2017年11月18日

ハワイ官約移民の父 R.W.アーウィン

 ”ハワイ官約移民の父 R.W.アーウィン”(2011年7月 講談社ビジネスパートナーズ社刊 松永 秀夫著)は、官約移民の父と言われるアメリカ人ロバートー・ウォーカー・アーウインの生涯を紹介している。

 ハワイの日本人移民は、1868年以降、労働者として日本からハワイへ移住していった人びとで、1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民と言い、以降1908年までの移民を自由移民と言う。R.W.アーウィンは、1885年2月8日の東京市号のホノルル入港で第1回官約移民を実現し、東京・青山に住んで最後は日本の土になった。

 松永秀夫氏は1926年生れ、法政大学卒、三友新聞社に勤務し、編集局長を務めた。現在、日本海事史学会、太平洋学会、日本移民学会の会員とのことである。

 ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。1860年に日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託した。日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいた。カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受けた。その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した。しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年にサイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなった。こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれた。日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範、三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた。

 この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年日布修好通商条約が締結された。1885年に日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになった。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり、946名が東京市号に乗り込んでハワイに渡った。官約移民制度における具体的な交渉は、後に移民帝王とも言われる在日ハワイ総領事R.W.アーウィンに一任されていた。アーウィンは井上馨と親交を持ち、その関係から三井物産会社を用いて日本各地から労働者を集め、その仲介料を日本・ハワイの双方から徴収するなど、莫大な稼ぎを得ていた。アーウィンとの仲介料の折り合いが合わず、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止された。1894年の官約移民の廃止と同時期に、弁護士の星亨が日本政府に働きかけ、民間移民会社が認可されることとなり、以後は日本の民間会社を通した斡旋=私約移民が行われるようになった。その後、1900年に移民会社による民約移民が廃止になり、ハワイへの移民は、自由移民だけとなった。

 自由移民は、官約移民・民約移民の時代を通じて、もう一つの移民の方法として法的には並存していた。またこの他に、密入国などの不法な手段による渡航もあった。日本からの移民は、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡った。移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げてきた。

 アーウィンは1844年にデンマーク・コペンハーゲンで生まれ、1866年23歳のときにパシフイック・メイル・スチームシップ日本駐在員として横浜に赴任した。パシフイック・メイルは1847年に設立され、サンフランシスコ・パナマ間の航路を引受けた船会社である。1848年のカリフォルニア州のゴールドラッシュに出会い、乗船客の急増に伴って利益をあげ、基盤を築いた。南北戦争後、1865年にアメリカ政府から年間50万ドルの郵便輸送契約を結び、サンフランシスコ・ハワイ・日本・上海・香港の定期航路に乗り出した。アーウィンは1869年に横浜のウォルシュ・ホール商会に入社し、長崎のウォルシュ商会に勤務した。このとき、後に正式に結婚する18歳の武智いきを同行した。1873年にフィッシャー商会の設立に参加した。1874にハワイ王国代理領事に就任した。1876年に三井物産が発足したが、アーウィンは1877年にロンドン代理店主になった。1878年にロンドンを離れ横浜に戻り、1879年に三井物産顧問役に就任した。1880年に三井物産に蒸気船会社設立を勧告し、在横浜ハワイ総領事代理に再任された。1881年に横浜でカラカウア王を出迎え、ハワイ国総領事に就任しハワイ国代理公使兼任を受命した。1882年に武智いきと正式に結婚した。これが日米間初の正式な国際結婚と言われている。この年、共同運輸会社の発起人会で取締役待遇になり、井上外務卿により、布哇国移住民事務局日本代理者と承認された。1884年にハワイからイアウケア全権公使が来日し、井上外務卿から移民提議を承認された。アーウィンは、ハワイ国政府代理官・移住民事務局特派委員を兼任した。こうして、1885年の第1回官約移民を実現したのである。1925年に82歳で永眠し、勲一等旭日大綬章に叙せられた。

第1章 横浜のPM社に入社/第2章 日本人少女と巡り会う/第3章 長崎から帰り外債仲裁/第4章 三十一歳でハワイ王国代理領事/第5章 「先収会社」に加勢/第6章 新設商会で存分な行動/第7章 ハワイ国王の来遊に大役/第8章 国賓の礼遇で応対/第9章 ハワイ国歌で出迎え/第10章 フランクリン由来で紹介/第11章 私邸にカラカウア王/第12章 日本の優遇を謝す/第13章 新たに海運会社設立/第14章 ハワイ少年二人が留学/第15章 イギリスで汽船建造/第16章 特命公使の移民を諾す/第17章 「布哇に往けよ」の論評/第18章 約定書草案も掲載/第19章 府県で違った対応/第20章 天然痘で渡航延びる /第21章 ハワイ島民から厚遇/第22章 罷業があっても第二回船/第23章 渡航条約と二社合併/第24章 横浜−ホノルル直行船/第25章 好感呼んだ禁酒と教化/第26章 無賃渡航費を有料に/第27章 グアテマラで「虐待事件」/第28章 官約移民の役割を終えて/第29章 十年間・官約の意味/第30章 ハワイ国をしばしば去来/年表/引用・参考書

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2017年11月14日

気候変動: 1000万年〜数万年のダイナミックス

6 気候変動: 1000万年〜数万年のダイナミックス 大森 聡−先生

 表層のテクトニクスは、大気、海洋の循環にも関連し、表層環境を変化させます。

 また、太陽系内における地球の運動の変化が、表層の環境に周期的な変動をもたらしていることが分かってきました。

 その周期的気候変動は、人類史とも無関係ではありません。

6.1 マントル対流と気候変動

 マントル対流は、億年から10億年の時間スケールで起きる対流現象で、プレートテクトニクスやプルームの活動を通して、表層環境に関わっています。

 これらの過程が直接表層環境に関わる要素については、その対流スケールと同じ数千万年〜数億年以上程度の時間で変動が現れることになります。

 しかし、プレート運動が、表層環境の早いスケールの循環章で海洋や大気の運動に影響を与えると、比較的早い時間で表層環境が変化する場合があります。

6.1.1 過去1億年間の気候変動

 現在の地球の海洋底に1億年前のプレートがまだ残っているため、過去1億年の気候変動については、それ以前に比べて格段に精度の高い地質記録が残っています。

 年齢1億年のプレートが海洋底を旅している間に堆積した堆積物は、地層の激しい変形を被ることなく約1億年間の記録をそのまま保持しています。

 海洋底にゆっくりと堆積した生物の死骸や遠洋性粘土には、当時の全地球的な環境の指標が、下から上へと順番に記録されています。

 酸素同位体比:

 酸素は質量数16,17,18の3つの同位体を持ち、海洋から蒸発する際に軽い同位体がわずかに多く水蒸気に入ります。

 その水蒸気は降雨として地表に降り注ぎ、これがすべて海洋に戻ってくる場合には蒸発による同位体分別の影響は現れません。

 しかし、地表に氷雪として水が降りて氷河や万年雪として地上に固定されると、軽い酸素が海に戻らなくなり、結果として海水の酸素同位体比は重い方にずれます。

 海水の酸素同位体比は陸の氷床量によっても変化しますので、生物の殻の酸素同位体比変化を解釈する際には、両方の効果を考慮する必要があります。

 ストロンチウム同位体比:

 ストロンチウム=Srは質量数84,86,87と88の安定同位体を持つ元素で、主に岩石中に存在している元素です。

 花岡岩のSrは化学風化によって海に運ばれて海水に入り、玄武岩は海嶺における海洋底熱水変質で岩石から海水にSrを供給します。

 海洋底からの供給は海嶺の総延長とプレート生産率に関係し、風化による供給は陸地表面積によって決まります。

 海水中のSr同位体比の変化は、大陸の増減、地形変化、海水準変動などに起因する陸地表面積の変化と風化の程度を反映しています。

 炭素同位体比:

 炭素は12,13の安定同位体を持ち14は放射性で年代の決定に用いられますが、生物活動が活発なときには海水の炭素同位体比は重くなります。

 マントルから火山ガスとして供給される炭素は−5‰程度の同位体比を持ち、生物活動が完全に停止すると海水の同位体比はこの値に向かって低下します。

 海洋プレートは、表層環境の記録だけで無く地磁気および海洋底の年代の情報から精度の良い大陸移動データを提供し、これに基づく大陸配置の復元を可能とします。

6.1.2 高地形成と気候

 大陸の移動は、年間数cm程度のマントル対流を原動力としていて、地球の大きさを考えると、億年スケールのダイナミックスに分類されます。

 しかし、いくつかの出来事、たとえば、大陸の分裂や大陸の衝突といったイベントだけを取り出してみると、そのダイナミックスは数千万年スケールの現象です。

 現在もチベット高原やヒマラヤ山脈の上昇が続き、高地形成は大気・海洋循環や二酸化炭素物質循環に、数千万年から百万年スケールで影響すると考えられています。

 この時間スケールでは、大気に継続的に二酸化炭素を供給する元は火山で、二酸化炭素を大気から取り除くのが風化です。

 風化の化学反応は、大気中の二酸化炭素濃度が高いほど、また気温が高いほど促進されます。

 大気へ二酸化炭素の出入りがあっても大気中の二酸化炭素量が変化しない定常状態になると、新しい定常状態の大気二酸化炭素濃度と気温に環境が変化します。

6.1.3 南極環流の形成

 南米大陸と南極大陸は、アフリカ大陸などとともにゴンドワナ超大陸の一部でしたが、1億5000万年前頃から分裂を開始しました。

 そして、南米とアフリカおよびアフリカと南極は1億2000万年前頃、南極とオーストラリアは7000万年前頃に完全に分裂しましたた。

 しかし、南米−南極間だけは狭い陸橋が残り大西洋と太平洋が分断されていましたが、3500万年前頃に陸橋は消滅しました。

 太平洋と大西洋がつながったのが約3500万年前Ma頃で、南極大陸を周回する海流が発生し、また、赤道付近からの暖かい海流の流れが妨げられるようになりました。

 その結果、南極大陸が効果的に冷却されるようになり、南極大陸上に氷床が発達することになりました。

6.2 太陽系に起因する気候変動:ミランコビッチサイクル

6.2.1 ミランコビッチの理論

 より短期間の周期的気候変動には、地球外の外力であるミランコビッチサイクルと呼ばれる変動サイクルが重要な働きを持つと考えられています。

 ミルティン・ミランコビッチは、太陽の周りを自転しながら公転する地球の運動の周期的変動が、地球への太陽入射を変化させて、周期的気候変動が起きる、と考えました。

・離心率:

 楕円の程度が強まると、1年間で太陽に最も近い時と離れる時の日射量の差が大きくなり、これに自転軸の向きが関わるとその影響が増幅されたり弱められたりします。

 この変化の最も卓越した周期は約10万年です。

・自転軸の傾きの変化

 自転軸の傾きは季節の変化の原因となっており、自転軸の傾きが小さいと季節変化が小さく、傾きが大きいと季節変化が 大きくなります。

 この周期は,4.1万年です。

・歳差:

 歳差は自転軸の傾きの向きの周期的変化であり、周期は2.6万年です。

 これが、離心率の変化と関連して、2.3万年の周期で、季節ごとの、とくに極地の日射量変動に影響を与えます。

 以上に示した変動の周期は、いずれも現在の地球におけるものであり、自転速度や公転半径、また月と地球の距離などが現在とは大きく異なる時代には適用できません。

 実際の気候変動記録との対比から、少なくとも250万年前までは、現在と同じ変動周期であったと考えて良さそうです。

 1970年代になり、海洋底のコア試料により連続的な気候変動の記録が明らかになり、その変動にミランコビッチが予想した変動周期が認められました。

6.2.2 過去500万年間の気候変動

 大陸に広く氷河が存在する氷期とそうでない間氷期の記録は、酸素同位体比の変動として海底の微生物化石によく記録されています。

 この堆積物の酸素同位体比記録の解析によると、ミランコビッチの理論により予測された気候変動サイクルが海洋底堆積物の記録に表れるのは,およそ250万年前からです。

 地質時代では第四紀のはじまりに相当し、その後90万年前までは4万年周期、移行期を経て70万年前頃から10万年周期が卓越するようになります。

 近年は、観測とシミュレーションをあわせた方法で、時間軸をコアに与えることが出来るようになっています。

6.2.3 ミランコビッチ効果と実際の気候変動の関連

 約4万年周期のミランコビッチサイクルが、地質記録に明らかになるのは250万年前からで、それ以前は、異なる変動のサイクルが存在していました。

 観測からえられている気候変動サイクルのうち10万年サイクルは、ミランコビッチ効果が弱く、軌道要素による変動と実際の変動を結ぶ機構は謎でした。

 気候変動モデルに、氷床による地殻の沈降を取り入れて、10万年サイクルの影響が強くなる理由を説明する考え方もあります。

 システム内のわかりやすい変動の相関関係だけが、変動の因果関係を説明するわけではありません。

 なお、ここまでの議論には雲の効果が含まれておらず、その効果や雲形成率を決める要因は、短期から数千万年の気候変動に関わる未解明の要素の一つです。

 ミランコビッチサイクルの時代は人類進化の時代で、繰り返す氷河期という試練を作り出したダイナミックスが、現生人類誕生に影響を与えたことは間違いありません。

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2017年11月12日

淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学

 ”淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学”(2016年11月 集英社刊 内田 棟著)は、日本最高齢のプロゴルファーが人生の極意を語っている。

 日本のゴルフ文化の礎をつくったと言われる白洲次郎、小寺酉二に薫陶を受け、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した100歳のプロゴルファーである。お名前の”棟”は”むねぎ”とのこと。

 内田 棟氏は1916年長野県軽井沢生まれ、日本プロゴルフシニア選手権で3三位、ホールインワン5回達成、66歳と94歳で二度のがん手術を受けるも、95歳で日本プロゴルフゴールドシニア選手権大会関東予選出場を果たした。10歳でキャディーのアルバイトを始め、独学で身につけた。20歳で徴兵検査に甲種合格してから、およそ10年間、兵隊として戦地に赴いていた。従軍先は中国や台湾で、行軍でとにかく歩かされた。29歳の年に終戦を迎え、台湾、高雄から帰国し、名門、軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した。コース整備を担当する間に、プロのスイングを見てゴルフの腕を上げていった。当時の軽井沢ゴルフ倶楽部は、名門と呼ばれ、倶楽部でプレーされるお客様には、皇族万をはじめとする各界の名士が揃っていた。14本のクラブを持ったのは32歳の頃で、まだプロになる気はまったくなかった。しかし、ゴルフ技術が評判となり、田中角栄、佐藤栄作など各界の著名人にゴルフレッスンしてきた。55歳でプロテストに一発合格したが、日本プロゴルフ協会シニアツアーの出場資格は満50歳以上なので、いきなりシニア・デビューとなった。それから数えてもおよそ半世紀が経ち、思えば、いろいろなことがあった。

 いいことばかりではなく、二度にわたるがん闘病、そして、同じくプロゴルファーだった長男や次男に先立たれてしまった。それでも生きてきて思うのは、人生は、失意泰然、得意淡然が大事ということである。いい時も悪い時も、慌てず騒がず、淡々と生きていく。遅咲きのプロゴルファーは今でも毎日150球のパター練習を欠かさないという。昨年9月に厚生労働省は全国の100歳以上の高齢者が、前年より4124人増えて、過去最多の65,692人になったと発表した。著者もそのお一人である。女性が87.6%で、46年連続の増加となった。医療の進歩などが要因で、今後も増加が続くとみられる。世界広しといえど、100歳まで現役のプロゴルファーを続けているのは外には見られないと思われる。100歳になってもゴルフをしているなんて、自分でも思ってもみなかったそうである。今はちょっと腰を痛めていて、ラウンドは休んでいるとのこと。ただ、日課の自宅トレーニングを続けていて、体調が復活したらいつでもプレーを再開できるよう、体を鍛えているという。

 食欲も年齢にしては旺盛で、毎日3食しっかり食べている。お酒は飲まずたばこも吸わない、朝食の時味噌カツオにつけたニンニクとラッキョウ、そしてリンゴとニンジンのジュースを欠かさない。特に好き嫌いはなく、やっぱり肉は欠かせない。週に3、4回は200グラムのサーロインステーキを食べている。この年齢になってもゴルフを続けているのは、日常の中にゴルフがあるのが当たり前になっているからである。もう歳なんだからいいだろうという気持ちには、一切ならないし、家族もゴルフをやめろとは言わない。つまり、ゴルフが好きということになるのであろう。94歳で直腸がんになるなど、大病も何度か経験したが、入院中もクラブの素振りを欠かさなかった。すこしでも練習を休んだら感覚が鈍ってしまうからであり、プロとしてごく自然な行動である。ゴルフほど運、不運を感じるスポーツはない。天候や風など、人間の力ではどうしようもないことに振り回される競技である。人生も同じ、常にいい時ばかりではなく、時には敗れることだってある。でも、どんなに山あり谷ありであっても、心乱されず、自分のやるべきことを平常心でやっていくことが大切なのだと思うという。

第一章 生きるために始めたのがゴルフだった/第二章 遅咲きのプロゴルファー/第三章 私のゴルフ哲学/第四章 仕事ができる人間はゴルフでムダ口をたたかない/第五章 人生の「谷」を歩く時/第六章 100歳から見える景色

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2017年11月07日

わたくしたちの旅のかたち 好奇心が「知恵」と「元気」を与えてくれる

 ”わたくしたちの旅のかたち 好奇心が「知恵」と「元気」を与えてくれる ”(2017年2月 秀和システム刊 兼高かおる/曽野綾子著)は、異文化に触れる喜び、忘れられない出会い、旅をすることで得られる知恵と元気などを50年来の知己が初めて語り合う。

 ひとりは、テレビ番組”兼高かおる世界の旅”で世界中を旅した兼高かおる氏、もうひとりは、各国を取材し、戦争・社会・宗教など幅広いテーマで執筆している作家・曽野綾子氏である。

 兼高かおる氏は1928年神戸市生まれ、父親はインド人である。香蘭女学校卒業後、ロサンゼルス市立大学に留学、その後、ジャーナリストとしてジャパンタイムスなどで活躍した。1958年にスカンジナビア航空が主催した世界早回りに挑戦し、73時間9分35秒の当時の新記録を樹立した。兼高かおる世界の旅を、ナレーター、ディレクター兼プロデューサーとして製作した。放送は1959年12月13日から1990年9月30日にかけて30年10か月の間、TBS系列局で主に毎週日曜日朝に放送された。2007年5月6日からTBSチャンネルで再放送が開始された。取材国は約150か国、1年の半分を海外取材に費やし、放送回数は1586回、全行程は721万kmであり、地球を180周した計算になる。1986年から2005年まで、横浜人形の家館長を務めた。外務大臣表彰、菊池寛賞、文化庁芸術選奨、国土交通大臣特別表彰、紫綬褒章受章などを受賞した。現在、日本旅行作家協会名誉会長、淡路ワールドパークONOKORO兼高かおる旅の資料館名誉館長、東京都港区国際交流協会会長などを務めている。ミクロネシアのマーシャル諸島に自分の島=カオル・エネを持っている。82歳になった現在でも世界各国を飛び回っている。時々刻々と変化する世界の情勢は常にじかに見なければならないという方針で、独身である。

 曽野綾子氏は1931年東京都葛飾区立石生まれ、二女として生まれたが姉が亡くなり一人娘として育てられた。母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院であったが、敗戦前後10か月ほど金沢に疎開し学校も金沢第二高等女学校に変わった。1946年に東京に戻り、聖心女子学院に復学した。戦後父親は姻戚を頼って米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となり、妻子を田園調布に置いて単身赴任した。曾野は1948年夏に実際ここに滞在しアルバイトまがいの手伝いをしていた。同年にカトリック教徒として洗礼を受け、洗礼名はマリア・エリザベトである。1951年に臼井吉見の紹介で、現在の夫・三浦朱門や阪田寛夫らの第15次”新思潮に加わった。22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚し、23歳で芥川賞候補となり文壇にデビューした。以後、次々に作品を発表し、30代で不眠症に苦しむが、新しい方向性にチャレンジするうち克服した。1995年から2005年まで日本財団会長職を務め、2009年10月からは日本郵政社外取締役に就任した。2000年に元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れた。1979年ヴァチカン有功十字勲章、1993年恩賜賞・日本芸術院賞、2012年菊池寛賞を受賞した。精力的な執筆活動の一方、各種審議会委員も務め、世界に視野を広げた社会活動でも注目を集めた。

 昭和20年の終戦と同時に、それまで敵国たったアメリカが憧れの対象になった。岡晴夫が歌う”憧れのハワイ航路”が大流行したが、当時はまだ海外への渡航は自由化されていなかった。庶民はバラック住まいに代用食で、海外旅行など、夢のまた夢だった。同時代を生きた二人が初めてあったのは50年前で、場所は六本木のエクアドル大使館だったという。昭和34年から、日本初の海外紀行番組”兼高かおる世界の旅”がはじまった。番組が伝える海外の文化や風俗は、日本人の憧れと旅情をかき立てた。観光目的の渡航が自由化されたのは、その5年後の昭和39年のことだった。しかし、海外旅行の費用は乗用車1台分より高く、庶民にとってはまだまだ高値の花だった。昭和45年は高度成長にわく日本の空に、初めてパンアメリカン航空のジヤンボジェット機が登場した。以降、高価だった旅行代金は大幅に引き下げられ、海外旅行は一気に身近になった。農協をはじめとする団体旅行が大ブームになり、多くの日本人が世界へ飛び立った。それからも、急激な円高とバブル経済の恩恵で出国ラッシュは続いた。昭和54年に創刊された”地球の歩き方”を片手に貧乏旅行を楽しむバックハッカーも激増した。旅慣れた日本人にとつても、世界はまだまだ感動の宝庫で、アフリカとの深い縁がはじまったという。時代は昭和から平成になり、同時にインターネットの登場で、世界は一つにつながった。しかし、グローバル化が叫ばれる一方で、若者の内向き志向は加速し、海外渡航者数は年々減少の一途をたどっている。逆に訪日外国人の数は大幅に増加し、日本の歴史や伝統文化の魅力は、外から再発見されつつある。

第一章 戦後、アメリカの豊かさへの憧れ
 同時代を生きた二人/戦中・戦後の女学校/「女工さん」の仕事が好きだった/なぞの留学生/ガラリと変わった戦後の暮らし/真の国際人とは?/進駐軍と「レーション」/代用食の「身欠きニシン」はミイラの匂い!?/「お嬢ちゃま」では生きられない/紳士的だった進駐さん/富士屋ホテルでのアルバイト/ホテルは憧れだった/ハワイ経由でアメリカへ留学/初めてのカルチャーショック/強烈だったインド・パキスタンの旅/海外へ出て行く勇気をくれた英語
第二章 海外はまだ高値の花
 『兼高かおる世界の旅』がはじまった/日本の常識は世界の常識じゃない/出されたものは、なんでも食べた/才能は自分一人では磨かれない/「いい男」だったケネディ大統領
/初めてのアメリカ暮らし/アメリカの豊かさに魅了される/「自由の国」アメリカ/日本式の「才覚」か、アメリカ式の「マニュアル」か…
第三章 海外が身近になった一九七〇年代
 越路吹雪さんとグアム/飛行機が元気だった時代/ケ小平とタン壺/ウォッカで乾杯!/世界は思った以上にルーズ/日本の「当たり前」を疑う/理解できない習慣もある/その国のタブーを知っておく/日本人のマナーは超一流/世界には「食」に関するタブーもある/「命をいただく」現実と向き合うこと/人を見たら「泥棒」と思え?/五分の一までは値切れる/買い物で国際交渉術を鍛える
第四章 アフリカとの出会い
 アフリカとの深いご縁がはじまった/アフリカの古風な伝統/自分の年齢を知らない人々
/砂漠の民の慈悲と掟/アフリカにはトイレがない!?/健康管理は自己責任/モーパッサンとサバイバル/旅の必需品は、ゴム草履/スーツケースに「牽引用ロープ」!/サハラ砂漠を照らす満天の星/星、そして静寂。アラブは戦とは無縁な世界だった
第5章 これからの日本、そして旅のかたち
 変わりゆく日本/優れた文化を伝える伊勢神宮/日本はほんとうに貧しいのか/『世界の旅』はプロローグ/大切なのは、「違い」を認め合うこと/ペルー元大統領フジモリ氏との交流/「私人」であればお助けする/民主主義か独裁か/「平等」を求め過ぎると後退する
/「富」が文化をつくる/お金持ちになったら何をする?/シニア世代におすすめしたいクルーズの旅/ツアーに参加する旅もいい

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2017年11月05日

数億年スケールの循環(2):プレートの沈み込み

5 数億年スケールの循環(2):プレートの沈み込み 大森 聡−先生

 プレートテクトニクスは、地表の地形を変化させるだけではなく、化学的な環境変動にも大きな役割を持っています。

 ここでは、地表の物質移動と、変成岩の性質から推定されるマントルと表層環境を結ぶ物質循環を扱い、地下深部の岩石が表層環境にも影響を与えることを理解します。

5.1 岩石の移動(1):海洋プレート

 中央海嶺で形成された海底の岩石は、プレートの水平運動につれ中央海嶺から離れ、プレートが収束する沈み込み帯へと旅することになります。

 海洋プレートが水平移動して、海溝にたどり着くまでの間に、海底には、生物の死骸や遠くの陸地から運ばれてきた非常に細かい岩石粉がゆっくりと堆積していきます。

 炭酸塩鉱物や珪酸鉱物で殻を作るプランクトンが深海底に積もると、その当時の海水の性質が堆積物に記録されることになります。

 海洋プレート上に描かれた火山=海山は、ホットスポット火山と呼ばれ、マントル内の局所的な上昇流によって作られる火山で、玄武岩質のマグマで作られています。

 海洋プレートは、その上に中央海嶺で生成した玄武岩質の岩石、移動過程で堆積した深海の堆積物、そして海山を載せて移動し、沈み込み帯の海溝に到達します。

5.2 岩石の移動(2):陸から海へ

5.2.1 物理的風化と砕屑物の生成

 陸上に露出した岩石は、物理的風化と化学的風化と呼ばれる風化作用にさらされ、しだいに分解していきます。

 物理的風化は、主に太陽の熱による岩石の膨張収縮による割れ目の形成に起因し、岩石を砂にする作用で、生成した砂や泥は砕屑物と呼ばれます。

 物理的風化により砕屑物となった岩石は、雨により流されて河川から海に入り、最終的には海底に堆積することになります。

 粒子の大きさによって水中での沈降速度が違い、砂が先に沈降し、その上に後から泥が堆積し、繰り返すことによって、互層と呼ばれる地層が形成されます。

 陸を起源とする砕屑物かたどり着く終着点は、その地域で重力的に一番安定な低い場所、プレートが沈み込む入り口の海溝です。

 海溝には、海洋プレートによって運搬された海洋地殻の物質(玄武岩質火成岩、海洋底の堆積物)と、陸源物質(砂、泥、有機物)の両方が存在することになります。
          
5.2.2 化学的風化

 化学的風化は、雨と岩石が化学反応して、岩石中のアルカリ成分(ナトリウム、カルシウムなど)、その他の陽イオン(マグネシウムなど)が、雨水に溶出する作用です。

 雨水中に溶出した成分は、河川を経て海に運搬されることになります。

 海底の火山による火山ガスの供給や海底の温泉形成によっても、海水組成は変化します。

 現在の地球では、海水中のカルシウムイオンは、炭酸カルシウムの殻や骨格をつくる生物によって消費され、生物の死骸は海底に生物起源堆積物として堆積します。

 二酸化炭素は大気から海底の炭酸塩鉱物に固定されるため、化学的風化は大気中の二酸化炭素濃度を減少させる働きがあるということになります。

 でも大気の二酸化炭素は減少し続けたわけではなく、火山による供給量と風化による除去量は釣り合いに向かって変化するため、一方的な増加・減少はありませんでした。

5.3 岩石の移動(3):表層環境からマントルヘ

 海洋プレート層序を構成する海底の堆積物や海洋底の玄武岩や陸から海溝に到達した堆積物は、海溝の入り口ではぎ取られたり海溝からプレートと共に沈み込んだりします。

 海溝ではぎ取られた岩石や堆積物は、陸側に押しつけられて付加体と呼ばれる地層の集合を形成します。

 付加体として存在しているのは、プレートが運んでくる堆積物の約20%程度で、残りは沈み込むプレートと共に、マントル深部に運搬されるようです。

 地表に露出している岩石は、海洋底の変質した玄武岩だったり砂岩や泥岩だったりしますが、地下深部の高温高圧状態にさらされると元の岩石とは別の変成岩になります。

 熱水変質した玄武岩を原岩として、化学反応が進行することによって、鉱物組み合わせが変化すると同時に鉱物粒子が成長します。

5.4 変成岩が示すこと

 変成岩には、玄武岩、砂岩、泥岩を原岩とする岩石が存在していることから、地表の物質とマントル深部を結ぶ大物質循環の経路が存在していることが分かります。

 変成岩の鉱物組み合わせは、その岩石が経験した温度圧力履歴の最高温部付近の状態を保持している場合があります。

 上昇時に水と再反応しない限り元の鉱物組み合わせに戻ることはないですし、また、粒粒化した組織が自然と元の細粒の組織に戻ることもありません。

 しかし、一方で、変成岩が地表まで上昇する間に水の流人があると、温度と圧力によって鉱物組み合わせや組織は容易に改変されます。

 変成岩は海溝から沈み込んだ物質が地表に戻ってきた岩石ですが、変成岩の年代に関する研究から、地表に戻った変成岩は沈み込んだ物質の一部分に過ぎないことが示唆されています。

5.5 沈み込み帯のBMW(Big Mantle Wedge)モデル

 沈み込んだ海洋プレートは、少なくとも410〜660km深度のマントル遷移層にまで沈み込んでいることが、地震波トモグラフィによって明らかにされています。

 沈み込んだ海洋プレートの影響は、海溝から水平距離で1000km以上におよび、この広大な範囲は、大きなマントルウェッジ=BMWと呼ばれています。

 沈み込んだ海洋プレートは、島弧火山フロントよりもさらに深くまで含水鉱物により水を運搬し、BMWの深部に水を供給します。

 大陸地殻物質はマグマに濃集しやすい放射性元素を豊富に含むため、これらの放射性崩壊熱も上部マントルのダイナミクスに影響を与える可能性があります。

 沈み込んだ海洋プレートは沈み込まれる側の大陸内部にまで影響を与え、水と放射性元素の効果は超大陸形成の後に必ず起きる大陸の分裂にも関係しているでしょう。

5.6 熱力学計算と高圧実験

 現在では、鉱物の熱力学的パラメータのデータベースを用いて、鉱物組み合わせと鉱物の化学組成から、岩石の生成条件や変成岩の温度圧力履歴の推定が可能になっています。

 また、任意の化学組成の岩石について、温度・圧力と、鉱物組み合わせおよび鉱物の化学組成の詳細な関係を示すことも可能です。

 沈み込んで地表に戻って来た変成岩で最も深い場所の記録を残しているのは、カザフスタン・コクチェタフ地域に産出する変成岩で、ダイヤモンドを含むことが特徴です。

 沈み込んで地表に戻らずマントル深部に運搬される岩石にどのような化学反応が起きるのかは、高圧実験による研究が大きな成果を上げました。

 地表からマントルに運ばれる物質を対象とした研究で注目されてきたのは、高温高圧における水や二酸化炭素の挙動です。

 沈み込み帯からマントルヘ入った含水鉱物や炭酸塩鉱物は分解せずマントル内に存在するため、地表からマントルに水や二酸化炭素は除去される可能性があることになります。

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2017年11月02日

ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢

 ”ストラディヴァリとグァルネリ ヴァイオリン千年の夢 ”(2017年7月 文藝春秋社刊 中野 雄著)は、1挺数億円で取引されスター・ヴァイオリニストは必ずどちらかを使っているといっても過言ではない銘器の不思議を解明している。

 ストラディヴァリとグァルネリは、ともに17〜18世紀に活躍したヴァイオリン製作者である。過去に幾度も本物かどうかの聴き比べが行われたが、著名な音楽専門家でも見事に外しまくり、現代のものとの間に音色の違いはないという結果が出ている。にもかかわらず、ストラディヴァリの相場は下がるどころか上がる一方であった。なぜこんなことが起こるのであろうか。

 中野 雄氏は1931年長野県松本市生まれ、東京大学法学部卒業、日本開発銀行を経てオーディオ・メーカーのトリオ役員に就任、その後、代表取締役、ケンウッドU.S.A.会長を歴任した。昭和音楽大学、津田塾大学講師を務め、現在は、映像企業アマナ等役員、音楽プロデューサーとして活躍し、LP、CDの制作でウィーン・モーツァルト協会賞、芸術祭優秀賞、文化庁芸術作品賞など受賞した。

 アントニオ・ストラディバリ(1644年 - 1737年)は、イタリア北西部のクレモナで活動した弦楽器製作者である。弦楽器の代表的な銘器であるストラディヴァリウスを製作したことで知られている。ニコロ・アマティに師事し、16世紀後半に登場したヴァイオリンの備える様式の完成に貢献した。1680年にクレモナのサン・ドメニコ広場に工房を構えると、若くして楽器製作者としての名声を得た。2人の息子と共にその生涯で1116挺の楽器を製作したとされ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、マンドリン、ギターを含む約600挺が現存している。

 グァルネリは、イタリア、クレモナ出身の弦楽器製作者一族であり、アンドレーア・グァルネリ (1626年 - 1698年)、ピエトロ・ジョヴァンニ・グァルネリ (1655年 - 1720年)、ジュゼッペ・ジョヴァンニ・バッティスタ・グァルネリ (1666年 - 1739年)、ピエトロ・グァルネリ (1695年 - 1762年)、バルトロメオ・ジュゼッペ・“デル・ジェズ”・アントーニオ・グァルネリ (1698年 - 1744年)が知られている。単にグァルネリといえば、バルトロメオ・ジュゼッペ・“デル・ジェズ”・アントーニオ・グァルネリの制作した弦楽器を指すことが多い。

 アントニオ・ストラディヴァリとバルトロメオ・ジュゼッペ・“デル・ジェズ”・アントーニオ・グァルネリの二人の製作した楽器が、この世界で至高の逸品とされ、その秘密に迫るべくこれまで数え切れないほど多くの、学者、研究者、職人たちが日夜研究を続けてきた。しかし、その秘密なるものを応用して、往年の巨匠二人のような作品が誕生したという話も、量産化に成功したという話も聞いたことがない。その間に銘器の価格は高騰を続け、1挺の値段はいまや数億円となり、日本人では高嶋ちさ子氏がストラディバリウス・ルーシーを2億円で購入、千住真理子氏がストラディバリウス・デュランティを2〜3億円(正確な金額は非公表)で購入しているという。現代最高クラスの名手たちから今なお愛され続けている。その美しい音の秘密はヴェールに包まれ、世界中の職人や科学者がなんとかその謎を解き明かそうとしのぎを削ってきた。音楽家は、自分の持っている楽器の性能を超える演奏をすることが出来ない。ヴァイオリンにしても、ピアノにしても、あるいは、管楽器、打楽器にしても、あらゆる楽器には、製造過程で造り込まれた潜在的な音楽表現能力が内在している。これは人間を含めた生物の世界と同じで、遺伝子の存在と似ていると言ってもいいだろう。一人ひとりは容貌が異なり、体格が異なり、運動能力も智力、性格も異なる。長い人生行路の中で、努力や教育訓練によって智力も運動能力も大きく変えることはできるが、そこに天性の個体差の壁というものがあることは誰にも否定できない。人間と他の動物との差、人間という生き物それぞれの個体差を貴らしたのは、もしかしたら神の意思かもしれないけれど、音楽を奏でる楽器に個体差を付与したのは人間である。

 ヴァイオリンを作るか、ピアノを作るか、はたまたフルートを作るかを決めるのは当該の楽器を製作する楽器製作者の意思である。ヴァイオリンを作る、ピアノを作るといっても、どんな音のする、どのような音楽表現力を持つ楽器を作るのかというのは製作者の目的意識と製作能力によるのである。目的意識とか製作能力というのは、極めて不可解かつ説明困難な人体現象である。何故ヴァイオリン属なる弦楽器がわれわれ音楽愛好家の関心を呼ぶかというと、第一にはその価格−そして、その価格の安定性である。ストラディヴァリウスとかグァルネリとかいう銘器の大部分には、歴史上、その楽器を蒐集・保管した貴族、富豪、趣味人や、演奏に使用した音楽家の名前がつけられている。往年のコレクターや名演奏家の名前以外にも、ヴァイオリンの銘器にはさまざまな特徴的な名前が付けられている。これらの銘器の所在は一流の楽器店主なら常時把握していて、所有者が手放す瞬間を虎視耽々と狙っている。有名な楽器はその履歴とともに立派な図鑑に収められており、贋作を掴まされる惧れまず無い。ただし近年、銘器の価格は異常という言葉以外では表現できないほどの急騰ぶりを見せている。神田侑晃氏の2002年の著書にはストラディヴァリウスとデルジェスの価格は2億円前後とされているが、いまでは10億円以上すると言われている。

 ヴァイオリンという楽器の価値を決めるのは、製作者によって楽器本体に埋めこまれた音楽表現能力である。ヴァイオリンのなかの銘器は、古今の芸術家の作品と同じように、限られた歴史上の才能によってこの世に産み出されたものであって、作品を産み出す才能自体が人類の歴史上、限定されたものと考えられる。ヴァイオリンという楽器について、常に古今の芸術作品と、その創作の秘密に想いを致さなければ、市場で取引きされている途轍もない価格について理解することはできない。さらに厄介なのは、この芸術作品−実は音楽を演奏する道具に過ぎないということなのである。

プロローグ〜二大銘器は何故高価なのか/第1章 ヴァイオリンの価値とは何か/第2章 ヴァイオリンという楽器T〜その起源と完成度の高さ/第3章 ヴァイオリンという楽器U〜ヴァイオリンを構成する素材と神秘/第4章 アントニオ・ストラディヴァリの生涯と作品/第5章 グァルネリ・デル・ジェスの生涯と作品/第6章 閑話休題/第7章 コレクター抄伝/第8章 銘器と事故/最終章 封印された神技/エピローグ

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2017年10月31日

数億年スケールの循環(1)

4 数億年スケールの循環(1) 鳥海光弘先生

 地球表層の数億年スケールの現象を支配するプレートテクトニクスがもたらした地球科学の大きな転換を学びます。

 さらに、プレート運動がもたらす様々な地殻とマントルのダイナミックスについても概説します。

4。1 グローバルな造山帯

 造山帯や変動帯は、大規模な帯状の堆積岩帯、広域変成帯、火成岩帯および超塩基性岩帯などから構成されています。

それらはいずれも大規悦な断層帯や摺曲帯をつくり、過去の変動帯となっています。

 中央には高温あるいは高圧条件で形成された変成帯がとっていて、多くの場合、高圧力の変成帯には超塩基性岩が並走し、高温変成帯では広大な花尚岩体が分布しています。

 これらの周辺は堆積岩が大規模に椙曲し、かつ断層によって大きく変形しています。

4.2 深部に沈み込んだ広域変成帯

 造出帯の中核部に細長く分布する広域変成帯は、一連の温度と圧力の変化を示しています。

 一連の温度と圧力の変化には主に3通りの様式があり、1つは高圧・低温型,2つは高温・低圧型、3つは中圧型です。

 変成岩は、いろいろな岩石が地球内部へ沈み、その温度と圧力のもとであらたに安定な鉱物が結晶化してできる岩石です。

 1980年代まで温度と圧力は1万気圧程度以下800℃以下と考えられていましたが、1984年にアルプス変成帯の変成岩から、圧力が3万気圧以上まで達していることが分かりました。

 世界各地の変成帯の温度と圧力を推定すると、造山帯の中軸帯が地下50−150kmの深さで変成されていたことが分かりました。

4.3 活動的な火山の分布

 環太平洋地域に特に顕著な活動的火山の分布は、現在の地球の代表的なダイナミックスの現れで、大陸地殻と海洋地殻の境界付近の大陸地殻に活動的な火山の列が認められます。

 活動的な火山列を持つ弧状列島は島弧と呼ばれ、海溝との密接な関係から島弧一海溝系と呼ばれます。

 一方、南米西岸では弧状列島とはならず、大陸地殻に火山列が海溝軸に並走しており、島弧とは呼ばず陸弧と呼ばれます。

 東太平洋海盆や大西洋中央海嶺などの海嶺でも、地球全域にわたる線状に分布しているマグマの活動が顕著です。

 大西洋中央海嶺では南北に伸びる中央海嶺軸にそって海底に大量のマグマ噴出が起こっています。

4.4 グローバルな地震の分布

 地球の地震活動はほぼ線状に配列し網状に分布しており、活動的な火山分布とほぼ重なるようにして分布していることが際立った特徴です。

 地震活動は、地殻やマントル内部でひずみが蓄積し、限界を超えると破壊によって地震が発生することを表しています。

 地震活動の分布には2通りの様式があり、1つは島弧にそって分布している分布域で、2つは海嶺軸にそう地震活動の分布です。

 前者は上部マントル深部にまで地震が発生しているが、後者は海洋地殻内部に限られて発生しています。

 一般に、地震の規模と頻度には規則性があり、地震の規模を示すマグニチュードと頻度の対数は線形関係にあります。

4.5 重力異常と地形および熱流量

 地球表面で重力を測ると内部の物質分布とそれが釣り合った分布かどうかが、平均的な等重力面とそれからのずれを測ることで推定できます。

 島弧−海溝系や海嶺の重力異常は、地下における力学的不釣合いが発生し、それが地球全域におよぶ現象であり、火山活動や地震活動と関連付けられています。

 熱流量は固体地球表面付近の熱エネルギーの流出量で、地下に高温度の状態があれば一般的に熱流量は大きく、地下が冷たくなっているならば熱流量は小さくなります。

 島弧一海溝系では海溝軸に沿って大変小さい熱流量が分布し島弧では大きく、海嶺から離れるに従って次第に熱流量が小さくなることが分かります。

4.6 海底の地磁気縞構造と海洋底拡大

 地球磁場は地表付近では双極子磁場であり、磁極を北極や南極付近に持っていて、火山岩はマグマが固化・冷却するときに地球磁場のもとで磁化されます。

 火山岩に含まれるマグネタイト=磁鉄鉱の磁化される温度は約摂氏500度で、その温度で急激に磁化され長期間に渡り保持されます。

 地球磁場の磁力線は磁北極から磁南極へ向かい、この方向に火山岩が磁化されましたが、過去の溶岩が現在とは逆に帯磁していたこともありました。

 海洋底の残留磁気の縞模様は、マグマが次々と海嶺に出て過去の海洋地殻が左右に離れてできたもので、海洋底が拡大したためのものと考えられる。

 大西洋では過去に戻すと消滅し、アフリカ、ヨーロッパ、そして北米と南米大陸はひとつになることが明らかとなりました。

4.7 プレートテクトニクスと活動的な地球

 活発な地震活動の分布から推定されたプレート境界をみると、どのような大きさのプレートが地球表層を覆っているのかが分かります。

 日本列島の周辺では、太平洋プレート、ユーラシアプレート、北米プレート、フィリピン海プレートの4つのプレートが境界を作っていることが分かります。

 プレートには、海洋地殻を持つ海洋プレートと大陸地殻を持つ大陸プレートの2種のプレートがあることが分かります。

 大陸地殻の形成年代がほぽ40億年前から現在まで広がっている一方、海洋地殻の形成年代が約2億年前から現在までとなっています。

 過去において変動帯であった地帯こそが造山帯のひとつであり、プレート境界はグローバルでその境界にそって造山帯が形成されます。

 プレート境界においてプレートの運動が起こっており、明らかに変形集中帯の面にそって海洋プレートが沈み込んでいます。

4.8 プレートの運動

 プレートテクトニクスは海洋プレートの運動学を基本とし、地球表層の約12枚のプレートが相対的に運動し、いずれかのプレート境界が海溝で沈み込み境界となっています。

 プレート境界は海溝、海嶺そしてトランスフォーム境界の3種から構成され、プレート運動は球面の上の回転運動となています。

 それぞれのプレートは回転の極を持ち、その周りの回転速度によって特徴付けられています。

 海洋プレートの形成年代が一般的に若いのに比して、大陸プレートの大陸地殻をのせた部分は古い時代の地殻を含んでいます。

 大陸地殻と大陸地殻がプレート境界を境にして衝突している地帯を衝突境界と呼び、日本列島では駿河トラフと相模トラフがこれに当たります。

 大きな衝突境界の例はインド大陸とユーラシア大陸が衝突しているヒマラヤ山脈で、地下深部に沈み込んでいた地殻が衝突境界にそって大規模に上昇して作られました。

4.9 大陸地殻の分裂と海洋プレートの形成

 海嶺は海洋プレートが誕生しているプレート境界で、大陸を分裂させている地帯はリフト帯と呼ばれ、人類の発生と分化に適した地帯となっていました。

 また、3つのリフト帯が交わる地域はアファー三角地帯と呼ばれ、大陸地殻が3方に分裂される会合点となっています。

 約1億年前には大西洋は消滅し、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸は合体して、ひとつの大きな大陸=パンゲア超大陸となります。

 パングァ超大陸東部には広大な海洋があったことが分かっていてテーティス海と呼びますが、かつてテーティス海をつくった海嶺があったに違いありません。

 テーティス海の沿岸域には海溝があり、テーティス海の海洋プレートは沈み込んでいて、最後には長大な衝突境界をつくり、グローバルな巨大造山帯をつくったのです。

4.10 沈み込み境界の付加体と日本列島の形成

 衝突境界では大陸地殻が沈み込むのに大きな抵抗が働きますが、沈み込み境界では相対的に大きな抵抗がなく、沈み込み境界では海溝軸にそって厚い堆積物がたまります。

 海溝堆積物は海溝軸で堆積した砂岩・泥岩層であり、それらが海溝軸から陸側あるいは島弧側に逆断層で次々とつけ加わってできた地質体は付加体と呼ばれます。

 付加体は日本列島や太平洋を取り巻くプレート境界近傍には一般的な地質体であり、現在活動的な海溝軸には多くの場合に、付加体形成の初期過程が起こっています。

 とくに西南日本の南海トラフには厚さ3kmの厚い砂・泥の乱泥流堆積物が堆積し、その陸側よりの縁に逆断層によってつくられ始めた地層の重層化か認められます。

 付加体の形成は沈み込みプレート境界では特徴的であり、また、このようなプレート境界では、大規模に花岡岩体の形成を含めたマグマ活動が起こります。

4.11 沈み込んだプレートの行方

 地震波トモグラフィーから、沈み込んでいる海洋プレートの像が浮かび上がります。

 日本周辺では、日本海溝から中国大陸内部に沈み込んだ太平洋プレートの実態が浮かび上がります。

 太平洋プレートは、過去2億年弱の間ユーラシア大陸や南北アメリカ大陸に沈み込んでいます。

 この沈み込んだ太平洋プレートの全長と、下部マントル深部の位置を推定することができます。

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2017年10月28日

大内義弘 − 天命を奉り暴乱を討つ

 ”大内義弘 − 天命を奉り暴乱を討つ”(2017年3月 ミネルヴァ書房刊 平瀬 直樹著)は、室町幕府を支えて大内氏の礎を築いた大内義弘がなぜ滅亡したのか、領国の統治や一族の争いなどからその生涯に迫っている。

 大内義弘は南北朝・室町時代の守護大名で、妙見信仰を重んじ、自らのルーツを朝鮮半島に求めて一族の結束を高めたが、応永の乱を引き起こし滅亡した。妙見信仰は仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいい、原姿は道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰である。

 平瀬直樹氏は1957年大阪府生まれ、1986年京都大学文学研究科国史学卒業、1986年同大学大学院文学研究科博士後期課程国史学専攻研究指導退学、山口県文書館勤務を経て、金沢大学人間社会研究域歴史言語文化学系教授を務めている。

 大内義弘は1356年生まれ、大内家の第25代当主で、第24代当主の大内弘世の嫡子である。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など、子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗った。南北朝時代から室町時代の武将・守護大名で、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護を行った。室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築いた。1371年に、九州探題を務めていた今川貞世に協力して九州へ渡った。九州における南朝の勢力追討に功績を挙げ、1372年に大宰府を攻略し、父と共に帰国した。1374年に長門国と豊前国の守護職に任命され、幕府から今川貞世の救援を命じられたが、父が命令を拒否したものの、義弘は父に従わず、翌年に自ら九州に出陣して各地を転戦し、懐良親王を奉じる菊池武朝に大勝した。1375年に筑前世振山の合戦で一時劣勢を強いられたが、義弘が士卒を励まし力を尽くして戦い、菊池・松浦・千葉連合軍を打ち破った。1377年の肥前蜷打の戦いや肥後臼間白木原の戦いにも、弟満弘とともに参戦し活躍した。1380年に父が死去し弟の満弘との間で長門・安芸・石見などで家督をめぐる内紛が起こり、翌年に将軍・足利義満の支持を得て勝利した。その後、満弘と和解し、義弘は家督と周防・長門・豊前の守護職を、満弘が石見を保つことになった。室町幕府は有力守護大名の寄合所帯で、将軍の権力は弱かった。そのため、第3代将軍・足利義満は権力の強化を目指して、花の御所を造営、直轄軍である奉公衆を増強した。

 義弘は義満の家臣として忠実に働き、1389年に義満が厳島詣のために西下すると、周防都濃郡降松浦で迎え以後随行することとなった。義弘は幕政の中枢に参加し、在京することが多くなった。1379年に高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道まで追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られた。1385年に満弘から石見国を没収し、代替として豊前国が与えられ、以後の満弘は大内氏の九州拡大の中核として活躍した。義満は危険と判断した有力守護大名の弱体化を図り、1379年に細川氏と斯波氏の対立を利用して、管領・細川頼之を失脚させた。1389年に土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、追討軍を派遣して康行を降伏させた。1391年に11カ国の守護を兼ねた大勢力の山名氏の分裂を画策し、山名時熙と従兄の氏之を山名一族の氏清と満幸に討たせて没落させた。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んで討伐し、山名氏3カ国を残すのみとなった。このような義満の権力強化策に義弘は協力して出陣し、陣を構えて戦い武功を立てた。1392年に山名家の旧領である和泉や紀伊の守護職を与えられ、弟の満弘や自らの守護領国を合わせて6か国の太守となった。1392年に南朝との仲介・和睦斡旋を行って南北朝合一にも尽力し、義満はこれら一連の功績・忠節を認めて義弘に足利将軍家に準じることを認める御内書を発している。しかし、1397年に義満が北山第の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めた際、諸大名の中で義弘のみは、武人としての信念を貫いて従わず、義満の不興を買った。同年末に義満に少弐貞頼討伐を命じられ、2人の弟である満弘と盛見に5千騎あまりを付けて派遣したが苦戦が続き、筑前で満弘が討死を遂げた。にもかかわらず満弘の遺児への恩賞が無く、実は義満が少弐貞頼らに大内氏討伐をけしかけていたとの噂も流れ、義弘は不満を募らせていった。

 1398年に満弘を討たれた報復として九州に出陣して、少弐家を討った。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎたことが有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。あまり世間に知られていない大内義弘であるが、明徳の乱や南北朝合体など、幕府政治の節目に重要な役割を果たしており、室町幕府は彼の功績なくして統一政権となることはできなかったであろう。幕府を支えていたにもかかわらず、最後に義弘は反乱を起こしたのである。この反乱は、弘世・義弘の二代にわたって築き上げた大内氏の、幕府内での地位や獲得した支配領域を、元も子もなくしてしまうような危険な賭けであった。ところが、乱ののち義弘の子孫は、謀反人という汚名を背負ったような様子はない。それどころか、義弘の後継者たちはより強力な大名になり、ますます幕府からも頼られる存在になった。義弘自身が滅んでも、大内氏の歴史が終わったわけではない。大内氏には、後の世でさらに成長する芽が残されていた。義弘は、挙兵に当たり、天命を奉り暴乱を討つ、まさに国を鎮めて民を安んぜんとす、というスローガンを掲げている。義弘の政治的・軍事的な動向は、第1〜3、6、7章で扱っており、義弘が足利義満への忠節から反逆に転ずる経緯について述べている。第4・5章では、義弘が支配した地域の特性に焦点を当てている。第8章は義弘亡き後の時代を概観している。義弘は、忠節を尽くしたにもかかわらず、義満が自分を裏切ったことが許せなかったのである。理不尽な仕打ちに対抗するために義弘が取った行動は、現代の我々も共感できる点があるのではないだろうか。現代でも、自分の置かれた環境を変えることができなくても、納得できる仕事や作品を残したりすることによって、自分の死後、子孫が社会を進歩させたり、自分の考えが世の中を変える一助となる希望を抱くことができると思える。

序 章 室町幕府と朝鮮王朝のはざまで
第1章 大名への成長/多々良氏から大内氏へ/父弘世の時代
第2章 在京以前/幕府体制内へ/康暦の政変と大内氏の内紛/足利義満の瀬戸内海遊覧
第3章 幕府への貢献/明徳の乱/南北朝合体交渉
第4章 周防・長門の支配/大内氏の本拠地/都市の発展/交通の発展
第5章 支配領域の拡大/石見国への進出/安芸国への進出/豊前国への進出/海賊と倭寇
第6章 義弘の自己認識/在京中の意識/自己認識の形成
第7章 反 乱/反乱への道程/堺籠城/戦いの始まり/義弘の最期/反乱の真相
第8章 義弘亡き後/乱の余波/その後の大内氏/義弘の記憶
終 章 大内義弘という人物
参考文献
大内義弘略年譜

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2017年10月22日

10億年スケールの循環

3 10億年スケールの循環 鳥海光弘先生

 原始地球からコア、マントル、地殻、海洋、大気を分化させて現在の地球システムヘ至る過程と、それらのシステムの間にどんな物質循環が起こっているかを学びます。

 46億年の地球の歴史の中で起きた10億年スケールの現象の過程が、大きくは内部の対流運動と融解や固化という物理過程により引き起こされていることを学びます。

3.1 地球の分化と地球システムの形成

 地球は、原始太陽系星雲のなかでガスから微粒子が発生し、それらが集積してつくられ、その後、現在のようなマントル、地殻、海洋、大気を持つ水惑星です。

 微粒子やガスが集積する過程には、微惑星になり、さらに微惑星が衝突し、合体することがあったに違いありません。

 巨大な隕石や微惑星の衝突で、短時間で莫大なエネルギーが衝突された惑星に集まり、惑星表面から深部まで高温状態となり、岩石の破砕、融解、蒸発が起こりました。

 地球が形成される初期においても比較的大きな微惑星の衝突があり、初期地球におけるマグマオーシャンの規模は、地球の深さ1000kmほどまで達しました。

、均質であった原始地球は、マグマオーシャンをつくることによって、速やかに融解鉄と珪酸塩に分離して、核とマントルをつくりました。

 地球のシステムの分化は、初期地球の高温状態から次第に冷却してゆく過程で起こり、固化する過程で、上部マントルと下部マントルヘの分化と地殻の形成が起こりました。

 更に冷却して表面温度が100℃以下になると、大気中の水蒸気は液滴となり、大量の雨となって地表に降り注ぎ、38億年程前に海洋を作ったと考えられています。

 原始海洋地殻や原始大陸地殻の形成は42億年前より以前、マントルから核の分離はそれより以前の45億年から44億年前頃であったらしいと考えられています。

3.2 大気と海洋システム

 大気が惑星間空間と接するのは磁気圏で、その下に上層大気があり、さらにその下
には、中層大気と下層大気=対流圏があります。

 中層大気と下層大気をあわせ厚さ100 km ほど、下層大気である対流圏は厚さ10 km ほどで、窒素と酸素を主成分とした空気の層で、著しい対流運動が起こっています。

 自転にともない東西方向の大規模な気流と、南北にまたがるように対流運動があり、熱エ
ネルギーの移動や物質の混合が起こっています。

 海洋では、太平洋、インド洋、南大洋、大西洋を貫く表層循環と深層循環により大規模海水循環が、伴流として多くの海流によりエネルギーや物質の循環が、起こっています。

 大気と海洋の間には物質交換が起こり、境界面海面に大気の流れと風によって波がたち、海水起源の水蒸気が蒸発して、海水の一部は飛沫となり大気に撒き散らされています。

 大気中の炭酸ガスや窒素、酸素は海水に溶け込み、海面の不規則な運動によって海水と空気の間に分子の分配が行われています。

3.3 地殻、マントル、および中心核のシステム

 地殻は海洋地殻と大陸地殻に分けられ、海洋地殻の厚さは約5〜10kmで大陸地殻の厚さは30〜70km程度です、

 大陸地殻と海洋地殻の大きな違いは履歴にあり、大陸地殻は形成年代が40億年以上古い時代のものもあり、海洋地殻は最も古いもので2億5000万年前程度です。

 大陸地殻と海洋地殻の違いは平均的な化学組成にも現れ、大陸地殻は平均的には安山岩と似たような化学組成で、海洋地殻は玄武岩に近い化学組成です。

 マントルは大きく上部マントル、マントル遷移層、下部マントルに分かれ、上部は大陸地殻した30〜70kmから410 km、遷移層は410kmから660km、下部は660 kmから2900kmです。

 地殻と上部マントルの境界はモホロビチッチ不連続面、下部マントルは地球システムの中で最大の体積を占めているサブシステムです。

 核との境界は、酸化物や珪酸塩からなる下部マントルと、金属鉄の融解物からなる外核との境界で、コア・マントル境界と呼ばれ温度変化が大きいようです。

 外核は鉄とニッケルを主成分とする金属の融解物で、対流が起こるとともに、磁場による電流と対流の変化が起こり、複雑な地球磁場が発生しています。

 外核と内核の境界は液体と固体の相転移状態にあり、低圧側の外核で融解し、高圧側で結晶化します。

3.4 大気と海洋の物質循環

 上層大気と中層大気の間では、銀河や太陽からの電磁波や放射線によって大気中の窒素や酸素分子がイオン化や解離し、上層大気や宇宙空間へ少しずつ散逸しています。

 大気と海洋の境界では、海面は海水から水蒸気が大気へ供給され、反対に、雨となって大気から海洋へ水が供給されます。

 二酸化炭素についても、海洋は必ずしも飽和状態に達してはいないので、大気から海洋への移動が起こっていると考えられます。

 海底や地表は、地殻と海洋、あるいは地殻と大気との境界面であり、両者の物質循環の場となっています。

 地殻からは地殻変動を通じて、マグマ中の二酸化炭素や硫化水素、二酸化硫黄、塩化水素、水素、アルゴンなどの気体が海洋や大気に供給されます。
 
 海底には海水中に浮遊している粘土鉱物や、放散虫、珪藻、藻類、その他の徹生物の遺骸が堆積し、海洋地殻の構成要素となります。

 海底でのマグマ活動はしばしば熱水噴出をともない、熱水は海水と接触して急冷され、たくさんの金属酸化物や水酸化物、硫化物、硫酸塩などを沈殿させます。

 海洋全体からみると、大陸地殻から河川に溶け込んで供給される成分と、海洋の多くの生物の代謝やその遺骸による成分の変動が非常に大きいようです。

3.5 地殻とマントルの物質循環

 マグマ活動は現在の地球では、太平洋や大西洋などの海嶺にそう活動、日本列島などの島弧で起こる活動、そしてハワイなどの海洋島における活動に分かれます。

 マグマが地瓦あるいは海底に噴出することは、マントルの中で岩石が融解し、そのメルトが地殻に付加されることです。

 地球の形成から現在までの歴史は、明らかに大気、海洋、地殻、マントル、核と、地球システムがつぎつぎと分化し、複雑化し、進化してきた過程です。

 大陸地殻、海洋地殻、マントルの間のマグマの付加による物質循環も、それぞれの場合でで異なっています。

3.6 地殻やマントルをつくる岩石の分類

1.マグマに由来する岩石(火成岩)

 火 山 岩 → 玄武岩 安山岩 デイサイト 流紋岩

 深 成 岩 → はんれい岩 閃緑岩 花崗閃緑岩 花崗岩

2.堆積岩

 砕屑岩 礫岩 砂岩 泥岩 シルト岩 生物岩 石灰岩 チャート 蒸発岩 岩塩

3.変成岩(変成相)

 高圧変成岩 → エクロジャイト 青色片岩

 高温変成岩 → グラニュライト 角閃岩 ホルンフェルス

 低温変成岩 → 緑色片岩 プレーナイト・パンペリ石 沸石

4.超塩基性岩

 かんらん岩

3.7 マントルの部分融解

 上部マントルやマントル遷移層などは、通常は固体状態ですが、高温度になると融解が起こります。

 一般に上部マントルでは圧力が高くなるにつれて部分融解で作られるメルトの化学組成は
、かんらん岩の組成に近くなります。

 深部からのマントルの上昇は、上部マントル・マントル遷移層からと、下部マントルの底部から来る場合で、異なる温度・圧力曲線となります。

 マントルの上昇流の発生場所、言い換えれば対流の深さにより、マグマの温度およびその化学組成が異なることになります。

 25億年より以前は地球表層へはコマチアイトマグマから玄武岩マグマの噴出が卓越してい
ましたが,25億年以後は玄武岩マグマや安山岩マグマの火山活動に変化しました。

3.8 マントル対流とプレート運動

 マントル対流は熱エネルギーを温度の高いところから低いところへ運び、対流運動によりマントル物質が減圧融解し、マグマが発生し地殻へ付け加え化学組成を変化させます。

 マントル対流は高温度のマントル物質を地球表層へ運ぶことで冷却され、再び地球深部の高温のマントルヘ運ばれるという、マントル物質の大循環を行っています。

 上昇する部分ではマントル温度が比較的高く、下降する部分ではマントル温度は低くなり、低い部分と高い部分に分かれると、地震波の速度分布に異常となって現れます。

 地震波トモグラフィーで得られるマントルの姿はマントル内部のある時間断面を表していて、地震波速度の遅い部分は高温上昇流で速い部分は低温下降流のようです。

 下降流と上昇流の間では、地球の表層付近では板状の運動、コア・マントル境界付近では、その境界に平行な流動が卓越しています。

3.9 プレートテクトニクスの原理

 つぎのプレート運動の基本原理が成り立ちます。

1.プレート運動は球面上の回転運動である。
2.プレート運動は回転の極を持つ。
3.プレートは3種の境界を持つ。
4.境界は、プレート生成境界(海嶺)、プレート消滅境界(海溝)、そしてトランスフォーム境界である。トランスフォーム境界は海嶺や海溝をずらす部分でのみ、ずれ運動を起こす。
 さらに地球の表層ではつぎのプレートの幾何学が成立します。

5.プレートは大小約12枚で地球を覆う。
6.プレートは互いに重なるような運動はしない。
7.プレート境界に集中的に歪みまたは差応力の蓄積と物質交換が卓越する。
8.プレートは海嶺でつくられ、海溝でマントルに沈み込む。

 こうした原理によって示される地球表層の運動形式をプレートテクトニクスと呼びます。

 これは地球科学における基本的なモデルであり、地球表層の基準的な運動学となっています。

 様々な地球の変動に関する応用モデルが作られ、海溝域での巨大プレート境界型地震モデル、島弧でのマグマ生成モデル、海嶺部でのプレート生成モデルなどです。

 日本列島では、海溝から約200 km 程度陸側にそって活動的な火山が並んでおり、これは火山フロントと呼ばれています。

 このような構造は上部マントルの部分融解によるもので、海溝から海洋プレートが島弧地殻の下のマントルに斜めに沈み込んでいます。

 プレートが水を持っていて、それが沈み込むことで、温度と圧力が増加し、脱水反応が起こって、遊離した水が上部マントルを部分融解させていました。

 海洋プレートの実体は海洋地殻とその下をあわせたリソスフェアであり、この下にはアセノスフェアと呼ばれる粘性的に流動する上部マントルがあります。

 アセノスフェアの層は通常は上部マントルのうち,00〜300km程度がプレート運動との境界部分であり、その下のマントルは別の対流運動を起こしていると考えられます。

3.10 核の運動と地球磁場

 地球磁場の起源は、電気伝導度の大きな流体が対流運動などの渦運動を起こすことによって発生する磁場です。

 地球磁場は磁極のN極とS極をそれぞれ自転の南極と北極の地下深部に持つような双極子磁場となっていて、自転軸に大体沿った棒磁石が作る磁場と類似しています。

 現在の地球磁場は自転の北極付近にS極があり南極付近にN極がありますが、過去におい
て何度もS極とN極が入れ替わりました。

 溶岩はマグマが噴出し急速に固結したもので、マグマから結晶化した磁鉄鉱などの磁性鉱物が高温度から摂氏約500度程度より下がると急速に地球磁場に沿って磁化されます。

 溶岩の年代順に古地磁気を調べると、いろいろな地質時代で逆転の様子から、岩石の年代を推定することもできるようになります。

 海洋底の磁化を測定したパインやマシューズらの観測は、海洋底が古地磁気の縞模様を作った海洋底拡大モデルを導き、プレートテクトニクスの考え方につながった。

3.11 外核と内核の物質循環

 外核の運動は対流運動でコア・マントル境界を通して下部マントルに影響を与え、下部マントルと外核との間には境界層が形成されます。

 深さ2900kmのところに厚さ100〜200kmほどの境界層がつくられ、上部と下部での温度差は約1000度にも達すると考えられています。

 プレートは海洋あるいは大気と上部を接し、下部は上部マントルのアセノスフェアと接し、境界層は厚さ50〜100km程度で温度差は1000度もあります。

 内核と外核の境界は金属鉄の融解温度という意味を持ち、金属鉄の融解温度を決定すると深さ5100kmの温度が推定できます。

 内核と外核の境界は融解温度ですので、地球全体が冷却するなかで核もゆっくりと冷却し、境界では液体から固体金属への固化が進行していることになります。

 外核では速やかな対流のために均質化しますが、内核のなかでは液体に多く分配される成分が中心部から境界に向かって次第に濃集すると考えられます。

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2017年10月17日

オホーツクの古代史

 ”オホーツクの古代史 ”(2009年10月 平凡社刊 菊池 俊彦著)は、環オホーツク海地域の3世紀から13世紀ころまでのさまざまな人々が存在した謎に満ちた古代文化の輪郭を紹介している。

 オホーツク海は本格的な流氷域としては北半球の南限であり、沿岸地域では独特の古代文化であるオホーツク文化が拡がっていた。この文化の担い手は海での生業を基盤とする海洋民であると同時に、大陸と日本列島を北回りのルートで仲介する交易民でもあった。

 菊池俊彦氏は1943年群馬県生まれ、1967年北海道大学文学部史学科卒業、4月から北海道大学文学部附属北方文化研究施設考古学部門助手、1978年から同大学文学部助教授、1986年から同大学文学部助教授、1991年から同大学文学部教授、2000年から大学院文学研究科歴史地域文化学専攻東洋史学講座教授を務めた。2006年に北海道大学を停年退官し、同名誉教授に就任した。1997年に北方文化の研究で濱田青陵賞を受賞した。

 日本列島は、太平洋、日本海、東シナ海、オホーツク海によって囲まれている。この4つの海のなかで、最北に位置するのがオホーツク海であり、この海に接している北海道の東北部沿岸は、冬期に流氷が漂着することで知られている。オホーツク海は北海道の北部と東部の沿岸が面するだけで、日本の歴史に登場することはほとんどなかった。そのため、これまでオホーツク海沿岸の古代史か語られる機会はなかったと言ってよい。オホーツク文化の遺跡はオホーツク海沿岸のほか、日本海沿岸にもいくつか分布しているが、太平洋沿岸にはまったくない。また、オホーツク文化の遺跡はもっぱら沿岸にあるだけで、内陸部にはまったく見出されない。オホーツク文化の遺跡からは、アザラシ、トド、オットセイのような海獣、クジラやさまざまな魚の骨が大量に出土している。それは、オホーツク文化の人たちが海に依存して生活していたことを示している。沿海の生活者であるにもかかわらず、オホーツク文化の人たちは家畜としてブタとイヌを飼い、その肉を食べていた。そのような習慣と伝統は大陸の諸民族のところにある。また、オホーツク文化の遺跡からは大陸製の青銅製品や鉄製品か出土している。それはオホーツク文化の人たちが大陸の人たちと交流し、交易していたことを示している。オホーツク文化の年代は3世紀から13世紀と推定されているが、そのころの大陸、特にアムール河流域やオホーツク海北岸にはどのような古代文化があったのであろうか。オホーツク文化の遺跡のうちではサハリンの遺跡が古く、オホーツク文化の人たちはサハリンから北海道に南下して来たことが知られている。最盛期には千島列島を東に進出して、カムチャツカ半島の近くまで居住していた。沿海の生活者、海獣狩猟、クジラ猟、ブタやイヌの家畜飼育、大陸との交易、このような特徴を待ったオホーツク文化の人たちはどのような人たちだったのであろうか。

 20世紀初めに、オホーツク文化の遺物の類例として、エスキモー民族の彫刻品や鈷先が指摘されて話題をよんだ。それ以来、オホーツク文化の人たちはどんな民族だったのか、という問題をめぐる議論には、エスキモー民族説、アリュート民族説、サハリンのアイヌ民族説、大陸からの移住者説、大陸の黒水靺鞨=こくすいまつかつ渡来説、サハリンのニヴフ民族説と、さまざまな見解が発表されている。靺鞨は、中国の隋唐時代に中国の北方に存在した集団である。中国の史料によれば、7世紀に、長安を去ること1万5000里にある流鬼国から朝貢の使節がやって来たという。流鬼国はどこにあったのか、という問題はすでに19世紀中ごろに中国の学者によって、カムチャツカ半島であろうという見解が発表された。19世紀末には、フランスの学者が同じくカムチャツカ半島説を発表した。そして、20世紀初めに、日本の学者によって流鬼国はサハリンにあったという見解が発表された。しかし、その後もカムチャツカ半島説は支持されてきた。いったい、流鬼国はどこにあったのであろうか。また、流鬼とはどんな民族だったのであろうか。流鬼国の朝貢使節の話によれば、流鬼国から北へ1か月行程のところに夜叉国があるという。夜叉国はどこにあったのであろうか。また、夜叉とはどんな民族だったのであろうか。著者は、流鬼はサハリンのオホーツク文化の人たちで、夜叉はオホーツク海北岸の古コリャーク文化の人たちだったのではないか、と考えている。そして、流鬼はニヴフ民族に相当し、夜叉はコリャーク民族に相当すると考えることができる。環オホーツク海では、かつてニヴフ民族やコリャーク民族か活動して、大陸の諸民族と交流し、交易していた。そのことを中国の史料は伝えていて、それは流鬼と夜叉の交易だったと考えられる。本書は、このような環オホーツク海の知られざる諸民族の古代史を紹介しようとしている。

第1章 流鬼国の朝貢使節/第2章 流鬼国はどこにあったのか/第3章 オホーツク文化の大陸起源説/第4章 オホーツク文化と流鬼/第5章 夜叉国と環オホーツク海交易

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posted by kpie44 at 10:05 | Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月15日

100億年スケールの歴史

2 100億年スケールの歴史 鳥海光弘先生

 138億年前に宇宙が誕生し、元素が合成され、46億年前に太陽系が誕生して、地球ができました。

 100億年スケールの出来事を扱い、宇宙から地球と太陽系そして天の川銀河がどのような位置にあるか、宇宙の元素組成を学びます。

 また、地球や惑星の大気、海洋、固体地球の平均化学組成を学び、地球がどのように冷却したかを学びます。

2.1 はじめに

 地球は、現在天の川銀河のやや外側に位置し、少し離れたとろに渦巻きの大きな腕があり、銀河系中心の太陽系から反対側にも大きな腕があります。

 地球や太陽系は、銀河系中心の周りを一周2億年程度で回っていて、その軌道は3本の大きな腕と交差しています。

 この腕はガスやチリが多くなっているところで、太陽系よりゆっくりと銀河系の中心を約4億5千万年で回っているます。

 そのため、ガスの多い大きな腕を、地球や太陽系は過去億年の間に3回程度通過したことになります。

 天の川銀河は、隣の大マゼラン星雲、小マゼラン星雲、そしてやや離れてアンドロメダ星雲とその伴星雲などと銀河団を作っています。

 その銀河団は差し渡し400万光年もあり、このなかでは天の川銀河とアンドロメダ星雲が大きく渦巻き銀河となっていますが、他の銀河は不規則な形です。

 さらに遠方から天の川銀河団を眺めてみると、およそ1億5千万光年ほどの大きさの超銀河団を作っている様子が見てとれます。

 中央の銀河団が大きく天の川銀河の属する銀河団はややこぶりで、個々に見られる超銀河団はやや直線上に銀河の集団が並んだ構造をしています。

2.2 系外惑星

 太陽系以外の惑星は一般に系外惑星=エクソプラネットと呼ばれ、発見された系外惑星はすでに数千にも達します。

 地球と同じような数百日の公転周期で、地球と同じような質量の系外惑星は、発見されたものではやや少なく、比較的質量の大きな系外惑星が多い。

 地球の数倍から十数倍程度の質量の系外惑星をスーパー地球と呼び、太陽系の近くにも多数あり、岩石惑星、氷惑星、そして水素惑星まであるようです。

2.3 宇宙における元素の存在度

 宇宙存在度と比較してほとんど同じような組成となっているのは、珪素、マグネシウム、鉄、カルシウム、アルミニウム、ナトリウム、などです。

 宇宙存在度では多量に含まれている窒素、炭素、酸素などは、唄石には非常に少ないことが分かります。

 元素組成の量からみると、大きく分けて4種類の元素群に別れると見ることができます。

 第1群の元素は水素とヘリウム、第2群は酸素、炭素、窒素、第3群は、マグネシウム、珪素、鉄、第4群はカルシウム、アルミニウム、ナトリウムなどとそれ以外です。

 大量に宇宙に存在する第1群と第2群の元素はほとんどが気体状態で、第3群の元素は岩石や鉱物の基本構成元素です。

 重要なことには、多量に存在する水素、酸素、炭素、窒素は、生命物質の基本要素だということで、宇宙には大量の生命基本物質が存在しています。

 宇宙の質量とエネルギーにおいて、ダークマターが約27%、ダークェナジーが68%を占めています。

 銀河や銀河団あるいは宇宙全体の運動を考えるときには、重力と相互作用し光では見えない宇宙の構成要素としてダークマターは重要です。

2.4 宇宙における元素の起源

 初期の宇宙は高密度超高温状態から大爆発を起こして急激な膨張がはしまり、ビッグバンが起こりました。

 ビッグバンが起こる前にも非常な高速で膨張が進んだ時期があり、宇宙のインフレーションと呼ばれます。

 初期のビッグバンは非常に短い間に大量の物質が作られた期間で、おもにフォトンやニュートリノなどから多量の陽子、電子、中性子が作られました。

 そして、温度が冷えるに連れて水素、ヘリウム、そして少量の軽元素が作られ、この時期に、水素やヘリウムなどのガスが収縮して銀河や星、惑星が作られました。

 この時期第1世代の星の中では、水素やヘリウムが核融合反応を起こして、次々と重い元素が作られ始めました。

 この時の核融合反応で放出される莫大なエネルギーが星を光らせ、宇宙空間にエネルギーが放出されました。

 炭素サイクルでは、水素燃焼によりヘリウムが、ヘリウム燃焼によりベリリウムや炭素が作られ、炭素は水素と核反応をおこして酸素と窒素が作られます。

 アルフア過程では、酸素や炭素がヘリウムを吸収して、ネオン、マグネシウム、鉄へと質量数の大きい元素が合成されていきます。

 水素やヘリウムが星内部で消化されていくと、ついには核融合反応が進まなくなり、内部を支える圧力が弱まり、重力が勝ってしまいます。

 こうして一気に星の中心部へと爆縮かおこり、その反発により新星あるいは超新星現象の巨大な星の爆発が発生します。

 超新星爆発では、鉄より重い元素が高速の中性子を取り込みながら、さらに放射壊変しながら作られていきます。

 r−過程やs−過程によって、宇宙空間に大量の元素をまき散らされ、星間物質となっていきます。

 最初、水素とヘリウムが主体であった星間物質は、酸素、窒素、炭素、マグネシウム、珪素、鉄などの元素を多量に含むようになります。

 第2世代の星や銀河も同じように、水素とヘリウムなどから次々と重い元素が作られ、超新星爆発により大量の重い元素が宇宙へと放出されます。

 天の川銀河や太陽系は、こうして作られた第3世代の銀河や星であるとされ、太陽系の物質には別の星の超新星化に由来する物質が混ざっています。

 星間物質では、水素、ヘリウムが最も多い元素であるとともに、窒素、炭素、酸素なども大量に存在しています。

 混合ガスの中では次第にいろいろな化合物分子が作られ、シアン、エステル、アルデヒド、メタン、エタンなど炭化水素系化合物など、多種の分子が確認されています。

2.5 大気の化学組成

 地球以外の大気は2大別でき、1つは金星や火星の大気で炭酸ガスがほとんど少量の窒素が含まれ、2つは木星や土星などで水素が主成分で10%程度のヘリウムを含んでいます。

 地球の大気は、金星、火星、木星などの惑星と大きく異なり、窒素が主成分で酸素が約20%含まれています。

 地球は表面に海洋を持つ唯一の惑星で、炭酸ガスのほとんどは海洋に吸収され、さらに生物が炭酸ガスを吸収しています。

 木星や土星などでは、太陽と同じように水素とヘリウムを主成分にして惑星が作られています。

2.6 海洋の化学組成

 海水はナトリウムと塩素が主成分でほとんどナトリウムイオンのところにプロットされますが、河川水の平均値はカルシウムとマグネシウム側によっています。

 河川水は海水が大気中に水蒸気を供給し、それが降雨となって大陸地域などに供給されます。

 河川水となり、この過程で大気中の炭酸ガスなどを取り込み、また、大陸地殻の鉱物を溶かすことによって、様々なイオンを含むことになります。

 河川水と海水は、生物によってカルシウムイオンや炭酸イオンが除去され、蒸発によって塩濃度が上昇しています。

 このような一巡の物質循環が40億年以上の長期に渡って行われた結果が、現在の海洋水の化学組成に現れていると考えることができます。

2.7 地殻とマントルの化学組成

 地殻には大陸地殻と海洋地殻があり、大陸地殻はSi0?、やA1?0?が海洋地殻よりやや多く、海洋地殻にはMgOやFeOの方が多い。

 大陸地殻は安山岩質あるいは花崗岩質であり、海洋地殻は玄武岩質の化学組成を持っています。

 海洋地殻はマグマから直接それが海底に噴出にすることによって形成され、大陸地殻は一旦地殻内部でマグマだまりが形成され、噴出や花尚岩体の形成で大陸地殻をつくります。

 上部マントルの岩石は、A1?0?、CaO、Na?Oなどがたいへん少なく、下部マントルは全マントルの化学組成さらにSiよりの組成にならざるを得ません。

2.8 太陽系の形成と初期地球

 太陽が生まれたのは大体46億年まえで、暗いガスの塊から中心部で核融合反応を起こすまでの時間は100万年から1千万年程度であったと言われています。

 その後、1千万年くらい急激に明るく輝いて、そのあと現在より少し暗い太陽となり、そして主系列星となったのす。

 この小惑星衝突は大きな運動エネルギーを熱エネルギーにかえ、また、重カエネルギーを熱エネルギーに変換します。

 ガス星雲が円盤状になり、中でいろんな隕石の基となる微惑星ができるまで大体200〜400万年程度で、その後地球やその他の惑星が作られるまでの時間は500万年程度でした。

 地球の層構造は、温度上昇の過程でマントルがマントルとコアに分離し、その後の冷却過程で、原始大気と原始地殻がつくられ、海洋は大気から分離してで形成されました。

2.9 太陽系と地球の終焉

 太陽が核融合反応を開始し惑星が誕生したのは約46億年ほど前で、1000万年ほど明るく輝き、急速に現在の70%程度になり、その後、現在の明るさとなったと考えられています。

 太陽の活動は内部で発生する核融合反応エネルギーによりますので、すべての水素やヘリウムが消費されれば太陽活動は停止します。

 それより前に太陽は主系列星から離脱しますが、質量が足りないため超新星爆発せず、白色倭星化すると考えられています。

 現在の太陽の段階から赤色巨星を経て白色倭星となるまでの時間はほぽ50〜70億年後ぐらいであろうと言われています。

 初期地球は火の玉惑星であったことが知られ、表面温度は2000(Cにも達したと思われており、その後、マントルが冷却して海洋がつくられました。

 今後のマントルはゆっくりと冷却し、マントル対流がとまり、プレート運動もとまり、ダイナミックな地球が停止するには50億年以上かかると思われます。

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2017年10月09日

最後の辺境 − 極北の森林、アフリカの氷河

 ”最後の辺境 − 極北の森林、アフリカの氷河 ”(2017年7月 中央公論新社刊 水越 武著)は、現在にも存在する文明の侵食を許さない隔絶された土地を写真と文章で紹介している。

 辺境とは、都から遠く離れた土地や国境を指す。交通網の発達で、今や辺境・秘境と呼ばれる地域は地球上に少なくなっている。しかし、まだ十分にわかっていない地域、行くのが困難な地域は残っている。ヒマラヤの高山氷河、アマゾン源流の大瀑布、アフリカ最奥部の密林地帯などは、現在も存在する辺境である。これらの地は、空白地帯が失われた現在では最後の辺境である。

 水越武氏は1938年愛知県豊橋市生まれで、1958年に東京農業大学林学科を中退後、写真出淵行男に師事し、山岳を中心とした自然写真を撮ってきた。1999年に第18回土門拳賞、2009年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するなど、高い評価を得ている。

 3、4歳のころ、早朝に雨戸を開けると、空高くを隊列を組んだ雁か飛んでいた。そして、さまざまに形を変え、小さくなって遠くへ消えていった。著者がの夢や希望はこの時見た雁に強く影響されているようだ、という。高くには山があり、遠くには地平線があった。早くから山に目覚め、動植物に惹かれ、遠い未知の大地に足を運んだ。写真と出会って多様な世界と向き合うようになっても変わらなかった。日本列島の旅だけでは窮屈で、海外に出て行った。まだ人間を拒絶している自然の聖地を好んで訪ね、レンズを向けて来た。好奇心の赴くまま、ひたすら自分の足で歩いてきた。その目的地は高く遠くに飛んで行った雁と重なる、という。

 第1章は、地図の空白部を歩くカラコルムの五大氷河(1979年)、
 第2章は黄河源流の幻の山アムネマチン(1981年)、
 第3章は極北の森林限界ブルックス山脈(1995年)、
 第4章は世界最大の水量を誇るイグアスの滝(1998年)、
 第5章は赤道直下の高山氷河アフリカ(1999年)、
 第6章は豊かな水に恵まれた巨木の森北アメリカ西部沿岸(1999年)、
 第7章は地上最後の秘境コンゴ川流域の熱帯雨林(2000年)、
 第8章は聖なるバイカル湖(2003年)

を取り上げている。

 ヒマラヤの写真は、フランス国立図書館、イタリア国立トリノ山岳博物館、豊橋市美術博物館、東京都写真美術館に収蔵されている。ここで取り上げた山行や旅は、ホテルや乗り物に頼って行動できるものではなく、それぞれ厳しい旅だった、という。それだけにさまざまな思いが今も鮮明に蘇ってくるそうである。なかには突然、夢にも思わなかった旅のチャンスを与えられ日本を離れることもあったが、体の中を風が吹くようにアイデアか生まれ、資料を集め、仲間を募り、資金調達など5年、10年とかけてやっと実現できたものもあった。現地に行っても困難か待ち構えていた。アフリカのウガンダではエボラ出血熱に脅かされ、孤立したが、パリから飛んできた国境なき医師団の帰りの便で危うく脱出した。またエクアドルの首都キトではクーデターか起き、反乱軍の銃砲に逃げ惑うこともあった。しかし人間の生活圏から離れ、人を寄せつけない山平森の奥地に入ってしまえば素晴らしい自然の王国が待っていた。今まで見たこともない多様な地形、珍しい生き物を目にした。時間を忘れ、幸福感に満たされた。辺境とは厳しい自然環境が人間を寄せつけず、不毛の地として見捨てられていた所である。また一方で、汚れのない自然が息づいていて、原始地球と出会える所でもある。地球を彩る多様な自然の王国は興味の尽きない所だった、という。また、取り上げたかったのにここに収めることかできなかった地域があるそうである。まず、南米の大河、アマゾン河源流域のマヌーとギアナ高地であるが、この地域を一生の仕事として取り組み、何冊も著書を遺した友人が近くにいた。次に、ブータン王国とニューギュアは、それぞれの最高峰、7570mのガッケルプッズムと4884mのカールステンツピラミッドを登りに行って、両方ともアタックを前に撃退された。このように、収めることかできなかった地域がある一方、さまざまな困難と出会う中で撮影された写真は、どれも素晴らしいものばかりである。本書は、山岳写真家としての著者の集大成の意味もあると思われる。

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2017年10月06日

木曽義仲

 ”木曽義仲”(2016年11月 吉川弘文館刊 下出 積與著)は読み直す日本史シリーズの1つで、木曽で育ち以仁王の令旨を得て木曽で挙兵し平氏を都から追い払うも頼朝の派遣軍に敗れた源義仲の悲劇の生涯を紹介している。

 源義仲は源為義の孫で幼名駒王丸と言い、木曽山中で育ち木曽冠者と称された。後白河天皇の第三皇子以仁王=もちひとおうの平氏討伐の令旨を受けて、源頼朝・源行家に呼応して挙兵し、平維盛を倶利伽羅峠で破り、京都に入って朝日将軍とよばれた。しかし後白河院と対立し、源範頼・源義経の追討を受け近江国粟津で戦死した。

 下出積與=しもでせきよ氏は1919年石川県生まれ、1941年東京帝国大学文学部国史学科卒業、金沢大学教授、明治大学教授を歴任し、1989年定年退任し、名誉教授となった。1975年に東大文学博士、道教、神道などを研究した歴史学者である。本書の原版は、金沢大学助教授時代の1966年に、日本の武将シリーズの1つとして、人物往来社から刊行された。

 源義仲は、河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれた。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館と伝えられている。義賢はその兄義朝との対立により、大蔵合戦で義朝の長男義平に討たれた。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されたが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。1180年に以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。八条院蔵人となっていた兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死した。義仲は9月に兵を率いて北信の源氏方救援に向かい、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へ向かった。2ヵ月後に信濃国に戻り、小県郡依田城にて挙兵した。1181年に小県郡の白鳥河原に3千騎を集結し、城助職を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。1182年に北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示した。1183年に頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化した。5月11日に倶利伽羅峠の戦いで平氏の北陸追討軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して、破竹の勢いで京都を目指して進軍した。6月10日に越前国、13日に近江国へ入り、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始めた。7月25日に都の防衛を断念した平氏は、安徳天皇とその異母弟・守貞親王を擁して西国へ逃れた。後白河法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。27日に後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻った。28日に義仲が入京し行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられた。30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになり、義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重の守護を担当した。8月10日に勧賞の除目が行われ、義仲は従五位下・左馬頭・越後守、行家は従五位下・備後守に任ぜられた。後白河法皇は天皇・神器の返還を平氏に求めたが、交渉は不調に終わった。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮=惟明親王か四之宮=尊成親王のいずれかを擁立することに決めた。ところが義仲は、以仁王の系統こそが正統な皇統として、北陸宮を即位させるよう朝廷に申し立てた。朝廷では義仲を制するための御占が数度行なわれた末、8月20日に四之宮が践祚した。兄であるはずの三之宮が退けられたのは、法皇の寵妃・丹後局の夢想が大きく作用したという。義仲は、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がまるでない粗野な人物として疎まれる契機となった。

 後白河法皇は9月19日に義仲を呼び出し、平氏追討に向かうことを命じて出陣させた。義仲は、腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷に頼朝の申状が届き、10月9日に法皇は頼朝を本位に復して赦免し、14日に宣旨を下して東海・東山両道諸国の支配権を与えた。一方、義仲は西国で苦戦を続け、水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、戦線が膠着状態となった。まもなく、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報に接した。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京した。20日に義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、後白河院に激烈な抗議をした。義仲の敵は、すでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。また、義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。11月4日、源義経の軍が布和の関にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固めた。頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため対抗できる戦力の増強を図るようになった。数の上では義仲軍を凌いだ段階で、圧倒的優位に立ったと判断した法皇は、義仲に対して最後通牒を行なった。それは、ただちに平氏追討のため西下せよ、院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば宣旨によらず義仲一身の資格で行え、もし京都に逗留するのなら謀反と認めるというものであった。18日に後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入り、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。11月19日に、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃した。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。御所から脱出しようとした後白河法皇は捕縛され、義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉した。20日に義仲は、五条河原に光長以下百余の首をさらした。21日に松殿基房と連携して毎事沙汰を致すべしと命じ、22日に基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。28日に新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握した。10日に源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。1184年1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させ、平氏との和睦工作や後白河法皇を伴っての北国下向を模索した。しかし、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされ、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。戦いに敗れた義仲は、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びたが、20日に近江国粟津で討ち死にした。享年31歳であった。

 本書は、義仲の生涯に沿って出来事の事実や意義・評価を叙述している。義仲と関わりのある様々な人物や地域について幅広く言及し、特に北陸の武士や地理について詳細な点が注目される。また、古文書・古記録が限られていることもあり、後世に成立した”平家物語”諸本への視線が注目される。

駒王丸
 大倉館/薄幸の孤児/木曽へ隠れる/関東と信州/木曽次郎義仲/源仲家
木曽谷の旗挙げ
 義仲と中原一族/旗挙げ/市原の戦/上野進出/越後の城氏/義仲の陣営/横田河原の合戦/北陸武士の動向
倶利伽羅の合戦
 義仲、危機一髪/不和の背景/志水冠者義高/平家の北陸快進撃/般若野の衝突/義仲の作戦/倶利伽羅の合戦/勝利に蔭にひそむもの/敗軍の集結/篠原の挽歌/斎藤別当実盛/木曽武者と「かり武者」/平軍帰洛
義仲上洛
 大夫房覚明/山門工作/叡山の返牒/義仲と覚明/一門評定/法皇雲隠れ/後白河法皇/平家都落ち/哀愁の武者/義仲上洛
旭将軍
 義仲の栄進/自然児/義仲の栄進/自然児/義仲と行家/北陸宮/武士の洛中狼藉/十月宣旨/頼朝の手腕/水島の敗戦/法住寺殿の焼打ち/宇治川の戦い/旭将軍の末路/木曽殿最期/乳母子/木曽の家
木曽義仲年譜

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2017年10月01日

イントロダクション:地球を4次元的に概観する

1イントロダクション:地球を4次元的に概観する 鳥海光弘先生

 宇宙のなかで地球がどういう星なのか、そして地球の構成と地球内部の温度と圧力を概観し、地球に起こる現象の時間と空間の広がりを概観し、ダイナミックな地球と、それを支配する対流運動を理解します。

1.1 宇宙と地球

 地球の年齢は46億年であり、宇宙の138億年の歴史に比べても遜色が無いほど長く、地球の誕生から現在まで、地球は宇宙の大きなダイナミックスの中に置かれています。

 宇宙の広がりでは比較的一様に銀河が分布していますが、銀河の分布は必ずしも均質ではなく、銀河の数密度の多い部分が網の目のように分布しています。

 天体にはブラックホールと呼ばれる範囲と、常の見ることができる天体の範囲があり、天体の大きさと密度がほぼひとつの直線=シユワルツシルド半径にまとまっています。

1.2 惑星や衛星の密度と大きさ

 太陽系に属する惑星や衛星では、同じ化学成分の気体や固体でも半径が大きいと重力が大きく、天体内部の密度が大きくなり、平均密度と半径の関係は右上がりの曲線となります。

 地球や金星、火星、月、そして水星は岩石と鉄のコアを持ち、木星のガリレオ衛星や土星の衛星は氷と岩イiが主体の天体であることが分かります。

 一方、木星や土星、海王星などは、ずっと密度が小さく、半径の大きな領域にまとまっていることが分かます。

1.3 地球の構成

 地球は太陽系の宇宙空間に続く上層大気、成層圏、対流圏からなる大気を持ち、内側に海洋と海洋地殻および大陸地殻を持っています。

 その下部には順に、上部マントル、マントル遷移層、下部マントルを持ち、総称してマントルと呼びます。

 さらに、その下部には外核、そして内核を持ち、外核と内核の境界は鉄合金の融解で特徴付けられます。

 海洋は地球表面の約3分の2を占め平均的な深さは4km、海洋地殻の厚さは平均5kmほど、大陸地殻の厚さは平坦な内部では30km程度です。

 地殻下部は、上部マントルが深さ410kmまで続き、マントル遷移層の深さは660kmまで、下部マントルは660kmから2900km まであり、マントルのほとんどを占めています。

 外核と内核の境界は5100km、地球中心部は6400kmで、密度が小さくなる順に上部へと層状に配置され、地球の内部は比較的安定な成層構造となっています。

1.4 地球内部の温度と圧力

 地球の中心部では圧力はほぽ360万気圧ほどの非常に高い圧力となっていて、5000℃を超える温度が地球の中心部で発生していると考えられています。

 大気や海洋および外核は流体であり、地殻とマントル全域は固体であるため、大気と海洋、地殻・マントル、核では運動が大きく異なっています。

 性質の違いと運動の違いによって、地球内部の温度分布に特徴的に2つの温度勾配の大きな部分と2つの温度勾配の小さい範囲が作られています。

 物質的にも、温度や圧力の分布から見ても、地球は、いくつかの性質の異なる部分の集合であることが分かります。

1.5 地球のエネルギー収支

 地球表層における熱エネルギーのバランスは、ほとんど太陽エネルギーと地球から宇宙への放射エネルギーによって決まっています。

 エネルギーがバランスしていると平均温度はほぼ一定に保たれますが、バランスが崩れ放出量が減少すると、大気や海洋に熱が蓄積されるため温暖化が進みます。

1.6 地球で起こる現象の時間と空間スケール

 大気の中の現象、低気圧や積乱雲、竜巻などの空間的広がりの範囲は非常に大きいですが、時間スケールはいずれも小さいです。

 一方、固体地球内部で起こる現象、マントル対流、プレート運動、造山運動などは空間スケールも時間スケールもきわめて大きく、1万年から1億年です。

 海洋で起こる現象のうち大きなもの、湧昇流や海流などは1年から1000年の時間スケールです。

 一方、火山の現象、マグマの噴出、岩脈の形成、火山噴煙などは、海流や湧昇流などの延長線上の、広がりのやや小さな範囲にプロットされます。

 様々な空間スケールで起こる現象は、速さで見ると、速い現象と大変遅い現象、中間的な速さの現象が混在しているのが分かります。

 一方、マントル対流、プレート運動、山脈の上昇、花尚岩体の上昇、火山体の形成、堆積盆の形成や地盤沈下など、極めて遅い現象も多く見ることができます。

1.7 地球の現象を支配する重力と熱

 周囲の媒質より密度の大きい物質が重力に引っ張られて落下する現象をストークス沈降といい、粒子の半径の2乗に比例し周囲の媒質の粘性率に逆比例します。

 大きい粒子ほど急速に沈降し、ストークス沈降が働いた地質現象に乱泥流などにみられる級化層理があります。

 水より軽い軽石では逆に浮力となり、海底噴火して作られた軽石は海面へと上昇し、速度は終端速度となり粒子の大きさの2乗に比例します。

 大きい軽石ほど急速に上昇し、後に水を吸う時間差によって、落下するとき級化層理の逆の逆級化層理が起こります。

 重力が働くということは、基本的には密度の大きい物質が下に、密度の小さい物質が上部に配置されるように運動するということです。

 熱を下部の高温領域から低温領域へと輸送することは、対流の結果、上昇する部分が冷却されることを意味します。

 対流の起こる条件は、物質の熱膨張による浮力より、浮力を待った部分が上昇するときの周囲からの粘性抵抗が小さいと起こります。

 上部マントルや下部マントルの中で対流が起こっている領域では、深さに対する温度勾配は十分に小さく、温度勾配は断熱温度勾配と呼ばれます、

1.8 地震や断層の動きを支配するすべり摩擦運動

 地殻やマントル上部にはたくさんの割れ目があり、その割れ目にそってしばしばすべり運動が起こり、巨大地震もその一つです。

 また、一般に地層のくいちがいを示す断層の動きは、その面に沿うすべり運動であり、日本の中央構造線や米国のサンアンドレアス断層などの動きもすべり運動です。

 すべり運動は基本的に摩擦をともない、すべり運動にともなう摩擦力は、垂直に押す力が大きくなると比例して大きくなります。

 断層面に水が隙間なく存在していると、すべり運動の抵抗力は小さくなり、小さな力ですべり始めます。

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2017年09月26日

奇妙で美しい 石の世界

 ”奇妙で美しい 石の世界 ”(2017年6月 筑摩書房刊 山田 英春著)は、さまざまな石の模様の美しい写真とともに国内外のさまざまな石の物語を紹介している。

 石は地球にだけあるものではない。人間は月に行き石を待ち帰ってきた。宇宙を漂う大きな石塊に向けて機械を飛ばし、石の粉を回収した。また、遥か昔に地球に落ちてきた石を調べて、水の起源を、そして生命の起源を探っている。石はあいかわらず世界の謎を解くカギなのだ。自然界の謎を石が背負っているように、石は人の心の謎を背負っている。

 山田英春氏は1962年東京都国分寺市生まれ、1985年に国際基督教大学を卒業し、出版社勤務、デザイン事務所勤務を経て、1993年に装丁家として個人事務所を開設した。瑪瑙コレクターとしても世界的に知られ、いろいろな石を紹介した著書があるほか、ウェブサイト=LITHOS GRAPHICSでさまざまな石を紹介している。

 著者は鉱物学や岩石学の専門家ではないが、初めに基本的なことを説明している。石の模様に興味をもつようになったきっかけは、フランスの学者ロジエ・カイヨワの”石が書く”という、石の模様と人の想像力に関する、一冊の本だったという。カイヨワは、石の模様は人間が独自に作り出してきたと自負する芸術に先立って、より広く普遍的な美が存在するという事実を、つねに暗示し、思い出させる密かな声なのだという。石の模様を見ると、人がものを見て美しいと感じる感覚とは何なのかということを考えずにはいられないし、人間が生み出してきた造形、とくに抽象美術をさまざまに思い起こす。石を科学的に分類すると、鉱物と岩石に分けられる。

 鉱物は一定の化学組成をもった結晶質のもので、単一の元素の結晶もあれば、複数の元素が結びついた物質の結晶もあり、化学式で表すことができる。私たちが宝石と呼んでいるもののほとんどが、純度の高い鉱物の大きな結晶をカットして磨いたものである。結晶は原子や分子が規則的なパターンで配列された個体で、それぞれの鉱物特有の形の癖である晶癖というものがある。たとえば水晶は先が尖った六角柱形、黄鉄鉱は正四面体や十二面体の姿になりやすい。この形の簡明な美しさ、そして色や透明感に惹かれ、鉱物の結晶を愛好、コレクションする人は多い。一方、岩石は細かい数種の鉱物の粒の集合したものである。

 岩石は地中のマグマ由来の火成岩、泥や砂などの堆積したものが固まった堆積岩、岩石が熱や圧力の作用で変質した変成岩の三つに分類される。さらに火成岩は、地中のマグマがゆっくりと冷えて固まった深成岩と、流れ出した溶岩が固まった火山岩に分けられる。深成岩には花尚岩、かんらん岩などが、火山岩には玄武岩、流紋岩などがある。河原に落ちているような普通の石はほとんどが岩石ということになるが、鉱物の結晶の多くは岩石の穴の中に入っている。日本で観賞石というと、主に天然の岩石の形を愉しむものが多い。石を本の台座に置き、その形を山景などにみたてて愉しむ水石も、ほとんどが岩石である。

 本書で紹介する石のほとんどはいわゆる宝石ではないし、水晶などの大きな鉱物の結晶でもない。一部は岩石だが、石の外形を見せるものでもない。ここで扱うのは主に、ある鉱物の微細な結晶が集合しつつ、他の鉱物と混じり合ってできた塊を切った断面、つまり、石の中に立体的に入っている造形を取り出し、平面的に見せたものである。かなりの部分は瑠璃、ジャスパー、オパールといった、シリカ=二酸化ケイ素を主成分にしたものである。シリカが結晶したものは石英と呼ばれる。石英は私たちが上に乗っている地面を構成する鉱物で二番目に多いものである。石英の大きな結晶は水晶と呼ばれ、石英の目に見えないごく微小な結晶が集合して塊になったものは玉髄=カルセドニーと呼ばれる。この玉髄にいろいろな鉱物が混じることで、色や形のバラエティーが生まれる。

 それらは日本では瑠璃と総称されているが、欧米の宝飾の世界では色、模様の特徴別にさまざまな名が使われてきた。オレンジ・赤茶色のサード、赤味の鮮やかなカーネリアン、緑色のクリソプレーズ、平行線の縞模様のオニキス、そして、曲線の美しい縞模様のあるアゲート、樹木のような形が入っているデンドリティック・アゲート、苔のような、水草のような形が入っているモス・アゲートなど、数十種にもおよぶ名前がある。これら石英系の石が見せる色彩と造形には、他の鉱物を圧倒する多様性があり、名前の多さはそのバラエティーの豊富さを示している。こうした名前の使い方は地域によっても微妙に異なる。日本語の瑠璃は英語のアゲートの訳として使われるが、イコールではない。アゲートは模様の美しい玉髄だけに使われる名前なのに対し、日本では無色透明な玉髄も瑠璃と呼ぶことが多い。また、日本で玉髄という名は、地域によってはまた違ったタイプの石に使われることもある。本書では、やや日本での用法に寄せた形で、色のついた、模様のある玉髄全般を瑪瑙と呼ぶことにする。本書では、三つのパートに分けてさまざまな石について紹介している。まず、石の特徴的な模様と、それを人々がどう受けとめてきたかという話”石は描く”、次に石の造形にこめられた地球の歴史、地域の歴史、ひとつの時代の話についての”石は語る”、そして、石を追い求めてきた人の歴史、私か石を探し求めた話の”石を追う”である。それぞれの項はほぼ独立したものになっているため、読む順番は問わないが、先に掲載されている項目で紹介したことがらを受けて書かれているものも多い。

石は描く フィレンツェの石/縞模様の誘惑/モリソン氏の芸術的なジャスパー/虹を探して/インドの「木の石」)
石は語る オーストラリアの奇妙な石たち/ドラゴンの卵、亀の石/スコットランドの小石
孔雀石の小箱
石を追う 花の石/サンダーエッグの女王とその息子/「小さな緑色の怪物」/コロンビアの瑪瑙

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2017年09月24日

ダイナミックな地球(’16)

 放送大学の、ダイナミックな地球(’16)を受講します。

 地球は太陽系にある惑星の1つで、太陽から3番目に近く、表面に水、空気中に酸素を大量に蓄え、多様な生物が生存しています。

 人類など多くの生命体が生存する奇跡的な星であり、内部・外部ともダイナミックに変化しているようです。

 これまでの地球の歴史、いま現在の地球のあり様、これからの地球の変動などについて、一通り概観してみたいと思います。 

 主任講師は大森聡一先生と鳥海光弘先生です。

 大森聡一先生は1966年東京都生まれ、1997年早稲田大学大学院理工学研究科資源及材料工学専攻博士課程単位取得退学、1998年博士(工学)で、現在、放送大学自然と環境コース准教授です。

 鳥海光弘先生は1946年神奈川県生まれ、1974年東京大学大学院理学系研究科博士課程卒、理学博士で、現在、放送大学客員教授です。

第1回 イントロダクション:地球を4次元的に概観する

 科目の導入として、これから学習しようとする地球をさまざまな時間・空間スケールで概観し、スケールを支配しているのは対流という物理現象であることを直感的に理解しします。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授) 鳥海 光弘 (東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第2回 100億年スケールの歴史

 宇宙における地球の位置づけを明らかにして、地球の形成過程、原料、およびすべての物質の起源である元素の生成にさかのぼって解説します。

 担当講師: 鳥海光弘先生(東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第3回 10億年スケールの循環

 地球における「循環」を概観し、特に、ダイナミックな地球の根源的原動力である、地球内部の循環を紹介します。

 担当講師: 鳥海光弘先生(東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第4回 数億年スケールの循環(1)

 地球内部のプレートテクトニクスを中心に、大陸移動やプレートの沈み込み、造山運動など、地球が少しずつ強力かつ大規模に、表層を改変してゆく現象を取り扱っています。

 担当講師: 鳥海光弘先生(東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第5回 数億年スケールの循環(2):プレートの沈み込み

 プレートテクトニクスによる地形的様相の変化と化学的環境の変動に関連して、地表を構成する岩石の成因から、マントルと表層環境を結ぶ物質循環までを扱います。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第6回 気候変動:1000万年〜数万年のダイナミックス

 数千万年スケールで起きる表層のテクトニクスは、大気、海洋の循環にも関連し表層環境を変化させ、太陽系内の地球の運動が表層の環境に周期的な変動をもたらしています。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第7回 海洋の循環(1)

 現在の海洋の循環の様相、およびその原因について、解説します。

 担当講師: 河野 健先生(海洋研究開発機構地球環境観測研究開発センター長)

第8回 海洋の循環(2)

 海洋の循環が地球表層の環境に与える影響について解説し、実例として約1万年前に起きた大規模な気候変動を紹介します。

 担当講師: 河野 健先生(海洋研究開発機構地球環境観測研究開発センター長)

第9回 大気の循環 −基本的な大気の流れ

 地球上を循環する大規模な大気の流れについて、その基本的な構造を理解します。

 担当講師: 米山邦夫先生(海洋研究開発機構分野長、神戸大学客員教授)

第10回 大気の循環 −天気と気候に影響を与える大規模変動

 定常的に観測される大気の状態に対して、ある程度の周期性を持ち各地の天気や気候を根幹から変える力を持つ代表的な大気変動現象について理解します。

 担当講師: 米山邦夫先生(海洋研究開発機構分野長、神戸大学客員教授)

第11回 地震と火山のダイナミックス

 地震や火山活動など固体地球起源の変動現象について、その原動力は数億年スケールのプレート運動であることを学びます。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第12回 一方通行の歴史(1):地球史の研究方法

 地球のダイナミクスの探求を地球形成時から現在に至るまでの時間に拡大し、地球史研究で用いられている研究方法の概要を紹介します。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第13回 一方通行の歴史(2):地球史概観とその特性

 地球の歴史を概観し、地球が生命の惑星になった理由や、表層環境・生命の進化との関連について考察します。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第14回 日本列島の形成史

 日本列島の形成史と地球における地学的位置づけを紹介し、その個性と一般性について理解を深めます。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第15回 まとめと発展

 これまでの学習を振り返り、火星と地球の類似性や、地球環境と太陽系・銀河系との関わりに関する、最近の研究の一部を紹介します。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授) 鳥海 光弘 (東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

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2017年09月22日

古田織部 − 美の革命を起こした武家茶人

 ”古田織部 − 美の革命を起こした武家茶人”(2016年1月 中央公論新社刊 諏訪 勝則著)は、信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けた戦国武将で後に数寄者として多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となった織部の生涯を紹介している。

 古田織部を主人公として描いた歴史漫画作品として、”へうげもの”=ひょうげものが知られている。第1巻は2005年12月22日に発売され、最近の第24巻は2017年6月23日に発売された。この作品の第1巻から第9巻までが全39話で、2011年4月から2012年1月にかけて、NHK BSプレミアムにて放送された。

 へうげる”=剽げるとは、ふざける、おどける、の意味である。織田信長に仕えて調略の才を発揮した古田織部は、のち羽柴秀吉に従って天下取りに貢献し、他方で茶の湯を千利休に学んで高弟となった。利休の死後は、特異な芸術センスで桃山文化に多大な影響力を及ぼし、公武にわたる広範な人脈を築いた。しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣方への内通を疑われ、幕府から切腹を命じられた。古田織部は、単なるへうげものではない。

 諏訪勝則氏は、1965年神奈川県生まれ、國學院大學文学部文学科卒業、同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了、現在、陸上自衛隊高等工科学校教官を務めている。

 古田織部という名前は茶人としての呼称で、武人としては古田重然=しげなりという名前である。1543年に美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟・古田重定の子として生まれ、後に伯父・重安の養子となった。織部の名は、壮年期に従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来している。古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、1567年に織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。1569年に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚した。

 武人としての織部は、信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けた。そこには、秀吉の名幕僚として出生街道を歩んだ華やかな姿は見られない。代官・補佐役・調略役として着実に職務に専念する、地味な武人として活動した。美濃土岐氏の家臣から始まり、信長に属してからは、中川清秀と姻戚関係を結び、摂津・播磨攻略の一翼を担った。本能寺の変直後には秀吉に与し、明智光秀討滅に貢献した。賤ヶ岳合戦において清秀が陣没したため、その嫡男秀政を支え、小牧・長久手合戦や四国遠征に参加し、補佐役として活躍した。秀吉の晩年には御伽衆として活動した。千利休ほどではないにしろ、秀吉の側近くにあって、諸将への連絡調整や助言等を行っていた。関ヶ原合戦では徳川方に属し、佐竹義宣の調略に成功している。武人との交流は盛んで、まず、伊達政宗・島津義弘・同家久・佐竹義宣・南部利直・毛利秀元・小早川秀包・北条氏盛ら、戦国大名とその一族の人々を門弟としていた。次に、細川幽斎・同忠興・松井康之・織田有楽・黒田如水・浅野長政・同幸長・大野治房・和久宗是・猪子一時・有馬豊氏・小堀遠州・上田宗箇・金森長近・同可重・九鬼守隆・古田重勝・村上頼勝・桑山重勝・同元晴・寺沢広高・竹中重利・別所吉治・藤堂高虎・石川貞通・池田利隆ら、織田・豊臣系の武将たちとの交流があった。次に、徳川家康・秀忠を始め、本多正信・本多正純・土井利勝・榊原康政・松平正綱・水野守信・板倉重宗ら徳川家とその重臣たちにも茶の湯について指南していた。このように、旧豊臣系、徳川系を問わず、分け隔てなく交流し、軍事・政治的なネットワークは確たるものであった。

 文人との交流も盛んで、平時は文芸に勤しみ、秀吉・家康時代は、公家社会の最上位近衛信尹=このえ のぶただから連歌の指導を受けるなど、文事に一層精進していた。師の千利休を始めとして、津田宗及・同宗凡・神屋宗湛・松屋久好・住古屋宗無・今井宗久・同宗薫・武野宗瓦・藪内紹智といった茶人と深く関わった。また、近衛信尹・今西洞院時慶ら公家衆とも交わりを持った。さらには本願寺教如・万里小路充房・文英清韓・松梅院禅昌・木阿弥光悦・松花堂昭乗とも親しかった。市井の文化の担い手である京都の下京衆などにも茶の湯を伝授した。こうして、茶の湯を趣味とする風流人の数寄者として、多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となった。誠実な人柄で周囲の人々に丁寧で気配りの利いた対応をしながら、最上を追い求める孤高の芸術家でもあった。村田珠光によって創始され、武野紹鴎を経て、千利休が大成させたわび茶を継承した。そして、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって、織部好みと呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。千利休は自然の中から美を見いだした人だが、作り出した人ではない。古田織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっていると言われる。2014年の古田織部400年遠忌に合わせて、京都市北区上賀茂桜井町に古田織部美術館が開設された。

第1章 一大茶人に至るまで−生誕から信長時代 織部の生い立ち/信長の家臣として/文芸活動
第2章 利休の門人となる−豊臣政権確立期 秀吉に臣従/茶人としての道/中川家を支援/紀州・四国遠征/武将としての飛躍
第3章 師の側近として−天下人秀吉の時代 武家茶人/小田原遠征/秀吉の茶頭
第4章 天下一の茶匠−関ケ原合戦前後 合戦前夜/織部焼/関ヶ原合戦本戦/合戦後
第5章 巨匠の死−大坂夏の陣まで 東奔西走の日々/将軍家の茶匠/織部死す
終 章 織部の実像 武家文人/芸術家織部
主要参考文献/古田織部略年譜

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2017年09月16日

鴨長明 − 自由のこころ

 ”鴨長明 − 自由のこころ”(2016年5月 筑摩書房刊 鈴木 貞美著)は、”方丈記”で知られ数寄の語で語られこれまで必ずしも明らかにされてこなかった鴨長明像を具体化する試みをしている。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

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 これまで鴨長明の名は、かなりの長きにわたってよく知られてきたが、その像は、なかなかひとつに結ばれなかった。その生涯を仏教や和歌の側面から解釈をしなおし、真の自由ともいえるその世界観が形成された過程を追っている。

 鈴木貞美氏は1947年山口県生まれ、1972年東京大学文学部仏文科卒業、東洋大学文学部専任講師、助教授を経て、1989年国際日本文化研究センター助教授、教授を務め、定年後は同名誉教授となっている。

 長いあいだ、”方丈記”に自分でも不思議なほど関心を抱いてきたという。はっきりしているのは、あの流れるようへ変化に富み、それでいて、よく整った文体の魅力に惹かれるからである。日本語の文章の歴史のうえで、あれほど画期的な役割をはたした文体はない。それはどのようにして可能になったのか、もう一歩踏み込んで考えることができると思ったそうである。鴨長明の名は、長きにわたって広く知られてきたが、近代に入っても著作の範囲も定まらず、とりわけ仏教信仰をめぐって今日でも決着がついたとは言い難い。そこで、長明作であることが疑いない”方丈記””無名抄””発心集”の三作から、新たな長明像の提出に挑んでいる。自由のこころという副題を付けてしているのは、自由とは読んで字のごとくおのずからよしとすることであり、長明の場合、自適をあわせ、束縛を嫌い、自身にしっくり感じられることを求める心があったからである。

 古代、自由の語は謀反や叛逆の含意が強かったが、室町時代に、武家や高位の武士に禅宗が浸透するにつれ、仏教でいう釈迦の自由自在が兵法などを自在に駆使することに転じ、やがて何につけても、型から入って型を抜け自在さを獲得することを目指すようになった。自由の概念が大きく転換する門口のところで、数寄の根方とでもいうべきものが養われていった。長明は、1155年に賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。高松院の愛護を受け、1161年に従五位下に叙爵されたが、1172年頃に父・長継が没した後は後ろ盾を失った。1175年に長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが敗北した。和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学んだ。歌人として活躍し、1201年に和歌所寄人に任命された。1204年に河合社の禰宜職を望んだが、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず神職としての出世の道を閉ざされた。長明は出家し、東山次いで大原、のちに日野に閑居生活を行った。1211年に飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉にも下向したが、受け入られず失敗している。公家の世が衰退し、武士の台頭がはじまる変動期に生涯を過ごし、京の都が度重なる災害によって衰退し、多くの人が飢饉などで死んだ時代に生きた。小さな住まいでの静かな暮らしを望み、その心情の移り変わりを記し、4年後の1216年に61才で没した。

序 ゆく河の流れは/第1章 鴨長明―謎の部分/第2章 長明の生涯―出家まで/第3章 『無名抄』を読む/第4章 『方丈記』―その思想とかたち/第5章 『発心集』とは何か/第6章 歿後の長明

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2017年09月10日

江戸の長者番付

 ”江戸の長者番付 ”(2017年3月 青春出版社刊 菅野 俊輔著)は、歴史資料に基づいて江戸時代の様々な職業の年収を明らかにしている。

 江戸幕府の八代“暴れん坊”将軍の年収は1294億円であったという。その将軍に勝るとも劣らない1000億円超の年収を稼いでいた人物がいたそうである。

 菅野俊輔氏は1948年東京都目黒区生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業、3度の食事より江戸の咄が大好きという江戸文化研究家である。現在、早稲田大学エクステンションセンターや毎日文化センター、読売・日本テレビ文化センター、小津文化教室などで、江戸のくずし字や江戸学など、江戸を楽しむ講座の講師をつとめながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍している。

 もともと、番付は大相撲における力士の順位表で、正式には番付表という。ここから転じて、その他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる。長者番付は、今でいう高額納税者公示制度である。この制度は、政府が数千万〜数億円単位の高額納税者を2006年まで公示していた。公示された高額納税者の名簿は、一般的に高額納税者番付や長者番付として用いられた。2005年4月1日から個人情報保護法が全面施行されたことを受け、この制度は廃止された。

 むかしの東京、江戸は、失われたワンダーランドで、たくさんの謎があった。江戸の長者番付とお金持ち事情は、その最大の謎といえる。江戸は、18世紀の前半に100万都市になった。徳川将軍家の城下町であるため全国の大名や旗本・御家人の屋敷が並び、江戸の範囲といわれる四里四方の6割の広さに50万人の武士が住んでいた。残りのうち、2割が寺社で、僧侶や神官が暮らしていた。そして、残り2割の地に、50万の町人が住んでいた。それゆえ、住宅に工夫を施した結果、裏店とよばれる集合住宅の長屋に7割の35万人が住んでいた。御三家の紀州家から8代将軍となった徳川吉宗と町奉行の大岡忠相越前守が江戸の改革に努め、18世紀の後半は、江戸っ子にとって住みやすい大都会になった。歌舞伎や出版、料理ブームなど、いかにも江戸らしいユニークな文化がおこり、彩色の浮世絵も誕生している。19世紀になると全国的に旅ブームが到来し、武都の江戸は、古都の京、商都の大坂とともに三都と呼ばれ、観光都市になり、全国からたくさんの人びとが訪れた。江戸のお金は複雑で、金・銀・銭の三貨があり、それぞれの単位が違っていた。金貨は高額貨幣、銀貨は中間で、銭貨は低額貨幣で、19世紀に通用した貨幣には、一両小判、一分金と一分銀、一朱金と一朱銀、四文銭と一文銭などがあった。18世紀の後半から、金貨と同じように貨幣一枚の価値が統一された計数貨幣も鋳造されるようになった。長屋住まいの江戸っ子は、文を単位とする銭貨で暮らしていた。旅に出かける人は、小粒とよばれた一分銀や一朱銀をたくさん持ち、道中で銭に両替して、草鞋代、団子代、旅龍代などを払っていた。本書では、金一両=約16万2000円、銀一匁=約2700円という算出で、今のお金に換算している。江戸には武士と町人が生活していて、武士の給料・収入は百石とか百俵というように米が基準となっていたが、町人の給料・収入はお金であった。時代がくだると貨幣経済が進展し、武士も自家用分を除いて換金するようになったが、給料・収入がお金に変わることはなかった。農村に住み、田畑を耕して米や野菜を生産する農民は、税金の年貢を現物で納めていたが、時代がくだると畑作での収穫の分をお金で納めるようになった。そんな江戸時代に、人びとは、どのくらいの給料・収入を得て、どのように豊かな、あるいは、慎ましい生活を送っていたのであろうか。将軍・大名から下級武士、長屋に住む町人、歌舞伎役者、花魁、豪商まで、そのフトコロ事情を丹念に探ってみたという。

 ついに発表、江戸の長者番付ベスト10。1位.吉宗 1294億円、2位.加賀前田家 1134億円、3位.越後屋 17億円、4位.寛永寺 7億3710万円、5位.大岡忠相奉行 2億2226万円、6位.歌舞伎役者 1億7820万円、7位.銀座大黒常栄 1億3300円、8位.花魁 1億2960万円、9位.長谷川平蔵 1億230万円、10位.奥女中 3502万円、次点.杉田玄白 2268万円。  

1章 江戸の長者番付ベスト10―年収“億”をはるかに超えるお金持ちたちがズラリ
2章 江戸時代、あの職業・この商売の意外な給料事情―貧乏武士は年収100万円以下、町人・農民は意外にも…
3章 比べてビックリ!江戸のおもしろ給料比較―大岡越前と鬼平、金持ち大名と貧乏大名、千両役者と花魁…
4章 江戸っ子はなぜ、“宵越しの金”を持たなくても生活できたのか−長屋暮らしの庶民はいくら稼いで、どう使っていた?
5章 江戸の超大金持ちたちの華麗なる(?)生活−将軍とその妻から、百万石の大名、豪商、義賊まで
6章 じつは一番貧しかった?武士の悲しいフトコロ具合−傘張り、金魚飼育、朝顔づくり…欠かせぬ内職で生活費はハウマッチ?

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2017年09月04日

足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍

 ”足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍”(2016年5月 戎光祥出版社刊 山田 康弘著)は、明応の政変で追放され全国を流浪するも不死鳥のごとく舞い戻り二度も将軍の座に就いた波瀾万丈な生涯を紹介している。

 足利義稙=あしかがよしたねは、室町幕府第10代将軍で、父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟の義視、母は日野富子の妹に当たる裏松重政の娘で、初名は義材=よしき、将軍職を追われ逃亡中の1498年に義尹=よしただ、将軍職復帰後の1513年に義稙と改名した。

 山田康弘氏は1966年群馬県に生まれ、学習院大学文学部史学科、同大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)で、日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、学習院大学、国立東京・小山両工業高等専門学校非常勤講師を務めている。

 足利義稙は、1466年に義視の子として、父の近習・種村九郎の邸で生まれた。1467年1月に応仁の乱が勃発すると、父義視は兄である将軍義政と対立して、9月には東軍より山門に出奔し、ついで西軍に身を投じた。この時、東軍の武田信賢が義材を護り西軍に送り届けたという。1473年に義政の子義尚が9代将軍となり、1477年11月に応仁の乱が終結すると、義視・義材親子は西軍の一角であった美濃国の土岐成頼、斎藤妙椿の庇護のもとにあった。1478年7月に大御所・義政と義視の和議が正式に成立した後も、美濃国に留まり続けた。義材は1487年に義尚の猶子として元服し、義尚の母日野富子らの推挙で、美濃在国のまま従五位下左馬頭に叙位された。1489年に、義尚が旧西軍であった近江国の六角高頼征伐の在陣中に死去した。義稙は父義視、土岐成頼、斎藤妙純に伴われて上洛し葬儀に参列しようとしたが、細川政元の反対で葬儀終了後に入京した。政元は、義尚と義材の従兄弟の香厳院清晃を将軍後継者候補に推していた。しかし、義政・富子夫妻が義材を支持したため、義材の将軍就任がほぼ決定した。1490年に大御所足利義政が没してのち幕府の実権を握り、義尚の遺志を継ぎ第2次六角征伐、河内出陣の軍を起こしたが、これが原因で細川政元と対立し、1493年4月政元のクーデターにより逮捕され、将軍を廃立された。将軍職を廃され幽閉されたが、脱出して越中国、ついで越前国へ逃れた。1499年に京都奪回を企図したが果たさなかった。その後も諸大名の軍事力を動員して、京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送った。1507年に細川政元が暗殺され細川家が分裂状態に陥ると、義尹は将軍への復帰の好機と見て、1508年4月に大内家の軍事力に支えられ、中国地方や九州の諸大名とともに、山口から海路上洛しようとした。同年6月に京都を占領して、11代将軍義澄や高国と対立していた管領細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。政権は、管領となった細川高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていた。大内義興が周防国に帰国すると、管領細川政元の養子の高国と対立し、1521年に細川晴元・持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われた。戦国時代は、足利将軍家にとって厳しい時代であった。各地の大名たちは、もはや将軍の命令をかつてのようにはきちんと遵守しなくなった。また、将軍は、政情不安によって京都から地方にその居所をしばしば移さざるをえなくなった。

 かつて戦国時代の足利将軍について、もはや権力を失い重臣たちの傀儡になってしまった、などと評価されてきた。しかし、近年、戦国時代の足利将軍に関する研究は少しずつ着実にすすんでいて、そのような評価は誤りであることがしだいに明らかにされつつある。戦国時代の将軍たちは、決して傀儡ではなかったし、決して無力でもなかった。厳しい環境の故か、戦国期の歴代将軍は、足利義稙をはじめ、知将・名君が多かった。将軍たちは、みずから登用した側近らの補佐をうけながら、戦国期にいたっても京都内から、将軍のもとになお大量に持ちこまれていたいろいろな訴訟をさばいていた。さらに、全国各地の大名たちにさまざまな栄典を授与し、大名たちから依頼があれば紛争調停をおこなっていた。このように、足利将軍は戦国時代にいたっても、一定の政治的役割を果たしていた。この時代の足利将軍については、一般はもとより専門の研究者のあいだですら関心が低く、織田信長と死闘を演じた足利義昭をのぞけば、戦国期における個々の将軍について論じた伝記すら今のところない。戦国期の将軍のなかでとくに足利義植をとりあげたのは、現代ではあまり知る人のいない義稙の波瀾万丈な生涯を広く一般に紹介したい、とかねてから願っていたからにほかならない。足利義稙は、戦国時代を懸命に生き、いくども挫折しながらそれでもあきらめずに戦いぬいた。義植の人生は、急上昇と急降下のくり返しであった。しかもこの間、将軍の身でありながら逮捕されたり、毒殺されかかったこともあった。また、大嵐のなかを脱獄したこともあったし、夜中に刺客に襲われ、自ら剣をふるってこれを撃退する、といった危難に遭遇したこともあった。義稙は戦国時代を懸命に生き、いくども挫折し苦悶しながら、それでもあきらめずに挑戦しつづけた。とかく現代では無力・無能であったといわれる戦国時代の将軍たちが、本当はどのような人びとであったのかを知る手がかりもあたえてくれる。近年、歴史学関係者のあいだでは、義稙のような隠れた英雄を発掘し、紹介していこうという動きが生じつつある。隠れた英雄から戦国時代を眺めてみるのも一興であろうし、これまで気づかなかった戦国時代の新しい側面がみえてくるにちがいない。

第T部 思いがけなかった将軍の地位
 第一章 応仁・文明の乱はなぜ起きたのか/第二章 義稙はなぜ将軍になりえたのか/第三章 義稙はなぜ外征を決断したのか
第U部 クーデターと苦難の日々
 第一章 義稙はなぜ将軍位を追われたのか/第二章 義稙はいかにして反撃したのか/第三章 義稙はなぜ大敗してしまったのか
第V部 ふたたびの栄光と思わぬ結末
 第一章 義稙はなぜ将軍位に返り咲けたのか/第二章 義稙はいかにして政治を安定させたのか/第三章 義稙は賭けに失敗したのか/第四章 義稙の人生を振り返って

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