冷たい空気が鋭く潜り込み一気に上昇し積雲系の雲が多く騨雨性であることが多い。

 中緯度においては南北の温度差が原因となって偏西風が卓越し、南北の温度が異なる空気の塊が隣り合うとき、大気は異なる密度のために不安定な状態となります。

 その不安定を解消するために上昇流が生じ、その結果雲が発達し、それは温帯低気圧と高気圧という形を伴いながら東方伝搬している中で実現しています。

9.3 熱帯は積雲の世界

 熱帯には地球上で最も強い日射が入り込みますが、日射の大部分は大気中には吸収されずに、まず海(地)面に吸収され、大気は下層から温まります。

 海面付近の空気が暖められる一方で上空は冷たいままで鉛直方向に熱的に不安定な状態になりますが、海面付近の暖かく浮力を待った空気が上昇し不安定は解消されます。

 上昇して空気が冷えると凝結を起こし雲になり水蒸気から雲粒へと相変化するとき凝結熱を出し、暖まった空気は再び上昇し雲が高くまで発達することができます。

 鉛直方向の不安定を解消する形で成長する積雲や積乱雲では上昇気流が強く雲粒が一気に成長し、落下し始めると水滴同士が衝突して急激に成長し激しい雨がしばしば降ります。

9.4 赤道波

 中緯度では、南北方向の温度差が重要な役割を果たし、気圧傾度力とコリオリの力が釣り合う形で生じる地衡風が偏西風として存在しています。

 偏西風は高度とともに早さを増し対流圏界面付近で最大になり、その水平方向の熱的に不安定な関係を解消する1つの形として雲が発達しています。

 一方、熱帯では水平方向の温度差が小さい代わりに,鉛直方向の温度差が積雲を主に作り出しています。

 熱帯には中緯度のような何か規則に従う大規模な流れは存在しないのでしょうか、また、赤道にも特徴的な波動は存在しないのでしょうか。

 熱帯では、しばしば観測される赤道波として、赤道ケビン波、赤道ロスビー波、西向き慣性重力波、混合ロスビー重力波などが挙げられています。

 このような波が存在し得るという事実は示されていますが、どのような条件が揃うとこのような風のパターンが生み出されるかは現在も重要な研究テーマになっています。

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2017年12月05日

中村正義の世界 反抗と祈りの日本画

 ”中村正義の世界 反抗と祈りの日本画”(2017年8月 集英社刊 大塚 信一著)は、病魔と闘いつつ日本画壇の閉鎖的な風土のなかで多数のユニークな業績を残した中村正義の生涯と作品を紹介している。

 中村正義は1924年に愛知県豊橋市の蒟蒻工場を営んでいた家に生まれ、1931年に松葉小学校に入学した。卒業後、豊橋市立商業学校に入学したが、1940年に病気のため中退した。療養中に南画家の夏目太果に水墨画を学び、日本画家の畔柳栄子に膠彩画を学んだ。1942年に畔柳の先生だった杉山哲朗に師事した。1943年に父親が死去し1946年に母親が死去した。空襲で家を失った正義は、豊橋郊外に仮住まいをした後、松葉町の焼け跡に一間のバラックを建てて仮住まいから通って絵を描いた。1946年に上京して中村岳陵の蒼野社に学んだ。同年に第2回日展に”斜陽”が初入選し、翌年に第32回院展に初入選を果たした。その後、戦後の日本画壇において異端的な作品を数々発表し、日本画壇の風雲児と呼ばれた。

 大塚信一氏は1939年東京都生まれ、聖学院高校を経て、国際基督教大学教養学部卒業後、1963年に岩波書店へ入社した。思想編集部、岩波新書、現代選書、著作集など数々のシリーズ・講座・著作集を企画・編集した。1990年に編集担当取締役、1996年に代表専務取締役を経て、1997年から2003年まで代表取締役社長を歴任した。

 中村正義は子供のころから病弱で、美術学校に行くこともできなかったが、22歳で日展に初入選したちまち頭角を現した。1950年に第6回日展に”谿泉”を出品し特選となった。1952年にも”女人”で特選を受賞した。その後肺結核療養のため、1957年まで制作を中断した。1960年に第3回新日展の審査員となるも、1961年に神奈川県川崎市細山に転居し日展を脱退した。以後、個展を開きながら活動し、1967年に直腸癌の手術を受けた。1970年に東京造形大学の日本画教師となり、1974年に人人会を結成し、第1回人人展を開催した。1975年に東京展実行委員会事務局長として展覧会開催に奔走し、第一回東京展を実現させた。1977年4月16日に肺癌のため享年52歳で死去した。速水御舟の再来とも言われ将来を嘱望されたが、その後、破天荒な画風に転じ、日本画壇から激しいバッシングを受けた。外の世界に仕事を求めた結果、映画用の注文作品や、雑誌の表紙や、リアリズム風の絵も手がけた。スキャンダラスな舞妓、300を超えるグロテスクな顔、奇妙な仏画などを描いた。

 中村正義の作品には、自画像、風景画、舞妓、花、仏画、歴史に題材をとった絵、人物画、社会風刺画、顔の連作など多様なものがある。しかし、それらがどう関係しているのか、正義のなかでそれぞれどのような位置を占めているのか、もう一つはっきりしない。近年、正義の画業の本質を、閉鎖的で封建的な日本画画壇、あるいは政治や社会の動向、つまり時代に対する鋭い批判を前面に置いて捉えようとする考えがある。それはそのとおりであるが、正義の作品から強い批判精神を除いてしまっては、その本質はけっして捉えられないであろう。でも正義の作品を見ていると、どうしてもそれだけだとは思えなくなってくる。画壇のエリートだった男が、なぜそのような絵を描き続けたのであろうか。異端の画家の生涯を見直し、その作品を解読を試みることにする。中村正義の生涯について骨太なタッチで提えるとどうなるか。そこから正義の芸術家としての独自なあり方が浮んでくるかもしれない。なぜ正義は舞妓を描いたのか。そしてなぜあのような特異な舞妓像を生涯描き続けたのか。なぜ正義は多くの仏画と風景画を描いたのか。また生涯描き続けたのか。正義はなぜ多数の自画像を含めて顔の連作に取り組んだのか。顔にこだわった理由は何なのか。どうして自分か描いた顔の絵に、何回も何回も手を入れなければ、気がすまなかったのか。このような視点から、中村正義という近代日本が生んだ特異な画家の生き方と作品に迫ろうとしている。

 正義は1965年に、ルオーの作品の前に立って、少なからぬ心の動揺を禁じえないことを、しばしば経験すると書き始めている。ある時は、その激しさが、狂気の如く、ある時はそのお道化ぶりが、人を嘲笑するかの如く、圧倒的におおいかぶさってくる。そしてその激しさは、誠実に、厳しく、生きぬいた、人間の努力の、熱烈な、証でもあるかの如くと続けた。この正義の言葉は、そのまま正義自身について妥当すると思う、という。ルオーはキリスト教の信仰をもって、キリスト、道化、娼婦などを描いた。そして修正と加筆をくりかえした。それは神への祈りそのものの作業であったはずである。正義は舞妓像を、仏画を、山水画を祈りとして描いた。それは、自分の仏性に根拠を求めて祈り、描いたといえるのではないか。また、最後の最後まで顔を描き続けた正義と比する意味で、正義と同じく52歳で1993年に亡くなった女性画家ハンナ・ウィルケについて考えている。ウィルケは自らの肉体を素材に作品を制作したが、そこに祈りはない。正義は面話という手法で自分の内面を徹底的に探求しつつ、まるで化物のような顔を描き続けた。正義は舞妓という日本社会の歪んだあだ花を糾弾し、水俣などの公害問題、汚職事件を追及した。また、日本画壇の古い体質とその伝統的美意識の虚妄性に果敢に挑み続けた。その意味で、徹底した反抗心の持ち主だったといえるであろう。しかし、舞妓・仏画・山水画そして顔を描き続けているうちに、自らの死の自覚とあいまって、それは祈りへと変わってきたのであった。なお、主要作品116点がオールカラーで掲載されている。

プロローグ Kさんへの手紙/第1部 中村正義の生涯/第2部 中村正義の絵画、その秘密(なぜ舞妓を描き続けたのか;仏画と風景画の意味;顔の画家)/エピローグ Kさんへの第二信

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2017年12月03日

淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学

 ”淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学”(2016年11月 集英社刊 内田 棟著)は、日本最高齢のプロゴルファーが人生の極意を語っている。

 日本のゴルフ文化の礎をつくったと言われる白洲次郎、小寺酉二に薫陶を受け、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した100歳のプロゴルファーである。お名前の”棟”は”むねぎ”とのこと。内田 棟氏は1916年長野県軽井沢生まれ、日本プロゴルフシニア選手権で三位、ホールインワン5回達成、66歳と94歳で二度のがん手術を受けるも、95歳で日本プロゴルフゴールドシニア選手権大会関東予選出場を果たした。

 10歳でキャディーのアルバイトを始め、独学で身につけた。20歳で徴兵検査に甲種合格してから、およそ10年間、兵隊として戦地に赴いていた。従軍先は中国や台湾で、行軍でとにかく歩かされた。29歳の年に終戦を迎え、台湾、高雄から帰国し、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した。コース整備を担当する間に、プロのスイングを見てゴルフの腕を上げていった。当時の軽井沢ゴルフ倶楽部は、名門と呼ばれ、倶楽部でプレーされるお客様には、皇族万をはじめとする各界の名士が揃っていた。14本のクラブを持ったのは32歳の頃で、まだプロになる気はまったくなかった。しかし、ゴルフ技術が評判となり、田中角栄、佐藤栄作など各界の著名人にゴルフレッスンしてきた。55歳でプロテストに一発合格したが、日本プロゴルフ協会シニアツアーの出場資格は満50歳以上なので、いきなりシニア・デビューとなった。

 それから数えてもおよそ半世紀が経ち、思えば、いろいろなことがあった。いいことばかりではなく、二度にわたるがん闘病、そして、同じくプロゴルファーだった長男や次男に先立たれてしまった。それでも生きてきて思うのは、人生は、失意泰然、得意淡然が大事ということである。いい時も悪い時も、慌てず騒がず、淡々と生きていく。遅咲きのプロゴルファーは今でも毎日150球のパター練習を欠かさないという。昨年9月に厚生労働省は全国の100歳以上の高齢者が、前年より4124人増えて、過去最多の65,692人になったと発表した。著者もそのお一人である。女性が87.6%で、46年連続の増加となった。医療の進歩などが要因で、今後も増加が続くとみられる。

 世界広しといえど、100歳まで現役のプロゴルファーを続けているのは外には見られないと思われる。100歳になってもゴルフをしているなんて、自分でも思ってもみなかったそうである。今はちょっと腰を痛めていて、ラウンドは休んでいるとのこと。ただ、日課の自宅トレーニングを続けていて、体調が復活したらいつでもプレーを再開できるよう、体を鍛えているという。食欲も年齢にしては旺盛で、毎日3食しっかり食べている。お酒は飲まずたばこも吸わない、朝食の時味噌カツオにつけたニンニクとラッキョウ、そしてリンゴとニンジンのジュースを欠かさない。特に好き嫌いはなく、やっぱり肉は欠かせない。週に3、4回は200グラムのサーロインステーキを食べている。

 この年齢になってもゴルフを続けているのは、日常の中にゴルフがあるのが当たり前になっているからである。もう歳なんだからいいだろうという気持ちには、一切ならないし、家族もゴルフをやめろとは言わない。つまり、ゴルフが好きということになるのであろう。94歳で直腸がんになるなど、大病も何度か経験したが、入院中もクラブの素振りを欠かさなかった。すこしでも練習を休んだら感覚が鈍ってしまうからであり、プロとしてごく自然な行動である。ゴルフほど運、不運を感じるスポーツはない。天候や風など、人間の力ではどうしようもないことに振り回される競技である。人生も同じ、常にいい時ばかりではなく、時には敗れることだってある。でも、どんなに山あり谷ありであっても、心乱されず、自分のやるべきことを平常心でやっていくことが大切なのだと思うという。

第一章 生きるために始めたのがゴルフだった/第二章 遅咲きのプロゴルファー/第三章 私のゴルフ哲学/第四章 仕事ができる人間はゴルフでムダ口をたたかない/第五章 人生の「谷」を歩く時/第六章 100歳から見える景色

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2017年11月30日

海洋の循環(2)

8 海洋の循環(2) 河野 健先生

 海洋に存在する2種類の大規模な循環のうち、主に海水の密度差によって生じ海洋の上層から深層までを巡る熱塩循環が気候に与える影響について考えます。

8.1 熱塩循環

 地球が受ける熱エネルギーの不均一、すなわち、高緯度で小さく低緯度で大きいことは、大気のみならず海面の水温にも反映されます。

 海洋の水温分布は海陸配置や風成循環など様々な要因を反映し、海水の密度は温度のみでなく塩分にも影響されます。

 塩類を含む海水は水温が低くなるほど密度が高くなるという性質を持ち、とくに低温の時には塩分の影響が著しく大きくなります。

 海面塩分の分布は、基本的な構造として大西洋で高く太平洋で低くなっていて、極域での強い冷却により高緯度域で冷たく重い海水が形成されます。

 とくに南極周辺海域と、大西洋グリーンランド周辺海域において非常に密度の高い海水が生まれ、そしてその海水が海底へ向かって沈み込んでいきます。

 その量は毎秒2000万トン以上とも言われ、沈み込んだ海水は複数の海盆にまたがる対流のような熱塩循環を引き起こします。

 風成循環が各大洋の比較的浅い層に出来る循環だったのに対し、熱塩循環は全ての海洋にわたり海面から海底に至るという特徴をもちます。

8.2 塩・真水の輸送と熱塩循環

 大西洋の海面塩分は太平洋、インド洋に比して高く、大西洋の塩分は熱塩循環によってインド洋、太平洋の深層に補給されています。

 一方、太平洋の表層は低塩分で、その真水は海洋の上層を通ってインド洋、大西洋、南極周辺海域に供給されます。

 このように熱塩循環は、地球上の各大洋に塩分と真水を補給する役割を担っています。

8.3 気候変動と熱塩循環

 熱塩循環は、長い目で見たときの地表の平均的な気温を決める重要な要素の一つで、熱塩循環の変化が気候の大きな変化に直結しています。

 太平洋では、南極周辺で冷やされた海水は周極深層水となって太平洋底を北上し、地熱や混合によって変質して軽くなり、太平洋中層・深層を南下し南極周辺に戻ってきます。

 通常よりも強い風が長期にわたって吹き続けると、海洋表面はより冷却され深層水の形成量は増加し循環は強化される一方、大気への熱放出も増え大気は暖められます。

 気温が高くなった場合、海面と大気の温度差が小さくなって熱放出が小さくなり、海洋の冷却が弱まり循環が弱化する一方、大気に対する暖房効果も弱くなります。

 反対に、気温が下がれば大気海洋間の温度差が大きくなり、循環は強化され海洋からの熱放出が増えるというように、気温と循環には負のフィードバックがあります。

8.4 過去に見られた急激な寒冷化

 古気候研究では大気や海水の酸素同位体比は気温の指標であり、水床コアを上から細かく区切って酸素同位体比を計測すれば、過去から現在に至る気温変化の様子が分かります。

 およそ1万4千年前は、ベーリンク/アレレード期と呼ばれる亜間氷期で、序々に温暖化が進行していたにもかかわらず、急激に寒くなり1000年以上続いています。

 大西洋オーバーターンの深層水形成海域の塩分が下がって循環が弱化し、北半球では深層水形成時に大気に放出される熱量が減って急速に寒冷化に向かいました。

 海底堆積物も氷コアと同様に円柱状に採取することができ、海底に近いほうが最近の堆積物で、海底下に行くにしたがって古い時代に堆積したものです。

 氷コア同様、円柱状の堆積物を細かく区切り、プロトアクチニウムとトリウムを測定すると、過去から現在に至る循環の強弱の変化が推定できます。

 ベーリング/アレレード期や、近年に比べ、急激な気温低下があった約1万3千年前のヤンガードリアス期には、循環が相対的に弱かったということが分かります。

8.5 深層における循環の観測(最新の観測結果から)

 海底付近の海水は周囲のより上にある軽い暖かい海水と混合し、地熱により暖められながら北上していきますが、循環が弱まれば海底付近の水温は上昇します。

 循環の速度が遅くなった場合、沈み込んでから至るまでの時間と海底に接する時間が長くなり、地熱でより暖められるため水温が上昇します。

 沈み込む量が減った場合、循環は弱くなり、海水の量も減つため、全体として水温が上昇します。

 大気と海の熱容量を比べてみると、大気全体を1℃上昇させるだけの熱を海洋全体に加えても、水温は約0.001℃しか上昇しません。

 現在問題とされている地球温暖化の上昇幅は、IPCCの第5次報告書では高々5℃、この100年間で1℃未満で、海洋の大きな貯熱能力が気温の上昇をゆるやかにしています。

 最新の観測機材を用れば微小な水温の変化を捉えることができるようになってきており、1990年代以降は世界各国の研究者が協力し、精密な観測を海洋全体で実施しています。

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2017年11月28日

閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済

 ”閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済 ”(2017年5月 集英社刊 水野 和夫著)は、資本主義の終焉によって経済成長の時代は終わりこれから生き残るのは閉じた帝国であるという。

 グローバリゼーションを否定するかのような動きが、先進国の国民のなかで急速に広がっている。利潤をもたらしてくれるフロンティアを求めるために地球の隅々にまでグローバリゼーションを加速させていくと、地球が有限である以上、いつかは臨界点に到達し、膨張は収縮に反転する。経済成長を追求すると企業は巨大な損失を被り国家は秩序を失う時代になり、これまでの世界経済の常識が逆転している。これは、保護主義的な政策を打ち出している米トランプ大統領の登場や、欧州連合からイギリスが離脱を決めた動きにも如実に表れている。21世紀は大転換期であり、米英・欧州・中露・日本の経済はどう変わるのであろうか。

 水野和夫氏は、1953年生まれ、1977年早稲田大学政治経済学部卒業し、1980年早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了後、国際證券、三菱証券、三菱UFJ証券を経て、三菱UFJモルガン・スタンレー証券入社、金融市場調査部長、執行役員、理事・チーフエコノミストになった。2008年東洋英和女学院大学院非常勤講師、2009年埼玉大学大学院客員教授、2012年12月経済学博士(埼玉大学)、2013年日本大学国際関係学部教授を務めている。

 歴史、哲学、宗教、社会学、文学など、さまざまな分野の本に、歴史の危機を読み解く手がかりを求め、現代の長い21世紀が長い16世紀以来の大転換の時代であることに思い至ったという。長い16世紀に起きた最大の転換とは、古代・中世と続いた閉じた宇宙という世界観が、無限空間という世界観にとって代わられたことであった。ローマ帝国以来の陸の時代から、オランダ、イギリス、アメリカが覇権を継承していく海の時代への転換でもあった。そして、人類を救済するために蒐集が行われたのであるが、21世紀の現在、資本を蒐集すればするほど、能力差では説明ができないほどに格差が広がっている。その結果、アメリカで白人の自殺率が高まったり、ヨーロッパでテロが横行したりするなど、社会秩序が乱れてきている。もはやフロンティアがなくなった長い21世紀は、時代の歯車が逆回転している。つまり、世界史は再び、閉じてゆくプロセスに入ると同時に、陸の時代へと舵を切ろうとしている。事実、アメリカの衰退とともに、EU、中国、ロシアといったかつての陸の帝国が存在感を強めている。長い目で見れば、国民主権国家と資本主義からなる近代システムも完璧ではなく、近代システムを解体するときもいつかはやってくる。その先に展望されるポスト近代システムとして、閉じた帝国と定常経済圏のふたつがある。長い21世紀という混乱期を経て、世界は複数の閉じた帝が分立し、その帝国の中でいくつかの定常経済圏が成立する。この理想に近づくことができた帝国こそが、うまく生き延びていくのであろうという。閉じた帝国という中世回帰の動きは始まったばかりであり、建前上は主権国家システムが継続している。近代を維持・強化しようと考える勢力と、ポスト近代への移行を目指す動きとのせめぎあいが起きているのである。その機能不全が、歴史における危機となってあらわれているのが現在の状況である。

 歴史の危機を前半と後半に分ければ、前半は既存システムが優勢で、後半は新しいシステムを目指す勢いが徐々に増してくるというのが、これまでのパターンである。資源争奪のための戦争が起こる前に、各国が自国の生存にのみ興味を払う主権国家システムを捨て、閉じた帝国が定常経済を築き、帝国内の秩序に責任をもつようにしなくてはならない。その新しい時代に向けて先頭を走る国や地域は、どこであろうか。2008年から鈴木忠志氏が演出する演劇を富山県で毎年観続け、そこから大きな衝撃を受けたという。日本の国には灯がついているかい、と主人公の娘がたずねると、父は、どの国にだって灯なんかあるはずがないじゃないかと答える。娘に、アメリカはどうだろとたずねられ、父は、もちろん消えたよ、おまえ、今日はどうかしているぞと答える。そしてしばらくして外で騒ぎがあり、それを見に行った娘が、日本が、父ちゃん、日本が、お亡くなりにと報告する。初演された1991年という年は、生産力競争の破綻がソビエト連邦解体と日本のバブル崩壊で明らかになった年である。この中で、父が、日本にもアメリカにも灯なんかついていない、というのは、資本主義の終焉と結びつくように思ったそうである。これからも、アメリカとともに成長教の茶番劇を演じ続けるのか、ポスト近代システムの実験へと一歩を踏み出すのか。世界的ゼロ成長が完成しつつある今、日本は危機の本質に立ち戻って考えなくてはならない。

はじめに−「閉じていく」時代のために/第1章 「国民国家」では乗り越えられない「歴史の危機」/第2章 例外状況の日常化と近代の逆説/第3章 生き残るのは「閉じた帝国」/第4章 ゼロ金利国・日独の分岐点と中国の帝国化/第5章 「無限空間」の消滅がもたらす「新中世」/第6章 日本の決断―近代システムとゆっくり手を切るために/おわりに−茶番劇を終わらせろ

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2017年11月26日

古代飛鳥を歩く

 ”古代飛鳥を歩く”(2016年4月 中央公論社刊 千田 稔著)は、この国の原点というに相応しい飛鳥とその周辺を歩き多くの写真とともに当時の歴史を紹介している。

 飛鳥はかつて大和国高市郡にあった地域で、現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺を指した。当時、飛鳥と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところと考えられていた。今日では、飛鳥川の上流や下流、さらに高取川流域地域までを含み、明日香村一帯、あるいはその近隣までを含むとされることもある。

 千田 稔氏は1942年奈良県生まれ、京都大学卒業、同大学大学院文学研究科博士課程を経て追手門学院大学、奈良女子大学、国際日本文化研究センターで教授等を歴任した。現在、奈良県立図書情報館長を務めている。

 6〜7世紀の飛鳥時代は危機と動乱の時代であった。仏教伝来、蘇我氏の台頭と聖徳太子の理想、斉明女帝の大公共工事、大化改新、壬申の乱、そして平城京遷都などがあった。飛鳥には天皇の宮がおかれたことが多く、推古天皇の592年の豊浦宮での即位から、持統天皇の694年の藤原京への移転までの、約100年間を日本の歴史の時代区分として、飛鳥時代と称している。永らく日本の政治・文化の中心地であったので、宮殿や豪族の邸宅などがたちならび、帰化系の人々も段々と付近に居住するようになり、なかでものちに有力氏族に成長した阿智使主を氏祖とする東漢氏がはやくから飛鳥に近い檜隈に居をかまえていた。6世紀半ばには飛鳥周辺に仏教が伝来して文化が発達していった。7世紀には、飛鳥は古代日本の政治と文化の中心地となり、都市機能の整備がおこなわれるなど宮都の様相を呈していた。飛鳥時代には、豊浦宮が飛鳥の西方、飛鳥川をはさんだ対岸に置かれた。また小墾田宮は飛鳥の北側の小墾田と称される地域にあったとされている。飛鳥を散策すれば、当時の人々の息吹を感じとることができる。飛鳥を歩きながら立ち止まって歴史に思いをいたすと、飛鳥の時代と現代の両者が相似ているのに気づく、という。

 飛鳥の時代は、文化や政治体制が隋・唐といった中国大陸や朝鮮半島から渡来し、近現代においては、欧米文化がもたらされたという事実、つまり日本という国の大きな歴史的節目が、どちらも海外からのインパクトによって成立したということである。ただ、それは表面的な点においてであり、飛鳥の場合、文化・政治における根幹は仏教であり、仏教で国を守る鎮護国家という思想が理想として掲げられた。同時に天皇をはじめ政治にたずさわる人たちのスタンスは、儒教であった。徳のあるものこそ、政治に関与すべきだと理念的に考えられた。近現代は、芸術・医学・理学などの学術、工学などのアートとテクノロジーが欧米からせきを切ったように、わが国に流れ込んだ。しかし、それらの基層にあるキリスト教の思想をほとんどともなうことはなかった。飛鳥時代の風景からは、渡来文化とはいえ、そこに積極的にココロを入れようとした当時の人々の営みが読み取れるが、近現代のそれは、ココロよりも、形骸化したモノをむさぼりつつ今日に至った。この国の精神的土壌はないがしろにされたままであった。飛鳥を歩きつつ、日本を考え日本人を考える。一体、われわれは、どこに向かおうとしているのだろうか。飛鳥を歩くというのは、古代の歴史的痕跡をたどることではない。日本のあり処を探ることなのである。飛鳥を深く知るには、歩くことがよい。古代の人が歩きながら、風景に目をやり思ったことを追体験するのである。近鉄吉野線の飛鳥駅から歩きはじめるのが、一般的なコースである。一日で飛鳥をすべて見て回ろうとしても、それは無理なことである。

 本書では、観光あるいは見学コースに沿って述べることはしない。飛鳥とその周辺の古代の出来事を、年代を追って、現場の風景の前にたたずみながら、日本の歴史において飛鳥とは何かを語っていくつもりである、という。

1 飛鳥とは/ 2 素顔の蘇我氏/ 3 聖徳太子と推古天皇/ 4 舒明天皇と息長氏/ 5 大化の政変/ 6 斉明天皇と水の祭祀/ 7 壬申の乱/ 8 持統天皇と藤原京/ 9 古寺をめぐる/ 10 墳墓と遺跡

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2017年11月23日

海洋の循環(1)

7 海洋の循環(1) 河野 健先生

 海洋に存在する2種類の大規模な循環のうち、主に風によって海洋の上層部に生じる風成循環に焦点をあて、その成因や様相を解説します。

7.1 地球上に吹く風

7.1.1 日射と放射

 地球は太陽からエネルギーを受け取り=日射、地球も宇宙にエネルギーを放射し、受け取るエネルギーと放射するエネルギーは全体としては概ねバランスしています。

 地球は球形のため、単位面積当たりの日射エネルギー=日射量は、高緯度で低く低緯度で高く、大気や海洋はこの不均衡を解消するような大規模な循環が生じます。

 単位面積当たりの地球放射は表面温度に依存し、循環によって低緯度から高緯度に熱が運ばれ、地球表面の温度分布が形成されます。

 大気の大規模な循環は暖かい大気が上昇し冷たくなって下降する対流であり、低緯度側から順番に、ハドレイ循環、フェレル循環、極循環と呼ばれる3つの循環が形成されます。

 循環下部には地球自転の効果で、貿易風、偏西風、極東風が発達し、中緯度高圧帯=太平洋高気圧等と高緯度低圧帯や赤道低圧帯が地球の基本的な風分布と気圧配置を作ります。

7.1.2 コリオリの力

 地球は自転しているため物体はまっすぐに進んでいるようには見えず、北半球では進行方向に対して右に曲がっていき、南半球では左に曲がっていくように見えます。

 コリオリの力、つまり北半球では進行方向に対して右に曲げる力、南半球では左に曲げる力が働いでいます。

 それは高緯度ほど大きく赤道ではゼロとなり、台風や海洋の循環などの大規模な流れにはこのコリオリの力の効果が現れます。

7.2 風によって引き起こされる海の運動(エクマン輸送)

 海面上を長く風が吹いた場合:コリオリの力=遠心力十圧力傾度力十水平摩擦力十鉛直摩擦力、となります。

 これらの力が作用しあって海水の運動が定まり、北半球において風が一様で圧力に水平勾配がない場合、海洋表面の流れは風向に対して右に45度ずれます。

 深くなるにしたがって、流速は小さくなりながら、流向は少しずつ右方向へずれていき、螺旋=エクマンの螺旋を描きます。

 エクマン流の流速は深くなるにしたがって急速に小さくなり、海洋表面の流れは風向に対して45度ですが、エクマン層全体では海水は風向に対して直角に輸送されます。

7.3 海面の凹凸によって生じる流れ

 低緯度(赤道付近)では東から西に貿易風(北東貿易風)が、北側は逆に西から東へ偏西風が吹き、さらにその北では再び東から西に風が吹き、海面に凹凸ができます。

 海面に凹凸ができると圧力に差が生じ圧力傾度力が働き、この圧力傾度力とコリオリの力とが釣り合うことによって流れが出来ます。

 北半球では右側を北と考え海が盛り上がっている所が圧力が高く、圧力頻度力によって海水は高い方から低い方へ、つまり北から南へ流れようとします。

 南へ流れる海水はコリオリの力によって右の西方向へ曲げられ、最終的にはコリオリの力と気圧傾度力が釣り合うような流速で西向きに流れるようになります。

 北太平洋では低緯度側に高圧帯が高緯度側に低圧帯ができ、地衡流平衡の結果、低緯度側に時計回りの亜熱帯循環、高緯度側に反時計回りの亜寒帯循環ができます。

7.4 西岸強化

 これまでを整理する:

・太陽から受けるエネルギーは緯度によって差があり、高緯度側では小さく、低緯度側では大きい。

・この熱の不均衡を解消するように大気の循環が生じ、その循環の下部には貿易風、偏西風などが発達する。

・この風によって海面が力を受け、北半球の場合には、海洋表層では、風向きに対して右90度の方向に海水が輸送される。そして海面に凹凸ができる。

・地衡流平衡により海面の凹凸にそった流れが生じる。

・その結果、北太平洋には、低緯度側に時計回りの亜熱帯循環、高緯度側に反時計回りの亜寒帯循環ができる。

7.5 実際の海洋ではどうなっているか

 世界の海洋循環のうち、風成循環による流れの多くは海流として知られています。

 風の分布に対応して、より小さいスケールを持つ循環が存在していますが、いずれについても、運動エネルギーを風から受け取っています。

 比較的浅い層で顕著で、水平面内の循環であり、西側に強流帯を持ちます。

 北太平洋における亜熱帯循環の西側にある西岸強化流が黒潮で、北大西洋における亜熱帯循環の西側にある西岸強化流が湾流です。

7.6 海がもつ貯熱量と気温

 北緯53度から54度に位置する4都市で、各月の平均最低気温を比較すると、夏の気温には大きな差がありませんが、冬の気温は大きく異なっています。

 この差を生む原因の一つが海であり、北太平洋においては、等温線は東西にまっすぐではなく東側が少し北よりに傾き、北大西洋でもやはり東側で北よりに傾いています。

 これは、北太平洋、北大西洋にある亜熱帯循環が、低緯度にある暖かい海水を高緯度側に運ぶことによって生じます。

 各都市の気温は、この海水温、すなわち低緯度側から運ばれた熱、によって影響をうけています。

 大気と海水の熱を蓄える能力は海水のほうが約4倍比熱が大きく、同じ質量であれば海水の方がたくさんの熱を運べ気温により大きな影響をあたえます。

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2017年11月21日

チェリー・イングラム−日本の桜を救ったイギリス人

 ”チェリー・イングラム−日本の桜を救ったイギリス人 ”(2016年3月 岩波書店刊 阿部 菜穂子著)は、明治以後の急速な近代化と画一的な染井吉野の席巻から消滅の危機にあった日本独自の多種多様な桜の保護に尽力したコリングウッド・イングラムの生涯を紹介している。

 ビクトリア女王時代の19世紀後半に、日本から観賞用の桜がやってきた。大英帝国の最盛期、世界各地からいろいろなものがイギリスに持ち込まれた勢いにのって、サクラも海を渡ったのである。20世紀に入って、ロンドンの東にあるケント州の植物収集家、コリングウッド・イングラムは3度日本へ足を運び、多くの桜を持ち帰った。イングラムは日本の桜とヨーロッパ原産の桜を交配させて多くの新種を作り、またたく間に桜の権威となってサクラ男と呼ばれた。

 阿部菜穂子氏はジャーナリストで、1981年国際基督教大学卒業、毎日新聞社記者を経て、2001年8月からイギリス人の夫と息子2人でロンドン在住、イギリス社会、とくに教育問題や家族政策について日本の新聞、雑誌に寄稿している。

 イギリスにはたくさんの桜が植栽されている。イギリスでは、じつにさまざまな品種の桜が復活祭をはさんで次々と開花していく。花の色は白、ピンク、紅とそれぞれちがい、花期も少しずつずれているため、桜の季節は3月末から5月なかばごろまで長く続く。復活祭を祝う桜の光景はまるで、長い冬のあいだに眠っていた人間の魂が多様な桜の花びらとなって蘇り、そこここで生命力を躍動させるかのように見える。イギリスの桜の風景は、ひとことで言うと多様なのである。日本では染井吉野がいっせいに咲いて街全体を薄桃色に染め、わずか1週間程度でまたいっせいに花びらが散っていく。しかし、日本生まれの桜はイギリスでは故郷とはちがう風景をつくったのである。染井吉野一色に染まる祖国の風景を見慣れている在英日本人の多くは、イギリスの多様な桜の風景にとまどいすら覚える。そして、イギリスの桜は日本の桜とはちがう種類ではないだろうかとささやき合う。この多様な桜の風景を演出したのが、コリングウッド・イングラムである。

 イングラムは、ビクトリア王朝下の1880年にイングラム家の3男としてロンドンで生まれた。祖父ハーバート・イングラムは、当時人気を得ていた世界初の絵入り新聞”イラストレイテッド・ロンドン・ニュース”の創設者で、父親ウィリアム・イングラムは2代目経営者として新聞事業を発展させた。2代にわたる財産の構築により、一家は裕福だった。大英帝国は世界中に植民地をもち、栄華を極めていた。コリングウッド・イングラムは、少年時代をウェストゲイトの豊かな自然の中で過ごし、日々沼地や森を探索して野鳥や植物の知識を身につけた。日本への初訪問は1902年のことで、その旅ですっかり日本びいきになった。長い鎖国を終えて姿を現した日本は独自の文化と芸術をもち、植物相も豊かであった。イングラムは、1906年にフローレンス・ラングと結婚し、半年後に新婚旅行で再び日本を訪れた。桜との出会いは、第一次大戦後の1919年のことであった。この年に妻と3人の子供をもつ一家の主として、ケント州南部の村ベネンドンに新居のザ・グレンジを購入して転居した。そのとき新居の庭に植えられていた桜の大木2本が目にとまり、ヨーロッパではまだ知られていない日本の桜を収集して庭に植樹し研究しようと思い立った。その後、猛烈な集中力と実行力で桜を収集した。日本や米国から多数の品種を輸入し、知人・友人から譲り受けるなどして集めた結果、7年後には100種類を超すコレクションをもつ壮大な桜園が誕生した。1920年代後半から地元で有名になり、イングラムはいつしかチェリー・イングラムと呼ばれるようになった。

 イングラムが何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創り上げた多様な桜であった。英国で可能な限りの桜を入手したイングラムは、より珍しい桜を求めて1926年に日本へ桜行脚に行くことを決意した。旅の計画を助けたのは、鷹司信輔=たかつかさのぶすけ公爵で、鳥の研究のためヨーロッパに遊学中に英国でイングラムと知り合った。貴族院議員でもあり豊かな人脈をもつ有力者で、まもなく日本の桜愛好家の会の会長になった。鷹司公爵の紹介で、イングラムは日本で大勢の桜関係者と会うことができた。当時、日本では伝統文化が近代化の波の中で失われつつあり、園芸界にも商業主義が蔓延し、日本の多様な桜はどれも 絶滅の危機に瀕していた。イングラムはその現実を見て、日本の大切な桜が危ないと危機感を抱き、桜を英国へ持ち帰って保存しようと決意した。京都、吉野、富士山麓、仙台、日光と精力的に回りながら、イングラムは懸命に珍しい桜を探した。欲しい桜を見つけると、地元の人をつかまえて、穂木を英国に送ってほしいと頼み込んだ。これらの穂木はすべ て、その年の冬に英国のイングラム邸に到着した。イングラムはさらに、野生種を人工交配させて、新種の桜を創り出した。こうしてザ・グレンジの庭園では、毎春、多彩な桜 が3月中旬から5月末まで次々と花を咲かせ、桜の競演を繰り広げてきた。日本の桜は、ザ・グレンジから英国各地へ 広まっていった。イングラムの桜は大西洋を越えて米国にも渡り、チェリー・イングラムの名は広く知られるところとなった。

第一章 桜と出会う/第二章 日本への「桜行脚」/第三章 「チェリー・イングラム」の誕生/第四章 「本家」日本の桜/第五章 イギリスで生き延びた桜/第六章 桜のもたらした奇跡/関連年表/参考文献

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2017年11月18日

ハワイ官約移民の父 R.W.アーウィン

 ”ハワイ官約移民の父 R.W.アーウィン”(2011年7月 講談社ビジネスパートナーズ社刊 松永 秀夫著)は、官約移民の父と言われるアメリカ人ロバートー・ウォーカー・アーウインの生涯を紹介している。

 ハワイの日本人移民は、1868年以降、労働者として日本からハワイへ移住していった人びとで、1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民と言い、以降1908年までの移民を自由移民と言う。R.W.アーウィンは、1885年2月8日の東京市号のホノルル入港で第1回官約移民を実現し、東京・青山に住んで最後は日本の土になった。

 松永秀夫氏は1926年生れ、法政大学卒、三友新聞社に勤務し、編集局長を務めた。現在、日本海事史学会、太平洋学会、日本移民学会の会員とのことである。

 ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。1860年に日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託した。日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいた。カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受けた。その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した。しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年にサイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなった。こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれた。日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範、三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた。

 この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年日布修好通商条約が締結された。1885年に日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになった。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり、946名が東京市号に乗り込んでハワイに渡った。官約移民制度における具体的な交渉は、後に移民帝王とも言われる在日ハワイ総領事R.W.アーウィンに一任されていた。アーウィンは井上馨と親交を持ち、その関係から三井物産会社を用いて日本各地から労働者を集め、その仲介料を日本・ハワイの双方から徴収するなど、莫大な稼ぎを得ていた。アーウィンとの仲介料の折り合いが合わず、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止された。1894年の官約移民の廃止と同時期に、弁護士の星亨が日本政府に働きかけ、民間移民会社が認可されることとなり、以後は日本の民間会社を通した斡旋=私約移民が行われるようになった。その後、1900年に移民会社による民約移民が廃止になり、ハワイへの移民は、自由移民だけとなった。

 自由移民は、官約移民・民約移民の時代を通じて、もう一つの移民の方法として法的には並存していた。またこの他に、密入国などの不法な手段による渡航もあった。日本からの移民は、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡った。移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げてきた。

 アーウィンは1844年にデンマーク・コペンハーゲンで生まれ、1866年23歳のときにパシフイック・メイル・スチームシップ日本駐在員として横浜に赴任した。パシフイック・メイルは1847年に設立され、サンフランシスコ・パナマ間の航路を引受けた船会社である。1848年のカリフォルニア州のゴールドラッシュに出会い、乗船客の急増に伴って利益をあげ、基盤を築いた。南北戦争後、1865年にアメリカ政府から年間50万ドルの郵便輸送契約を結び、サンフランシスコ・ハワイ・日本・上海・香港の定期航路に乗り出した。アーウィンは1869年に横浜のウォルシュ・ホール商会に入社し、長崎のウォルシュ商会に勤務した。このとき、後に正式に結婚する18歳の武智いきを同行した。1873年にフィッシャー商会の設立に参加した。1874にハワイ王国代理領事に就任した。1876年に三井物産が発足したが、アーウィンは1877年にロンドン代理店主になった。1878年にロンドンを離れ横浜に戻り、1879年に三井物産顧問役に就任した。1880年に三井物産に蒸気船会社設立を勧告し、在横浜ハワイ総領事代理に再任された。1881年に横浜でカラカウア王を出迎え、ハワイ国総領事に就任しハワイ国代理公使兼任を受命した。1882年に武智いきと正式に結婚した。これが日米間初の正式な国際結婚と言われている。この年、共同運輸会社の発起人会で取締役待遇になり、井上外務卿により、布哇国移住民事務局日本代理者と承認された。1884年にハワイからイアウケア全権公使が来日し、井上外務卿から移民提議を承認された。アーウィンは、ハワイ国政府代理官・移住民事務局特派委員を兼任した。こうして、1885年の第1回官約移民を実現したのである。1925年に82歳で永眠し、勲一等旭日大綬章に叙せられた。

第1章 横浜のPM社に入社/第2章 日本人少女と巡り会う/第3章 長崎から帰り外債仲裁/第4章 三十一歳でハワイ王国代理領事/第5章 「先収会社」に加勢/第6章 新設商会で存分な行動/第7章 ハワイ国王の来遊に大役/第8章 国賓の礼遇で応対/第9章 ハワイ国歌で出迎え/第10章 フランクリン由来で紹介/第11章 私邸にカラカウア王/第12章 日本の優遇を謝す/第13章 新たに海運会社設立/第14章 ハワイ少年二人が留学/第15章 イギリスで汽船建造/第16章 特命公使の移民を諾す/第17章 「布哇に往けよ」の論評/第18章 約定書草案も掲載/第19章 府県で違った対応/第20章 天然痘で渡航延びる /第21章 ハワイ島民から厚遇/第22章 罷業があっても第二回船/第23章 渡航条約と二社合併/第24章 横浜−ホノルル直行船/第25章 好感呼んだ禁酒と教化/第26章 無賃渡航費を有料に/第27章 グアテマラで「虐待事件」/第28章 官約移民の役割を終えて/第29章 十年間・官約の意味/第30章 ハワイ国をしばしば去来/年表/引用・参考書

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2017年11月14日

気候変動: 1000万年〜数万年のダイナミックス

6 気候変動: 1000万年〜数万年のダイナミックス 大森 聡−先生

 表層のテクトニクスは、大気、海洋の循環にも関連し、表層環境を変化させます。

 また、太陽系内における地球の運動の変化が、表層の環境に周期的な変動をもたらしていることが分かってきました。

 その周期的気候変動は、人類史とも無関係ではありません。

6.1 マントル対流と気候変動

 マントル対流は、億年から10億年の時間スケールで起きる対流現象で、プレートテクトニクスやプルームの活動を通して、表層環境に関わっています。

 これらの過程が直接表層環境に関わる要素については、その対流スケールと同じ数千万年〜数億年以上程度の時間で変動が現れることになります。

 しかし、プレート運動が、表層環境の早いスケールの循環章で海洋や大気の運動に影響を与えると、比較的早い時間で表層環境が変化する場合があります。

6.1.1 過去1億年間の気候変動

 現在の地球の海洋底に1億年前のプレートがまだ残っているため、過去1億年の気候変動については、それ以前に比べて格段に精度の高い地質記録が残っています。

 年齢1億年のプレートが海洋底を旅している間に堆積した堆積物は、地層の激しい変形を被ることなく約1億年間の記録をそのまま保持しています。

 海洋底にゆっくりと堆積した生物の死骸や遠洋性粘土には、当時の全地球的な環境の指標が、下から上へと順番に記録されています。

 酸素同位体比:

 酸素は質量数16,17,18の3つの同位体を持ち、海洋から蒸発する際に軽い同位体がわずかに多く水蒸気に入ります。

 その水蒸気は降雨として地表に降り注ぎ、これがすべて海洋に戻ってくる場合には蒸発による同位体分別の影響は現れません。

 しかし、地表に氷雪として水が降りて氷河や万年雪として地上に固定されると、軽い酸素が海に戻らなくなり、結果として海水の酸素同位体比は重い方にずれます。

 海水の酸素同位体比は陸の氷床量によっても変化しますので、生物の殻の酸素同位体比変化を解釈する際には、両方の効果を考慮する必要があります。

 ストロンチウム同位体比:

 ストロンチウム=Srは質量数84,86,87と88の安定同位体を持つ元素で、主に岩石中に存在している元素です。

 花岡岩のSrは化学風化によって海に運ばれて海水に入り、玄武岩は海嶺における海洋底熱水変質で岩石から海水にSrを供給します。

 海洋底からの供給は海嶺の総延長とプレート生産率に関係し、風化による供給は陸地表面積によって決まります。

 海水中のSr同位体比の変化は、大陸の増減、地形変化、海水準変動などに起因する陸地表面積の変化と風化の程度を反映しています。

 炭素同位体比:

 炭素は12,13の安定同位体を持ち14は放射性で年代の決定に用いられますが、生物活動が活発なときには海水の炭素同位体比は重くなります。

 マントルから火山ガスとして供給される炭素は−5‰程度の同位体比を持ち、生物活動が完全に停止すると海水の同位体比はこの値に向かって低下します。

 海洋プレートは、表層環境の記録だけで無く地磁気および海洋底の年代の情報から精度の良い大陸移動データを提供し、これに基づく大陸配置の復元を可能とします。

6.1.2 高地形成と気候

 大陸の移動は、年間数cm程度のマントル対流を原動力としていて、地球の大きさを考えると、億年スケールのダイナミックスに分類されます。

 しかし、いくつかの出来事、たとえば、大陸の分裂や大陸の衝突といったイベントだけを取り出してみると、そのダイナミックスは数千万年スケールの現象です。

 現在もチベット高原やヒマラヤ山脈の上昇が続き、高地形成は大気・海洋循環や二酸化炭素物質循環に、数千万年から百万年スケールで影響すると考えられています。

 この時間スケールでは、大気に継続的に二酸化炭素を供給する元は火山で、二酸化炭素を大気から取り除くのが風化です。

 風化の化学反応は、大気中の二酸化炭素濃度が高いほど、また気温が高いほど促進されます。

 大気へ二酸化炭素の出入りがあっても大気中の二酸化炭素量が変化しない定常状態になると、新しい定常状態の大気二酸化炭素濃度と気温に環境が変化します。

6.1.3 南極環流の形成

 南米大陸と南極大陸は、アフリカ大陸などとともにゴンドワナ超大陸の一部でしたが、1億5000万年前頃から分裂を開始しました。

 そして、南米とアフリカおよびアフリカと南極は1億2000万年前頃、南極とオーストラリアは7000万年前頃に完全に分裂しましたた。

 しかし、南米−南極間だけは狭い陸橋が残り大西洋と太平洋が分断されていましたが、3500万年前頃に陸橋は消滅しました。

 太平洋と大西洋がつながったのが約3500万年前Ma頃で、南極大陸を周回する海流が発生し、また、赤道付近からの暖かい海流の流れが妨げられるようになりました。

 その結果、南極大陸が効果的に冷却されるようになり、南極大陸上に氷床が発達することになりました。

6.2 太陽系に起因する気候変動:ミランコビッチサイクル

6.2.1 ミランコビッチの理論

 より短期間の周期的気候変動には、地球外の外力であるミランコビッチサイクルと呼ばれる変動サイクルが重要な働きを持つと考えられています。

 ミルティン・ミランコビッチは、太陽の周りを自転しながら公転する地球の運動の周期的変動が、地球への太陽入射を変化させて、周期的気候変動が起きる、と考えました。

・離心率:

 楕円の程度が強まると、1年間で太陽に最も近い時と離れる時の日射量の差が大きくなり、これに自転軸の向きが関わるとその影響が増幅されたり弱められたりします。

 この変化の最も卓越した周期は約10万年です。

・自転軸の傾きの変化

 自転軸の傾きは季節の変化の原因となっており、自転軸の傾きが小さいと季節変化が小さく、傾きが大きいと季節変化が 大きくなります。

 この周期は,4.1万年です。

・歳差:

 歳差は自転軸の傾きの向きの周期的変化であり、周期は2.6万年です。

 これが、離心率の変化と関連して、2.3万年の周期で、季節ごとの、とくに極地の日射量変動に影響を与えます。

 以上に示した変動の周期は、いずれも現在の地球におけるものであり、自転速度や公転半径、また月と地球の距離などが現在とは大きく異なる時代には適用できません。

 実際の気候変動記録との対比から、少なくとも250万年前までは、現在と同じ変動周期であったと考えて良さそうです。

 1970年代になり、海洋底のコア試料により連続的な気候変動の記録が明らかになり、その変動にミランコビッチが予想した変動周期が認められました。

6.2.2 過去500万年間の気候変動

 大陸に広く氷河が存在する氷期とそうでない間氷期の記録は、酸素同位体比の変動として海底の微生物化石によく記録されています。

 この堆積物の酸素同位体比記録の解析によると、ミランコビッチの理論により予測された気候変動サイクルが海洋底堆積物の記録に表れるのは,およそ250万年前からです。

 地質時代では第四紀のはじまりに相当し、その後90万年前までは4万年周期、移行期を経て70万年前頃から10万年周期が卓越するようになります。

 近年は、観測とシミュレーションをあわせた方法で、時間軸をコアに与えることが出来るようになっています。

6.2.3 ミランコビッチ効果と実際の気候変動の関連

 約4万年周期のミランコビッチサイクルが、地質記録に明らかになるのは250万年前からで、それ以前は、異なる変動のサイクルが存在していました。

 観測からえられている気候変動サイクルのうち10万年サイクルは、ミランコビッチ効果が弱く、軌道要素による変動と実際の変動を結ぶ機構は謎でした。

 気候変動モデルに、氷床による地殻の沈降を取り入れて、10万年サイクルの影響が強くなる理由を説明する考え方もあります。

 システム内のわかりやすい変動の相関関係だけが、変動の因果関係を説明するわけではありません。

 なお、ここまでの議論には雲の効果が含まれておらず、その効果や雲形成率を決める要因は、短期から数千万年の気候変動に関わる未解明の要素の一つです。

 ミランコビッチサイクルの時代は人類進化の時代で、繰り返す氷河期という試練を作り出したダイナミックスが、現生人類誕生に影響を与えたことは間違いありません。

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2017年11月12日

淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学

 ”淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学”(2016年11月 集英社刊 内田 棟著)は、日本最高齢のプロゴルファーが人生の極意を語っている。

 日本のゴルフ文化の礎をつくったと言われる白洲次郎、小寺酉二に薫陶を受け、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した100歳のプロゴルファーである。お名前の”棟”は”むねぎ”とのこと。

 内田 棟氏は1916年長野県軽井沢生まれ、日本プロゴルフシニア選手権で3三位、ホールインワン5回達成、66歳と94歳で二度のがん手術を受けるも、95歳で日本プロゴルフゴールドシニア選手権大会関東予選出場を果たした。10歳でキャディーのアルバイトを始め、独学で身につけた。20歳で徴兵検査に甲種合格してから、およそ10年間、兵隊として戦地に赴いていた。従軍先は中国や台湾で、行軍でとにかく歩かされた。29歳の年に終戦を迎え、台湾、高雄から帰国し、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した。コース整備を担当する間に、プロのスイングを見てゴルフの腕を上げていった。当時の軽井沢ゴルフ倶楽部は、名門と呼ばれ、倶楽部でプレーされるお客様には、皇族万をはじめとする各界の名士が揃っていた。14本のクラブを持ったのは32歳の頃で、まだプロになる気はまったくなかった。しかし、ゴルフ技術が評判となり、田中角栄、佐藤栄作など各界の著名人にゴルフレッスンしてきた。55歳でプロテストに一発合格したが、日本プロゴルフ協会シニアツアーの出場資格は満50歳以上なので、いきなりシニア・デビューとなった。それから数えてもおよそ半世紀が経ち、思えば、いろいろなことがあった。

 いいことばかりではなく、二度にわたるがん闘病、そして、同じくプロゴルファーだった長男や次男に先立たれてしまった。それでも生きてきて思うのは、人生は、失意泰然、得意淡然が大事ということである。いい時も悪い時も、慌てず騒がず、淡々と生きていく。遅咲きのプロゴルファーは今でも毎日150球のパター練習を欠かさないという。昨年9月に厚生労働省は全国の100歳以上の高齢者が、前年より4124人増えて、過去最多の65,692人になったと発表した。著者もそのお一人である。女性が87.6%で、46年連続の増加となった。医療の進歩などが要因で、今後も増加が続くとみられる。世界広しといえど、100歳まで現役のプロゴルファーを続けているのは外には見られないと思われる。100歳になってもゴルフをしているなんて、自分でも思ってもみなかったそうである。今はちょっと腰を痛めていて、ラウンドは休んでいるとのこと。ただ、日課の自宅トレーニングを続けていて、体調が復活したらいつでもプレーを再開できるよう、体を鍛えているという。

 食欲も年齢にしては旺盛で、毎日3食しっかり食べている。お酒は飲まずたばこも吸わない、朝食の時味噌カツオにつけたニンニクとラッキョウ、そしてリンゴとニンジンのジュースを欠かさない。特に好き嫌いはなく、やっぱり肉は欠かせない。週に3、4回は200グラムのサーロインステーキを食べている。この年齢になってもゴルフを続けているのは、日常の中にゴルフがあるのが当たり前になっているからである。もう歳なんだからいいだろうという気持ちには、一切ならないし、家族もゴルフをやめろとは言わない。つまり、ゴルフが好きということになるのであろう。94歳で直腸がんになるなど、大病も何度か経験したが、入院中もクラブの素振りを欠かさなかった。すこしでも練習を休んだら感覚が鈍ってしまうからであり、プロとしてごく自然な行動である。ゴルフほど運、不運を感じるスポーツはない。天候や風など、人間の力ではどうしようもないことに振り回される競技である。人生も同じ、常にいい時ばかりではなく、時には敗れることだってある。でも、どんなに山あり谷ありであっても、心乱されず、自分のやるべきことを平常心でやっていくことが大切なのだと思うという。

第一章 生きるために始めたのがゴルフだった/第二章 遅咲きのプロゴルファー/第三章 私のゴルフ哲学/第四章 仕事ができる人間はゴルフでムダ口をたたかない/第五章 人生の「谷」を歩く時/第六章 100歳から見える景色

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2017年11月07日

わたくしたちの旅のかたち 好奇心が「知恵」と「元気」を与えてくれる

 ”わたくしたちの旅のかたち 好奇心が「知恵」と「元気」を与えてくれる ”(2017年2月 秀和システム刊 兼高かおる/曽野綾子著)は、異文化に触れる喜び、忘れられない出会い、旅をすることで得られる知恵と元気などを50年来の知己が初めて語り合う。

 ひとりは、テレビ番組”兼高かおる世界の旅”で世界中を旅した兼高かおる氏、もうひとりは、各国を取材し、戦争・社会・宗教など幅広いテーマで執筆している作家・曽野綾子氏である。

 兼高かおる氏は1928年神戸市生まれ、父親はインド人である。香蘭女学校卒業後、ロサンゼルス市立大学に留学、その後、ジャーナリストとしてジャパンタイムスなどで活躍した。1958年にスカンジナビア航空が主催した世界早回りに挑戦し、73時間9分35秒の当時の新記録を樹立した。兼高かおる世界の旅を、ナレーター、ディレクター兼プロデューサーとして製作した。放送は1959年12月13日から1990年9月30日にかけて30年10か月の間、TBS系列局で主に毎週日曜日朝に放送された。2007年5月6日からTBSチャンネルで再放送が開始された。取材国は約150か国、1年の半分を海外取材に費やし、放送回数は1586回、全行程は721万kmであり、地球を180周した計算になる。1986年から2005年まで、横浜人形の家館長を務めた。外務大臣表彰、菊池寛賞、文化庁芸術選奨、国土交通大臣特別表彰、紫綬褒章受章などを受賞した。現在、日本旅行作家協会名誉会長、淡路ワールドパークONOKORO兼高かおる旅の資料館名誉館長、東京都港区国際交流協会会長などを務めている。ミクロネシアのマーシャル諸島に自分の島=カオル・エネを持っている。82歳になった現在でも世界各国を飛び回っている。時々刻々と変化する世界の情勢は常にじかに見なければならないという方針で、独身である。

 曽野綾子氏は1931年東京都葛飾区立石生まれ、二女として生まれたが姉が亡くなり一人娘として育てられた。母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院であったが、敗戦前後10か月ほど金沢に疎開し学校も金沢第二高等女学校に変わった。1946年に東京に戻り、聖心女子学院に復学した。戦後父親は姻戚を頼って米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となり、妻子を田園調布に置いて単身赴任した。曾野は1948年夏に実際ここに滞在しアルバイトまがいの手伝いをしていた。同年にカトリック教徒として洗礼を受け、洗礼名はマリア・エリザベトである。1951年に臼井吉見の紹介で、現在の夫・三浦朱門や阪田寛夫らの第15次”新思潮に加わった。22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚し、23歳で芥川賞候補となり文壇にデビューした。以後、次々に作品を発表し、30代で不眠症に苦しむが、新しい方向性にチャレンジするうち克服した。1995年から2005年まで日本財団会長職を務め、2009年10月からは日本郵政社外取締役に就任した。2000年に元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れた。1979年ヴァチカン有功十字勲章、1993年恩賜賞・日本芸術院賞、2012年菊池寛賞を受賞した。精力的な執筆活動の一方、各種審議会委員も務め、世界に視野を広げた社会活動でも注目を集めた。

 昭和20年の終戦と同時に、それまで敵国たったアメリカが憧れの対象になった。岡晴夫が歌う”憧れのハワイ航路”が大流行したが、当時はまだ海外への渡航は自由化されていなかった。庶民はバラック住まいに代用食で、海外旅行など、夢のまた夢だった。同時代を生きた二人が初めてあったのは50年前で、場所は六本木のエクアドル大使館だったという。昭和34年から、日本初の海外紀行番組”兼高かおる世界の旅”がはじまった。番組が伝える海外の文化や風俗は、日本人の憧れと旅情をかき立てた。観光目的の渡航が自由化されたのは、その5年後の昭和39年のことだった。しかし、海外旅行の費用は乗用車1台分より高く、庶民にとってはまだまだ高値の花だった。昭和45年は高度成長にわく日本の空に、初めてパンアメリカン航空のジヤンボジェット機が登場した。以降、高価だった旅行代金は大幅に引き下げられ、海外旅行は一気に身近になった。農協をはじめとする団体旅行が大ブームになり、多くの日本人が世界へ飛び立った。それからも、急激な円高とバブル経済の恩恵で出国ラッシュは続いた。昭和54年に創刊された”地球の歩き方”を片手に貧乏旅行を楽しむバックハッカーも激増した。旅慣れた日本人にとつても、世界はまだまだ感動の宝庫で、アフリカとの深い縁がはじまったという。時代は昭和から平成になり、同時にインターネットの登場で、世界は一つにつながった。しかし、グローバル化が叫ばれる一方で、若者の内向き志向は加速し、海外渡航者数は年々減少の一途をたどっている。逆に訪日外国人の数は大幅に増加し、日本の歴史や伝統文化の魅力は、外から再発見されつつある。

第一章 戦後、アメリカの豊かさへの憧れ
 同時代を生きた二人/戦中・戦後の女学校/「女工さん」の仕事が好きだった/なぞの留学生/ガラリと変わった戦後の暮らし/真の国際人とは?/進駐軍と「レーション」/代用食の「身欠きニシン」はミイラの匂い!?/「お嬢ちゃま」では生きられない/紳士的だった進駐さん/富士屋ホテルでのアルバイト/ホテルは憧れだった/ハワイ経由でアメリカへ留学/初めてのカルチャーショック/強烈だったインド・パキスタンの旅/海外へ出て行く勇気をくれた英語
第二章 海外はまだ高値の花
 『兼高かおる世界の旅』がはじまった/日本の常識は世界の常識じゃない/出されたものは、なんでも食べた/才能は自分一人では磨かれない/「いい男」だったケネディ大統領
/初めてのアメリカ暮らし/アメリカの豊かさに魅了される/「自由の国」アメリカ/日本式の「才覚」か、アメリカ式の「マニュアル」か…
第三章 海外が身近になった一九七〇年代
 越路吹雪さんとグアム/飛行機が元気だった時代/ケ小平とタン壺/ウォッカで乾杯!/世界は思った以上にルーズ/日本の「当たり前」を疑う/理解できない習慣もある/その国のタブーを知っておく/日本人のマナーは超一流/世界には「食」に関するタブーもある/「命をいただく」現実と向き合うこと/人を見たら「泥棒」と思え?/五分の一までは値切れる/買い物で国際交渉術を鍛える
第四章 アフリカとの出会い
 アフリカとの深いご縁がはじまった/アフリカの古風な伝統/自分の年齢を知らない人々
/砂漠の民の慈悲と掟/アフリカにはトイレがない!?/健康管理は自己責任/モーパッサンとサバイバル/旅の必需品は、ゴム草履/スーツケースに「牽引用ロープ」!/サハラ砂漠を照らす満天の星/星、そして静寂。アラブは戦とは無縁な世界だった
第5章 これからの日本、そして旅のかたち
 変わりゆく日本/優れた文化を伝える伊勢神宮/日本はほんとうに貧しいのか/『世界の旅』はプロローグ/大切なのは、「違い」を認め合うこと/ペルー元大統領フジモリ氏との交流/「私人」であればお助けする/民主主義か独裁か/「平等」を求め過ぎると後退する
/「富」が文化をつくる/お金持ちになったら何をする?/シニア世代におすすめしたいクルーズの旅/ツアーに参加する旅もいい

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2017年11月05日

数億年スケールの循環(2):プレートの沈み込み

5 数億年スケールの循環(2):プレートの沈み込み 大森 聡−先生

 プレートテクトニクスは、地表の地形を変化させるだけではなく、化学的な環境変動にも大きな役割を持っています。

 ここでは、地表の物質移動と、変成岩の性質から推定されるマントルと表層環境を結ぶ物質循環を扱い、地下深部の岩石が表層環境にも影響を与えることを理解します。

5.1 岩石の移動(1):海洋プレート

 中央海嶺で形成された海底の岩石は、プレートの水平運動につれ中央海嶺から離れ、プレートが収束する沈み込み帯へと旅することになります。

 海洋プレートが水平移動して、海溝にたどり着くまでの間に、海底には、生物の死骸や遠くの陸地から運ばれてきた非常に細かい岩石粉がゆっくりと堆積していきます。

 炭酸塩鉱物や珪酸鉱物で殻を作るプランクトンが深海底に積もると、その当時の海水の性質が堆積物に記録されることになります。

 海洋プレート上に描かれた火山=海山は、ホットスポット火山と呼ばれ、マントル内の局所的な上昇流によって作られる火山で、玄武岩質のマグマで作られています。

 海洋プレートは、その上に中央海嶺で生成した玄武岩質の岩石、移動過程で堆積した深海の堆積物、そして海山を載せて移動し、沈み込み帯の海溝に到達します。

5.2 岩石の移動(2):陸から海へ

5.2.1 物理的風化と砕屑物の生成

 陸上に露出した岩石は、物理的風化と化学的風化と呼ばれる風化作用にさらされ、しだいに分解していきます。

 物理的風化は、主に太陽の熱による岩石の膨張収縮による割れ目の形成に起因し、岩石を砂にする作用で、生成した砂や泥は砕屑物と呼ばれます。

 物理的風化により砕屑物となった岩石は、雨により流されて河川から海に入り、最終的には海底に堆積することになります。

 粒子の大きさによって水中での沈降速度が違い、砂が先に沈降し、その上に後から泥が堆積し、繰り返すことによって、互層と呼ばれる地層が形成されます。

 陸を起源とする砕屑物かたどり着く終着点は、その地域で重力的に一番安定な低い場所、プレートが沈み込む入り口の海溝です。

 海溝には、海洋プレートによって運搬された海洋地殻の物質(玄武岩質火成岩、海洋底の堆積物)と、陸源物質(砂、泥、有機物)の両方が存在することになります。
          
5.2.2 化学的風化

 化学的風化は、雨と岩石が化学反応して、岩石中のアルカリ成分(ナトリウム、カルシウムなど)、その他の陽イオン(マグネシウムなど)が、雨水に溶出する作用です。

 雨水中に溶出した成分は、河川を経て海に運搬されることになります。

 海底の火山による火山ガスの供給や海底の温泉形成によっても、海水組成は変化します。

 現在の地球では、海水中のカルシウムイオンは、炭酸カルシウムの殻や骨格をつくる生物によって消費され、生物の死骸は海底に生物起源堆積物として堆積します。

 二酸化炭素は大気から海底の炭酸塩鉱物に固定されるため、化学的風化は大気中の二酸化炭素濃度を減少させる働きがあるということになります。

 でも大気の二酸化炭素は減少し続けたわけではなく、火山による供給量と風化による除去量は釣り合いに向かって変化するため、一方的な増加・減少はありませんでした。

5.3 岩石の移動(3):表層環境からマントルヘ

 海洋プレート層序を構成する海底の堆積物や海洋底の玄武岩や陸から海溝に到達した堆積物は、海溝の入り口ではぎ取られたり海溝からプレートと共に沈み込んだりします。

 海溝ではぎ取られた岩石や堆積物は、陸側に押しつけられて付加体と呼ばれる地層の集合を形成します。

 付加体として存在しているのは、プレートが運んでくる堆積物の約20%程度で、残りは沈み込むプレートと共に、マントル深部に運搬されるようです。

 地表に露出している岩石は、海洋底の変質した玄武岩だったり砂岩や泥岩だったりしますが、地下深部の高温高圧状態にさらされると元の岩石とは別の変成岩になります。

 熱水変質した玄武岩を原岩として、化学反応が進行することによって、鉱物組み合わせが変化すると同時に鉱物粒子が成長します。

5.4 変成岩が示すこと

 変成岩には、玄武岩、砂岩、泥岩を原岩とする岩石が存在していることから、地表の物質とマントル深部を結ぶ大物質循環の経路が存在していることが分かります。

 変成岩の鉱物組み合わせは、その岩石が経験した温度圧力履歴の最高温部付近の状態を保持している場合があります。

 上昇時に水と再反応しない限り元の鉱物組み合わせに戻ることはないですし、また、粒粒化した組織が自然と元の細粒の組織に戻ることもありません。

 しかし、一方で、変成岩が地表まで上昇する間に水の流人があると、温度と圧力によって鉱物組み合わせや組織は容易に改変されます。

 変成岩は海溝から沈み込んだ物質が地表に戻ってきた岩石ですが、変成岩の年代に関する研究から、地表に戻った変成岩は沈み込んだ物質の一部分に過ぎないことが示唆されています。

5.5 沈み込み帯のBMW(Big Mantle Wedge)モデル

 沈み込んだ海洋プレートは、少なくとも410〜660km深度のマントル遷移層にまで沈み込んでいることが、地震波トモグラフィによって明らかにされています。

 沈み込んだ海洋プレートの影響は、海溝から水平距離で1000km以上におよび、この広大な範囲は、大きなマントルウェッジ=BMWと呼ばれています。

 沈み込んだ海洋プレートは、島弧火山フロントよりもさらに深くまで含水鉱物により水を運搬し、BMWの深部に水を供給します。

 大陸地殻物質はマグマに濃集しやすい放射性元素を豊富に含むため、これらの放射性崩壊熱も上部マントルのダイナミクスに影響を与える可能性があります。

 沈み込んだ海洋プレートは沈み込まれる側の大陸内部にまで影響を与え、水と放射性元素の効果は超大陸形成の後に必ず起きる大陸の分裂にも関係しているでしょう。

5.6 熱力学計算と高圧実験

 現在では、鉱物の熱力学的パラメータのデータベースを用いて、鉱物組み合わせと鉱物の化学組成から、岩石の生成条件や変成岩の温度圧力履歴の推定が可能になっています。

 また、任意の化学組成の岩石について、温度・圧力と、鉱物組み合わせおよび鉱物の化学組成の詳細な関係を示すことも可能です。

 沈み込んで地表に戻って来た変成岩で最も深い場所の記録を残しているのは、カザフスタン・コクチェタフ地域に産出する変成岩で、ダイヤモンドを含むことが特徴です。

 沈み込んで地表に戻らずマントル深部に運搬される岩石にどのような化学反応が起きるのかは、高圧実験による研究が大きな成果を上げました。

 地表からマントルに運ばれる物質を対象とした研究で注目されてきたのは、高温高圧における水や二酸化炭素の挙動です。

 沈み込み帯からマントルヘ入った含水鉱物や炭酸塩鉱物は分解せずマントル内に存在するため、地表からマントルに水や二酸化炭素は除去される可能性があることになります。

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2017年11月02日

ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢

 ”ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢 ”(2017年7月 文藝春秋社刊 中野 雄著)は、1挺数億円で取引されスター・ヴァイオリニストは必ずどちらかを使っているといっても過言ではない銘器の不思議を解明している。

 ストラディヴァリとグァルネリは、ともに17〜18世紀に活躍したヴァイオリン製作者である。過去に幾度も本物かどうかの聴き比べが行われたが、著名な音楽専門家でも見事に外しまくり、現代のものとの間に音色の違いはないという結果が出ている。にもかかわらず、ストラディヴァリの相場は下がるどころか上がる一方であった。なぜこんなことが起こるのであろうか。

 中野 雄氏は1931年長野県松本市生まれ、東京大学法学部卒業、日本開発銀行を経てオーディオ・メーカーのトリオ役員に就任、その後、代表取締役、ケンウッドU.S.A.会長を歴任した。昭和音楽大学、津田塾大学講師を務め、現在は、映像企業アマナ等役員、音楽プロデューサーとして活躍し、LP、CDの制作でウィーン・モーツァルト協会賞、芸術祭優秀賞、文化庁芸術作品賞など受賞した。

 アントニオ・ストラディバリ(1644年 - 1737年)は、イタリア北西部のクレモナで活動した弦楽器製作者である。弦楽器の代表的な銘器であるストラディヴァリウスを製作したことで知られている。ニコロ・アマティに師事し、16世紀後半に登場したヴァイオリンの備える様式の完成に貢献した。1680年にクレモナのサン・ドメニコ広場に工房を構えると、若くして楽器製作者としての名声を得た。2人の息子と共にその生涯で1116挺の楽器を製作したとされ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、マンドリン、ギターを含む約600挺が現存している。

 グァルネリは、イタリア、クレモナ出身の弦楽器製作者一族であり、アンドレーア・グァルネリ (1626年 - 1698年)、ピエトロ・ジョヴァンニ・グァルネリ (1655年 - 1720年)、ジュゼッペ・ジョヴァンニ・バッティスタ・グァルネリ (1666年 - 1739年)、ピエトロ・グァルネリ (1695年 - 1762年)、バルトロメオ・ジュゼッペ・“デル・ジェズ”・アントーニオ・グァルネリ (1698年 - 1744年)が知られている。単にグァルネリといえば、バルトロメオ・ジュゼッペ・“デル・ジェズ”・アントーニオ・グァルネリの制作した弦楽器を指すことが多い。

 アントニオ・ストラディヴァリとバルトロメオ・ジュゼッペ・“デル・ジェズ”・アントーニオ・グァルネリの二人の製作した楽器が、この世界で至高の逸品とされ、その秘密に迫るべくこれまで数え切れないほど多くの、学者、研究者、職人たちが日夜研究を続けてきた。しかし、その秘密なるものを応用して、往年の巨匠二人のような作品が誕生したという話も、量産化に成功したという話も聞いたことがない。その間に銘器の価格は高騰を続け、1挺の値段はいまや数億円となり、日本人では高嶋ちさ子氏がストラディバリウス・ルーシーを2億円で購入、千住真理子氏がストラディバリウス・デュランティを2〜3億円(正確な金額は非公表)で購入しているという。現代最高クラスの名手たちから今なお愛され続けている。その美しい音の秘密はヴェールに包まれ、世界中の職人や科学者がなんとかその謎を解き明かそうとしのぎを削ってきた。音楽家は、自分の持っている楽器の性能を超える演奏をすることが出来ない。ヴァイオリンにしても、ピアノにしても、あるいは、管楽器、打楽器にしても、あらゆる楽器には、製造過程で造り込まれた潜在的な音楽表現能力が内在している。これは人間を含めた生物の世界と同じで、遺伝子の存在と似ていると言ってもいいだろう。一人ひとりは容貌が異なり、体格が異なり、運動能力も智力、性格も異なる。長い人生行路の中で、努力や教育訓練によって智力も運動能力も大きく変えることはできるが、そこに天性の個体差の壁というものがあることは誰にも否定できない。人間と他の動物との差、人間という生き物それぞれの個体差を貴らしたのは、もしかしたら神の意思かもしれないけれど、音楽を奏でる楽器に個体差を付与したのは人間である。

 ヴァイオリンを作るか、ピアノを作るか、はたまたフルートを作るかを決めるのは当該の楽器を製作する楽器製作者の意思である。ヴァイオリンを作る、ピアノを作るといっても、どんな音のする、どのような音楽表現力を持つ楽器を作るのかというのは製作者の目的意識と製作能力によるのである。目的意識とか製作能力というのは、極めて不可解かつ説明困難な人体現象である。何故ヴァイオリン属なる弦楽器がわれわれ音楽愛好家の関心を呼ぶかというと、第一にはその価格−そして、その価格の安定性である。ストラディヴァリウスとかグァルネリとかいう銘器の大部分には、歴史上、その楽器を蒐集・保管した貴族、富豪、趣味人や、演奏に使用した音楽家の名前がつけられている。往年のコレクターや名演奏家の名前以外にも、ヴァイオリンの銘器にはさまざまな特徴的な名前が付けられている。これらの銘器の所在は一流の楽器店主なら常時把握していて、所有者が手放す瞬間を虎視耽々と狙っている。有名な楽器はその履歴とともに立派な図鑑に収められており、贋作を掴まされる惧れまず無い。ただし近年、銘器の価格は異常という言葉以外では表現できないほどの急騰ぶりを見せている。神田侑晃氏の2002年の著書にはストラディヴァリウスとデルジェスの価格は2億円前後とされているが、いまでは10億円以上すると言われている。

 ヴァイオリンという楽器の価値を決めるのは、製作者によって楽器本体に埋めこまれた音楽表現能力である。ヴァイオリンのなかの銘器は、古今の芸術家の作品と同じように、限られた歴史上の才能によってこの世に産み出されたものであって、作品を産み出す才能自体が人類の歴史上、限定されたものと考えられる。ヴァイオリンという楽器について、常に古今の芸術作品と、その創作の秘密に想いを致さなければ、市場で取引きされている途轍もない価格について理解することはできない。さらに厄介なのは、この芸術作品−実は音楽を演奏する道具に過ぎないということなのである。

プロローグ〜二大銘器は何故高価なのか/第1章 ヴァイオリンの価値とは何か/第2章 ヴァイオリンという楽器T〜その起源と完成度の高さ/第3章 ヴァイオリンという楽器U〜ヴァイオリンを構成する素材と神秘/第4章 アントニオ・ストラディヴァリの生涯と作品/第5章 グァルネリ・デル・ジェスの生涯と作品/第6章 閑話休題/第7章 コレクター抄伝/第8章 銘器と事故/最終章 封印された神技/エピローグ

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2017年10月31日

数億年スケールの循環(1)

4 数億年スケールの循環(1) 鳥海光弘先生

 地球表層の数億年スケールの現象を支配するプレートテクトニクスがもたらした地球科学の大きな転換を学びます。

 さらに、プレート運動がもたらす様々な地殻とマントルのダイナミックスについても概説します。

4。1 グローバルな造山帯

 造山帯や変動帯は、大規模な帯状の堆積岩帯、広域変成帯、火成岩帯および超塩基性岩帯などから構成されています。

それらはいずれも大規悦な断層帯や摺曲帯をつくり、過去の変動帯となっています。

 中央には高温あるいは高圧条件で形成された変成帯がとっていて、多くの場合、高圧力の変成帯には超塩基性岩が並走し、高温変成帯では広大な花尚岩体が分布しています。

 これらの周辺は堆積岩が大規模に椙曲し、かつ断層によって大きく変形しています。

4.2 深部に沈み込んだ広域変成帯

 造出帯の中核部に細長く分布する広域変成帯は、一連の温度と圧力の変化を示しています。

 一連の温度と圧力の変化には主に3通りの様式があり、1つは高圧・低温型,2つは高温・低圧型、3つは中圧型です。

 変成岩は、いろいろな岩石が地球内部へ沈み、その温度と圧力のもとであらたに安定な鉱物が結晶化してできる岩石です。

 1980年代まで温度と圧力は1万気圧程度以下800℃以下と考えられていましたが、1984年にアルプス変成帯の変成岩から、圧力が3万気圧以上まで達していることが分かりました。

 世界各地の変成帯の温度と圧力を推定すると、造山帯の中軸帯が地下50−150kmの深さで変成されていたことが分かりました。

4.3 活動的な火山の分布

 環太平洋地域に特に顕著な活動的火山の分布は、現在の地球の代表的なダイナミックスの現れで、大陸地殻と海洋地殻の境界付近の大陸地殻に活動的な火山の列が認められます。

 活動的な火山列を持つ弧状列島は島弧と呼ばれ、海溝との密接な関係から島弧一海溝系と呼ばれます。

 一方、南米西岸では弧状列島とはならず、大陸地殻に火山列が海溝軸に並走しており、島弧とは呼ばず陸弧と呼ばれます。

 東太平洋海盆や大西洋中央海嶺などの海嶺でも、地球全域にわたる線状に分布しているマグマの活動が顕著です。

 大西洋中央海嶺では南北に伸びる中央海嶺軸にそって海底に大量のマグマ噴出が起こっています。

4.4 グローバルな地震の分布

 地球の地震活動はほぼ線状に配列し網状に分布しており、活動的な火山分布とほぼ重なるようにして分布していることが際立った特徴です。

 地震活動は、地殻やマントル内部でひずみが蓄積し、限界を超えると破壊によって地震が発生することを表しています。

 地震活動の分布には2通りの様式があり、1つは島弧にそって分布している分布域で、2つは海嶺軸にそう地震活動の分布です。

 前者は上部マントル深部にまで地震が発生しているが、後者は海洋地殻内部に限られて発生しています。

 一般に、地震の規模と頻度には規則性があり、地震の規模を示すマグニチュードと頻度の対数は線形関係にあります。

4.5 重力異常と地形および熱流量

 地球表面で重力を測ると内部の物質分布とそれが釣り合った分布かどうかが、平均的な等重力面とそれからのずれを測ることで推定できます。

 島弧−海溝系や海嶺の重力異常は、地下における力学的不釣合いが発生し、それが地球全域におよぶ現象であり、火山活動や地震活動と関連付けられています。

 熱流量は固体地球表面付近の熱エネルギーの流出量で、地下に高温度の状態があれば一般的に熱流量は大きく、地下が冷たくなっているならば熱流量は小さくなります。

 島弧一海溝系では海溝軸に沿って大変小さい熱流量が分布し島弧では大きく、海嶺から離れるに従って次第に熱流量が小さくなることが分かります。

4.6 海底の地磁気縞構造と海洋底拡大

 地球磁場は地表付近では双極子磁場であり、磁極を北極や南極付近に持っていて、火山岩はマグマが固化・冷却するときに地球磁場のもとで磁化されます。

 火山岩に含まれるマグネタイト=磁鉄鉱の磁化される温度は約摂氏500度で、その温度で急激に磁化され長期間に渡り保持されます。

 地球磁場の磁力線は磁北極から磁南極へ向かい、この方向に火山岩が磁化されましたが、過去の溶岩が現在とは逆に帯磁していたこともありました。

 海洋底の残留磁気の縞模様は、マグマが次々と海嶺に出て過去の海洋地殻が左右に離れてできたもので、海洋底が拡大したためのものと考えられる。

 大西洋では過去に戻すと消滅し、アフリカ、ヨーロッパ、そして北米と南米大陸はひとつになることが明らかとなりました。

4.7 プレートテクトニクスと活動的な地球

 活発な地震活動の分布から推定されたプレート境界をみると、どのような大きさのプレートが地球表層を覆っているのかが分かります。

 日本列島の周辺では、太平洋プレート、ユーラシアプレート、北米プレート、フィリピン海プレートの4つのプレートが境界を作っていることが分かります。

 プレートには、海洋地殻を持つ海洋プレートと大陸地殻を持つ大陸プレートの2種のプレートがあることが分かります。

 大陸地殻の形成年代がほぽ40億年前から現在まで広がっている一方、海洋地殻の形成年代が約2億年前から現在までとなっています。

 過去において変動帯であった地帯こそが造山帯のひとつであり、プレート境界はグローバルでその境界にそって造山帯が形成されます。

 プレート境界においてプレートの運動が起こっており、明らかに変形集中帯の面にそって海洋プレートが沈み込んでいます。

4.8 プレートの運動

 プレートテクトニクスは海洋プレートの運動学を基本とし、地球表層の約12枚のプレートが相対的に運動し、いずれかのプレート境界が海溝で沈み込み境界となっています。

 プレート境界は海溝、海嶺そしてトランスフォーム境界の3種から構成され、プレート運動は球面の上の回転運動となています。

 それぞれのプレートは回転の極を持ち、その周りの回転速度によって特徴付けられています。

 海洋プレートの形成年代が一般的に若いのに比して、大陸プレートの大陸地殻をのせた部分は古い時代の地殻を含んでいます。

 大陸地殻と大陸地殻がプレート境界を境にして衝突している地帯を衝突境界と呼び、日本列島では駿河トラフと相模トラフがこれに当たります。

 大きな衝突境界の例はインド大陸とユーラシア大陸が衝突しているヒマラヤ山脈で、地下深部に沈み込んでいた地殻が衝突境界にそって大規模に上昇して作られました。

4.9 大陸地殻の分裂と海洋プレートの形成

 海嶺は海洋プレートが誕生しているプレート境界で、大陸を分裂させている地帯はリフト帯と呼ばれ、人類の発生と分化に適した地帯となっていました。

 また、3つのリフト帯が交わる地域はアファー三角地帯と呼ばれ、大陸地殻が3方に分裂される会合点となっています。

 約1億年前には大西洋は消滅し、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸は合体して、ひとつの大きな大陸=パンゲア超大陸となります。

 パングァ超大陸東部には広大な海洋があったことが分かっていてテーティス海と呼びますが、かつてテーティス海をつくった海嶺があったに違いありません。

 テーティス海の沿岸域には海溝があり、テーティス海の海洋プレートは沈み込んでいて、最後には長大な衝突境界をつくり、グローバルな巨大造山帯をつくったのです。

4.10 沈み込み境界の付加体と日本列島の形成

 衝突境界では大陸地殻が沈み込むのに大きな抵抗が働きますが、沈み込み境界では相対的に大きな抵抗がなく、沈み込み境界では海溝軸にそって厚い堆積物がたまります。

 海溝堆積物は海溝軸で堆積した砂岩・泥岩層であり、それらが海溝軸から陸側あるいは島弧側に逆断層で次々とつけ加わってできた地質体は付加体と呼ばれます。

 付加体は日本列島や太平洋を取り巻くプレート境界近傍には一般的な地質体であり、現在活動的な海溝軸には多くの場合に、付加体形成の初期過程が起こっています。

 とくに西南日本の南海トラフには厚さ3kmの厚い砂・泥の乱泥流堆積物が堆積し、その陸側よりの縁に逆断層によってつくられ始めた地層の重層化か認められます。

 付加体の形成は沈み込みプレート境界では特徴的であり、また、このようなプレート境界では、大規模に花岡岩体の形成を含めたマグマ活動が起こります。

4.11 沈み込んだプレートの行方

 地震波トモグラフィーから、沈み込んでいる海洋プレートの像が浮かび上がります。

 日本周辺では、日本海溝から中国大陸内部に沈み込んだ太平洋プレートの実態が浮かび上がります。

 太平洋プレートは、過去2億年弱の間ユーラシア大陸や南北アメリカ大陸に沈み込んでいます。

 この沈み込んだ太平洋プレートの全長と、下部マントル深部の位置を推定することができます。

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2017年10月28日

大内義弘 − 天命を奉り暴乱を討つ

 ”大内義弘 − 天命を奉り暴乱を討つ”(2017年3月 ミネルヴァ書房刊 平瀬 直樹著)は、室町幕府を支えて大内氏の礎を築いた大内義弘がなぜ滅亡したのか、領国の統治や一族の争いなどからその生涯に迫っている。

 大内義弘は南北朝・室町時代の守護大名で、妙見信仰を重んじ、自らのルーツを朝鮮半島に求めて一族の結束を高めたが、応永の乱を引き起こし滅亡した。妙見信仰は仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいい、原姿は道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰である。

 平瀬直樹氏は1957年大阪府生まれ、1986年京都大学文学研究科国史学卒業、1986年同大学大学院文学研究科博士後期課程国史学専攻研究指導退学、山口県文書館勤務を経て、金沢大学人間社会研究域歴史言語文化学系教授を務めている。

 大内義弘は1356年生まれ、大内家の第25代当主で、第24代当主の大内弘世の嫡子である。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など、子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗った。南北朝時代から室町時代の武将・守護大名で、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護を行った。室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築いた。1371年に、九州探題を務めていた今川貞世に協力して九州へ渡った。九州における南朝の勢力追討に功績を挙げ、1372年に大宰府を攻略し、父と共に帰国した。1374年に長門国と豊前国の守護職に任命され、幕府から今川貞世の救援を命じられたが、父が命令を拒否したものの、義弘は父に従わず、翌年に自ら九州に出陣して各地を転戦し、懐良親王を奉じる菊池武朝に大勝した。1375年に筑前世振山の合戦で一時劣勢を強いられたが、義弘が士卒を励まし力を尽くして戦い、菊池・松浦・千葉連合軍を打ち破った。1377年の肥前蜷打の戦いや肥後臼間白木原の戦いにも、弟満弘とともに参戦し活躍した。1380年に父が死去し弟の満弘との間で長門・安芸・石見などで家督をめぐる内紛が起こり、翌年に将軍・足利義満の支持を得て勝利した。その後、満弘と和解し、義弘は家督と周防・長門・豊前の守護職を、満弘が石見を保つことになった。室町幕府は有力守護大名の寄合所帯で、将軍の権力は弱かった。そのため、第3代将軍・足利義満は権力の強化を目指して、花の御所を造営、直轄軍である奉公衆を増強した。

 義弘は義満の家臣として忠実に働き、1389年に義満が厳島詣のために西下すると、周防都濃郡降松浦で迎え以後随行することとなった。義弘は幕政の中枢に参加し、在京することが多くなった。1379年に高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道まで追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られた。1385年に満弘から石見国を没収し、代替として豊前国が与えられ、以後の満弘は大内氏の九州拡大の中核として活躍した。義満は危険と判断した有力守護大名の弱体化を図り、1379年に細川氏と斯波氏の対立を利用して、管領・細川頼之を失脚させた。1389年に土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、追討軍を派遣して康行を降伏させた。1391年に11カ国の守護を兼ねた大勢力の山名氏の分裂を画策し、山名時熙と従兄の氏之を山名一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んで討伐し、山名氏3カ国を残すのみとなった。このような義満の権力強化策に義弘は協力して出陣し、陣を構えて戦い武功を立てた。1392年に山名家の旧領である和泉や紀伊の守護職を与えられ、弟の満弘や自らの守護領国を合わせて6か国の太守となった。1392年に南朝との仲介・和睦斡旋を行って南北朝合一にも尽力し、義満はこれら一連の功績・忠節を認めて義弘に足利将軍家に準じることを認める御内書を発している。しかし、1397年に義満が北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた際、諸大名の中で義弘のみは、武人としての信念を貫いて従わず、義満の不興を買った。同年末に義満に少弐貞頼討伐を命じられ、2人の弟である満弘と盛見に5千騎あまりを付けて派遣したが苦戦が続き、筑前で満弘が討死を遂げた。にもかかわらず満弘の遺児への恩賞が無く、実は義満が少弐貞頼らに大内氏討伐をけしかけていたとの噂も流れ、義弘は不満を募らせていった。

 1398年に満弘を討たれた報復として九州に出陣して、少弐家を討った。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎたことが有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。あまり世間に知られていない大内義弘であるが、明徳の乱や南北朝合体など、幕府政治の節目に重要な役割を果たしており、室町幕府は彼の功績なくして統一政権となることはできなかったであろう。幕府を支えていたにもかかわらず、最後に義弘は反乱を起こしたのである。この反乱は、弘世・義弘の二代にわたって築き上げた大内氏の、幕府内での地位や獲得した支配領域を、元も子もなくしてしまうような危険な賭けであった。ところが、乱ののち義弘の子孫は、謀反人という汚名を背負ったような様子はない。それどころか、義弘の後継者たちはより強力な大名になり、ますます幕府からも頼られる存在になった。義弘自身が滅んでも、大内氏の歴史が終わったわけではない。大内氏には、後の世でさらに成長する芽が残されていた。義弘は、挙兵に当たり、天命を奉り暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜんとす、というスローガンを掲げている。義弘の政治的・軍事的な動向は、第1〜3、6、7章で扱っており、義弘が足利義満への忠節から反逆に転ずる経緯について述べている。第4・5章では、義弘が支配した地域の特性に焦点を当てている。第8章は義弘亡き後の時代を概観している。義弘は、忠節を尽くしたにもかかわらず、義満が自分を裏切ったことが許せなかったのである。理不尽な仕打ちに対抗するために義弘が取った行動は、現代の我々も共感できる点があるのではないだろうか。現代でも、自分の置かれた環境を変えることができなくても、納得できる仕事や作品を残したりすることによって、自分の死後、子孫が社会を進歩させたり、自分の考えが世の中を変える一助となる希望を抱くことができると思える。

序 章 室町幕府と朝鮮王朝のはざまで
第1章 大名への成長/多々良氏から大内氏へ/父弘世の時代
第2章 在京以前/幕府体制内へ/康暦の政変と大内氏の内紛/足利義満の瀬戸内海遊覧
第3章 幕府への貢献/明徳の乱/南北朝合体交渉
第4章 周防・長門の支配/大内氏の本拠地/都市の発展/交通の発展
第5章 支配領域の拡大/石見国への進出/安芸国への進出/豊前国への進出/海賊と倭寇
第6章 義弘の自己認識/在京中の意識/自己認識の形成
第7章 反 乱/反乱への道程/堺籠城/戦いの始まり/義弘の最期/反乱の真相
第8章 義弘亡き後/乱の余波/その後の大内氏/義弘の記憶
終 章 大内義弘という人物
参考文献
大内義弘略年譜

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2017年10月22日

10億年スケールの循環

3 10億年スケールの循環 鳥海光弘先生

 原始地球からコア、マントル、地殻、海洋、大気を分化させて現在の地球システムヘ至る過程と、それらのシステムの間にどんな物質循環が起こっているかを学びます。

 46億年の地球の歴史の中で起きた10億年スケールの現象の過程が、大きくは内部の対流運動と融解や固化という物理過程により引き起こされていることを学びます。

3.1 地球の分化と地球システムの形成

 地球は、原始太陽系星雲のなかでガスから微粒子が発生し、それらが集積してつくられ、その後、現在のようなマントル、地殻、海洋、大気を持つ水惑星です。

 微粒子やガスが集積する過程には、微惑星になり、さらに微惑星が衝突し、合体することがあったに違いありません。

 巨大な隕石や微惑星の衝突で、短時間で莫大なエネルギーが衝突された惑星に集まり、惑星表面から深部まで高温状態となり、岩石の破砕、融解、蒸発が起こりました。

 地球が形成される初期においても比較的大きな微惑星の衝突があり、初期地球におけるマグマオーシャンの規模は、地球の深さ1000kmほどまで達しました。

、均質であった原始地球は、マグマオーシャンをつくることによって、速やかに融解鉄と珪酸塩に分離して、核とマントルをつくりました。

 地球のシステムの分化は、初期地球の高温状態から次第に冷却してゆく過程で起こり、固化する過程で、上部マントルと下部マントルヘの分化と地殻の形成が起こりました。

 更に冷却して表面温度が100℃以下になると、大気中の水蒸気は液滴となり、大量の雨となって地表に降り注ぎ、38億年程前に海洋を作ったと考えられています。

 原始海洋地殻や原始大陸地殻の形成は42億年前より以前、マントルから核の分離はそれより以前の45億年から44億年前頃であったらしいと考えられています。

3.2 大気と海洋システム

 大気が惑星間空間と接するのは磁気圏で、その下に上層大気があり、さらにその下
には、中層大気と下層大気=対流圏があります。

 中層大気と下層大気をあわせ厚さ100 km ほど、下層大気である対流圏は厚さ10 km ほどで、窒素と酸素を主成分とした空気の層で、著しい対流運動が起こっています。

 自転にともない東西方向の大規模な気流と、南北にまたがるように対流運動があり、熱エ
ネルギーの移動や物質の混合が起こっています。

 海洋では、太平洋、インド洋、南大洋、大西洋を貫く表層循環と深層循環により大規模海水循環が、伴流として多くの海流によりエネルギーや物質の循環が、起こっています。

 大気と海洋の間には物質交換が起こり、境界面海面に大気の流れと風によって波がたち、海水起源の水蒸気が蒸発して、海水の一部は飛沫となり大気に撒き散らされています。

 大気中の炭酸ガスや窒素、酸素は海水に溶け込み、海面の不規則な運動によって海水と空気の間に分子の分配が行われています。

3.3 地殻、マントル、および中心核のシステム

 地殻は海洋地殻と大陸地殻に分けられ、海洋地殻の厚さは約5〜10kmで大陸地殻の厚さは30〜70km程度です、

 大陸地殻と海洋地殻の大きな違いは履歴にあり、大陸地殻は形成年代が40億年以上古い時代のものもあり、海洋地殻は最も古いもので2億5000万年前程度です。

 大陸地殻と海洋地殻の違いは平均的な化学組成にも現れ、大陸地殻は平均的には安山岩と似たような化学組成で、海洋地殻は玄武岩に近い化学組成です。

 マントルは大きく上部マントル、マントル遷移層、下部マントルに分かれ、上部は大陸地殻した30〜70kmから410 km、遷移層は410kmから660km、下部は660 kmから2900kmです。

 地殻と上部マントルの境界はモホロビチッチ不連続面、下部マントルは地球システムの中で最大の体積を占めているサブシステムです。

 核との境界は、酸化物や珪酸塩からなる下部マントルと、金属鉄の融解物からなる外核との境界で、コア・マントル境界と呼ばれ温度変化が大きいようです。

 外核は鉄とニッケルを主成分とする金属の融解物で、対流が起こるとともに、磁場による電流と対流の変化が起こり、複雑な地球磁場が発生しています。

 外核と内核の境界は液体と固体の相転移状態にあり、低圧側の外核で融解し、高圧側で結晶化します。

3.4 大気と海洋の物質循環

 上層大気と中層大気の間では、銀河や太陽からの電磁波や放射線によって大気中の窒素や酸素分子がイオン化や解離し、上層大気や宇宙空間へ少しずつ散逸しています。

 大気と海洋の境界では、海面は海水から水蒸気が大気へ供給され、反対に、雨となって大気から海洋へ水が供給されます。

 二酸化炭素についても、海洋は必ずしも飽和状態に達してはいないので、大気から海洋への移動が起こっていると考えられます。

 海底や地表は、地殻と海洋、あるいは地殻と大気との境界面であり、両者の物質循環の場となっています。

 地殻からは地殻変動を通じて、マグマ中の二酸化炭素や硫化水素、二酸化硫黄、塩化水素、水素、アルゴンなどの気体が海洋や大気に供給されます。
 
 海底には海水中に浮遊している粘土鉱物や、放散虫、珪藻、藻類、その他の徹生物の遺骸が堆積し、海洋地殻の構成要素となります。

 海底でのマグマ活動はしばしば熱水噴出をともない、熱水は海水と接触して急冷され、たくさんの金属酸化物や水酸化物、硫化物、硫酸塩などを沈殿させます。

 海洋全体からみると、大陸地殻から河川に溶け込んで供給される成分と、海洋の多くの生物の代謝やその遺骸による成分の変動が非常に大きいようです。

3.5 地殻とマントルの物質循環

 マグマ活動は現在の地球では、太平洋や大西洋などの海嶺にそう活動、日本列島などの島弧で起こる活動、そしてハワイなどの海洋島における活動に分かれます。

 マグマが地瓦あるいは海底に噴出することは、マントルの中で岩石が融解し、そのメルトが地殻に付加されることです。

 地球の形成から現在までの歴史は、明らかに大気、海洋、地殻、マントル、核と、地球システムがつぎつぎと分化し、複雑化し、進化してきた過程です。

 大陸地殻、海洋地殻、マントルの間のマグマの付加による物質循環も、それぞれの場合でで異なっています。

3.6 地殻やマントルをつくる岩石の分類

1.マグマに由来する岩石(火成岩)

 火 山 岩 → 玄武岩 安山岩 デイサイト 流紋岩

 深 成 岩 → はんれい岩 閃緑岩 花崗閃緑岩 花崗岩

2.堆積岩

 砕屑岩 礫岩 砂岩 泥岩 シルト岩 生物岩 石灰岩 チャート 蒸発岩 岩塩

3.変成岩(変成相)

 高圧変成岩 → エクロジャイト 青色片岩

 高温変成岩 → グラニュライト 角閃岩 ホルンフェルス

 低温変成岩 → 緑色片岩 プレーナイト・パンペリ石 沸石

4.超塩基性岩

 かんらん岩

3.7 マントルの部分融解

 上部マントルやマントル遷移層などは、通常は固体状態ですが、高温度になると融解が起こります。

 一般に上部マントルでは圧力が高くなるにつれて部分融解で作られるメルトの化学組成は
、かんらん岩の組成に近くなります。

 深部からのマントルの上昇は、上部マントル・マントル遷移層からと、下部マントルの底部から来る場合で、異なる温度・圧力曲線となります。

 マントルの上昇流の発生場所、言い換えれば対流の深さにより、マグマの温度およびその化学組成が異なることになります。

 25億年より以前は地球表層へはコマチアイトマグマから玄武岩マグマの噴出が卓越してい
ましたが,25億年以後は玄武岩マグマや安山岩マグマの火山活動に変化しました。

3.8 マントル対流とプレート運動

 マントル対流は熱エネルギーを温度の高いところから低いところへ運び、対流運動によりマントル物質が減圧融解し、マグマが発生し地殻へ付け加え化学組成を変化させます。

 マントル対流は高温度のマントル物質を地球表層へ運ぶことで冷却され、再び地球深部の高温のマントルヘ運ばれるという、マントル物質の大循環を行っています。

 上昇する部分ではマントル温度が比較的高く、下降する部分ではマントル温度は低くなり、低い部分と高い部分に分かれると、地震波の速度分布に異常となって現れます。

 地震波トモグラフィーで得られるマントルの姿はマントル内部のある時間断面を表していて、地震波速度の遅い部分は高温上昇流で速い部分は低温下降流のようです。

 下降流と上昇流の間では、地球の表層付近では板状の運動、コア・マントル境界付近では、その境界に平行な流動が卓越しています。

3.9 プレートテクトニクスの原理

 つぎのプレート運動の基本原理が成り立ちます。

1.プレート運動は球面上の回転運動である。
2.プレート運動は回転の極を持つ。
3.プレートは3種の境界を持つ。
4.境界は、プレート生成境界(海嶺)、プレート消滅境界(海溝)、そしてトランスフォーム境界である。トランスフォーム境界は海嶺や海溝をずらす部分でのみ、ずれ運動を起こす。
 さらに地球の表層ではつぎのプレートの幾何学が成立します。

5.プレートは大小約12枚で地球を覆う。
6.プレートは互いに重なるような運動はしない。
7.プレート境界に集中的に歪みまたは差応力の蓄積と物質交換が卓越する。
8.プレートは海嶺でつくられ、海溝でマントルに沈み込む。

 こうした原理によって示される地球表層の運動形式をプレートテクトニクスと呼びます。

 これは地球科学における基本的なモデルであり、地球表層の基準的な運動学となっています。

 様々な地球の変動に関する応用モデルが作られ、海溝域での巨大プレート境界型地震モデル、島弧でのマグマ生成モデル、海嶺部でのプレート生成モデルなどです。

 日本列島では、海溝から約200 km 程度陸側にそって活動的な火山が並んでおり、これは火山フロントと呼ばれています。

 このような構造は上部マントルの部分融解によるもので、海溝から海洋プレートが島弧地殻の下のマントルに斜めに沈み込んでいます。

 プレートが水を持っていて、それが沈み込むことで、温度と圧力が増加し、脱水反応が起こって、遊離した水が上部マントルを部分融解させていました。

 海洋プレートの実体は海洋地殻とその下をあわせたリソスフェアであり、この下にはアセノスフェアと呼ばれる粘性的に流動する上部マントルがあります。

 アセノスフェアの層は通常は上部マントルのうち,00〜300km程度がプレート運動との境界部分であり、その下のマントルは別の対流運動を起こしていると考えられます。

3.10 核の運動と地球磁場

 地球磁場の起源は、電気伝導度の大きな流体が対流運動などの渦運動を起こすことによって発生する磁場です。

 地球磁場は磁極のN極とS極をそれぞれ自転の南極と北極の地下深部に持つような双極子磁場となっていて、自転軸に大体沿った棒磁石が作る磁場と類似しています。

 現在の地球磁場は自転の北極付近にS極があり南極付近にN極がありますが、過去におい
て何度もS極とN極が入れ替わりました。

 溶岩はマグマが噴出し急速に固結したもので、マグマから結晶化した磁鉄鉱などの磁性鉱物が高温度から摂氏約500度程度より下がると急速に地球磁場に沿って磁化されます。

 溶岩の年代順に古地磁気を調べると、いろいろな地質時代で逆転の様子から、岩石の年代を推定することもできるようになります。

 海洋底の磁化を測定したパインやマシューズらの観測は、海洋底が古地磁気の縞模様を作った海洋底拡大モデルを導き、プレートテクトニクスの考え方につながった。

3.11 外核と内核の物質循環

 外核の運動は対流運動でコア・マントル境界を通して下部マントルに影響を与え、下部マントルと外核との間には境界層が形成されます。

 深さ2900kmのところに厚さ100〜200kmほどの境界層がつくられ、上部と下部での温度差は約1000度にも達すると考えられています。

 プレートは海洋あるいは大気と上部を接し、下部は上部マントルのアセノスフェアと接し、境界層は厚さ50〜100km程度で温度差は1000度もあります。

 内核と外核の境界は金属鉄の融解温度という意味を持ち、金属鉄の融解温度を決定すると深さ5100kmの温度が推定できます。

 内核と外核の境界は融解温度ですので、地球全体が冷却するなかで核もゆっくりと冷却し、境界では液体から固体金属への固化が進行していることになります。

 外核では速やかな対流のために均質化しますが、内核のなかでは液体に多く分配される成分が中心部から境界に向かって次第に濃集すると考えられます。

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2017年10月17日

オホーツクの古代史

 ”オホーツクの古代史 ”(2009年10月 平凡社刊 菊池 俊彦著)は、環オホーツク海地域の3世紀から13世紀ころまでのさまざまな人々が存在した謎に満ちた古代文化の輪郭を紹介している。

 オホーツク海は本格的な流氷域としては北半球の南限であり、沿岸地域では独特の古代文化であるオホーツク文化が拡がっていた。この文化の担い手は海での生業を基盤とする海洋民であると同時に、大陸と日本列島を北回りのルートで仲介する交易民でもあった。

 菊池俊彦氏は1943年群馬県生まれ、1967年北海道大学文学部史学科卒業、4月から北海道大学文学部附属北方文化研究施設考古学部門助手、1978年から同大学文学部助教授、1986年から同大学文学部助教授、1991年から同大学文学部教授、2000年から大学院文学研究科歴史地域文化学専攻東洋史学講座教授を務めた。2006年に北海道大学を停年退官し、同名誉教授に就任した。1997年に北方文化の研究で濱田青陵賞を受賞した。

 日本列島は、太平洋、日本海、東シナ海、オホーツク海によって囲まれている。この4つの海のなかで、最北に位置するのがオホーツク海であり、この海に接している北海道の東北部沿岸は、冬期に流氷が漂着することで知られている。オホーツク海は北海道の北部と東部の沿岸が面するだけで、日本の歴史に登場することはほとんどなかった。そのため、これまでオホーツク海沿岸の古代史か語られる機会はなかったと言ってよい。オホーツク文化の遺跡はオホーツク海沿岸のほか、日本海沿岸にもいくつか分布しているが、太平洋沿岸にはまったくない。また、オホーツク文化の遺跡はもっぱら沿岸にあるだけで、内陸部にはまったく見出されない。オホーツク文化の遺跡からは、アザラシ、トド、オットセイのような海獣、クジラやさまざまな魚の骨が大量に出土している。それは、オホーツク文化の人たちが海に依存して生活していたことを示している。沿海の生活者であるにもかかわらず、オホーツク文化の人たちは家畜としてブタとイヌを飼い、その肉を食べていた。そのような習慣と伝統は大陸の諸民族のところにある。また、オホーツク文化の遺跡からは大陸製の青銅製品や鉄製品か出土している。それはオホーツク文化の人たちが大陸の人たちと交流し、交易していたことを示している。オホーツク文化の年代は3世紀から13世紀と推定されているが、そのころの大陸、特にアムール河流域やオホーツク海北岸にはどのような古代文化があったのであろうか。オホーツク文化の遺跡のうちではサハリンの遺跡が古く、オホーツク文化の人たちはサハリンから北海道に南下して来たことが知られている。最盛期には千島列島を東に進出して、カムチャツカ半島の近くまで居住していた。沿海の生活者、海獣狩猟、クジラ猟、ブタやイヌの家畜飼育、大陸との交易、このような特徴を待ったオホーツク文化の人たちはどのような人たちだったのであろうか。

 20世紀初めに、オホーツク文化の遺物の類例として、エスキモー民族の彫刻品や鈷先が指摘されて話題をよんだ。それ以来、オホーツク文化の人たちはどんな民族だったのか、という問題をめぐる議論には、エスキモー民族説、アリュート民族説、サハリンのアイヌ民族説、大陸からの移住者説、大陸の黒水靺鞨=こくすいまつかつ渡来説、サハリンのニヴフ民族説と、さまざまな見解が発表されている。靺鞨は、中国の隋唐時代に中国の北方に存在した集団である。中国の史料によれば、7世紀に、長安を去ること1万5000里にある流鬼国から朝貢の使節がやって来たという。流鬼国はどこにあったのか、という問題はすでに19世紀中ごろに中国の学者によって、カムチャツカ半島であろうという見解が発表された。19世紀末には、フランスの学者が同じくカムチャツカ半島説を発表した。そして、20世紀初めに、日本の学者によって流鬼国はサハリンにあったという見解が発表された。しかし、その後もカムチャツカ半島説は支持されてきた。いったい、流鬼国はどこにあったのであろうか。また、流鬼とはどんな民族だったのであろうか。流鬼国の朝貢使節の話によれば、流鬼国から北へ1か月行程のところに夜叉国があるという。夜叉国はどこにあったのであろうか。また、夜叉とはどんな民族だったのであろうか。著者は、流鬼はサハリンのオホーツク文化の人たちで、夜叉はオホーツク海北岸の古コリャーク文化の人たちだったのではないか、と考えている。そして、流鬼はニヴフ民族に相当し、夜叉はコリャーク民族に相当すると考えることができる。環オホーツク海では、かつてニヴフ民族やコリャーク民族か活動して、大陸の諸民族と交流し、交易していた。そのことを中国の史料は伝えていて、それは流鬼と夜叉の交易だったと考えられる。本書は、このような環オホーツク海の知られざる諸民族の古代史を紹介しようとしている。

第1章 流鬼国の朝貢使節/第2章 流鬼国はどこにあったのか/第3章 オホーツク文化の大陸起源説/第4章 オホーツク文化と流鬼/第5章 夜叉国と環オホーツク海交易

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