2018年02月24日

物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説

 ”物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説”(2017年10月 集英社刊 桜井 俊彰著)は、人種的・言語的にイングランドと異なるウェールズがいかにイングランドに抵抗し統合されたかを知ることができる。

 イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの地域から成り立っている。これらの地域は、その歴史的経緯からイギリスでは別個の国という感覚で人々に認識されている。イングランドと同様にほかの3国は英国議会に議席を持つと同時に、それぞれ独自の地域議会や政府があり首相や閣僚もいる。イギリスをいろいろな言語を待った多様な民族がいるミニ大陸と仮定して考えてみると、少し見えてくることがある。

 桜井俊彰氏は1952年東京都生まれ、1975年に國學院大學文学部史学科を卒業し、広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立した。1997年ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン史学科大学院中世学専攻修士課程修了し、現在、歴史家、エッセイストとして活躍している。

 ウェールズはイングランドの西隣、ブリテン島の南西部に位置し、面積は約2万平方キロメートルである。日本の四国と東京を合わせたほどの広さで、この中に約311万人が暮らしている。イギリスの総人口6565万人のうちの、約4.7%を占めている。ウェールズの人々は公用語である英語を話し、同時に、独自の言葉であるもう一つの公用語、ウェールズ語を話している。ウェールズ人は、かつてヨーロッパに広く住んでいたケルト人の末裔である。ケルト人は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などに、その民族と言語が現存している。アーサー王伝説は中世後期に完成し、トマス・マロリーがまとめた、アーサー王を中心とする騎士道物語群である。内容は、アーサーの誕生と即位、アーサー王の宮廷に集った円卓の騎士達の冒険とロマンス、聖杯探索、ランスロットと王妃グィネヴィアの関係発覚に端を発する内乱の4つの部分に分けられる。トマス・マロリーは1399年生まれのイングランド人で、その生涯に関して確実とされるものは少ない。

 ケルトの民ブリトン人の島だったブリテン島をローマ軍が征服し、属州として支配を開始したのは1世紀中頃であった。5世紀に入るとローマは撤退、アングロサクソン人が侵入を始めた。ウェールズという言葉は、侵入者アングロサクソン人がブリトン人を呼んだよそ者という意味の、古い英語からきている。1066年にノルマン征服王ウィリアム1世がイングランドを征服したが、ノルマン朝によるウェールズへの侵略・植民政策は、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功とはならなかった。以降も、イングランドから度重なる侵略を受け続けたが、ウェールズはその都度撥ね返して独立を守ってきた。1258年にウェールズの事実上の統治者グウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズ大公を名乗り、ウェールズ公国が成立した。しかし、イングランドからの圧力に加えてウェールズ内部での権力闘争の激化、オックスフォード条項以降のコモンロー支配によってウェールズは弱体化していき、徐々にイングランドに臣従せざるを得なくなった。1282年、ルウェリン・アプ・グリフィズがイングランド王エドワード1世に敗れてからは、ウェールズはイングランドに占領されその支配下に置かれることとなった。ウェールズはイングランドの一地方となり、エドワード1世は長男エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、ウェールズの君主としてウェールズを統治させた。

 このような過程を経て、ウェールズはイングランドに征服されその統治を受けることになったが、このことが逆にウェールズ人の民族意識を強めた。ウェールズ人は頑なにイングランドとの同化を拒み続け、この地に植民した異民族のほとんどはことごとくウェールズ人化していった。1455年からの薔薇戦争の際、ウェールズはその政争争奪の舞台になり、やがてウェールズ人がイングランドの王となるときを迎えた。ヘンリー・テューダーはイングランド中部レスターシャー州で行われた戦い、世にいうボスワースの闘いでウェールズのシンボル、赤竜を軍旗に掲げて兵を鼓舞し、シェイクスピアに大悪党として描かれたイングランド国王リチャード3世を葬った。ヘンリー・テューダーこそ、イギリスを世界に覇を唱える海洋国家へと導いていったエリザベス1世女王の祖父であり、近代英国史の幕を開けたテューダー朝の開祖のヘンリー7世である。ヘンリー7世は、戴冠式から1年後に誕生した最初の息子に、アーサーという名前をつけた。残念なから、聡明との評判高き王子アーサーは15歳の若さで病死した。後世のテューダー家に至っては、1536年の合同法によるウェールズ統合により、単一国家イングランド王国あるいはイングランドおよびウェールズとし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は、同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになった。

 本書は、イングランドに押されっぱなし、負けっぱなしだったウェールズの、この大逆転のときにまで至る、その抗争の歴史を辿ってみるものである。これは、今日のイングランドとウェールズの関係を正しく見ていくため、さらに、UKのこれから進んでいく道をしっかりと見極めていくために必要な知識である。

プロローグ 「よそ者」と呼ばれた人たち/第1章 ブリトン人から、ウェールズ人へ/第2章 ノルマン人西へ、ウェールズへ/第3章 独立を懸けた最後の戦い/第4章 赤龍の旗のもとに/エピローグ ウェールズよ、UKよ、何処へ

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2018年02月17日

AIが文明を衰滅させる ガラパゴスで考えた人工知能の未来

 ”AIが文明を衰滅させる ガラパゴスで考えた人工知能の未来”(2017年12月 文芸社刊 宮崎 正弘著)は、人類の知能を超える衝撃に始まったAIの近未来が明るいのか暗いのかについてガラパゴスで考えた未来を紹介している。

 AI=人工知能は、計算機=コンピュータによる知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野である。人間の知的能力をコンピュータ上で実現する、様々な技術・ソフトウェア・コンピューターシステムなどを指している。そのAIがついにチェス、将棋、囲碁のチャンピオンを負かしたことで大きな話題になっている。チェスは1997年、将棋は2013年、囲碁は2017年に、パターン認識による記憶回路の優劣は機械が勝ると証明された。AIが人間を超える日は本当に来るのであろうか、ドローンがすでに実用化されているが兵士も機械化されつぎにロボット戦争が地球を変えるのであろうか、文明の進化に背を向けたガラパゴスの古代生物のたくましさふてぶてしさは逆説なのであろうか、人間の文明は何処へ向かい何を目指すのであろうか、大量の失業者を適切に産業の配置換え再編に適応させることが可能なのであろうか。

 宮崎正弘氏は1946年金沢生まれ、早稲田大学中退で、在学中は日本学生同盟に所属し、日本学生新聞編集長を務めた。その後、雑誌の企画室長を経て貿易会社を経営、1982年から評論活動を始め、現在は、拓殖大学日本文化研究所客員教授を務めている。国際政治、経済の舞台裏を独自の情報で解析する評論やルポタージュに定評があり、同時に中国ウォッチャーとして中国33省を踏破し健筆を振るっている。

 ガラパゴス諸島は東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島で、正式名称はコロン諸島である。日本の技術について、ガラパゴス化という言葉が生まれた。孤立した環境の日本で最適化が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残される。それだけでなく、外国から汎用性と低価格の製品や技術が導入されると、最終的に淘汰される危険に陥る。進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句であるが、ガラパゴスの意味が転じて古代生物が生き残っている比喩としても用いられる。そこで著者は、AI文明の近未来を正反対に文明に取り残された場所から考えてみよう、と思い立ったという。スマホが携帯電話をこえて主流となり、パソコンは小型化し、多機能化して海外でも通信がきるようになった。パソコンから携帯電話、インターネットに匹敵するような次のビジネスは、あらゆる事象を変革するだろう。デジカメはいまでは2000万画素が常識であり、世界の奥地からでも配信が出来る。世界のニュースを同時に共有できる時代となった。

 ガラパゴスのホテルに泊まったときの驚きは、エレベータはないのにWifi設備がちゃんとあったことだという。世界の果てで撮影したスマホの写真を地球の裏側に瞬時に送ることも可能となり、メディアの送り手が交替した。フェイスブック、ブログ、ツイッターで少数意見が多数意見となり、マスメディアの情報操作がしにくくなった。米国におけるリベラルなメディアの劇的な影響力低下に繋がり、部数が激減した。いずれ多くの新聞は経営難から消えて無くなるだろう。IoTとはあらゆるモノ、事象かコンピュータに繋がるという意味である。コンピュータなどの情報・通信機器ばかりか、存在する様々な物体に通信機能を持たせ、インターネットに接続したり、あるいは相互に通信しあって自動認識や自動制御、遠隔計測などを行うことが含まれる。

 産業革命で機械化が進むと多くの単純労働が雇用を奪われたが、コンピュータ化によっては銀行も人員整理がすすみ、工場では自動化で人間が不要となる部署が増えた。株式投資でも、いまやAIが判断し、企業業績を科学的に分析し、さらに為替、金利要因を加えての売買ソフトが組み込まれ、瞬時にして取引か成立する。そしていま、フィンテックの導入によって、5年後には多くの銀行員が失職する怖れが出ている。また、これまで生き残る職種とされてきた会計士、弁理士、行政書士、税理士といった専門業にも、失業の大波か押し寄せるという。かくして、何かとてつもないことが日本ばかりか世界中で始まろうとしている。人類史上最大のパラダイムシフトである。しかし一方では、サイバー攻撃などで、AI時代への懸念、不安がますます大きくなり、AIロボット兵士やAI核ミサイルなどが大きな懸念材料となっている。AIには明るい未来だけでなく、深刻な問題も山積みである。

プロローグ 機械が人間を支配する/第1章 AI近未来は明るいのか、暗いのか/第2章 ガラパゴスで考えてみた/第3章 ツイッター政治という新現象/第4章 文明の進歩と人類の衰退/第5章 「こころ」の問題とAI/エピローグ AIで精神は癒されない

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2018年02月10日

常識が変わる スペシャルティコーヒー入門

 ”常識が変わる スペシャルティコーヒー入門 ”(2016年12月 青春出版社刊 伊藤 亮太著)は、堀口珈琲の代表者によるおいしいコーヒーを求めている人への道案内の書である。

 株式会社堀口珈琲の創業者は代表取締役会長の堀口俊英氏で、1990年に東京・世田谷で創業した。1996年に現在の世田谷店の場所に移転し、法人化して有限会社となった。1999年に喫茶店・レストラン向けの業務用コーヒー需要の増加に対応するため、狛江店を開店した。2001年にカフェやビーンズショップの新規開業の支援を本格化し、2002年に堀口珈琲研究所を設立した。2004年に株式会社化し、狛江店を現在の場所に移転した。2008年に上原店を開店し、産地への積極的な開拓を通し生豆の調達の充実を図った。伊藤亮太氏は2013年から代表取締役社長を務め、コーヒー豆の小売・通販、コーヒー豆の卸売、生豆の卸売、喫茶店の運営、コーヒー学習講座の実施、開業支援等のコンサルティングなどを行っている。1968年千葉県銚子市生まれ、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業で、卒業後、宇宙開発事業団に10年間勤務した。1997年からの3年間の米国駐在時にコーヒーの可能性に目覚め、2002年にコーヒー業界に転身した。2003年に有限会社珈琲工房ホリグチに入社した。入社以来一貫して海外のコーヒー関係者との連絡調整を担当し、コーヒー産地へも頻繁に足を運んだ。

 コーヒー業界では、スペシャルティ、サスティナブル、サードウェーブなど、新しい言葉が次々出ている。スペシャルティコーヒーは、特別な素晴らしい風味特性を持つコーヒーのことである。サステイナブルコーヒーは、スペシャルティコーヒーの中でもさらに持続可能な営農によって栽培されたコーヒーである。スペシャルティコーヒーという言葉は、1974年にアーナ・ヌーツェン氏が業界紙のインタービューで、自分の販売するインドネシアやエチオピア、イエメンの豆を指して使ったのが最初である。そして、1978年に、特別な地理条件や微小な地域の気候がユニークな風味を持つコーヒー豆を生み出すと、一歩進んだ見解を示した。サードウェーブコーヒーは、一般に、ファーストウェーブ、セカンドウェーブの次の段階をさしていとされている。ファーストウェーブはコーヒーを大量に販売しようとするコーヒー業者たちを指し、消費を飛躍的に増大させることか使命であった。セカンドウェーブは職人気質を意味し、コーヒーの仕事を始めた時期が1960年代後半であろうと1990年代半ばであろうと、原料の産地や焙煎に関心をもつなど共通の傾向があった。しかしスターバックスなど一部は大企業化し、コーヒーの自動化と均質化へと向かってしまった。

 サードウェーブは、コーヒーを自動化・均質化しようとした一部のセカンドウェーブに対する反動である。2003年にトリシュ・ロスギブ氏が、アメリカのロースターズギルドの会報で使ったのが最初である。ロスギブ氏は当時滞在していたノルウェーでの経験をもとに、そこで知り合った小規模なコーヒー業者のことを念頭にサードウェーブという言葉を使った。それはコーヒー業界にいる人やその考え方、行動のあリ方であって、決して時代区分やブームのことではなかったという。サードウェーブという言葉は第三の波ということではなく、日本では曲解されている。19世紀前半までにアメリカの家庭にはコーヒーが普及していたし、19世紀後半になっても生のコーヒー豆を買って自宅で焙煎するのが一般的だった。1960年代〜70年代にも、深煎り浅煎りを問わず、各地で高品質なコーヒーを取り扱っていた人々が存在していた。また、セカンドウェーブでは、本来の小規模で職人気質を貫いた人たちまでもが大規模なコーヒーチェーンとともにシアトル系といっしよくたにされてしまった。伊藤氏は、サードウェーブという言葉を定義することができず、するつもりもないという。しかし、言葉がこれだけ普及したのは、単に言葉のインパクトが強かったからではなく、はじめに何らかの同時代的な現象を多くの人が認識したからである。実際、小規模なコーヒー業者とは遠く離れた立場にいる人たちでさえ、サードウェーブという言葉を用いるようになっている。サードウェーブの例が端的に示すように、外国から来た考え方を無批判に受け入れてしまったり、歪めて広めてしまったりする傾向が、最近の日本のコーヒー業界には強いように思われる。

 こうした中にあって、コーヒーを買う側はもちろん、売る側にもコーヒーに関する情報を読み解くリテラシーが求められていると感じる。本書は品質の高いコーヒーを求める人やそういう人たちに商品を提供する側の人たちを主な読者として想定し、その人たちかコーヒーリテラシーを高める一助になることを目指している。コーヒー入門という言葉が書名の一部となっているが、本書はコーヒー全般についての入門書ではない。コーヒーの飲用の歴史には触れていないし、コーヒーのおいしい淹れ方を使用器具別に解説してもいない。おすすめのコーヒーを産地別に紹介しているわけでもなく、焙煎のテクニックを指南しているわけでもない。一冊の本として完結させるために必要な情報を除き、それらは先行する数多の書籍や雑誌、ムックなどにできるだけ委ねるというのが、本書の基本姿勢である。本書で取り上げているのは、コーヒーの本質にかかわったり、コーヒーの品質を大きく左右したりするにもかかわらず、あまりに当たり前か地味だったからか、あるいは難しかったからか、これまで他書があまり取り扱わなかったことが中心である。第1章を含め最初の3つの章は飲み物としてのコーヒーかできるまでについて記述しているので、そうしたことに十分知識がある人や、それほど関心がない人は、いきなり第4章や第5章を読み、必要に応じて前の章に戻るのもおすすめという。

1 種子から生豆まで・ミクロ編/2 種子から生豆まで・マクロ編/生3 豆から飲み物まで/4 スペシャルティコーヒー/5 サステイナブルコーヒー

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posted by kpie44 at 05:58 | Comment(0) | 産業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月03日

ぶらりあるき北海道の博物館

 ”ぶらりあるき北海道の博物館 ”(2017年11月 芙蓉書房出版社刊 中村 浩著)は、2005年から始まったぶらりあるきシリーズの18冊目で自ら北海道の博物館を145か所も訪問して感じたままをまとめた記録である。

 2005年のパリに始まりヨーロッパ編5冊を終えたあと、2012年から東南アジア編の刊行を開始し、2016年のチェンマイ・アユタヤでシリーズそのものを終了させようと思っていたという。しかし、日本については奄美・沖縄しかなかったため、せめて北海道はやっておきたいと以前から考えていたそうである。

 中村 浩氏は1947年大阪府生まれ、1969年立命館大学文学部史学科日本史学専攻卒業、大阪府教育委員会文化財保護課勤務を経て、大谷女子大学文学部専任講師、助教授、教授となり現在、名誉教授で、高野山真言宗龍泉寺住職を務めている。文学博士で、専攻は、日本考古学、博物館学、民族考古学、日本仏教史である。大学退職後で時間の余裕ができ北海道に飛んだとのこと、でも実際に行ってみると、北海道はあまりにも広く博物館施設が点在していて交通機関が不便なことなどから、当初の目算通りにはいきそうにないことがわかった。また、取材完了まで何年もかけると、閉館・休館など、博物館の状況が変わってしまうという新たな問題も生じたという。

 北海道は四季の自然をはじめ、数多くの歴史遺産を残す極めて魅力に富んだ地域である。博物館施設も、総合博物館、歴史博物館、美術館、科学博物館、動物園、植物園、水族館、産業博物館など多種多様な施設が設置されている。日本の博物館の総数は1256館あり、最も多い東京都の95館、次に長野県の85館、そして北海道が65館を数える。博物館類似施設は全国で4430館あり、北海道は272館で、長野県の277館に次ぐ設置数となっている。北海道の博物館は設置数が多いだけでなく、その種類や内容も多種多様なものがある。本書は、博物館の展示の特徴がわかるように分類して編集してある。

 総合博物館・地域の博物館 北海道博物館〔札幌市〕/札幌市時計台/小樽市総合博物館運河館/余市町歴史民俗資料館/苫小牧市美術博物館/市立函館博物館/市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)/旧函館博物館一号・二号/箱館奉行所復元建物/五稜郭タワー「五稜郭歴史回廊」〔函館市〕/登別市郷土資料館/仙台藩白老元陣屋跡〔白老町〕/沙流川歴史館〔平取町〕/旭川市博物館/網走市立郷土博物館/知床博物館〔斜里町〕/羅臼町郷土資料館/標津町ポー川史跡自然公園/標津町歴史民俗資料館/中標津町郷土館/同緑ヶ丘分館/米町ふるさと館〔釧路市〕/釧路市立博物館/ふるさと歴史館ねんりん〔芽室町〕

 北海道開拓に関する博物館 北海道開拓の村〔札幌市〕/旭川兵村記念館/鳥取百年記念館〔釧路市〕/帯広百年記念館

 アイヌ・北方民族に関する博物館 サッポロピリカコタン(アイヌ文化交流センター)/北方民族資料室〔札幌市〕/函館市北方民族資料館/アイヌ民族博物館〔白老町〕/アイヌ生活資料館〔登別市〕/知里幸恵銀のしずく記念館〔登別市〕/二風谷アイヌ文化博物館〔平取町〕/萱野茂 二風谷アイヌ資料館〔平取町〕/二風谷工芸館〔平取町〕/川村カ子トアイヌ記念館〔旭川市〕/アイヌ文化の森伝承のコタン資料館〔鷹栖町〕/アイヌ文化情報コーナー「ル・シロシ」〔旭川市〕/道立北方民族博物館〔網走市〕/阿寒湖アイヌコタン・阿寒湖アイヌ生活館〔釧路市〕

 政治・行政・軍事に関する博物館 札幌市資料館/知事公館〔札幌市〕/赤れんが庁舎〔札幌市〕/樺太関係資料館〔札幌市〕/赤れんが北方領土館〔札幌市〕/北鎮記念館〔旭川市〕/博物館網走監獄/姉妹町友好都市交流記念館〔斜里町〕/北方領土館〔標津町〕/十勝川資料館〔池田町〕

 考古学に関する博物館 手宮洞窟保存館〔小樽市〕/フゴッペ洞窟〔余市町〕/モヨロ貝塚館〔網走市〕/釧路市埋蔵文化財調査センター/史跡北斗遺跡展示館〔釧路市〕

 産業博物館・企業博物館 サッポロビール博物館〔札幌市〕/雪印メグミルク酪農と乳の歴史館〔札幌市〕/千歳鶴・酒ミュージアム〔札幌市〕/ニッカウィスキー余市蒸溜所〔余市町〕/ウィスキー博物館〔余市町〕/男山酒造り資料館〔旭川市〕/池田ワイン城〔池田町〕/ビート資料館〔帯広市〕

 水産業・林業に関する博物館 小樽市鰊御殿/よいち水産博物館〔余市町〕/旧下ヨイチ運上家〔余市町〕/旧余市福原漁場〔余市町〕/函館市北洋資料館/マリンポトス・くしろ〔釧路市〕/木と暮らしの情報館〔旭川市〕/りんさんし博物館〔旭川市〕/クラフト舘〔旭川市〕

交通・運輸・科学に関する博物館 小樽市総合博物館(本館)/函館市青函連絡船記念館摩周丸/函館空港ギャラリー/エアーポート・ヒストリー・ミュージアム〔千歳市〕/大空ミュージアム〔千歳市〕/炭鉱と鉄道館〔釧路市〕/鉄道記念館・愛国駅〔帯広市〕/札幌市立青少年科学館/余市宇宙記念館(スペース童夢)/旭川市科学館サイパル/オホーツク流氷館〔網走市〕

 動物園/動物に関する博物館 札幌市円山動物園/ヒグマ博物館〔登別市〕/旭山動物園〔旭川市〕/釧路市動物園/おびひろ動物園/阿寒国際ツルセンター(クルス)〔釧路市〕/神馬事記念館〔釧路市〕/馬の資料館〔帯広市〕

 水族館/魚に関する博物館 サンピアザ水族館〔札幌市〕/札幌市豊平川さけ科学館/おたる水族館/千歳水族館/登別マリンパーク ニクス/標津サーモン科学館
 植物園 北海道大学植物園〔札幌市〕/札幌市北方自然教育園/函館市熱帯植物園/北邦野草園〔鷹栖町〕/帯広野草園

 教育・スポーツ・娯楽・宗教に関する博物館 コロポックル(木路歩来)館〔旭川市〕/釧路市立こども遊学館/札幌ウィンタースポーツミュージアム/さっぽろ雪まつり資料館/天使の聖トラピスチヌ修道院 〔函館市〕

 人物を顕彰した博物館・記念館 函館市文学館/三浦綾子記念文学館〔旭川市〕/井上靖記念館〔旭川市〕/箱館高田屋嘉兵衛資料館/港文館〔釧路市〕/土方歳三函館記念館/石川啄木函館記念館/北海道坂本龍馬記念館〔函館市〕/西川徹郎文学館〔旭川市〕/バチェラー記念館〔札幌市〕/宮部金吾記念館〔札幌市〕/植村直己記念館〔帯広市〕/北島三郎記念館〔函館市〕/大乃国記念室〔芽室町〕

 大学博物館 北海道大学総合博物館〔札幌市〕/北海道大学農学部博物館〔札幌市〕

 美術館 北海道立近代美術館〔札幌市〕/三岸好太郎美術館〔札幌市〕/本郷新記念札幌彫刻美術館/北海道立旭川美術館/旭川ステーションギャラリー/雪の美術館〔旭川市〕/西美の杜美術館〔美瑛町〕/釧路湿原美術館〔釧路市〕/道立帯広美術館

 世界遺産・自然公園のガイダンス施設 知床世界遺産センター〔斜里町〕/知床自然センター〔斜里町〕/知床森林生態系保全センター〔斜里町〕/ルサフィールドハウス〔羅臼町〕/羅臼ビジターセンター/春採湖ネイチャーセンター〔釧路市〕/釧路湿原ビジターラウンジ展示室〔釧路市〕/阿寒湖畔エコミュージアムセンター〔釧路市〕

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2018年01月27日

新大陸が生んだ食物

 ”新大陸が生んだ食物 ”(2015年4月 中央公論新社刊 高野 潤著)は、いまの日々の献立に欠かせなくなったいろいろな中南米原産の食物をカラー写真と文章でたどっている。

 私たちが日常的に目にする食材の多くや、世界各国の代表的な料理に使われている有名な食材も、大航海時代以降にようやく世界中に広まったものである。たとえば、サツマイモは中央アメリカ、南メキシコ、ジャガイモは南米のペルー南部チチカカ湖周辺、トウガラシはメキシコ、ズッキーニは中米、ピーマンは熱帯アメリカ、カボチャは南北アメリカ、トマトは中南米のアンデスの高原地帯、インゲン豆は中央米、ピーナッツは南米、ヒマワリは北米が原産である。

 高野 潤氏は1947年新潟県生まれで、写真学校卒業後、1973年からペルーやボリビア、アルゼンチン、エクアドル、コロンビア、チリなどを歩き、アンデスやアマゾン地方の自然 、人間、遺跡などを撮り続けている。山野を歩きつづける生活を通して、中南米原産植物の数の多さを知ったという。

 高度差数千メートルを持つアンデス山脈の地形や気候気温の変化が、それぞれの地で植物を育み、原産種の宝庫といっていいほどの豊かさを生んできたに違いない。15世紀末から16世紀にかけてのコロンブスの新大陸到達や、スペイン人によってマヤ、アステカ、インカなどの文明か征服されてから、それらの中南米原産植物かヨーロッパへ伝わり、やがて、アフリカ、アジア、そして日本へと伝播した。中南米原産種の味覚はその発祥地や経由地を含めて、多くの人たちが何千年も受けついで育てつづけてきた努力の結実といっていいだろう。アンデスやアマゾンを歩きながら、植物の存在か不思議に思えてしかたかなかった。陸地上の大小無数の動物たちのほとんどか棲息していられるのも、植物が用意してくれる環境があるからこそといってもいいだろう。そうした環境への動物たちの依存は、そのまま、そこで食べ物が得られるという依存に重なっているところか多い。人間を含めて、すべての生を応援している植物が、密接に人の生活に結びついてきた例もある。一つが日本の稲、一つがアマゾンのヤシ、もう一つがチチカカ湖内にあるウル族の浮島一帯に密生しているトトラである。

 米は昔から日本人の食の中心を支えつづけてきただけではなく、神事に供えられ、日本の酒文化を育てた日本酒を生んだ。稲はしめ縄に使われるほかに、縄、藁ぶき屋根、藁靴、草履、草鮭、雨具、畳の台、俵、燃料、家畜の飼料、畑の肥料など、たくさんの用途に使われてきた。ヤシは、もしヤシかなかったら先住民が果たして生活してこられただろうかと疑問に思ったほど、昔から生活の基本に関わってきた。固い樹皮は床、壁という建材に、吹き矢の筒、弓とその矢に取りつける鏃、投げ槍などの狩猟具に使われてきた。葉は屋根、壁、寵材などに用いられ、葉の骨のような芯部は吹き矢、新芽は繊維になって袋やハンモックなどに利用されてきた。食の面では多くの果実か果物として食べられたり、なかには酒に加工されたり油か採取されたりするものもある。また、新芽が生野菜として食べられる種類もある。トトラはウル族たちの住の根底ともなる居住地を確保するために敷きつめられ、住居は屋根や壁を含めてまるごと、そのなかに敷く寝床にも利用されてきた。ほかに、大小の小舟や魚獲りのための簾状の網などをつくっていた。また、近くの密生地に好んで棲む水鳥の卵や親鳥を採取狩猟し、茎の根本部分を生食用にしたり花部分を胃腸薬に用いたりしてきた。

 この三つは、生きる、活かされるというところで、人間と植物か同盟しあったような関係にあるが、これら以外にも日本の稲と類似しているものとして、アンデスのトウモロコシかある。薪の入手が難しい高地では、茎や穂軸を燃料としていた。牛馬か飼われるようになってからは、収穫後の茎を飼料に使ってきた。似た多面性は見られないものの、ジャガイモはアンデス高地で生きる人たちの生活の基本となる輪のなかに組みこまれていた。アルパカやリャマの糞が、燃料以外にも肥料としてジャガイモの成長と結びつき、家畜に優れた獣毛を育ませている寒冷気候が、ジャガイモの保存食づくりに結びついていた。このように高地ではジャガイモ、アルパカやリャマ、寒冷気候か、ここだけにしか生まれないというセットの形で連鎖しているのである。何千年も前からつづけてきた人間の努力の積み重ねにも驚かされるが、その期待に応えて、人間がもっとも必要とする食べ物を産んでくれた栽培植物の偉大さにも驚かされる。地球上に多くの人たちが生きてこられたのも、大昔に自分たちを見つけてくれた人間の側に寄り添って、芽を出して実ることを怠らなかったそれらの植物かあったからこそということにもなる。そうした作物や果実類のなかに中南米の原産種か含まれているのである。本書では、世界へと広まったもののなかから、日本人の生活に浸透したもの、あるいは浸透しつつあるものを、原産地の地形環境や気候、食利用などを含めて紹介している。

第1章 作物や果実との出会い
 驚きだったジャガイモ食/自炊生活とともに知った現地の作物や料理/温暖な山間のトウモロコシ生産地/豊富な作物が実るバージェ地方/アマゾン域と海岸地帯
第2章 トウモロコシ
 栽培地の広がり方/時代とともに変化した川の流域とアンデネス栽培/寒冷気候対策のパンキイ栽培/文明の要所とトウモロコシ栽培地/昔のトウモロコシ食/インカ時代から飲まれていた濁り酒チッチャ/食材としてのトウモロコシ
第3章 ジャガイモ
 祖としての野生種/ワルワルやコチャ方式によるジャガイモ栽培/アンデス世界を変えたチューニョやモラヤ/ジャガイモ農地の今昔/自然が与えた困難と試練/古典種系ジャガイモと出会う/地中の芸術品を試食する/保存食用品種のクシ、ワニャ、ルキ/ジャガイモ利用の料理
第4章トウガラシ
 アンデス側を代表するロコトの栽培地/南北に広がるロコト/「水棲亀の子亀」というトウガラシ/代表的な激辛トウガラシ/料理とトウガラシ利用/ロコトが支える食文化/幅広いトウガラシソースの素材
第5章 豊富な原産作物と果実類 `
 奇跡の植物キヌア/サツマイモやカボチヤ、マカやヤコン/色も形も違うさまざまなアボカド/パパイヤとパイナップル/チョコレートの原料カカオ/カシューナッツとブラジルナッツ
おわりに 人と結びついてきた植物の不思議

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2018年01月20日

世界の地下鉄駅

 ”世界の地下鉄駅 ”(2017年11月 青幻舎刊 アフロ(写真)・水野久美(テキスト)著)は、インパクトあふれる魅力的な国内外の地下鉄駅を華麗な写真を中心に厳選して紹介している。

 世界中の都市に張り巡らされている地下鉄は、華麗かつ幻想的に空間が彩られている。いくつかの地下鉄は、まるでアートギャラリーかと思うほど美しくインパクトがある。本書は、世界の36箇所の地下鉄駅の斬新で華麗なアーティスティックな空間をきれいな写真と簡潔なテキストで紹介している。

 テキストを担当した水野久美氏は、愛知県犬山市生まれ、大学卒業後、編集プロダクションに所属した。そして、旅行ガイドブックやグルメ情報誌などの制作に携わり、2004年4月に独立した。現在、フリーライターで、カルチャースクールの世界遺産講座講師を務める他、日本文化チャンネル桜の番組のキャスターを務めている。著書には、”いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城””世界の廃船と廃墟””世界の国鳥”などがある。

 写真を担当したアフロは、株式会社アフロ /Aflo Co.,Ltdで、 東京都中央区築地に本社のある、資本金4,000万円、創業1980年、創立1982年11月、従業員数139名(2016年1月現在)の会社である。

 地下鉄の歴史は19世紀のイギリスのロンドンから始まった。1863年1月10日にメトロポリタン鉄道のパディントン駅からファリンドン駅の間、約6kmが開通した。当時のイギリスは鉄道の建設が盛んであったが、ロンドン市内は建物が密集しており地上に鉄道を建設できなかったためである。この路線を計画したのはロンドンの法務官であるチャールズ・ピアソンで、1834年に開通したテムズトンネルをヒントにしたとされる。車両は開業当初から1905年に電化されるまでは蒸気機関車を使用していた。硫黄を含む煙が発生するため、駅構内は密閉された地下空間ではなく換気性を確保した吹き抜け構造となっていたほか、路線の一部も掘割であった。イギリスでの開業後はしばらく間があき、30年近くたった19世紀末〜20世紀初頭に欧米の各地で建設されていった。1875年にトルコのイスタンブールで地下ケーブルカーが開業した。1896年にハンガリーのブダペストでも本格的地下鉄が開業した。ブダペスト地下鉄は当初から電化されており、これは地下鉄としては世界で最初の電化路線であった。さらに1898年にはアメリカ合衆国のボストン、そして1900年にはフランスのパリにおいて開通した。ドイツのベルリンでも1880年頃には地下鉄を通す計画が存在したものの反対勢力によって計画が遅れ、開通は1902年であった。

 第一次世界大戦が開戦するまでには西ヨーロッパや北アメリカの大都市に、第一次世界大戦中から20世紀半ば頃まではヨーロッパ各地の中都市や日本を中心に建設が行なわれていたが、1970年代以降はアジアなどの発展途上国での建設が盛んになった。地下鉄は今や都市交通の基軸という機能美だけでなく、狭い、暗い、怖いといった圧迫感を払拭するユニークなパブリックアートが多数取り入れられている。たとえば、剥ぎ出しの岩盤が迫るストックホルムのソルナ・セントラル駅には、約lkmにわたり炎のように燃える赤い空とスプルースの本の森が描かれている。産業汚染で脅かされていた北欧のヘラジカや、清流で釣りをする親子など、迫りくる当時の危機と葛藤が表現されている。一方で、ストックホルム中央駅であるT−セントラーレン駅は、地下鉄全3路線が交わり混雑するブルーラインのフラットホームがあり、乗客の精神か落ち着くようにブルーが採用されている。さらに、クングストラッドゴーダン駅もストックホルムにあるが、駅名の由来でもある隣接の王立公園の歴史を示す独創的なアートが特徴である。このように、それぞれの駅には異なったアートがあり、アートに込められた背景を知ればその国や地域の特性が見えてくる。アートギャラリーをめぐるように心華やぐ幻想的な地下空間の魅力を楽しんでいただきたいという。

1.ヨーロッパ
 ソルナ・セントラム駅(スウェーデン/ストックホルム)T‐セントラーレン駅(スウェーデン/ストックホルム)、クングストラッドゴーダン駅(スウェーデン/ストックホルム)、アール・ゼ・メティエ駅(フランス/パリ)、ヴェストフリートホフ駅(ドイツ/ミュンヘン)、ハーフェンシティ大学駅(ドイツ/ハンブルグ)、ハイデルベルガー・プラッツ駅(ドイツ/ベルリン)、聖ゲッレールト広場駅(ハンガリー/ブタペスト)、カナリー・ワーフ駅(イギリス/ロンドン)、ベイカー・ストリート駅(イギリス/ロンドン)、サザーク駅(イギリス/ロンドン)、ダンテ駅(イタリア/ナポリ)、トレド駅(イタリア/ナポリ)、オライアス駅(ポルトガル/リスボン)、パコ・デ・ルシア駅(スペイン/マドリード)、コムソモーリスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、スラブ大通り駅(ロシア/モスクワ)、マヤコフスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、ルミャンツェヴォ駅(ロシア/モスクワ)、ゾロティボロタ駅(ウクライナ/キエフ)
2.北・中央・南アメリカ
34丁目‐ハドソン・ヤード駅(アメリカ/ニューヨーク)、81丁目自然史博物館駅(アメリカ/ニューヨーク)、デュポンサークル駅(アメリカ/ワシントンD.C.)、ハリウッド/ハイランド駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ハリウッド/バイン駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ミュージアム駅(カナダ/トロント)、コピルコ駅(メキシコ/メキシコシティ)、カルデアル・アルコベルデ駅(ブラジル/リオデジャネイロ)
3.アジア
 バールジュマン駅(アラブ首長国連邦/ドバイ)、アストラムライン新白島駅(日本/広島)、美麗島駅(台湾/高雄)、復興駅(北朝鮮/平壌)、北土城駅(中国/北京)、雍和宮駅(中国/北京)、国博中心駅(中国/重慶)、烈士墓駅(中国/重慶)

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2018年01月16日

まとめと発展

15 まとめと発展 大森 聡−先生

 これまでの学習を総合して、地球をシステムとして再度見直してみます。

 また、システムを広げて、地球システムと太陽系や銀河系との関りや、地球に近い惑星である火星の研究の状況を学び、地球をさらに広い視点からとらえる考え方を知ります。

15.1 地球システム

 システムの考え方は、社会科学、生命科学、心理学などの分野で発展し、複雑な仕組みを要素に分解して個別の役割について解析します。

 多くの場合、システムの構成要素は小さなサブシステムで構成されており、地球システムも地球を構成する互いに作用し合うサブシステムの集合体となるでしょう。

 地球を主にシステムのダイナミックスの空間と時間スケールを基準に分割して、銀河系、太陽系、固体地球、中心核、地磁気、海洋、大気について説明してきました。

 46億年の地球の歴史を生命生息環境と他のシステムとの関わりとしてとらえ、全地球史の時間スケールでは地球システムの仕組み自体が変化していることも示しました。

 私たちが生活している地表と対流圏は、表層環境圏というサブシステムとして定義することができ、私たちはこの表層環境で暮らしているのです。

15.2 人間圏との関わり

 ここまで説明してきた地球のダイナミックスを、人間の暮らす表層環境圏との関わりとしてとらえ直してみましょう。

15.2.1 100億年スケールのダイナミックス

 100億年スケールのダイナミックスは、地球を含む太陽系と銀河系を作った宇宙スケールの変動です。

 138億年の宇宙の歴史の途中に我々はいるか、その過程で起きた恒星の誕生、進化、そして死(爆発)が、私たちの太陽系の物質を作る元素を合成しました。

 宇宙の第一世代の恒星は水素とヘリウムしか持たないため、太陽系のような惑星系は存在しませんでした。

 恒星が核融合で輝き水素から鉄までの元素を生成し、その後の超新星爆発で鉄より重い元素が生成したと考えられています。

 太陽系は宇宙誕生から約92億年後に誕生した恒星のサイクルの少なくとも2世代目より後の恒星です。

15.2.2 10億年スケールのダイナミックス

 太陽系は46億年前に誕生、月地球系は45.3億年前までに誕生、当時の太陽は現在よりも30%暗く、現在に向けて連続的に明るさは増加しています。

 誕生当時の地球は現在とは異なる内部構造や表層環境で、内部構造が現在とほぼ同じになったのはおよそ25億年前に内核が誕生しマントル対流が始まった後でした。

 内核は形成後から現在も年数mm程度成長していると考えられ、内核の成長により外核の対流が比較的安定し、宇宙線に対するバリアーである地磁気の強度か保たれています。

 マントル対流は表層プレートを駆動してプレートテクトニクスが機能して、陸を作る花崗岩と安山岩マグマを生成し、大陸を少しずつ増加させていきました。

 大陸地殻の量は25億年前には現在の20%程度、5億年前には80%に達しました。

 陸の物質が風化して海に供給されるイオンは生命の骨格を形成する材料として使われるため、陸の増加は動物の進化と密接に関わっています。

 陸の面積は動植物の活動領域を決め、生物の量を制約しています。

 プレートの運動は、マントルの熱を宇宙空間へ逃がす働きも持っています。

 大気組成も46億年間の間に大きな変化を遂げ、二酸化炭素はほとんどが30億年前頃までに、海洋地殻中のマントルに沈み込み地表から除去されました。

 酸素濃度は地球形成時には痕跡程度でしたが、酸素発生型光合成生物や陸からの砕屑物などの働きから、25億年前付近と5億年前付近で数桁上昇し現在の濃度に達しました。

 全球凍結現象は23億年前と7〜6億年前に発生していますが、これが周期性をもつものかどうかは明らかでなく、また、全球凍結に至る原因についてはさらなる研究が必要です。

15.2.3 数億年〜数千万年スケールのダイナミックス

 プレートテクトニクスは数億年スケールの変動を担い、2〜4億年程度で超大陸が分裂して再び集合するサイクルが存在します。

 大陸の分布が高緯度や低緯度に偏ると太陽放射の吸収量への影響が大きくなり、全地球的な気候に影響を与えることになります。

 沈み込むプレートは水や二酸化炭素を地表からマントルヘ運搬する働きを持ち、その量は数億年間のスケールで大気や海洋の組成や量を変化させ得ます。

 顕生代の大量絶滅は平均2600万年程度の間隔で発生しており、大量絶滅の後には新たな生態系が繁栄します。

 私たち人類は、白亜紀末の大量絶滅後の哺乳類が繁栄する新生態系の一員であると考えることが出来ます。

 大量絶滅を周期的と考えるか否か、また、周期的だとしてこれを一般的に説明する大量絶滅モデルはなにかなど、未解明な点は多いです。

15.2.4 1000万年〜数万年のダイナミックス

 1000万年〜数万年のスケールの出来事には、人類が実際に経験してきたか、またはこれから経験する可能性のある現象が含まれています。

 プレートテクトニクスは重要な役割を持っていおり、プレート収束帯の沈み込みや大陸衝突による造山運動は数千万年の時間スケールで起こります。

 50Maのインド・アジア衝突によりヒマラヤが形成され、モンスーン気候を誕生させ、地表の風化を促進し、大気中の二酸化炭素を減少させて、表層環境を寒冷化させました。

 大陸の分裂・移動過程も気候に影響を与えました。

 南極と南米間の陸橋が35Ma頃に完全に分断し、南極を周回する海流が出現した結果、気候はさらに寒冷化に向かいました。

 現在の地球はその寒冷化した気候の延長上にあり、地球の軌道要素による変動が出現することになりました。

 火山噴火により放出される火山ガスは大気組成にも影響を与え、数100〜1000万年の時間スケールでは大気の化学組成を決める要因の一つになっています。

 100万年以上の長い時間スケールでは、岩石と大気の間に起こる化学反応も大気の組成を変化または安定化させる要因となります。

 人の暮らす表層環境と中心核は直接接してはいませんが、これらの遠く離れたサブシステム同士は、地磁気という現象を通して関係を持っています。

 地磁気の向きは20万年〜数10万年のサイクルでNとSが入れ替わっており、逆転が起きる際には磁極の数が増えたり磁気が弱まるなどの現象が起きると推定されています。

 数万年〜数10万年周期の気候変動は、主に地球の軌道要素と太陽活動の周期変動によって引き起こされ、ミランコビッチサイクル、氷期・間氷期のサイクルが起きています。

 ミランコビッチサイクルは、地質記録としては、約250万年前から確認されますが、40万年前までは4万年周期、その後は10万年周期が卓越するようになりました。

15.2.5 大気と海洋のダイナミックス

 大気のダイナミックスはおよそ年変化を基本とし、これに対して、海洋は年〜1000年の時間スケールで循環しています。

 海洋との相互作用によって、海洋のイベントであるエルニーニョや北半球温帯地域の気象との関連など、1年間以上のスケールで変動する気象現象もあります。

 海洋は一般的には熱の吸排出が大気よりもゆっくりしていて、海水の循環は気温を安定させようとする方向の、負のフィードバック効果を持っています。

 一方で、巨大な氷河湖の崩壊と大量の淡水の流出によって熱塩循環が停止して、数10年間で10℃もの急激な表層環境の気温低下が起きた記録も氷床コアに残されています。

 水蒸気や二酸化炭素などの温室効果ガスは表層環境の気温を決定する大きな要因の一つであり、また、成層圏にはオゾン層が存在し太陽からの紫外線を吸収しています。

 一方、表層環境圏からは、生物活動や人間の工業活動から発生するガスや水の蒸発などの効果が、大気の組成に影響を与えています。

15.2.6 資 源

 人類文明が利用している資源について説明です。

 エネルギー資源:

 地球における真の一次エネルギーは、太陽光(核融合)、地熱、および放射性元素の崩壊熱(核分裂)です。

 太陽光に起因する、数時間から1年程度の時間スケールの対流の物理エネルギーが、水力、風力、波力などの形態として利用されています。

 また、太陽光は、光合成を通して化石燃料を生成しました。

 地熱は地球内部の熱ですが、マントル対流によって地表に運搬され高温のマグマが上昇する場所ではさらに大きいです。

 放射性元素は、原子力燃料として用いられるウランの他に、トリウム、カリウムなどが、半減期の長い放射性熱源となっています。

 金属・非金属資源:

 人類が利用している元素資源には、地殻・マントルに大量に存在する元素もあれば、ごく微量にしか存在しない元素もあります。

 元素の濃集には、ほとんどの場合に、水またはメルト(マグマ)が関係しています。

 地球最初の酸素増加イベントで形成された縞状鉄鉱層は、人類が現在利用している鉄の大半を占めています。

 海水中に溶けていた鉄イオンが酸化されて、不溶性の水酸化第2鉄として沈殿することで海底に濃集しました。

 金は熱水で移動する性質があり、火山・温泉地帯に鉱床が出来、また、岩石が風化して砂になると、金は水流中で選別が起きて砂金鉱床が生成します。

 白金は地殼には入りにくく、大規模な塩基性マグマ中で沈殿したり、または、地表に表れたマントルの岩石から直接、砂白金として鉱床が生成します。

 アルミの原料であるボーキサイトは、化学的風化で移動しない性質を持つため、高温多湿地域の風化作用によって、溶出しやすい成分が溶け出した後に残ったものです。

 その他の資源:

 石油は化石燃料として以外に高分子化合物の原料として重要で、人類が利用するエネルギー源が他に移行しても、石油が不要になるわけではありません。

 石油はそれ自体が複雑な有機化合物で、これを精製・分解して単純な構造の純物質を取り出し、これらを原料として石油化学製品(プラスチック、化学繊維など)が合成されます。

15.3 システムを拡げる(1):表層環境圏と太陽系・銀河系

 太陽は表層環境圏の主エネルギー源です。

 地球は自転しながら太陽の周りを扁平楕円軌道上を公転し、自転軸の傾きで各地における太陽からの入射量が変化し、対流圏における気象現象の季節の変化が起こっています。

 この自転軸の傾きのふらつきや楕円軌道の微妙な変化による太陽からの距離変化が、数万年〜数十万年周期の気候変動の原因であると考えられています。

 また、地球の衛星である月は重力によって地球の自転軸を安定させ、潮汐作用(潮の満ち引き)を起こしています。

 太陽から放射される太陽風は、地磁気圏を介して表層環境圏とつながっています。

 多くは地磁気圏の外側を迂回する様に流れていますが、一部が地球極地方に侵入し大気と作用してオーロラが発生します。

 銀河系から放射されている銀河宇宙線(陽子を主とする電荷を待った粒子)が、太陽系と地球システムに降り注いでいます。

 銀河宇宙線のエネルギーは高く生命に放射線障害を引き起こすほどの強さですが、太陽風が銀河宇宙線の太陽系への侵入を阻むバリアーとして機能しています。

 また、地磁気および地球大気は、銀河宇宙線が直接表層環境圏に降り注ぐのを防ぐバリアーとなっています。

 近年、人工衛星を用いた銀河系内の精密測量により、恒星の位置と運動が詳細に分かるようになって、銀河系の構造や古地理を定量的に議論することが可能になり始めました。

 また、地球の堆積物中から超新星爆発生成物や暗黒星雲起源物質などを分析できる機器も開発され、銀河系システムと地球システムの関連の実証的研究が可能になりつつあります。

15.4 システムを拡げる(2):火星

 地球は、2014年現在、人類が唯一知っている生命の住む天体です。

 なぜ地球に生命か誕生し高等生命を経て知性を持つ人類にまで進化したのか、それは人類の根源的問題であろう。

 地球と生命の歴史はしだいに明らかになってきていますが、その一般性を議論するためには、地球と似たようで違う惑星や、地球外の生命に関する情報か不可欠です。

 地球に類似した環境という点では火星が一番地球に近いです。

 火星探査は1960−70年代の探査後いったんミッション数が減少しましたが、1990年代後半から21世紀に入って、探査車と軌道衛星による探査が行われました。

 これにより、火星の研究は大きな進歩を遂げました。

 火星は、かつては、大量の海(火星表面積の25%、深度最大1600m:2015年3月時点の研究による)を持つ惑星だったこと、がほぼ確かであると考えられています。

 2012年の無人探査車キュリオシテイの岩石の画像から、地球の礫岩に似た岩石で、丸みを帯びた形状の礫が存在し、礫の大きさは1cm以下で、基質は砂のようだと分かりました。

 礫岩:

 堆積岩です。堆積岩は、どのようにして形成されるのでしょうか?

 堆積岩(砂と礫からなる):

 地表の岩石が物理的風化により、砕屑物となり、河川により運搬されて堆積した堆積物が固結した岩石です。

 または、礫が火山噴出物で基質も火砕質物質の場合は、火山噴火にともなう噴出物が堆積したものと考えられます。

 物理的風化:

 岩石中の鉱物の膨張率の違いで、太陽の熱と夜間の冷却により岩石に割れ目が生じ、岩石が砕屑物に変化することです。

 このときに、水が関与し、割れ目に浸潤した水が凍結したりすると、物理的風化が促進されます。

 礫の円磨度:

 水に運搬された距離、河床に存在した時間、水の流量によって礫の丸まり方がきまります。

 川の存在:

 礫が円磨される程度には水の流れか定常的に存在していた、と考えられます。

 そのためには、水が低地から高地へと循環する仕組みが必要です。

 水循環:

 地表で水に位置エネルギーを与えて高地に運ぶ過程は、水蒸気としての蒸発、上昇気流、雲形成、そして降雨という一連のプロセスでのみ説明できます。

 水をめぐる気象現象の存在:

 液体の「海」が存在し、蒸発が起きる程度の太陽エネルギーの入射、大気循環の存在を示します。

 このように、地球の岩石・過程に関する知識の背景から、火星の岩石画像から火星の古気候に関する考察を引き出すことができます。

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2018年01月13日

日本人だけが知らない砂漠のグローバル大国UAE

 ”日本人だけが知らない砂漠のグローバル大国UAE ”(2017年2月 講談社刊 加茂 佳彦著)は、日本以上に進んだ社会を築いたアラブ首長国連邦=UAEは夢とおカネが湧き出る国だったという。

 領域はかつて、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えた。その後、ペルシアの支配、イスラム帝国の支配、オスマン帝国の支配を受けた。16世紀にはポルトガルが来航し、オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配した。現在のUAEの首都はアブダビで、東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと隣接している。商圏として中東・アフリカという将来性豊かな広大な後背地を擁し、欧米のビジネスマンはイスラム世界、アフリカ大陸へのアウトリーチの準備に余念がない。GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。UAEは石油の国であるが世界一が目白押しである。世界一高いビル、世界一大きいモール、世界一長い自動制御都市鉄道、世界一高い懸賞金の競馬レースなどである。海外就労地として米国人に最も人気の国で、外国人居住者の比率が最も高く、世界最大級を誇る政府系投資ファンドがある。また、ドバイはペルシャア湾岸地域最大の海上輸送ハブであり、中東一円へのゲートウェーでもある。

 加茂佳彦氏は1952年生まれ、東京大学工学部卒業後外務省に入省し、さらにアマースト大学を卒業した。その後、内外で勤務し、在ヒューストン総領事、在ホノルル総領事、在アラブ首長国連邦特命全権大使を歴任した。2015年に外務省を退官し、国立研究開発法人海洋研究開発機構国際審議役、2016年に同志社大学グローバル・コミュニケーション学部、同志社女子大学大学院国際社会システム研究科で非常勤講師を務めている。

 アラブ首長国連邦は、アラビア半島のペルシア湾に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家である。首長国とは、アブダビの旗のアブダビ首長国、ドバイの旗のドバイ首長国、シャールジャの旗のシャールジャ首長国、アジュマーンの旗のアジュマーン首長国、ウンム・アル=カイワインの旗のウンム・アル=カイワイン首長国、フジャイラの旗のフジャイラ首長国、ラアス・アル=ハイマの旗のラアス・アル=ハイマ首長国である。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。しかし、筆者は、2012年から2015年までの様々な体験は、今までの中東のイメージをまったく塗りかえるような新鮮なものであった。

 中東といえば、紛争続きの不穏な政情に揺れ、テロ事件が各地で頻発し、難民が流出する地城でしかないと刷り込まれてきた。このイメージ自体は一概に的外れだと言えないが、日本人の常識に囚われていては見えてこないもう一つの中東の顔がある。ここがあの中東の国かと疑いたくなるほど超近代的都市が築かれ、治安も良く緑もあって世界中の商品が手に入る。さらに、世界中からやってきた外国人があたかも自分の国に居るかの如く社会の隅々にまで進出し、皆で協力し合ってUAEという国を動かしている。世界最先端のグローバル社会が息づいていて、仕事を求める外国人だけではなく、ビジネスチャンスを探して世界中の企業がUAEに注目している。ドバイ、アブダビはアフリカ情報がどこよりも多く、早く出回る情報ハブであることと関係している。これは、両都市がアフリカヘの航空ハブであることの帰結である。また、ドバイはペルシャア湾岸地域最大の海上輸送ハブでもある。UAEに軸足をおいて、今後躍進が期待されるアラブ世界、イスラム世界、アフリカ大陸にアウトリーチすることも大いに有望である。戦乱に明け暮れ停滞に沈む不幸な地域の一角に、UAEのようにまったく違う中東もあることを承知してもらいたい。

 現在世界の人々は、このまったく違う中東に大きな関心を寄せ、積極的に関与して、そこから最大の利得を引き出そうとしている。この常識破りの国UAEが全世界に提供している様々な好機や便益を、ひとり日本人だけが知らないままでいいわけはない。我が国におけるUAEについての情報不足は相当深刻であり、特に一般読者向けの啓蒙書がほとんど見当たらない。外国との関係強化の第一歩は相手のことをよく知ることである。UAEには我々が注目すべき中身があるのに、情報不足のため日本での関心も十分に掘り起こされているとは言い難い。UAEについてもっと多くの人に知ってもらいたいとの思いに突き動かされ、また、自分が書かなければ誰が書くのかと自らを奮いたたせて本書を執筆したという。紛争や政治不安が続く中東にあって、政治的安定を保ち、経済的繁栄を続けるUAEは異彩を放っており、今や世界を代表するグローバル国家となり、人類の未来の可能性を感じるほどである。ただし、民主制をとっていないことや、若者のモラールの阻喪、居住者間の貧富の格差などは国の統治や社会の在り方に根差した容易ならざる問題であり、本書でも適宜触れていく。克服すべき問題はあるにせよ、また石油の富に恵まれた幸運はあるにせよ、UAEはやはり刮目すべき国であり、実際に体験したUAEの魅力と強さを、ひとつひとつ明らかにしていきたい。

第一章 これだけは知っておきたいUAE/第二章 伝統と超近代が融合するUA/第三章 UAEの面白さがわかるレア体験/第四章 海賊が支配したこともあった歴史/第五章 中東・アラブ情勢の中で/第六章 UAEの繁栄は盤石か/第七章 実は深い日本との縁/第八章 グローバル社会UAEで働く/巻末付録 こだわりのUAE特選ガイド

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2018年01月10日

日本列島の形成史

14 日本列島の形成史 大森 聡−先生

 こまで学習した内容を総合的に活用して、日本列島の形成史とその研究の地球科学における重要性について理解を深めます。

14.1 現在の日本の地質と地形

 日本はプレート収束縁、沈み込み帯上に位置し、日本列島を形成している地質体は、主に堆積岩と変成岩、花崗岩、火山岩で構成されています。

 静岡と日本海側の新潟・富山の県境を結ぶラインよりも西側では、ほぼ東西方向に延びた帯状に地質体が分布していて、それを切る様にして花崗岩体が存在しています。

 糸魚川・静岡構造線よりも東側、東北日本では、帯状の配列は西日本ほど明瞭ではなく、比較的新しい地層が地表に表れ、火山が、海溝に平行な配列を示しています。

 北海道では、南北に延びる帯状構造が明らかです。

 地形的には、およそ海溝と平行に日本の陸地部分が分布していると言えます。

14.2 日本列島形成史

 日本列島形成は、おおざっぱに3つのステージに分けることができます。

14.2.1 黎明期

 約7億年前頃に超大陸ロディニアが分裂して、現在のアジア大陸・中国の南部分に相当する南中国地塊(小大陸)が作られました。

 現在に至るまで日本列島の成長の場である、大陸の縁がこの時形成されました。

 当時の大陸配置は現在とはまったく違う様相で、南中国地塊は、現在のオーストラリアや南極となる地塊の付近に位置していたと考えられています。

 南中国地塊形成直後は、現在の大西洋両岸のように、南中国地塊の縁には沈み込み帯は存在していませんでした。

14.2.2 成長期

 520Ma頃に南中国地塊の沖で海洋プレートの沈み込みが開始して、南中国地塊のプレート収束縁は成長期を迎えることになります。

 日本列島は基本的に、南中国地塊および250Ma以降は一体化した南北中国地塊の縁において、複数回の太平洋型造山運動と前後する付加体の形成で成長しました。

 日本海の形成によってこの成長過程の記録が失われたり複雑な改変を被ったりしましたが、現在の西南日本には比較的よくこの過程が保存されています。

 中央海嶺の近くでは沈み込むプレートの年齢が若く厚さが薄く沈み込み角度が浅くなり、相対的に高温の場所ですので沈み込み帯の火成活動が活発化します。

 沈み込み角度が浅くなると広域変成岩が地下深部から絞り出されて上昇し、中央海嶺が完全に沈み込んでしまうと沈み込んだ物質は再びマントル深部へ沈み込んでいきます。

 火成活動によって、沈み込まれる側の地殻深部で花崗岩マグマに触れる部分の温度が上昇し、低圧高温型の変成作用が進行します。

14.2.3 日本海形成

 日本海の拡大は30Ma頃から始まり、アジア大陸の東の縁の部分が火山活動によって割れ始め、いくつもの湖の形成を経て、外海と接続されて海となりました。

 日本海形成時に海底火山から噴出した凝灰岩がこの頃の地層に広く分布し、緑色を呈する特徴からグリーンタフと呼ばれています。

 大陸から分断した地質体が移動して現在の位置にいたる過程には、回転をともなう観音開き型や平行移動型が提案されています。

 いずれの移動様式であっても、日本海の拡がりにともなって、現在の日本列島となった地質体が、境界にトランスフォーム断層を形成しながら現在の位置に至った点は同じです。

 現在の日本列島の形は、太平洋プレート、フィリピン海プレートの沈み込みによる隆起や沈み込みによって、蛇紋岩の浮力、マグマの上昇流に支えられて陸の形が決まっています。

 沈み込むプレートと日本海の拡大方向はほぼ相対する方向であったため、大陸側の古い地質体が太平洋側の新しい地質体にのし上がる様に移動して、地質体の再配列も起きました。

 天然ガス、石油資源、メタンハイドレートは、日本海形成の初期、大陸が割れ始めた頃、多数の湖地帯に大量の有機物を含む泥が供給・堆積されて形成されました。

 有機物を多く含む泥の堆積は、還元的な覆いとなって沈殿物が海水へ再溶解することを防ぐ役割も果たしました。

14.3 日本から学ぶ地球

 日本列島を形成した地質プロセスの多くは地球全般に応用できる場合も多く、日本列島の研究から地球全体の成り立ちの理解に貢献できます。

14.3.1 付加体

 日本の成長は、付加体と島弧火成活動による成長と、構造侵食による削剥・縮退のせめぎ合いで説明されます。

 付加体という概念は、1976年に日本で勘米良によって提唱されました。

 付加体は海洋底の岩石や堆積物を陸側に保存しますので、プレートテクトニクスが機能している惑星で、古い海洋底の情報を与えてくれます。

 日本列島は誕生以来ほとんどの期間、太平洋に面した収束的プレート縁辺部に位置し、衝突型造山運動の影響を被っていないため、比較的、付加体の情報がよく保存されています。

 日本海の拡大がなければ、なおわかりやすかったでしょう。

14.3.2 沈み込み帯のBMW(Big Mantle Wedge)モデルの確立

 日本列島形成史のほとんどは、520Maから始まる海洋プレートの沈み込みに関連しています。

 大陸移動とともに地球上における日本の位置も変遷を経ましたが、250Maの南北中国の衝突の後はほぼ現在と同じ位置で2億年以上海洋プレートの沈み込みが継続しています。

 沈み込み帯を経由した大規模物質循環に関わる沈み込み帯のBMWモデルの研究も、日本の沈み込み帯において発展しました。

 2億年という比較的長い期間、同じ場所で沈み込みが継続していて、さらに地球内部の観測に不可欠な地震波を観測する高精度の地震計が多数配置されています。

14.3.3 イギリスの歴史と日本の未来

 イギリス・グレートブリテン島が、古い大陸縁や海洋の沈み込み帯における、複数回の島弧と付加体の成長と、複数の島弧・大陸の衝突と融合で形成された歴史が描像されました。
 
 イギリス形成モデルは、実は、日本の将来の予測にも関係しています。

 2億年よりも未来には太平洋やフィリピン海は消失し、オーストラリアや北米大陸がユーラシアに衝突していると予想されています。

 ユーラシア大陸縁にある日本は、これらに衝突される位置にあります。

 衝突型の造山運動を経て風化侵食による削剥を受けますと、地表に残るのは、複数の太平洋型造山帯が衝突で合成された、現在のイギリスのような地質構造ではないでしょうか。

14.4 まとめ

 日本列島の形成が始まった南中国大陸の縁は、超大陸の分裂という数億年サイクルで起きる現象が発端で形成しました。

 その後、分裂した超大陸は1億年ほどかけて、次の超大陸ゴンドワナを形成しました。

 この時始まった南中国地塊への海洋プレートの沈み込みが、現在まで5億年間以上にわたる日本形成の場となりました。

 海洋プレートは継続的に日本の下へ沈み込みましたが、数千万年から1億年程度の間隔で到来する中央海嶺の沈み込みにほぼ同期して、広域変成岩が上昇しました。

 付加体の成長も間欠的で、付加体が存在しない時代も、構造侵食によって日本列島の構成要素が削られて、マントルに沈み込んだ可能性が高いです。

 これらのサイクルは沈み込むプレートの中央海嶺からの距離と関係していて、サイクルの継続時間は沈み込む側の海洋の大きさを反映しています。

 日本の面した海洋は超大陸の反対側で、半球規模の大きさで5億年以上大陸衝突が起きなかったため、複数回の付加体形成一変成岩上昇一構造侵食サイクルが日本の骨格を造りました。

 日本形成の最終段階である日本海の拡大の原因となったマントル内の上昇流の形成には、マントルウェッジに放出された水が大きな役割を持っていたと考えられます。

 マントル遷移層まで運ばれた水や構造侵食によってマントル遷移層まで運ばれた大陸地殻物質は、次の大陸分裂の原動力となる可能性があります。

 現在の日本列島は、10億年スケールの超大陸サイクルの半ばにあります。

 日本列島の付加体と太平洋型造山帯の広域変成岩や島弧花尚岩は、全地球ダイナミックスに関わる海洋プレートの大循環に関する5億年間の記録を読み解くためのカギです。

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2018年01月08日

列島縦断「幻の名城」を訪ねて

 ”列島縦断「幻の名城」を訪ねて ”(2017年4月 集英社刊 山名 美和子著)は、全国の城を旅して歴史の中で朽ち果て今は遺構だけを残すかつての名城の中から48の城を紹介している。

 名城とは、すぐれた城、りっぱな城、名高い城である。日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれる。幕末の台場や砲台も、城に含めることがある。造営は、堀や土塁を築く普請と、門や塀を造る作事からなる。屋敷や櫓・天守も作事に含まれる。中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していた。戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住した。戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れた。江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれている。本書が扱うのは、何層もの天守閣がそびえる国宝の名城ではなく、見事な構造を備えながらも朽ちていき、今は遺構を残すのみの場所である。

 山名美和子氏は1944年東京都生まれ、早稲田大学第一文学部卒業後、東京・埼玉の公立学校教員を経て作家になり、今日まで主に歴史ものを執筆している。

 古代から近世まで、長い歴史を歩んで残る城跡は4万とも5万ともいう。近ごろは城郭ファンの幅が広がり、建物跡もなく、石垣さえない戦国期の城跡にも関心が持たれるようになった。敗将に心を寄せ、ゆかりの城を訪ねる人もふえたという。天守や櫓のそびえる近世の城も、もちろん人気が高い。城址めぐりのタイムトラベルは、地図を片手の第一歩から始まる。道を折れ、ふいに石垣や土塁示姿をあらわすと、出合えたよろこびが込みあげる。まずは虎口と土塁があれば城は成り立つ。堀は、石垣は、土橋はと、過去への旅に夢中になる。城は命や財産を守ろうという目的をもって設けられた構造物だが、それだけではない。動乱をかいくぐった城跡には、たくさんの栄光や激闘のドラマが刻まれている。城址に残る質朴な美、あるいは豪壮なたたずまいに魅了されながらも、哀愁が込みあげてくる。武将たちの足音が響いた曲輪、勝どきをあげ、勝利の美酒に酔った館、無念を噛みしめて散った砦、女たちが愛しい人を想いたたずんだ望楼、寄せ来る敵に負けじと若武者が矢をつがえた城門などなど。城をめぐれば、生と死を懸けた人びとのいとなみが、熱く追ってくる。

 城は攻防の砦である。戦国動乱の時代、城を舞台に幾多の戦いがくりひろげられ、勝者と敗者を生み、次第に姿を変えていく。やがて数百年の歳月が過ぎ、たくさんのドラマを秘めたまま、草木に埋もれ、土に覆われ、開発の波にさらされ、城址は朽ち果てていった。しかし、たとえ戦の炎で焼き尽くされたとしても、城跡にたたずめば、そこに存在した城郭がありありと浮かびあがる。古城をたどって戦国武将や中世豪族の軌跡を追い、埋もれた秘話を探訪し、悠久の時の流れに刻まれた歴史の断片に迫っていきたい。城をイメージするとき、堀や石垣があり、御殿が莞を連ね、大守がそびえる、そんな姿を描くのがふつうである。しかし、中世から江戸時代までに築かれた城の多くは、いまはない。戦乱や災害で失われ、江戸初期の一国一城令では、全国で3000あった城が170に激減した。さらに、明治を迎え不要になった城は、廃城令によって破却され、あるいは売却されて姿を消し、吹き渡る風に石組や堀跡をさらすのみとなった。だが、建物はなくても、爛漫の杏、緑陰や紅葉、雪景色と、城址は季節によりさまざまな情景を映しだし、栄華を誇った威容を偲ばせる。

 苔むした石垣、草木に覆われた土塁の高まり、樹木に埋もれた堀跡、屹立するし岩の城門跡、これらに出合うと、まるで発見者になったような興奮を覚える。国宝や世界遺産の城、御殿や櫓がみごとに再興された城への旅もいい。だが、戦や風雨にさらされながらも遺構を残す城跡は、かぎりない夢想をかきたてる。いまは幻と潰えた城を、北は北海道から南は沖縄へと訪ね、そこに生き、戦い、生を終えた人びとの息吹きを探して歩いた。遺構の数々は、生と死を懸けた戦国の英知や勇気、そして悲哀さえも多弁に語りかけ、現代に生きる者を魅了し、圧倒し、やがて郷愁に誘いこむ。今日見られる天守の最初のものは、織田信長が建造した安土城の天守といわれている。最初に、2年で幻となった天下人・信長の巨大城址の安土城を紹介している。この城は炎上のあと長い眠りについた城跡であり、かつては信長がこの豪華華麗な天守に起居した。続く名城として、琵琶湖の汀に残る明智の夢の跡の近江・坂本城を紹介している。以下、ほかの46の名城が紹介されている。

「幻の名城」地図
第一章 これぞ幻の名城:石垣と土塁が語る戦いと栄華の址
[西目本編]安土城/近江 坂本城/小谷城/一乗谷館/信貴山城/大和郡山城/竹田城
[東日本編]春日山城/躑躅ヶ崎館/新府城/興国寺城/石垣山城/小田原城/金山城/箕輪城/高遠城/九戸城
第二章 大東京で探す「幻の名城」
 江戸城/武蔵国から東京への大変貌のなかで/平塚城(豊島城)/石神井城/練馬城/渋谷城と金王八幡宮/世田谷城と豪徳寺/奥沢城と九品仏浄真寺/深大寺城と深大寺/滝山城/八王子城
第三章 櫓や石垣、堀の向こうに在りし日の雄姿が浮かぶ
 金沢城/上田城/福岡城/津和野城/女城主 井伊直虎ゆかりの城/井伊谷城/松岡城
第四章 再建、再興された天守や館に往時を偲ぶ
 五稜郭/会津若松城/松前城/伏見城/忍城
第五章 古城の風格をいまに伝える名城
 弘前城/丸岡城/備中松山城
第六章 北の砦チャシ、南の城グスクの歴史
 アイヌにとっての砦チャシ/シベチャリチャシ/ヲンネモトチャシ/首里城/今帰仁城/中城城/座喜味城/勝連城
巻末資料 日本の「城」とは何か

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2018年01月06日

1月3日〜5日に京都へ

1月3日〜5日に京都に行ってきました。

1月3日

○伏見稲荷神社

 JR奈良線の稲荷駅から歩きました。

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 老若男女の日本人や外国人もいて大勢の参拝者であふれていました。

 全国に3万社くらいあると言われるお稲荷さんと称される稲荷神社の総本宮です。

 西暦711年の御鎮座以来1300年にわたり人々の信仰を集め、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神様として崇められてきました。

 何と言っても、千本鳥居は圧巻でした。千本でなく万本はあるのでは、と思いました。

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 また、神体山である稲荷山は一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰が連なり、麓に本殿があって稲荷山全体を神域としています。

 きつねそばを食べました。

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○寺田屋

 京阪電車の中書島駅から歩きました。

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 残念ながら、まだオープンしていませんでした。

 寺田屋は江戸時代から続く旅館で、鳥羽・伏見の戦いで焼けたあと、隣接する場所に再現して再建され、現在でも旅館として営業しています。

 1862年に薩摩藩士による同士討ち事件が起き、薩摩藩に送還された若者の中には、のちの西郷従道や大山巌もいました。

 1866年に伏見奉行による龍馬暗殺未遂事件が起き、乱闘になりましたが龍馬と三吉慎蔵は窮地を脱しました。

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○八坂神社

 京阪電車の祇園四条駅から歩きました。

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 ここも大勢の参拝者であふれていました。

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 全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社の総本社です。

 創祀は、諸説ありますが、社伝では斉明天皇2年の656年と伝えられています。

 貞観11年の869年の疫病流行の際、当社の神にお祈りして始まったのが祇園祭です。

 正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と、京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっています。

 宿泊: 京都タワーホテルアネックス

1月4日

○大徳寺

 市バスの大徳寺で降りてすぐでした。

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 臨済宗大徳寺派大本山で、京都でも有数の禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並んでいます。

 大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきました。

 本坊と塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財が残されています。

 瑞峯院が開いていましたので、独坐庭、閑眠庭、茶庭を拝観しました。

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 瑞峯院はキリシタン大名の大友宗麟が帰依した大満国師・徹岫宗九を開山に迎え、自らの菩提寺として創建したものです。

○今宮神社

 大徳寺の近くにありましたので、歩いて参拝しました。

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 平安期以前から疫病鎮めに疫神を祀った社があった、といわれます。

 正暦5年の995年に都の悪疫退散を祈り、御輿を造営し紫野御霊会を営んだのがはじまりです。

 開運・良縁のご利益がある注目のパワースポットです。

 桂昌院=お玉は身分の低い西陣の八百屋の娘だったそうですが、将軍・徳川家光に見初められ側室となり大出世しました。

 お玉によって復興した神社ですので、のちに”玉の輿神社”と言われるようになりました。

 また、門前で売られている名物のあぶり餅は、全国からその味を求めて観光客が訪れています。

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 宿泊: 京都タワーホテルアネックス

1月5日

○松尾大社

 市バスに乗って松尾大社を訪ねました。

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 東端の八坂神社=祇園社と対峙して鎮座しています。

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 大宝元年の701年に建立された社で、酒づくりの神様として有名です。

 室町初期の作で松尾造といわれる本殿ほか、拝殿、釣殿、楼門など社殿が多く、等身大の神像は平安初期の作です。

 神幸祭は1000年の歴史を持つ祭礼で、七条通の桂大橋上流付近で舟渡御の川渡りが行われます。

 境内に足を入れると、山のように積まれた酒樽が目に留まります。

 これは各地の酒造業者が奉納したものです。

 亀の井とよばれる湧き水を元水に加え酒を醸造すれば腐らない、という言い伝えがあるそうです。

○天龍寺

 市バスの京福嵐山駅前で降りて参詣しました。

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 過去にも何回か足を運んだことがありました。

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 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺です。

 尊氏は1338年に征夷大将軍となりましたが、1339年に後醍醐天皇が吉野で崩御しました。

 天皇に反旗をひるがえした尊氏に、崩御に際してその菩提を弔う寺院の建立を強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石でした。

 京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なものだったそうです。

 その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われました。

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2018年01月02日

一方通行の歴史(2): 地球史概観とその特性

13 一方通行の歴史(2): 地球史概観とその特性 大森 聡−先生

 地球の歴史は、基本的には、惑星が内部の熱を失い冷えて行く一方通行の過程の出来事だと言えます。

 生命もまた、冷却する惑星地球とともに進化してきました。

 これまでに明らかになってきた地球の歴史をたどりながら、冷えてゆく地球のダイナミックスについて理解しまする。

13.1 地球内部−表層環境−生命

 現在の地球は地球内部も表層環境も、そしてもちろん生命も地球形成時とは全く異なる惑星になっています。

 現在に至るまでの変化は、ほぼ一定の変化を続ける場合や、変動を繰り返しながら現在に近づく場合もあり、さらに、短い時間に一度だけ起きた変化もあります。

 これまでの研究で、表層環境は地球内部と密接に関連して変化し、また、生命の進化と表層環境の変化も不可分であることが明らかにされてきました。

 しかし、時系列の相関が必ず因果関係を示すとは限らないことに注意が必要で、因果関係についてはまだ明らかになっていない点も多いです。

13.2 冥王代

 冥王代は地球誕生から40億年前までの時代であり、その間、約46億年前に地球が誕生し、45.3億年前に火星サイズの天体が原始地球に衝突し月が形成されました。

 この時点で、地球および衝突した天体の構成物質の多くがいったん宇宙空間にばらまかれ、地球内部と表層が新たに作りかえられました。

 数少ない冥王代の記録は、44億年前のジルコンという鉱物と、カナダ、スレーブ地域やラブラドル地域などに産出する変成岩に残されています。

 44億年前のジルコン粒子は、元の岩石が風化して砂粒になり、何回かの移動を経て、約30億年前に堆積した礫岩の中から発見されました。

 その微量元素組成や酸素同位体比から、44億年前の地表にはすでに大陸地殻が存在し、液体の水が存在していたことを示唆する証拠が得られています。

 岩石として最も古い年代はスレーブ地域の約43億年前の花崗岩質片麻岩で変成作用を受けた岩石であり、変成作用を受ける前に花尚岩質の岩石の存在を示唆しています。

13.3 太古代・原生代

 太古代は40億年前から25億年前までの時代であり、太古代の地質体からは

・最古の生命の同位体的痕跡(38億年前)
・化石(35億年前)
・メタン生成代謝を示唆する流体包有物(35億年前:鉱物中にとらわれた当時の熱水)

などの生命進化にかかわる証拠、プレートテクトニクスの証拠や、当時の海洋底の岩石に記録された海水に関する情報など、豊富な地球史の証拠が得られています。

 30億年前頃までの海水は現在の数百倍程度の二酸化炭素を含んでいて、大気も現在よりも遥かに高い二酸化炭素濃度であったことを示しています。

 生物は原核生物の時代で、27億年前頃までに光合成をするシアノバクテリアが誕生したことが分かっています。

 それによって、酸素濃度が現在の10万分の1以下の時代から、26億年前までには酸素濃度が1〜2桁程度増加しました。

 地球内部では太古代の終わりごろに内核が形成し始めたと考えられ、核の温度が低下して中心付近で液体鉄合金の凝固点を下回り始めました。

 これと前後して、上部マントルから低温の物質が下部マントルに落下し、下部マントルから高温の物質が上部マントルに上昇し、マントルオーバーダーンが起きました。

 原生代は、25億年前から5億4千万年前の時代で、太古代末から増加しはしめた大陸は原生代を通して増加してゆき、原生代末期には現在の大陸量の80%に達しました。

 大陸が増加することによって19億年前に地球上で初めて超大陸が出現し、約23億年前と7-6億年前に2回の大きな氷河期、全球凍結の時代が存在します。

 原生代には2回の大きな生命進化が起き、約21億年前に真核生物が出現しました。

 次の変化は、6億年前ごろの原生代末期の、後生動物を含むエディアカラ生物群の出現です。

13.4 顕生代

 顕生代は生命の時代で、地質学研究も始まり、時代はさらに古生代、中生代、新生代に分けられ、それぞれの代の境界は大量絶滅で定義されています。

 原生代の終わりに現在の80%程度にまで増えた大陸は、顕生代に超大陸の形成と分裂というサイクルを示すようになります。

 J.T.Wilsonはこの超大陸のサイクルを海洋プレートの生成から消滅の過程として説明し、この過程はウィルソンサイクルと呼ばれています。

 現在の地球は前の超大陸パングアから次の超大陸形成までの過程にあり、太平洋の形成は900 Ma頃に始まり太平洋スーパープルームというマントル内の巨人な上昇流が中心でした。

 また、原生代のマントルオーバーターン以降、上部マントルの温度は単調に低下し、沈み込み帯で沈み込む含水鉱物の安定領域が上部マントル深部に拡大しました。

 その結果、火山を経由して水蒸気として地表に供給される水の量よりも沈み込む水の量が多くなり、海水量の減少が始まったと考えられています。

 顕生代の表層環境は全般的には温暖ですが、古生代の中期と後期そして約35Maから現在までが寒冷期(氷河期)となっています。

 また、白亜紀の太平洋スーパーブルームの活性期には温暖化が著しく、海水準の上昇、生物生産の増加などが記録されています。

 新生代の後半〜現在に至る期間は氷河期に相当する時代で、ヒマラヤなど高地の形成や海流の変化などが寒冷化の引き金となったと考えられています。

 酸素濃度は古生代前期に現在より10%程度低く古生代後期に現在より高くなり、古生代末期に急降下し一時的に低酸素状態となり、その後ほぼ現在と同じレベルに保たれています。

 生物化石の詳細な研究と世界の地層の時間軸あわせの結果、大量絶滅という生命進化史上の大事件の存在が明らかになりました。

 顕生代の化石産出から種の数の変化を導くと、とくに大きな大量絶滅が顕生代中に5回あったと考えられています。

 大量絶滅の原因についてはいろいろな議論がありましたが、現在では何かしらの環境大変動か大量絶滅と関係しているという認識でほぽ一致しています。

 大量絶滅の前後では、化石として産出する種の構成が変化しますので、大量絶滅は生命進化とも密接な関連を持つと考えられています。

 顕生代の大量絶滅で最も規模の大きかったものは古生代末の大量絶滅であり、浅海に住む大型動物の属の90%が絶滅し、一方で陸上生物は30%程度の絶滅でした。

 恐竜の絶滅によって地表の大型動物の主役が哺乳類へ交代したことは、霊長類の繁栄と人類誕生への大きな一歩であったといえるでしょう。

 顕生代の生命、とくに動物はカンブリア紀の前半に爆発的に進化し、動物の体構造のデザインがほぼこの時代にできあがりました。

 古生代末には両生類から進化した腿虫類と哺乳類型昶虫類(単弓類)が陸上を支配し、古生代末の大絶滅を生き残り中生代にそれぞれ恐竜類と哺乳類が誕生しました。

 哺乳類は、中生代終わりごろに分裂していた大陸ごとに固有の種が繁栄し、中生代後半100〜70Ma頃に人間の祖先である霊長類が誕生しました。

 中生代末の大量絶滅によって地表の大型動物の主役は恐竜から哺乳類に交代し、この時生き残った唯一の恐竜類が現在の鳥類であると考えられています。

 顕生代には植物も人進化を遂げ、最初に陸上進出した光合成生物は藻類から進化したコケ植物、そして古生代末にはシダ植物や裸子植物が繁栄しました。

13.5 人類に続く時代

 50Ma頃から地球は寒冷化し始め氷河期となり、2.5Ma頃にはミランコビッチサイクルによる氷期-間氷期の周期が現れます。

 霊長類は中生代末の大量絶滅を生き残り、その後は各人陸に分散して多様性を増し、人類は約700万年前頃に束アフリカ大地溝帯で誕生したことが分かっています。

 人類も700万年間の進化の過程で何回か絶滅を経験し、ホモサピエンスに通じるホモ族は250万年前頃に出現しました。

 複数種の人類が地球に存在していたことが明らかになっており、2万数千年前頃まで私たちの祖先とネアンデルタール人=原人は同時に生息していました。

 人類の進化を語る上で脳の進化が重要であり、環境変動の厳しい条件を生き残るために、知性の獲得がより有利な結果をもたらしたということではないでしょうか。

13.6 まとめ:一方通行の歴史と繰り返す歴史

 以上、駆け足で地球の歴史を概観してきたが、そのまとめとして、いくつかの地球内部の変動を出発点に、表層環境と生命進化を関連づけてみましょう。

13.6.1 内核の形成

 冷却してゆく地球内部を最もよく反映するのは内核の形成ですが、実際のところ、内核がいつ形成し始めたかは正確には分かっていません。

 太古代末頃と考える根拠は、コンピューターシミュレーションの結果や、その頃から地磁気の強度が安定するという観測、地表に残るマントルオーバーターンの記録などからです。

 中心核に含まれる放射性元素量とその崩壊熱、および下部マントルとの境界における熱伝導率を求める必要があり、これらに関する研究が堤在も進められています。

 内核の形成は外核の対流を活発かつ安定化させ、現在のような地磁気強度の維持に役割を果たしていると考えられています。

13.6.2 沈み込み帯の温度

 地球内部の温度の低下は沈み込み帯の物質循環にも影響を与えますが、沈み込み帯の温度変化は世界の様々な年代の変成岩の温度の分布をまとめた見積もりです。

 沈み込む物質には水や二酸化炭素が含まれており、分解せずにマントル深部まで沈み込むと、結果的に地表の水や二酸化炭素存在量が減少することになります。

 相平衡計算による見積もりの結果と過去の沈み込み帯の温度の変遷から、35億年前頃にはすでに炭酸塩鉱物はマントル深部まで運ばれ得たことが示されています。

 一方、含水鉱物がマントル深部に到達出来るようになるのは、約10億年前頃から沈み込み帯の温度が低下した後です。

13.6.3 陸地面積

 陸は現在の生命の主要な活動の場であり生物質量の99%が陸上に存在しますが、陸の役割はそれだあけではありません。

 化学的風化という現象を通して、大気+雨と海の間に陽イオン(カルシウム、ナトリウム、マグネシウムなど)と二酸化炭素のやり取りを含む物質循環を成立させています。

 また、物理的風化により生成した砕屑物は、堆積時に光合成で作られた有機物を表層環境から隔離する、という重要な役割を持っています。

 有機物は地表に残ると酸素と反応して再び二酸化炭素と水に戻り、この状況では光合成が起きても大気中の酸素は増加しません。

 堆積物によって隔離された有機物に相当する酸素が遊離酸素として表層環境に残り、隔離された有機物の一部が私たちが利用している化石燃料となっています。

 また、風化により供給される陽イオンや細粒の砕屑物は、海洋への栄養塩の供給源としても重要で、リン、珪素、鉄、など生命に必要な元素を陸から供給しています。

 また、生命が骨格を形成するために必要なカルシウムも、化学的風化によって陸から海に供給されます。

 このような視点から生命進化の大きな流れを見てみると、生命の複郡化や大型化、およびカンブリア紀の爆発的進化と大陸増加の関連が見えてきます。

13.6.4 大陸配置

 超大陸の形成と分裂は顕生代中に21日I起きており、とくに生命が陸上に進出してからは大陸分裂による隔離により大陸ごとの多祥化か進みました。

 大陸の衝突による生態系の混合は、選択圧を発生させて生命進化に大きな影響を与えました。

 また、人類誕生の場が現在の東アフリカ大地溝帯であることを考えると、大陸分裂時の環境変動が生命進化と関運している可能性が高いです。

13.6.5 全球凍結

 全球凍結は、その時代の赤道付近の複数の地層から氷河の痕跡が発見されたことで存在が明らかになった現象ですが、その原因についてはまだ定説が得られていません。

 地球表層の温度を決める要因には、温室効米ガス濃度、反射率、大陸配置、太陽活動変動などの説があり、ほかに、宇宙の変動に原因を求める説もあります。

 全球凍結現象は23億年前と7〜6億年前に起きていますが、海洋形成後、約17億年後とそのさらにその17億年後に相当します。

 これが周期性を示しているとすると、このような時間スケールの周期の原因としては、地球内部よりも銀河系や太陽系に起因する出来事の方が可能性が高そうに思えます。

 全球凍結時には大量絶滅に相当する現象が起きたにちがいありません。

 しかし、絶滅の前後の変化は顕生代の大量絶滅のように主役となる生物種が切り替わるという変化とは異なり、新しい種の誕生が起きている様に見えます。

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2017年12月30日

魯山人 美食の名言

 ”魯山人 美食の名言”(2017年9月 平凡社刊 山田 和著)は、晩年まで篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など様々な顔を持っていた魯山人について、素材選び、料理の秘訣、美食の周辺、美食にふさわしい器などを通して美食観を浮びあがらせようとしている。

 北大路魯山人は1883年に京都市上賀茂北大路町で、上賀茂神社の社家・北大路清操、社家・西池家出身の登女の次男として生まれた。魯山人の本名は北大路房次郎で、家系は士族の家柄だった。魯山人は生涯を懸けて美食を追求し、料理も芸術である、天然の味に優る美味なし、もともと美味いものはどうしても材料による、食器は料理の着物である、良い料理を作ることは人生を明るくするなど、その本質をつく名言の数々を残した。

 山田 和氏は1946年富山県砺波市生まれ、1973年より福音館書店に勤務し、1993年に退社しノンフィクション作家となった。1996年に講談社ノンフィクション賞、2008年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかったという。

 魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は生まれる4ヶ月前に自殺し、母親は魯山人を大津市坂本の農家に預け失踪した。しかし、家では放置状態だったため、預けた1週間後に紹介した巡査の妻が再び連れて帰った。そして、出生から5ヶ月後に巡査の服部家の戸籍に入ったが、すでに服部巡査は行方不明で、秋には巡査の妻が病死した。そこで、この2人の養子の夫婦が、義理の弟である幼い魯山人の面倒を見ることになった。3歳のとき義兄に精神異常が出てその後死亡し、4、5歳のときに義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せた。幼い魯山人はこの家で義姉の母から激しい虐待を受け、2、3ヶ月後に見かねた近所の人の紹介で、竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人の養子となった。魯山人は、以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなった。福田家では、6歳の頃から炊事を買って出て、炊事の中で味覚と料理の基本を学んだ。10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業し、春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公へ住み込みで出された。

 13歳の前に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが、家計的な問題もあり断念した。養父の木版の手伝いを始め、扁額や篆刻などの分野の基礎的な感覚を身に着けた。一字書の書道コンクールでは、天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚を受賞した。以後も応募を続けて次々と受賞し、14、5歳のとき、賞金で絵筆を買い我流の絵を描き、また、西洋看板描きとしても活躍した。20歳のとき母の所在を知り東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志した。21歳のとき、日本美術協会主催の美術展覧会に出品し、褒状一等二席を受賞し頭角を現した。その後住み込みで版下書きの仕事を始め、22歳のとき、町書家・岡本可亭の内弟子となり、その後3年間住み込んだ。やがて帝国生命保険会社に文書掛として出向し、24歳のとき、福田鴨亭を名乗って可亭の門から独立した。25歳のときに結婚し、夏に長男が誕生した。仕事は繁盛し稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込み、合間に畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。

 26歳のとき、母と共に朝鮮に旅立ち、母を京城の兄のところへ送り、3ヶ月ほど旅したあと、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活した。京城滞在1年弱で上海に向かい、当時、書家・画家・篆刻家として名高かった呉昌碩に会った。29歳の夏に帰国して書道教室を開き、半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここでは福田大観の号で、天井画、襖絵、篆刻など数々の傑作を残した。30歳のとき長男の兄が他界して、33歳のとき母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿と名乗った。北大路魯山人の号を使いはじめ、魯卿と数年併用した。その後も、長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活し、食器と美食に対する見識を深めた。また、内貴清兵衛とその別荘の松ヶ崎山荘で交流も深め、料理に目覚めていった。34歳のとき、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営した。

 大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出した。38歳のとき、会員制食堂・美食倶楽部を発足させ、自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作した。42歳のとき、東京・永田町に星岡茶寮を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。44歳のとき、宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して、本格的な作陶活動を開始した。星岡茶寮は、昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごしたが、昭和21年に銀座に自作の直売店・火土火土美房=かどかどびぼうを開店し、在日欧米人からも好評を博した。昭和29年にロックフェラー財団の招聘で、欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問した。

 昭和30年に、織部焼の重要無形文化財保持者に指定されたが、これは辞退した。昭和34年に肝吸虫による肝硬変のため、横浜医科大学病院で死去した。日本料理を根本から変えたと言われる魯山人の料理の実力は、料理全般に関する幅広い知識や、鶴や蝦蟇や山椒魚まで調理した希有な食体験からだけではなく、鋭敏な味覚と大自然に対する理解、どんな妥協をも許さない本物志向、美術鑑賞眼、演出力、そして何よりも相手を感動させたいという一心から生まれたものである、という。そして重要なのは、魯山人の人生にとって食は美味以前に、幸福そのものでなくてはならなかったことである。幼いときにおさんどんを通じて味わい続けた幸福の記憶は、のちの魯山人を支配し、食の巨人・北大路魯山人の誕生に繋がっていった。

プロローグ 魯山人の人生観──断固として生きる 
いろいろな生き方もあろうが
第一章 素材選びと料理の秘訣 
 もともと美味いものは、どうしても材料によるので/天然の味に優る美味なし/新鮮に勝る美味なし /真の美味はシュンにあり/昔の料理は至極簡単なものであった。(中略)(それで充分だったのは)材料がしっかりしたものであったからだ /吸い物、清し汁は一切濃口(?油)ではいけない/総じて魚の大きいのをよろこぶ人は、味覚の発達しない、味の上でのしろうとと言えよう/そもそも米の飯を、日本料理中、もっとも大切な料理のひとつだと心得ている者があるだろうか
第二章 美食の周辺 
(私のように)裕福ならざる者が料理道楽をやり出しますと /(星岡茶寮の経営者として)我々が他と少し違うところは/お料理は即刻即用が大切であります/うまいものを食うと人間誰でも機嫌がよくなる/家にまだたくさんございますから、帰ったらお送りしましょう/米一粒でさえ用を完うしないで、捨て去ってしまうのはもったいない
第三章 美食にふさわしい器とは 
 食器は料理の着物である/私の作品は大抵、食物である限り、盛り方さえ上手であれば調和する自信があります/坐辺師友(中略)努めて身辺を古作の優れた雅品で満すべきである

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2017年12月28日

ヴュイヤール − ゆらめく装飾画

 ”ヴュイヤール − ゆらめく装飾画”(2017年1月 創元社刊 ギィ・コジュヴァル著、遠藤ゆかり訳、小泉順也監修)は、ナビ派を代表するフランスの画家・ヴュイヤールの作品と歩みを多くの写真とともに解説している。

 エドゥアール・ヴュイヤールは、ピエール・ボナールやモーリス・ドニとともにナビ派を代表するフランスの画家のひとりである。ナビとはヘブライ語で預言者を意味し、ナビ派は19世紀末のパリで活動した前衛的な芸術家の集団である。土曜日ごとにポール・ランソンの家に集まって、芸術を論じたり互いの作品の批評をした。独特の用語や制服、しきたりを考案して結束を高め、絵画、彫刻、工芸、舞台芸術などの広い分野で活躍した。大胆な構図と平面的な展開や短縮法、調和性を重視した色彩表現を駆使している。

 ギィ・コジュヴァル氏は1955年パリ生まれ、国籍はフランス、カナダで、1982年から1984年までローマのフランス・アカデミー宿泊研究員であった。リヨン美術館学芸員、ルーヴル美術館学芸員、ルーヴル美術学校教授、カナダ・モントリオール美術館館長などを務めた。この間、ヴュイヤールのカタログ・レゾネを編纂し、2003〜04年に米加仏英を巡回したヴュイヤール展や、2006〜07年のモーリス・ドニ展の主任コミッショナーを務めた。2008年からオルセー美術館館長を務めている。

 遠藤ゆかり氏は上智大学文学部フランス文学科卒の翻訳家であり、小泉順也氏は1975年生まれ、東京大学教養学科卒、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、一橋大学大学院言語社会研究科准教授である。

 ヴュイヤールは1868年にフランス東部キュイゾーに生まれ、1878年に家族とともにパリに移り、給費生としてコンドルセ高等中学校に通った。父は退役士官で、町の収税吏であった。その頃、リュネェ=ポー、ルーセル、モーリス・ドニらと知り合い、長い友情が始まった。1884年に父が亡くなり、母が裁縫所を開いて生計をたてた。ルーセルの影響で士官学校の受験を断念し、画家を目指すことを決意し、1888年にアカデミー・ジュリアンに入った。そこで、ボナール、セリュジェらと知り合い、翌年、ナビ派のグループ結成に加わった。1891年に開かれたグループの第1回展に出品し、ゴーギャンや日本の浮世絵の影響を色濃く残す広い色面による画面構成を試みた。

 それからまもなく、この画家独特の壁紙や家具の模様、登場する人物の衣装の柄を巧みに画面に取り込んだ装飾的な作品群が誕生した。初期には、モーリス・ドニやポール・ランソンを介してナビ派の活動に関わりながら、単純化された形態と色彩を追求し、ピエール・ボナールと生涯にわたる友情を結んだ。最晩年には、フランス学士院の会員に選出されるという栄誉に浴している。また,社交的な一面を持っており、ナタンソン兄弟、ヴァケ博士、エセル夫妻など、有力なパトロン、コレクター、画商との出会いに恵まれた。絵画制作のほか、室内装飾、舞台美術の仕事も手がけた。室内や庭でくつろぐ家族や友人のいる情景を優しい光の中に描くことを得意とし、ボナールとともにアンティミスト=親密派と呼ばれた。

 ナビ派にしたが真の意味でゴーガンに心酔はせず、自分の芸術的実践を続けながら独白の領域を切り開いた。耳目を集めり逸話、社会を騒がすようなスキャンダルとは無縁で、独身を貫くなかで、1928年に亡くなる母と同居しながら、穏やかでつましい生活を送った。それゆえ、母、姉、姪などの家族がモデルとして作品に頻繁に資場し、身の回りのありふれたものに囲まれたプライベートな室内空間が繰り返し描かれた。代表作には、自画像(1889年)、ランプの下で(1892年)、画家の母と姉(1893年)、求婚者、あるいは仕事台のある室内(1893年)、朝食(1894年)、縞模様のブラウス(1895年)、6人の人物のいる室内(1897年)、室内(1902年)、アトリエの裸婦(1909年)、縫いものをするヴュイヤール夫人(1920年)、フレシネ夫人(1931年)などがあり、装飾パネル連作には、公園(1894年)、アルバム(1895年)などがある。いずれも、世界各国の美術館などに収蔵展示されている。対象はゆがんだ視点や遠近法のなかで捉えられ、ゆらめく筆致がもたらす効果によって、運動するエネルギーが画面にあふれている。大半の作品はどこか曖昧であり、多義的な解釈の余地を残している。

第1章 ナビが語りかけること/第2章 演劇におけるように/第3章 密室の戦略/第4章 大装飾/第5章 時の仕事/第6章 パラダイスにて/資料編

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2017年12月25日

一方通行の歴史(1): 地球史の研究方法


12 一方通行の歴史(1): 地球史の研究方法 大森 聡−先生

 地球のダイナミックスの探究を、地球形成時から現在に至るまでの時間に拡大して、地球の歴史の概要を理解します。

 地球史の研究が可能である理由を理解するために、地球史研究で用いられている研究方法の概要を学びます。

12.1 地球史研究

 地球史であつかう試料は圭に岩石であり、その解読には、物理・化学・生物学的背景に基づく分析や理論にもとづいたシミュレーションも含まれます。

 地球史は決してただのお話ではなく、膨大な調査・情報の蓄積と、地層の情報を解釈するための基礎概念を基盤として明らかにされたものです。

 地球史研究の仕組みの全体像を紹介し、地球史概説を科学研究の成果として理解するための第一歩としたい。

12.2 地球史研究法概要

 地球の歴史の研究は過去の記録の解析から実証的なシナリオを確立するのが主な研究の流れであり、現在の地球の研究や理論によるシミュレーションも不可欠です。

 過去の地球を天然の試料の解析によって明らかにするためには、現在の地球の研究や理論の予測から得られる概念が必要です。

 天然試料の解析はまず試料の記載から始まりますが、概念なくして完璧な記載ということはあり得ません。

 古いがとても詳細な記載データがあったとして、新しい概念が提案されたときにその記載データが役に立つとは限らないのです。

12.3 地 層

 地層は、ある拡がりを持って分布する地殻上部の構成物質全般であり、観測対象・目的は、地質構造や層序、岩石や化石や堆積物です。

 氷床コアは岩石の一種となりますが、その情報の特殊性を考慮して、氷床コアは独立させています。

 地層が地表に表れて観察可能である場所を露頭と呼び、一般的な地表の調査はこの露頭の観察から始まります。

 地質構造は、断層、摺曲、および地層の分布を調査して得られる情報であり、層序は、地層の重なりの順番です。

 主に化石や火山灰層を鍵として層序を別の地域と比較することによって、離れた場所の同じ時代の地層を特定することが出来ます。

 層序の対比を繰り返し行い少しずつ範囲を広げていくと、同時代の地層の全地球規模での広がりを明らかにすることが出来ます。

 化石は生命進化を主に形態から議論する際に不可欠な試料であり、岩石は地層の主要構成要素で地球史研究では不可欠の試料です。

12.4 岩 石

 岩石は地球史に関する多様な記録を保持し、表層環境に関しては堆積岩や生物起源の岩石と火山岩が、地球内部の情報に関しては火成岩や変成岩が記録しています。

 ただし、岩石に残された記録はプロキシ=代替物と呼ばれ、目的の情報を得るためには解読作業が必要な記録である場合が多い。

12.4.1 堆積岩、化学・生物岩

 堆積岩は構成粒子の粒径で、泥岩、砂岩、傑岩と分類され、同じ場所における堆積粒子の大きさの変化は相対的海水準の変化を示すと考えられます。

 最近、とくに活用されるようになったのは砂岩中のジルコンという鉱物の年代分布で、ウランを含むためU-Pb法の年代測定により、マグマが固結した年代を知ることが出来ます。

 砂岩中のジルコンの年代頻度分布はその砂を供給した後背地の岩石に含まれるジルコンの年代分布を反映し、ある地域の古地理や後背地の推定に用いることが出来ます。

 海水の酸素同位体比は主に氷床の有無や蒸発作用の活発さ、炭素同位体比は生物活動を反映して変化し、観測されたSr同位体の大変動は陸表面積の変化を示しています。

 また、水中の酸素濃度を反映して堆積岩の組成や沈殿する鉱物種が変化するため、鉄、マンガン、ウラン、希土類元素などは過去の酸素濃度変化推定に有用な元素です。

 火山灰はジルコンやカリウムを含む鉱物を用いて放射年代を決定することが可能で、堆積岩に絶対年代軸を与える重要な地層です。

 また、年代や鉱物組み合わせによって噴火した火山を特定可能な場合があり、過去の火山灰層の分布の広がりから火山活動の規模の大きさを推定することができます。

12.4.2 火成岩

 火成岩はマグマを起源としてできる岩石で、融解温度はマグマの組成に反映されるため、マントル温度の指標として用いることが出来ます。

 マグマの化学組成は元のマントルの化学組成も反映しており、比較することは原始地球と現在のマントルの違いなどを研究する際にとくに有効です。

 マグマの化学組成はマグマが生成した場所(中央海嶺、ホットスポット、沈み込み帯など)を反映しますので、火成岩からその地層の生成場を推定することも出来ます。

 中央海嶺や海山で海底に噴出したマグマは熱水変質作用があり、この時の反応生成物は海水の化学組成、たとえば二酸化炭素濃度などをよく反映しています。

 海底の熱水循環により変質した岩石も同様の情報を持ち、また、岩石の空隙に沈殿した鉱物には流体包有物として熱水が保存され、過去の海水組成の直接的証拠となります。

12.4.3 変成岩

 変成作用で形成された岩石を変成岩、とくにプレートの沈み込みで形成した場合、広域変成岩と呼び、その鉱物組み合わせ変成作用の温度圧力条件を反映しています。

 変成作用を被った年代は、ジルコンや雲母類(カリウムを含む)の放射性年代測定で見積ることが出来ます。

 これらを利用すると、変成岩を作った造山運動の種類を判別したり、過去の沈み込み帯の温度を推定することが可能となります。

 また、広域変成岩の原岩は海洋地殻や陸起源の堆積物であり、変成の程度が弱い場合には堆積岩と同様の表層環境の情報が変成岩にも残っている場合もあります。

 広域変成岩とは別に、地殻下部で上昇する島弧マグマを熱源とする変成作用を被った変成岩も存在し、この岩石の鉱物組み合わせは、マントルやマグマの温度を反映しています。

 また、マグマにともなって存在していた流体(水や二酸化炭素、メタンなど)は、流体包有物として鉱物に取り込まれていると地殻深部の流体についての情報を与えてくれます。

12.5 地質構造

12.5.1 地質構造の意味

 地質構造には地域ごとの個性としての性質もありますが、日本の様にプレートが収れんする沈み込み帯地域においては造山運動作用を反映した構造が形成されます。

 造山帯の地質構造と岩石はすでに山が削剥されて失われてしまった地域においても、過去の造山運動の存在とその性質を推定するための重要な情報です。

 また、プレートが収れんする場所では大陸と大陸が衝突することもあり、これは超大陸形成過程であるため沈み込み帯とは異なる衝突型の造山帯が形成されます。

12.5.2 造山帯

 造山運動は大陸地殻を火成活動によって新しく創り、地殻を広域変成作用によって再結晶させて改変し、地域の地質構造を改変し、周囲へ大量の堆積物を供給します。

 太平洋型造出帯は幅300 km、長さ数1000kmにおよぶことがあり、厚さは30km程度の細長い地質体です。

 造山帯の中核は低温高圧型の広域変成帯で占められ、海溝側に海洋底堆積物が陸側に付加した付加体、大陸側に花崗岩帯、更に島弧海溝間隙には前弧盆地堆積体が見られます。

 風化・削剥によって山が失われた場合でも、これらの要素と配列の断片がみつかれば、かつて太平洋型造由帯が存在していたことが推定できます。

 衝突型造山帯の厚生岩石の構造は太平洋型造山帯と同じですが、原岩が付加体でなく、海溝のない大陸縁の堆積体であり、大規模な花崗岩帯をともなわないという違いがあります。

 太平洋型と同様に、構成要素の痕跡から大陸衝突の存在が推定でき、非対称な地質体内部の大構造から沈み込み・大陸の衝突方向が分かります。

12.5.3 付加体

 プレートテクトニクスから導かれる結果として、海洋底の岩石は時間が経過すると沈み込んでしまって地表からなくなる、という予想が出来ます。

 現在の地表で最も古い海洋底の年代は約2億年前で、海洋底の岩石は地球全体の気候を反映した海洋の記録を保持し、2億年前以前の海洋底の岩石が地表に保存されています。

 付加体は海溝から沈み込もうとする物質がプレートからはがれて陸側に付加して形成する地質体です。

 構成する岩石はプレートが運んできた海洋プレート層序の構成物質、海山とその斜面の珊瑚礁、および陸から供給された堆積物です。

 付加体は造山帯に取り込まれて変成作用を被るなどの影響を受け、海洋底の物質が陸に保存されることになります。

12.6 全地球ダイナミックス

 現在の地球内部構造もこれまでの地球史イベントの蓄積で形成したはずであり、その記録は地表の地質に残されているにちがいありません。

 1994年にMaruyamaは、地震波トモグラフィーを地表地質と結びつけて、地球史における全地球ダイナミックスを体系化しました。

 これにより、現在の地球の構造をヒントにすることによって、地層に記録された地球史上のイベントに包括的な解釈を与えることが出来るようになりました。

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2017年12月23日

ヴェネツィア−美の都の一千年

 ”ヴェネツィア−美の都の一千年”(2016年6月 岩波書店刊 宮下 規久朗著)は、英語読みのベニスとして知られているヴェネツィアを建築や美術を切り口にその歴史と魅力を多くの写真とともに紹介している。

 ヴェネツィアはイタリア共和国北東部に位置し、陸地から4キロほど離れたアドリア海のラグーナ=潟に浮かぶ118の小さな島からなっている。その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体で、ヴェネト州の州都でありヴェネツィア県の県都である。自治体としてのヴェネツィア市は、ヴェネタ潟の島々や、メストレなどの本土側も市域に含み、面積は412.54 ?におよぶ。市域に含まれる有名な島には、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島、ジュデッカ島、リード島、サン・ミケーレ島、ムラーノ島、ブラーノ島、トルチェッロ島などがある。中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄え、アドリア海の女王とか、水の都、アドリア海の真珠などの別名をもつ。ウィリアム・シェイクスピア、トーマス・マンをはじめ、今も昔も世界的に有名な戯曲、小説、漫画、映画の舞台にたびたび登場している。

 宮下規久朗氏は、1963年愛知県生まれ、東京大学文学部卒業、同大学院修了、現在、神戸大学大学院人文学研究科教授、美術史家である。著者は、イタリアのうちどこか一か所行くならどこがよいかと問われたら、迷わずヴェネツィアと答えるという。世界広しといえど、ヴェネツィアほどユニークな町はない。海の都ヴェネツィアは、風光明媚な古都として世界中の観光客が訪れる一大観光地である。町を歩き回るだけでも楽しいし、どこを切り取っても絵になり、思わず写真に撮りたくなる。

 都市としてのヴェネツィアは、面積5.17?のヴェネツィア本島に築かれている。巨大なテーマパークにもたとえられるが、テーマパークのような人工的な雰囲気とは対極にあり、古都の風格や歴史の重厚さに満ちている。島々の間を道のように運河が縦横に走り、400もの橋がこれをつないでいる。ただ、この寄木細工のような町の隅々にまで1500年近い歴史が息づき、どんな細部にもいわれがあるそうである。今でも、乳母車と車いす以外の車が禁止され、自動車のないひっそりとした道を歩くと、その歴史の重みがあちこちから伝わってくる。2000年近く前に、無数の杭をラグーナに打ら込んで昨作った人工的な都市が今でも存続している。この都市はまた、類まれな美術の宝庫であり、世界最高の美術の島であることはあまり知られていない。

 イタリアは中世から近代にいたるまで西洋美術の中心として、国際ゴシック、ルネサンス、マニエリスム、バロックといった重要な傾向を生み出してきたが、ヴェネツィアはそのいずれの潮流にも独自の貢献をし、ローマ、フィレンツェと並ぶ美術の一大中心地であった。各時代に次々に天才が生まれ、巨匠が集まり、狭い島から膨大な名作を生み出してきた。それらの多くは売却され、収奪されて、パリのルーブル美術館をはじめ、世界中の美術館を飾っているが、ヴェネツィアには今なおその最良の精華がそっくり残っている。本書では、ヴェネツィアで見られる作品を中心に、ヴェネツィアの美術と歴史の歩みを振り返る。もともとビザンツ帝国とのつながりによって繁栄したヴェネツィアは、その影響によってサン・マルコ大聖堂に見られるような
見事なモザイク芸術を生み出した。15世紀のベッリーニ一族は大きな工房をかまえ、そこから数多くの優れた画家が輩出した。

 16世紀はティツィアーノの圧倒的な影響のもとに優れた画家が続出したが、ことに世紀後半には、ティントレットとヴェロネーゼが屹立した。17世紀はローマでバロック芸術が開花したが、ヴェネツィア美術は停滞し、18世紀になると再び活気を取り戻して、第二次ヴェネツィア派とよばれる画家たちが登場した。ヴェネツィアは東西の優れた文化が流人する地理的条件や豊かな経済力に加え、ヴェネツィアが長く独立を保つ過程で培われた強い愛国心があった。ヴェネツィアは国家の偉大さや名声を高めるためには何でもし、それによって町そのものを壮大な記念碑にしようとした。町の名誉のために行事や式典を繰り近し、壮麗さを愛し、美や歓楽を好む気風が自然に育まれた。また、1000年にわたって独立を保ったこの共和国は、ラーセレニッシマ=いとも静穏な国という別名のとおり、つねに社会が安定しており、芸術文化を育てるのに適していた。商人の国ヴェネツィアは、現実的で打算的な気風が支配的である。

 一方、驚くほど信心深く、この狭い地域は教会で埋め尽くされており、少し歩けばすぐに教会に行き当たる。ヴェネツィアでもっとも重要であったのは、同信会である。同じ守護聖人を信仰する民間の宗教団体をスクオーラと呼び、それらの集会所として使われた建物がたくさん残っている。同信会館は会費によって豪華に装飾されたが、ヴェネツィア美術のもっとも重要な作品群がこうした同信会館のために制作された。会員たちは宗教的な祝祭や都市の行事に参加し、同信会が競い合うことによってヴェネツィアを活性化させてきた。ヴェネツィアの絵画は400年にわたって、西洋絵画の最高級のブランドであり続けた。どんな地域でもその自然環境と美術とは関係があるが、この町を歩きどっぷりつかってからヴェネツィア絵画を見ると、環境と非常に調和していることが分かる。ヴェネツィア美術は当地で見てこそ、その美しさを堪能できるという。

第1章 曙光の海−ヴェネツィアの誕生 6〜12世紀・初期中世
第2章 地中海制覇への道−共和国の発展 13〜14世紀・ゴシック
第3章 黄金時代−絶頂期のヴェネツィア 15世紀・初期ルネサンス
第4章 爛熟の世紀−動乱のルネサンス 16世紀・盛期ルネサンス
第5章 衰退への道−バロックのヴェネツィア 17世紀・バロック
第6章 落日の輝き−ヴェネツィアの終焉 18世紀・後期バロック・ロココ
終 章 生き続けるヴェネツィア

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2017年12月19日

地震と火山のダイナミックス

11 地震と火山のダイナミックス 大森 聡一先生

 地震や火山活動など、人間の一生の間に遭遇する固体地球起源の地学現象は、一回の現象の時間スケールは短いです。

 しかし、その現象の原因は、突き詰めればマントルの対流とプレート運動という、長い時間スケールの現象にたどり着きます。

11.1 地震の原理

 地震は地殻やマントルの岩石の破壊的変形にともなって発生し、岩石の破壊は岩石に力が加わることで起きると想像できます。

 岩石への圧縮力を強めていくと弾性歪みも大きくなり、度を越すと反発力が弱くなり元に戻らない変形を始め、最後は急激に折れて応力がゼロになります。

 実際の地震は必ずしも無垢の岩石の破壊によって発生するわけではなく、過去に破壊した岩石の破断面にそって再び変形が起こる場合もあります。

 断層の動き始めの条件は断層の両側から垂直に押しつける圧力と。断層物質の摩擦力で定まります。

 断層の両側の物質を移動させる剪断応力が摩擦力を越えると断層の両側の物質が運動し、地表に段差をつくり津波を引き起こして、この運動で起きる変位が地震になります。

11.2 地震のタイプ、規模と発生頻度

 大きな応力は基本的にプレート運動に起因し、地震が多く発生している地域はプレートの収束境界付近に集中しています。

 収束境界は2つのプレートが押し合う向きに運動している場所で、沈み込み帯や大陸の衝突帯がこれにあたります。

 このような場所では地震の頻度とともに放出される地震エネルギーも大きく、M9やM8クラスの地震はこのような場所で起きています。

 同じプレート境界でプレートが離れてゆく境界の海嶺や大陸のリフト付近でも地震が起きており、海嶺で起きている地震の多くは火山性地震や正断層性の地震です。

 その他に大陸の内部に点々と震央が分布し、内陸性地震またはプレート内地震が発生し、直上に人間の生活の場があるため災害の規模が大きくなる場合があります。

 沈み込み帯で起きる地震には、プレート境界地震、稍深発〜深発地震があり、沈み込まれる側では、火山性地震、内陸性地震があります。

 深発地震の研究では、和達が沈み込み帯として知られている地域に斜めに分布する震源分布を1927年に発見し、その後、西欧圏でもベニオフによって同じ発見がなされています。

 東北日本では2列の帯状地震分布を示していることが海野と長谷川によって発見され、深発二重地震面と呼ばれています。

11.3 火山活動

11.3.1 火山噴火の様式

 火山噴火は、地下で生成したマグマが地表に到達して流出する現象です。

 マグマは岩石が融点を超えた温度で融解してできる岩石の液体であすが、実際には、固体の鉱物を少なからず含む、シャーベットやスムージーの様なものです。

 噴火の様式は主にマグマの粘性と関係があり、粘性が高いマグマは爆発的な噴火を起こし、粘性の低いマグマは流れ出すような噴火で流出する場合が多い。

11.3.2 マグマの成因

 地球におけるマグマの成因は2つあり、一つは、海嶺における高温物質上昇にともなう融解、もう一つは、沈み込み帯における水による融解です。

 海嶺では、マントル深部から高温の物質が対流によって温度を保つたまま上昇し、圧力が下がることによって岩石の融解が起きます。

 沈み込み帯では、水の存在により融解開始温度が地下50kmで400℃近く低下していて、陸の下でも海洋下でも、地下の温度構造が融解開始温度より高温になりマグマが生成します。

11.3.3 多様なマグマが存在するのはなぜか?

 マントルのかんらん岩には融けやすい成分と融けにくい成分があって、融けやすい成分のみがマグマとなります。

 マグマが生成するとマグマは岩石から分離して上昇し、融解温度が高いほど融けにくい成分の量が多くなり生成するマグマの量も多くなります。

 マントルの融けやすい成分は玄武岩組成の成分であり、かんらん岩が20%程度部分融解すると玄武岩マグマが生成します。

 25億年より前の地球では、上部マントルの温度が高くて、マントルがほとんど全部融けたコマチアイトマグマも生成していました。

 玄武岩マグマ生成後、冷えてゆく際に融けにくい成分から固まり鉱物として晶出し、一般に液相よりも密度が高いため沈み、融けやすい成分は液相として浮かんでいます。

 もう一つの過程は、別の岩石とマグマとの混合であり、マグマは地殻に貫入してゆくため地殻の岩石を溶かし込むことがあり、周りの岩石が融けてマグマに混じります。

11.4 火山と表層環境

 火山活動は固体地球の長い時間スケールの運動か原因で、たとえば、1千万年程度の時間スケールでみれば、ほぼ一定の割合で表層環境へ影響を与え続けています。

 それは、火山ガスとしての、二酸化炭素、硫化水素、水などの入力であったり、火山灰などの微粒子の大気や海洋への供給です。

 しかし、その爆発的噴火はマントル対流に比べてはるかに短いスケールで起こり、間欠的に短い時間で表層環境へ強い影響を与えることになります。

 一つの火山の1回の爆発が全地球的に長い時間の気候に影響を与え続けることはありませんが、その爆発の後の短い時間には表層環境に少なからず影響を与えます。

 火山爆発は、二酸化炭素の上昇と火山灰による日照の遮蔽という2つの効果で、表層環境に影響を与えることになります。

 地質時代においては、白亜紀の太平洋プルームの活発期や、古生代末のシベリアやデカン高原の大規模洪水玄武岩の活動と表層環境との関連が示唆されています。

11.5 まとめ

 地震は、プレート運動による歪みの蓄積と破壊による開放が原因で起こります。

 島弧火山のマグマは、プレートが地表から含水鉱物によって運ばれた水が原因で生成します。

 プレート運動は数cm/年のゆっくりとした現象ですが、地震や火山の爆発は蓄積されたエネルギーが急速に開放されておきる現象です。

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2017年12月17日

僕はこうして科学者になった

 ”僕はこうして科学者になった”(2016年7月 文藝春秋社刊 益川 敏英著)は、宿題嫌い、英語嫌いがノーベル賞を受賞するまでの来し方行く末をユーモアあふれるエピソードでつづった自伝である。

 中日新聞・東京新聞に掲載された連続コラムをまとめたものに、ノーベル賞受賞講演録を加えている。益川敏英氏は1940年名古屋市中川区生まれ、昭和区、西区で少年期を過ごし、向陽高等学校を経て名古屋大学理学部を卒業し、1967年に同大学大学院理学研究科博士課程修了、同大学理学部助手、1970年に京都大学理学部助手、1976年に東京大学原子核研究所助教授、1980年からから2003年まで京都大学基礎物理学研究所教授、理学部教授、大学院理学研究科教授、基礎物理学研究所教授、基礎物理学研究所所長を歴任した。2003年に京都産業大学理学部教授、2007年に名古屋大学特別招聘教授、2009年に京都産業大学益川塾教授・塾頭、名古屋大学特別教授を務めた。第25回仁科記念賞(1979年度)、第1回J.J.サクライ賞(1985年)、第75回日本学士院賞(1985年度)、朝日賞(1994年度)、第48回中日文化賞(1995年度)、欧州物理学会2007年度高エネルギー・素粒子物理学賞を受賞し、2008年にはノーベル物理学賞を、南部陽一郎、小林誠と共同受賞した。また、2001年に文化功労者となり、2008年に文化勲章を受賞している。

 なぜ科学に興味を持ち研究者を目指したのか、どんないきさつでノーベル賞を受ける研究に収組んだのか、そしていまどんなことを考えているのかなどを綴っている。生家は戦前は家具製造業で、戦後は砂糖問屋を営んでいた。科学や技術の雑学に詳しかった父親の影響で、科学に興味を持った。しかし学校の勉強は大嫌いで、宿題など一回もやったことがなかった。次第に数学や理科は進んで勉強するようになったが、英語嫌いは今に至るも直っていない。英語の論文は書かないし、ノーベル賞受賞記念のスピーチも初めて日本語でやらせてもらった。高校の成績も悪かったが、新聞で名古屋大の物理学者・坂田昌一教授が発表した画期的な学説を知り、大学進学を決意した。父親との大ゲンカの末に進学を果たした。同級生との激論や、思わず吐いてしまう暴言の影響などものともせず研究に取り組み、ノーベル賞を受賞することになるテーマ”CP対称性の破れ”に出会った。学生時代から議論好きで、違った視点や仮説を提起して議論を活性化させた。その背景には、仁科芳雄から、武谷三男、坂田昌一に至る研究環境と、坂田モデルに始まる名大での活発な研究活動があるようである。

 ノーベル物理学賞を受賞して生活がいろいろ変わったが、一番変わったと思うのは駅のホームの歩き方とのことである。それまでは勝手な場所を歩いていたけれど、賞をもらってからは線路から離れて必ずホームの中央を歩くようになった。なぜかというと、握手を求めて突然に手が飛び出てくるからである。考え事をしながら歩いているとき、目の前に急に何か出てきたら人間はびっくりして飛びのくものである。もしホームの縁を歩いていたら、レールの上に飛びのかないとも限らない。最近はだいぶなくなってきたけど、もうそういう癖がついたという。特に東京からの下りの新幹線は名占屋の人がたくさんいるので、よく声を掛けてもらい色紙を出されたこともある。とっさに思い付きで、”よく間違えられるんですが、私は双子の兄弟のデキの悪い弟の方なんです”と言うと、さっと色紙を引っ込めて立ち去ってしまったそうである。兄弟はなく、ちょっとした冗談のつもりだったが悪いことをしたとの付記がある。受賞の知らせのノーベル財団からの電話が高飛車で、腹が立ったという。それゆえ、大してうれしくない、バンザーイなんてやらないよと述べた。若いいころアインシュタインの相対性理論を勉強して不思議に思ったが、いまふたたびその謎にあこがれて同時ということの意味を考え続けているそうである。時間は実に不思議で、いつかあなたと払の時問が交差して、もしかしたらどこかの駅のホームに同時に存在することだってあるかもしれない。あとがきで、若い人には憧れとロマンを持ってほしいという。

握手/予感/カチン/泣いた/爆弾/砂糖問屋/砲台/銭湯の道/図書館通い/ばれた/英語嫌い/卒業文集/坂田教授/尾頭付き/決闘状/調べろ/ぶつけ合い/六〇年安保/暴言/浮気性/さん付け/坂田研究室/奇妙な現象/入試廃止/恋人は/式の真実/不採用/十年遅れ/組合活動/湯川先生/小林誠君/やろうか/だめだ/六種類だ/理解されず/目利き/お墨付き/仁科賞/空白の十年/親孝行/ばかやろう/博士論文/最後の一つ/最大の危機/予知能力/予言通り/突っ切れ/もてなし/どっちだ/消える本/ダーチャ/私と猫/ごちそう/入院/原発講義/原発の後始末/科学と戦争1/科学と戦争2/科学と国境/平和憲章/科学とスパイ/恩師の言葉/二百年後/井の中の蛙/ドンーキホーテ/棚上げ/英語は大事/まだ謎解き/CP対称性の破れが我々に語ったこと

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2017年12月12日

大気の循環一天気と気候に影響を与える大規模変動

10 大気の循環一天気と気候に影響を与える大規模変動 米山 邦夫先生

 定常的な大気の状態に対し、発生間隔は変化するものの、ある程度の周期性を持ち、各地の天気や気候を根幹から変える力を持つ代表的な大気変動現象について解説します。

10.1 熱帯と中緯度の基本状態

 中緯度の天気は、基本的には地球の自転と南北方向の温度差に端を発する偏西風の変動に支配され、準地衡風近似の方程式を解くことでおおまかな運動が説明されます。

 一方、温度の水平勾配が弱い熱帯では、強い日射を受けた地(海)表面とその上空との間の鉛直方向の不安定を解消する形で、積雲・積乱雲の発達が卓越します。

 とくに陸面と海面の比熱の違いに起因して、インドネシア多島海では対流活動が活発で、大規模なウォーカー循環を作り出しています。

 現実には、このようにしてできた流れの場が常に続いているのではなく、様々な時空間スケールでずれた状態が発生しています。

10.2 エルニーニョ/南方振動現象

 太平洋の熱帯海洋上では、恒常的な東風により表層の暖かい海水が西部太平洋に蓄えられ、暖水プールと呼ばれる地球上で最も海面水温の高い海域を形成します。

 暖水プール上空では蒸発した水蒸気が積雲・積乱雲を活発に作り出し、世界有数の降水域をもたらしています。

 一方、東部太平洋では西に輸送された表層の海水を補うように下から海水が上がってくる赤道湧昇が見られ、湧昇海域は冷たくなり東西の海面水温の差は大きくなります。

 通常は西部太平洋表層海水の東向圧力が貿易風と釣合い暖水プールが維持されますが、貿易風が弱まると平衡状態が崩れ、暖水は東部太平洋へ伝搬しエルニーニョ現象が発生します。

 エルニーニョ現象とは、西経150−90度、南北5度で挟まれた監視海域での5ヵ月の移動平均を取った海面水温が6ヵ月以上連続して気候値を0.5℃上回ったときを言います。

 エルニーニョ現象は、赤道湧昇のため通常海面水温が低い東部熱帯太平洋が数年に一度気候値に比べ高くなり、全球の気象や気候に数力月から年単位で影響を与えます。

 地球上では、しばしば数千km以上離れた場所でいくつかの物理量に強い正または負の相関であるテレコネクションが見られます。

 インドネシア多島海に近いダーウィンの地上気圧と西経150度付近のタヒチの地上気圧に見られる、片方が高くなると片方は低くなるシーソーのような関係の南方振動はその一つです。

10.3 マッデン・ジュリアン振動

 米国のマッデンとジュリアンは、1971年と1972年に、赤道に沿ったインド洋から太平洋にかけての地域で、海面気圧と風の東西成分に40−50日の周期性があることを発見しました。

 マッデン・ジュリアン振動=MJOは、それ自身が熱帯の気象や気候を左右するだけでなく、種々の現象に影響を与えながら、全球の気候変動に影響を与えていることが知られています。

10.3.1 マッデン・ジュリアン振動の基本構造

 マッデン・ジュリアン振動によると、主にインド洋の熱帯海域上空で積乱雲が発達し、その後東西方向に数千km規模の雲群へと1〜2週間かけて成長します。

 巨大雲群になった後、赤道に沿って東進を始め、インド洋から太平洋にかけての海域では約5 m/sで進みます。

 そして比較的海面水温が低い日付変更線付近で対流はしばしば衰退し、一方、上空の風のシグナル=東西風偏差だけはその後も、速さを上げて赤道上を周回しインド洋に到達します。

 この1周期に30〜60日を要し、1つのマッデン・ジュリアン振動現象が発生しているとき、別のマッデン・ジュリアン振動に伴う巨大雲群は観測されていません。

 なぜそのような巨大な雲群が発生するか、赤道に沿って約5m/sという速さで東進するかについては、現在諸説あり解明されていません。

10.3.2 マッデン・ジュリアン振動が全球の天気や気候変動に与える影響

 マッデン・ジュリアン振動の発生過程や東進するメカニズムについては現時点では断定的な1つの答えはありません。

 人工衛星による雲や風の分布から、現在ではマッデン・ジュリアン振動対流がどこにいるのか各国で気象予報を担当する現業官庁がモニタリングを行っています。

 理由は、マッデン・ジュリアン振動が熱帯地方の天候に決定的な役割を果たすだけでなく、主に他の現象との相互作用を介して、全球的な大気の運動に影響を与えているからです。

 西風バーストが赤道上を吹くと、やや高緯度側の貿易風などの東風との間に低気圧性の渦を生み出し、対流の南北に熱帯低気圧をしばしば発生させます。

 西風バーストが西部赤道太平洋で活発に起きると、海洋中の温度躍層を押し下げ、東部太平洋の海面水温が高くなり、エルニーニョ現象が発生します。

10.4 北大西洋振動

 北大西洋には亜寒帯のアイスランド低気圧と亜熱帯のアゾレス高気圧が、停滞性の高・低気圧として存在し、両者の間に生じる気圧傾度力が偏西風を生み出しています。

 この高・低気圧が冬季に共に強まる(弱まる)と、テレコネクションの1つである、北大西洋振動=NAOと呼ばれる変動が起きます。

 NAO指数が高いほど偏西風が強まり、南西風をヨーロッパに運ぶため、ヨーロッパは比較的暖かく水蒸気の多い冬となり、逆にカナダなどでは乾燥し気温も下がる傾向があります。
 
 NAO指数が低いときには偏西風も弱まり蛇行しやすくなり、その結果、ヨーロッパでは平年に比べ寒冷な冬になることなどが統計的に示されています。

10.5 まとめ

 地球規模で気象や気候を大きく変える変動は、他にも、

 熱帯を起源とするものでは台風、
 インド洋におけるエルニーニョ現象とも呼ばれるインド洋ダイポール現象、
 大陸と海洋との比熱の違いに起因し季節的に風の向きや雨量が変化するモンスーン、

など多々存在します。

 実際の地球上では、これらの各種の現象が複雑に絡み合いながら大気の流れを決定しています。

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2017年12月10日

ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド

 ”ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド ”(2014年7月 春秋社刊 D.S.ブレイク著/細野容子監修/浅田 仁子翻訳)は、19世紀植民地下のアイルランドで世界初のホスピスをつくったマザー・エイケンヘッドの生涯と功績を紹介している。

 ホスピスは緩和医療のことで、治る見込みのない病気の患者の苦痛や死の恐怖を和らげ、尊厳を保ちながら最期を迎えるケアである。近代ホスピスの5人の母と称されるのは、マザー・メアリー・エイケンヘッド(1787-1858)、フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)、シシリー・ソンダーズ(1918-2005)、キュプラー・ロス(1629-2004)、マザー・テレサ(1910-1997)である。このうちマザー・エイケンヘッドは、ホスピスケアの原点を創ったことで知られている。

 著者のジューナル・S・ブレイク氏は、アイルランド・コーク生まれ、コーク大学にて修士号、ハル大学にて博士号取得した。現在、ダブリンのマリノ・インスティテュート・オヴ・エデュケーションの学寮在住の、著述家・修道士=クリスチャン・ブラザーズである。

 監訳者の細野容子氏は京都府生まれ、住友病院、新生会第一病院などで臨床看護を経験し、広島国際大学をへて、岐阜大学医学部看護学科教授を務めている。

 訳者の浅田仁子氏は静岡県生まれ、お茶の水女子大学文教育学部文学科英文学英語学専攻卒業の翻訳家である。

 ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指していた。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。近代的ホスピスの源はアイルランドのメアリー・エイケンヘッドの働きに遡るが、ホスピス運動が普及するには1967年に創設された英国:聖クリストファーズ・ホスピスを待たねばならなかった。

 メアリー・エイケンヘッドは1787年にアイルランドのコークで生まれ、1858年にダブリンで71歳で亡くなった。当時のコークは人口8万人の港町で北玄関橋と南玄関橋の間には、旧市街の壁に囲まれた地域が広がり、住民の多くが密集して暮らしていた。メアリーの父親のディビッドはスコットランド出の医師で、薬局を運営する薬剤師でもあった。ディビッドはプロテスタントであったが、母親のメアリー・スタックポールはカトリックで商家の出であった。当時、宗派の違う者が結婚した場合、息子は父親の宗派を継ぎ、娘は母親の宗派を継ぐのが普通であった。しかし、エイケンヘッド夫妻の場合は、まだ若くて愛に夢中になっていた母親が、生まれる子供はみな父親の宗派で育てることに合意していた。子供は4人で、メアリーを筆頭に、ふたりの娘アンとマーガレット、息子セント・ジョンを授かった。息子は病気がちで、10代後半に亡くなった。メアリーは、1878年4月4日に、父親の教区教会のセント・アン教会、通称シャントン教会で英国国教会派聖公会の洗礼を受けた。メアリーは体が丈夫でなかったため、当時の医療通念に従い、イーソンズ丘に住んでいた乳母のメアリー・ローク夫人に養育してもらうことになった。イーソンズ丘はシャントン教会北の高台にあり、低地より健康に良いとされていた。また、若いエイケンヘッド夫人は、自分の子供たちがプロテスタントとして育てられることを気にかけて、敬虔なカトリック信者のローク夫人に娘を託したようにも思われる。ミー・ローク、つまりロークお母ちゃんと、その優しい夫のダディー・ジョン=ジョンお父ちゃんは、この後メアリーの教育に重要な役割を果たすことになった。

 ローク夫人は成長の段階に合わせて幼子の世話をし、メアリーは深い愛情を込め、夫人を第二の母として生涯敬慕した。夫人はカトリック教会の儀式に従い、秘かに幼いメアリーにカトリックの洗礼を受けさせたといわれている。エイケンヘッド医師と若い妻は週に一度やってきて、娘の健康の改善状況を調べ、維持費と衣類を渡していた。ローク夫人はメアリーを実の子のように世話をし、自立することを教えた。メアリーもときどきはグランド・パレードを訪ね、妹たちに会っていた。1793年にメアリーが6歳になったとき、エイケンヘッド医師はドーンツ・スクェアの家族のもとにメアリーを戻そうと決意した。メアリーは近くのプロテスタントの学校に通って、読み・書き・計算にフランス語、刺繍、音楽、ダンスのほか、社交上のたしなみなどを教わった。エイケンヘッド医師はフランス革命のスローガンである、自由、平等、博愛に大きな影響を受け、プロテスタント、カトリック、非国教徒の尊厳と雇用に対する公正な扱いに賛同していた。この運動の国民的指導者に対し軍の報復運動が発生したとき、その指導者をエイケンヘッド家にかくまったりした。エイケンヘッド医師には、信仰の問題や病弱な息子の健康問題で悩まされていた上に、1798年の暴動による政治的副産物に悪影響を受けるようになった。そこで、今までずっと働きつづけ充分な蓄えもできたので、診療所を売り引退して暮らそうと決意するに至った。その結果、一家は転居しなくてはならなくなり、1799年にコーク市南部のラトランド通りにある、以前よりはるかに大きくて広々とした家を購入した。

 このころ、エイケンヘッド夫人の姉妹の未亡人で、長く大陸で暮らし、夫の死後、ブルージュのあるカトリックの修道院に付設された賄いつきの寄宿舎に移り住み、修道女の生活を忠実に真似た信仰生活を送っていたレベッカ・ゴーマン夫人がアイルランドに帰ってきた。ゴーマン夫人は、12歳となった利発なメアリー・エイケンヘッドに多大な影響を与えることになった。メアリーは信仰について何度も長く話しこみ、借りたさまざまな本を熱心に読んだ。やがて、エイケンヘッド医師は1801年の年末に重体に陥り、所属する教会から牧師が来て共に祈ったが亡くなった。死に瀕して、自分からカトリックの司祭に会わせてほしいといい、妻の教派のカトリック教会に入った。父親の改宗と死は、メアリーがカトリック教会に入る道を開いた。それから何年もの後、メアリーは、貧しい人びとのひどい状態を思うと、心が震えてなりません、でも、みじめな金持ちのことを思うときのほうが、はるかにおぞましくなります、と書いている。メアリーは、心から神を信じ熱心に祈りを捧げた敬虔な女性であった。しかし、数多くの心配事や問題に対処しなくてはならなかった上に、病気や激痛にも苦しんだ。体の痛みは年齢と共に悪化していき、晩年はベッドから離れられないようになり、移動には車椅子が必要であった。メアリーには長年抱いていた夢があり、貧しい人びと、特に、貧しさゆえに医療を受けられない人びとが年齢にも信条にも関係なく診てもらえる病院を開こうとした。こうして、1834年にダブリンにセント・ヴィンセント病院を開院し、一病棟にシスターをふたり、医師をひとり置いた。この病院は、神に仕える女性たちが開き経営した最初の病院になった。この種はしっかり根を張り、オーストラリアを含む世界の数多くの地域に広がり成長しつづけている。

第1章 幼少期―里親に育てられたコークでの日々/第2章 慈愛の種―シャンドンの鐘の近くで/第3章 貧しい人びとの叫びを聞く/第4章 使命を明確に―「神さま、道をお示しください」/第5章 成長と拡大―駆け出しの修道会/第6章 新たな冒険と先駆けの日々/第7章 混乱期―成長の痛み/第8章 病床からのリーダーシップ―衰弱と苦悩の只中で/第9章 ハロルズ・クロス―「主よ、汝の与えたまいしときは尽きました」/参考資料

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