2017年09月26日

奇妙で美しい 石の世界

 ”奇妙で美しい 石の世界 ”(2017年6月 筑摩書房刊 山田 英春著)は、さまざまな石の模様の美しい写真とともに国内外のさまざまな石の物語を紹介している。

 石は地球にだけあるものではない。人間は月に行き石を待ち帰ってきた。宇宙を漂う大きな石塊に向けて機械を飛ばし、石の粉を回収した。また、遥か昔に地球に落ちてきた石を調べて、水の起源を、そして生命の起源を探っている。石はあいかわらず世界の謎を解くカギなのだ。自然界の謎を石が背負っているように、石は人の心の謎を背負っている。

 山田英春氏は1962年東京都国分寺市生まれ、1985年に国際基督教大学を卒業し、出版社勤務、デザイン事務所勤務を経て、1993年に装丁家として個人事務所を開設した。瑪瑙コレクターとしても世界的に知られ、いろいろな石を紹介した著書があるほか、ウェブサイト=LITHOS GRAPHICSでさまざまな石を紹介している。

 著者は鉱物学や岩石学の専門家ではないが、初めに基本的なことを説明している。石の模様に興味をもつようになったきっかけは、フランスの学者ロジエ・カイヨワの”石が書く”という、石の模様と人の想像力に関する、一冊の本だったという。カイヨワは、石の模様は人間が独自に作り出してきたと自負する芸術に先立って、より広く普遍的な美が存在するという事実を、つねに暗示し、思い出させる密かな声なのだという。石の模様を見ると、人がものを見て美しいと感じる感覚とは何なのかということを考えずにはいられないし、人間が生み出してきた造形、とくに抽象美術をさまざまに思い起こす。石を科学的に分類すると、鉱物と岩石に分けられる。

 鉱物は一定の化学組成をもった結晶質のもので、単一の元素の結晶もあれば、複数の元素が結びついた物質の結晶もあり、化学式で表すことができる。私たちが宝石と呼んでいるもののほとんどが、純度の高い鉱物の大きな結晶をカットして磨いたものである。結晶は原子や分子が規則的なパターンで配列された個体で、それぞれの鉱物特有の形の癖である晶癖というものがある。たとえば水晶は先が尖った六角柱形、黄鉄鉱は正四面体や十二面体の姿になりやすい。この形の簡明な美しさ、そして色や透明感に惹かれ、鉱物の結晶を愛好、コレクションする人は多い。一方、岩石は細かい数種の鉱物の粒の集合したものである。

 岩石は地中のマグマ由来の火成岩、泥や砂などの堆積したものが固まった堆積岩、岩石が熱や圧力の作用で変質した変成岩の三つに分類される。さらに火成岩は、地中のマグマがゆっくりと冷えて固まった深成岩と、流れ出した溶岩が固まった火山岩に分けられる。深成岩には花尚岩、かんらん岩などが、火山岩には玄武岩、流紋岩などがある。河原に落ちているような普通の石はほとんどが岩石ということになるが、鉱物の結晶の多くは岩石の穴の中に入っている。日本で観賞石というと、主に天然の岩石の形を愉しむものが多い。石を本の台座に置き、その形を山景などにみたてて愉しむ水石も、ほとんどが岩石である。

 本書で紹介する石のほとんどはいわゆる宝石ではないし、水晶などの大きな鉱物の結晶でもない。一部は岩石だが、石の外形を見せるものでもない。ここで扱うのは主に、ある鉱物の微細な結晶が集合しつつ、他の鉱物と混じり合ってできた塊を切った断面、つまり、石の中に立体的に入っている造形を取り出し、平面的に見せたものである。かなりの部分は瑠璃、ジャスパー、オパールといった、シリカ=二酸化ケイ素を主成分にしたものである。シリカが結晶したものは石英と呼ばれる。石英は私たちが上に乗っている地面を構成する鉱物で二番目に多いものである。石英の大きな結晶は水晶と呼ばれ、石英の目に見えないごく微小な結晶が集合して塊になったものは玉髄=カルセドニーと呼ばれる。この玉髄にいろいろな鉱物が混じることで、色や形のバラエティーが生まれる。

 それらは日本では瑠璃と総称されているが、欧米の宝飾の世界では色、模様の特徴別にさまざまな名が使われてきた。オレンジ・赤茶色のサード、赤味の鮮やかなカーネリアン、緑色のクリソプレーズ、平行線の縞模様のオニキス、そして、曲線の美しい縞模様のあるアゲート、樹木のような形が入っているデンドリティック・アゲート、苔のような、水草のような形が入っているモス・アゲートなど、数十種にもおよぶ名前がある。これら石英系の石が見せる色彩と造形には、他の鉱物を圧倒する多様性があり、名前の多さはそのバラエティーの豊富さを示している。こうした名前の使い方は地域によっても微妙に異なる。日本語の瑠璃は英語のアゲートの訳として使われるが、イコールではない。アゲートは模様の美しい玉髄だけに使われる名前なのに対し、日本では無色透明な玉髄も瑠璃と呼ぶことが多い。また、日本で玉髄という名は、地域によってはまた違ったタイプの石に使われることもある。本書では、やや日本での用法に寄せた形で、色のついた、模様のある玉髄全般を瑪瑙と呼ぶことにする。本書では、三つのパートに分けてさまざまな石について紹介している。まず、石の特徴的な模様と、それを人々がどう受けとめてきたかという話”石は描く”、次に石の造形にこめられた地球の歴史、地域の歴史、ひとつの時代の話についての”石は語る”、そして、石を追い求めてきた人の歴史、私か石を探し求めた話の”石を追う”である。それぞれの項はほぼ独立したものになっているため、読む順番は問わないが、先に掲載されている項目で紹介したことがらを受けて書かれているものも多い。

石は描く フィレンツェの石/縞模様の誘惑/モリソン氏の芸術的なジャスパー/虹を探して/インドの「木の石」)
石は語る オーストラリアの奇妙な石たち/ドラゴンの卵、亀の石/スコットランドの小石
孔雀石の小箱
石を追う 花の石/サンダーエッグの女王とその息子/「小さな緑色の怪物」/コロンビアの瑪瑙

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2017年09月24日

ダイナミックな地球(’16)

 放送大学の、ダイナミックな地球(’16)を受講します。

 地球は太陽系にある惑星の1つで、太陽から3番目に近く、表面に水、空気中に酸素を大量に蓄え、多様な生物が生存しています。

 人類など多くの生命体が生存する奇跡的な星であり、内部・外部ともダイナミックに変化しているようです。

 これまでの地球の歴史、いま現在の地球のあり様、これからの地球の変動などについて、一通り概観してみたいと思います。 

 主任講師は大森聡一先生と鳥海光弘先生です。

 大森聡一先生は1966年東京都生まれ、1997年早稲田大学大学院理工学研究科資源及材料工学専攻博士課程単位取得退学、1998年博士(工学)で、現在、放送大学自然と環境コース准教授です。

 鳥海光弘先生は1946年神奈川県生まれ、1974年東京大学大学院理学系研究科博士課程卒、理学博士で、現在、放送大学客員教授です。

第1回 イントロダクション:地球を4次元的に概観する

 科目の導入として、これから学習しようとする地球をさまざまな時間・空間スケールで概観し、スケールを支配しているのは対流という物理現象であることを直感的に理解しします。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授) 鳥海 光弘 (東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第2回 100億年スケールの歴史

 宇宙における地球の位置づけを明らかにして、地球の形成過程、原料、およびすべての物質の起源である元素の生成にさかのぼって解説します。

 担当講師: 鳥海光弘先生(東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第3回 10億年スケールの循環

 地球における「循環」を概観し、特に、ダイナミックな地球の根源的原動力である、地球内部の循環を紹介します。

 担当講師: 鳥海光弘先生(東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第4回 数億年スケールの循環(1)

 地球内部のプレートテクトニクスを中心に、大陸移動やプレートの沈み込み、造山運動など、地球が少しずつ強力かつ大規模に、表層を改変してゆく現象を取り扱っています。

 担当講師: 鳥海光弘先生(東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

第5回 数億年スケールの循環(2):プレートの沈み込み

 プレートテクトニクスによる地形的様相の変化と化学的環境の変動に関連して、地表を構成する岩石の成因から、マントルと表層環境を結ぶ物質循環までを扱います。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第6回 気候変動:1000万年〜数万年のダイナミックス

 数千万年スケールで起きる表層のテクトニクスは、大気、海洋の循環にも関連し表層環境を変化させ、太陽系内の地球の運動が表層の環境に周期的な変動をもたらしています。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第7回 海洋の循環(1)

 現在の海洋の循環の様相、およびその原因について、解説します。

 担当講師: 河野 健先生(海洋研究開発機構地球環境観測研究開発センター長)

第8回 海洋の循環(2)

 海洋の循環が地球表層の環境に与える影響について解説し、実例として約1万年前に起きた大規模な気候変動を紹介します。

 担当講師: 河野 健先生(海洋研究開発機構地球環境観測研究開発センター長)

第9回 大気の循環 −基本的な大気の流れ

 地球上を循環する大規模な大気の流れについて、その基本的な構造を理解します。

 担当講師: 米山邦夫先生(海洋研究開発機構分野長、神戸大学客員教授)

第10回 大気の循環 −天気と気候に影響を与える大規模変動

 定常的に観測される大気の状態に対して、ある程度の周期性を持ち各地の天気や気候を根幹から変える力を持つ代表的な大気変動現象について理解します。

 担当講師: 米山邦夫先生(海洋研究開発機構分野長、神戸大学客員教授)

第11回 地震と火山のダイナミックス

 地震や火山活動など固体地球起源の変動現象について、その原動力は数億年スケールのプレート運動であることを学びます。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第12回 一方通行の歴史(1):地球史の研究方法

 地球のダイナミクスの探求を地球形成時から現在に至るまでの時間に拡大し、地球史研究で用いられている研究方法の概要を紹介します。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第13回 一方通行の歴史(2):地球史概観とその特性

 地球の歴史を概観し、地球が生命の惑星になった理由や、表層環境・生命の進化との関連について考察します。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第14回 日本列島の形成史

 日本列島の形成史と地球における地学的位置づけを紹介し、その個性と一般性について理解を深めます。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授)

第15回 まとめと発展

 これまでの学習を振り返り、火星と地球の類似性や、地球環境と太陽系・銀河系との関わりに関する、最近の研究の一部を紹介します。

 担当講師: 大森聡一先生(放送大学准教授) 鳥海 光弘 (東京大学名誉教授、海洋研究開発機構特任上席研究員)

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2017年09月22日

古田織部 − 美の革命を起こした武家茶人

 ”古田織部 − 美の革命を起こした武家茶人”(2016年1月 中央公論新社刊 諏訪 勝則著)は、信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けた戦国武将で後に数寄者として多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となった織部の生涯を紹介している。

 古田織部を主人公として描いた歴史漫画作品として、”へうげもの”=ひょうげものが知られている。第1巻は2005年12月22日に発売され、最近の第24巻は2017年6月23日に発売された。この作品の第1巻から第9巻までが全39話で、2011年4月から2012年1月にかけて、NHK BSプレミアムにて放送された。

 へうげる”=剽げるとは、ふざける、おどける、の意味である。織田信長に仕えて調略の才を発揮した古田織部は、のち羽柴秀吉に従って天下取りに貢献し、他方で茶の湯を千利休に学んで高弟となった。利休の死後は、特異な芸術センスで桃山文化に多大な影響力を及ぼし、公武にわたる広範な人脈を築いた。しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣方への内通を疑われ、幕府から切腹を命じられた。古田織部は、単なるへうげものではない。

 諏訪勝則氏は、1965年神奈川県生まれ、國學院大學文学部文学科卒業、同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了、現在、陸上自衛隊高等工科学校教官を務めている。

 古田織部という名前は茶人としての呼称で、武人としては古田重然=しげなりという名前である。1543年に美濃国本巣郡の山口城主・古田重安の弟・古田重定の子として生まれ、後に伯父・重安の養子となった。織部の名は、壮年期に従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来している。古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、1567年に織田信長の美濃進駐と共にその家臣として仕え、重然は使番を務めた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。1569年に摂津茨木城主・中川清秀の妹・せんと結婚した。

 武人としての織部は、信長・秀吉・家康の三大英傑の時代を駆け抜けた。そこには、秀吉の名幕僚として出生街道を歩んだ華やかな姿は見られない。代官・補佐役・調略役として着実に職務に専念する、地味な武人として活動した。美濃土岐氏の家臣から始まり、信長に属してからは、中川清秀と姻戚関係を結び、摂津・播磨攻略の一翼を担った。本能寺の変直後には秀吉に与し、明智光秀討滅に貢献した。賤ヶ岳合戦において清秀が陣没したため、その嫡男秀政を支え、小牧・長久手合戦や四国遠征に参加し、補佐役として活躍した。秀吉の晩年には御伽衆として活動した。千利休ほどではないにしろ、秀吉の側近くにあって、諸将への連絡調整や助言等を行っていた。関ヶ原合戦では徳川方に属し、佐竹義宣の調略に成功している。武人との交流は盛んで、まず、伊達政宗・島津義弘・同家久・佐竹義宣・南部利直・毛利秀元・小早川秀包・北条氏盛ら、戦国大名とその一族の人々を門弟としていた。次に、細川幽斎・同忠興・松井康之・織田有楽・黒田如水・浅野長政・同幸長・大野治房・和久宗是・猪子一時・有馬豊氏・小堀遠州・上田宗箇・金森長近・同可重・九鬼守隆・古田重勝・村上頼勝・桑山重勝・同元晴・寺沢広高・竹中重利・別所吉治・藤堂高虎・石川貞通・池田利隆ら、織田・豊臣系の武将たちとの交流があった。次に、徳川家康・秀忠を始め、本多正信・本多正純・土井利勝・榊原康政・松平正綱・水野守信・板倉重宗ら徳川家とその重臣たちにも茶の湯について指南していた。このように、旧豊臣系、徳川系を問わず、分け隔てなく交流し、軍事・政治的なネットワークは確たるものであった。

 文人との交流も盛んで、平時は文芸に勤しみ、秀吉・家康時代は、公家社会の最上位近衛信尹=このえ のぶただから連歌の指導を受けるなど、文事に一層精進していた。師の千利休を始めとして、津田宗及・同宗凡・神屋宗湛・松屋久好・住古屋宗無・今井宗久・同宗薫・武野宗瓦・藪内紹智といった茶人と深く関わった。また、近衛信尹・今西洞院時慶ら公家衆とも交わりを持った。さらには本願寺教如・万里小路充房・文英清韓・松梅院禅昌・木阿弥光悦・松花堂昭乗とも親しかった。市井の文化の担い手である京都の下京衆などにも茶の湯を伝授した。こうして、茶の湯を趣味とする風流人の数寄者として、多くの人々から慕われ茶の湯界の先導役となった。誠実な人柄で周囲の人々に丁寧で気配りの利いた対応をしながら、最上を追い求める孤高の芸術家でもあった。村田珠光によって創始され、武野紹鴎を経て、千利休が大成させたわび茶を継承した。そして、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって、織部好みと呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。千利休は自然の中から美を見いだした人だが、作り出した人ではない。古田織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっていると言われる。2014年の古田織部400年遠忌に合わせて、京都市北区上賀茂桜井町に古田織部美術館が開設された。

第1章 一大茶人に至るまで−生誕から信長時代 織部の生い立ち/信長の家臣として/文芸活動
第2章 利休の門人となる−豊臣政権確立期 秀吉に臣従/茶人としての道/中川家を支援/紀州・四国遠征/武将としての飛躍
第3章 師の側近として−天下人秀吉の時代 武家茶人/小田原遠征/秀吉の茶頭
第4章 天下一の茶匠−関ケ原合戦前後 合戦前夜/織部焼/関ヶ原合戦本戦/合戦後
第5章 巨匠の死−大坂夏の陣まで 東奔西走の日々/将軍家の茶匠/織部死す
終 章 織部の実像 武家文人/芸術家織部
主要参考文献/古田織部略年譜

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2017年09月16日

鴨長明 − 自由のこころ

 ”鴨長明 − 自由のこころ”(2016年5月 筑摩書房刊 鈴木 貞美著)は、”方丈記”で知られ数寄の語で語られこれまで必ずしも明らかにされてこなかった鴨長明像を具体化する試みをしている。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

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 これまで鴨長明の名は、かなりの長きにわたってよく知られてきたが、その像は、なかなかひとつに結ばれなかった。その生涯を仏教や和歌の側面から解釈をしなおし、真の自由ともいえるその世界観が形成された過程を追っている。

 鈴木貞美氏は1947年山口県生まれ、1972年東京大学文学部仏文科卒業、東洋大学文学部専任講師、助教授を経て、1989年国際日本文化研究センター助教授、教授を務め、定年後は同名誉教授となっている。

 長いあいだ、”方丈記”に自分でも不思議なほど関心を抱いてきたという。はっきりしているのは、あの流れるようへ変化に富み、それでいて、よく整った文体の魅力に惹かれるからである。日本語の文章の歴史のうえで、あれほど画期的な役割をはたした文体はない。それはどのようにして可能になったのか、もう一歩踏み込んで考えることができると思ったそうである。鴨長明の名は、長きにわたって広く知られてきたが、近代に入っても著作の範囲も定まらず、とりわけ仏教信仰をめぐって今日でも決着がついたとは言い難い。そこで、長明作であることが疑いない”方丈記””無名抄””発心集”の三作から、新たな長明像の提出に挑んでいる。自由のこころという副題を付けてしているのは、自由とは読んで字のごとくおのずからよしとすることであり、長明の場合、自適をあわせ、束縛を嫌い、自身にしっくり感じられることを求める心があったからである。

 古代、自由の語は謀反や叛逆の含意が強かったが、室町時代に、武家や高位の武士に禅宗が浸透するにつれ、仏教でいう釈迦の自由自在が兵法などを自在に駆使することに転じ、やがて何につけても、型から入って型を抜け自在さを獲得することを目指すようになった。自由の概念が大きく転換する門口のところで、数寄の根方とでもいうべきものが養われていった。長明は、1155年に賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。高松院の愛護を受け、1161年に従五位下に叙爵されたが、1172年頃に父・長継が没した後は後ろ盾を失った。1175年に長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚したことから、長明は鴨祐兼とその後任を争うが敗北した。和歌を俊恵の門下として、琵琶を楽所預の中原有安に学んだ。歌人として活躍し、1201年に和歌所寄人に任命された。1204年に河合社の禰宜職を望んだが、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず神職としての出世の道を閉ざされた。長明は出家し、東山次いで大原、のちに日野に閑居生活を行った。1211年に飛鳥井雅経の推挙を受けて、将軍・源実朝の和歌の師として鎌倉にも下向したが、受け入られず失敗している。公家の世が衰退し、武士の台頭がはじまる変動期に生涯を過ごし、京の都が度重なる災害によって衰退し、多くの人が飢饉などで死んだ時代に生きた。小さな住まいでの静かな暮らしを望み、その心情の移り変わりを記し、4年後の1216年に61才で没した。

序 ゆく河の流れは/第1章 鴨長明―謎の部分/第2章 長明の生涯―出家まで/第3章 『無名抄』を読む/第4章 『方丈記』―その思想とかたち/第5章 『発心集』とは何か/第6章 歿後の長明

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2017年09月10日

江戸の長者番付

 ”江戸の長者番付 ”(2017年3月 青春出版社刊 菅野 俊輔著)は、歴史資料に基づいて江戸時代の様々な職業の年収を明らかにしている。

 江戸幕府の八代“暴れん坊”将軍の年収は1294億円であったという。その将軍に勝るとも劣らない1000億円超の年収を稼いでいた人物がいたそうである。

 菅野俊輔氏は1948年東京都目黒区生まれ、早稲田大学政治経済学部卒業、3度の食事より江戸の咄が大好きという江戸文化研究家である。現在、早稲田大学エクステンションセンターや毎日文化センター、読売・日本テレビ文化センター、小津文化教室などで、江戸のくずし字や江戸学など、江戸を楽しむ講座の講師をつとめながら、講演、著述、テレビ・ラジオ出演など多方面で活躍している。

 もともと、番付は大相撲における力士の順位表で、正式には番付表という。ここから転じて、その他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる。長者番付は、今でいう高額納税者公示制度である。この制度は、政府が数千万〜数億円単位の高額納税者を2006年まで公示していた。公示された高額納税者の名簿は、一般的に高額納税者番付や長者番付として用いられた。2005年4月1日から個人情報保護法が全面施行されたことを受け、この制度は廃止された。

 むかしの東京、江戸は、失われたワンダーランドで、たくさんの謎があった。江戸の長者番付とお金持ち事情は、その最大の謎といえる。江戸は、18世紀の前半に100万都市になった。徳川将軍家の城下町であるため全国の大名や旗本・御家人の屋敷が並び、江戸の範囲といわれる四里四方の6割の広さに50万人の武士が住んでいた。残りのうち、2割が寺社で、僧侶や神官が暮らしていた。そして、残り2割の地に、50万の町人が住んでいた。それゆえ、住宅に工夫を施した結果、裏店とよばれる集合住宅の長屋に7割の35万人が住んでいた。御三家の紀州家から8代将軍となった徳川吉宗と町奉行の大岡忠相越前守が江戸の改革に努め、18世紀の後半は、江戸っ子にとって住みやすい大都会になった。歌舞伎や出版、料理ブームなど、いかにも江戸らしいユニークな文化がおこり、彩色の浮世絵も誕生している。19世紀になると全国的に旅ブームが到来し、武都の江戸は、古都の京、商都の大坂とともに三都と呼ばれ、観光都市になり、全国からたくさんの人びとが訪れた。江戸のお金は複雑で、金・銀・銭の三貨があり、それぞれの単位が違っていた。金貨は高額貨幣、銀貨は中間で、銭貨は低額貨幣で、19世紀に通用した貨幣には、一両小判、一分金と一分銀、一朱金と一朱銀、四文銭と一文銭などがあった。18世紀の後半から、金貨と同じように貨幣一枚の価値が統一された計数貨幣も鋳造されるようになった。長屋住まいの江戸っ子は、文を単位とする銭貨で暮らしていた。旅に出かける人は、小粒とよばれた一分銀や一朱銀をたくさん持ち、道中で銭に両替して、草鞋代、団子代、旅龍代などを払っていた。本書では、金一両=約16万2000円、銀一匁=約2700円という算出で、今のお金に換算している。江戸には武士と町人が生活していて、武士の給料・収入は百石とか百俵というように米が基準となっていたが、町人の給料・収入はお金であった。時代がくだると貨幣経済が進展し、武士も自家用分を除いて換金するようになったが、給料・収入がお金に変わることはなかった。農村に住み、田畑を耕して米や野菜を生産する農民は、税金の年貢を現物で納めていたが、時代がくだると畑作での収穫の分をお金で納めるようになった。そんな江戸時代に、人びとは、どのくらいの給料・収入を得て、どのように豊かな、あるいは、慎ましい生活を送っていたのであろうか。将軍・大名から下級武士、長屋に住む町人、歌舞伎役者、花魁、豪商まで、そのフトコロ事情を丹念に探ってみたという。

 ついに発表、江戸の長者番付ベスト10。1位.吉宗 1294億円、2位.加賀前田家 1134億円、3位.越後屋 17億円、4位.寛永寺 7億3710万円、5位.大岡忠相奉行 2億2226万円、6位.歌舞伎役者 1億7820万円、7位.銀座大黒常栄 1億3300円、8位.花魁 1億2960万円、9位.長谷川平蔵 1億230万円、10位.奥女中 3502万円、次点.杉田玄白 2268万円。  

1章 江戸の長者番付ベスト10―年収“億”をはるかに超えるお金持ちたちがズラリ
2章 江戸時代、あの職業・この商売の意外な給料事情―貧乏武士は年収100万円以下、町人・農民は意外にも…
3章 比べてビックリ!江戸のおもしろ給料比較―大岡越前と鬼平、金持ち大名と貧乏大名、千両役者と花魁…
4章 江戸っ子はなぜ、“宵越しの金”を持たなくても生活できたのか−長屋暮らしの庶民はいくら稼いで、どう使っていた?
5章 江戸の超大金持ちたちの華麗なる(?)生活−将軍とその妻から、百万石の大名、豪商、義賊まで
6章 じつは一番貧しかった?武士の悲しいフトコロ具合−傘張り、金魚飼育、朝顔づくり…欠かせぬ内職で生活費はハウマッチ?

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2017年09月04日

足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍

 ”足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍”(2016年5月 戎光祥出版社刊 山田 康弘著)は、明応の政変で追放され全国を流浪するも不死鳥のごとく舞い戻り二度も将軍の座に就いた波瀾万丈な生涯を紹介している。

 足利義稙=あしかがよしたねは、室町幕府第10代将軍で、父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟の義視、母は日野富子の妹に当たる裏松重政の娘で、初名は義材=よしき、将軍職を追われ逃亡中の1498年に義尹=よしただ、将軍職復帰後の1513年に義稙と改名した。

 山田康弘氏は1966年群馬県に生まれ、学習院大学文学部史学科、同大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了、博士(史学)で、日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、学習院大学、国立東京・小山両工業高等専門学校非常勤講師を務めている。

 足利義稙は、1466年に義視の子として、父の近習・種村九郎の邸で生まれた。1467年1月に応仁の乱が勃発すると、父義視は兄である将軍義政と対立して、9月には東軍より山門に出奔し、ついで西軍に身を投じた。この時、東軍の武田信賢が義材を護り西軍に送り届けたという。1473年に義政の子義尚が9代将軍となり、1477年11月に応仁の乱が終結すると、義視・義材親子は西軍の一角であった美濃国の土岐成頼、斎藤妙椿の庇護のもとにあった。1478年7月に大御所・義政と義視の和議が正式に成立した後も、美濃国に留まり続けた。義材は1487年に義尚の猶子として元服し、義尚の母日野富子らの推挙で、美濃在国のまま従五位下左馬頭に叙位された。1489年に、義尚が旧西軍であった近江国の六角高頼征伐の在陣中に死去した。義稙は父義視、土岐成頼、斎藤妙純に伴われて上洛し葬儀に参列しようとしたが、細川政元の反対で葬儀終了後に入京した。政元は、義尚と義材の従兄弟の香厳院清晃を将軍後継者候補に推していた。しかし、義政・富子夫妻が義材を支持したため、義材の将軍就任がほぼ決定した。1490年に大御所足利義政が没してのち幕府の実権を握り、義尚の遺志を継ぎ第2次六角征伐、河内出陣の軍を起こしたが、これが原因で細川政元と対立し、1493年4月政元のクーデターにより逮捕され、将軍を廃立された。将軍職を廃され幽閉されたが、脱出して越中国、ついで越前国へ逃れた。1499年に京都奪回を企図したが果たさなかった。その後も諸大名の軍事力を動員して、京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送った。1507年に細川政元が暗殺され細川家が分裂状態に陥ると、義尹は将軍への復帰の好機と見て、1508年4月に大内家の軍事力に支えられ、中国地方や九州の諸大名とともに、山口から海路上洛しようとした。同年6月に京都を占領して、11代将軍義澄や高国と対立していた管領細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。政権は、管領となった細川高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていた。大内義興が周防国に帰国すると、管領細川政元の養子の高国と対立し、1521年に細川晴元・持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われた。戦国時代は、足利将軍家にとって厳しい時代であった。各地の大名たちは、もはや将軍の命令をかつてのようにはきちんと遵守しなくなった。また、将軍は、政情不安によって京都から地方にその居所をしばしば移さざるをえなくなった。

 かつて戦国時代の足利将軍について、もはや権力を失い重臣たちの傀儡になってしまった、などと評価されてきた。しかし、近年、戦国時代の足利将軍に関する研究は少しずつ着実にすすんでいて、そのような評価は誤りであることがしだいに明らかにされつつある。戦国時代の将軍たちは、決して傀儡ではなかったし、決して無力でもなかった。厳しい環境の故か、戦国期の歴代将軍は、足利義稙をはじめ、知将・名君が多かった。将軍たちは、みずから登用した側近らの補佐をうけながら、戦国期にいたっても京都内から、将軍のもとになお大量に持ちこまれていたいろいろな訴訟をさばいていた。さらに、全国各地の大名たちにさまざまな栄典を授与し、大名たちから依頼があれば紛争調停をおこなっていた。このように、足利将軍は戦国時代にいたっても、一定の政治的役割を果たしていた。この時代の足利将軍については、一般はもとより専門の研究者のあいだですら関心が低く、織田信長と死闘を演じた足利義昭をのぞけば、戦国期における個々の将軍について論じた伝記すら今のところない。戦国期の将軍のなかでとくに足利義植をとりあげたのは、現代ではあまり知る人のいない義稙の波瀾万丈な生涯を広く一般に紹介したい、とかねてから願っていたからにほかならない。足利義稙は、戦国時代を懸命に生き、いくども挫折しながらそれでもあきらめずに戦いぬいた。義植の人生は、急上昇と急降下のくり返しであった。しかもこの間、将軍の身でありながら逮捕されたり、毒殺されかかったこともあった。また、大嵐のなかを脱獄したこともあったし、夜中に刺客に襲われ、自ら剣をふるってこれを撃退する、といった危難に遭遇したこともあった。義稙は戦国時代を懸命に生き、いくども挫折し苦悶しながら、それでもあきらめずに挑戦しつづけた。とかく現代では無力・無能であったといわれる戦国時代の将軍たちが、本当はどのような人びとであったのかを知る手がかりもあたえてくれる。近年、歴史学関係者のあいだでは、義稙のような隠れた英雄を発掘し、紹介していこうという動きが生じつつある。隠れた英雄から戦国時代を眺めてみるのも一興であろうし、これまで気づかなかった戦国時代の新しい側面がみえてくるにちがいない。

第T部 思いがけなかった将軍の地位
 第一章 応仁・文明の乱はなぜ起きたのか/第二章 義稙はなぜ将軍になりえたのか/第三章 義稙はなぜ外征を決断したのか
第U部 クーデターと苦難の日々
 第一章 義稙はなぜ将軍位を追われたのか/第二章 義稙はいかにして反撃したのか/第三章 義稙はなぜ大敗してしまったのか
第V部 ふたたびの栄光と思わぬ結末
 第一章 義稙はなぜ将軍位に返り咲けたのか/第二章 義稙はいかにして政治を安定させたのか/第三章 義稙は賭けに失敗したのか/第四章 義稙の人生を振り返って

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2017年09月01日

資格を取ると貧乏になります

 ”資格を取ると貧乏になります”(2014年2月 新潮社刊 佐藤 留美著)は、資格取得者の数が激増しその割に仕事は増えず過当競争とダンピングが常態化し資格貧乏があふれかえっている現状の原因の一端を紹介している。

 狭き門をくぐり難関国家資格を取得すれば、センセイとあがめ奉られ高収入に恵まれるものと考えられていた。しかしいまや時代が変わって、資格を取得するということが貧乏になることに繋がるという。

 佐藤留美氏は1973年東京都生まれ、青山学院大学文学部卒、出版社勤務を経て、2004年に独立し企画編集会社経営者兼ライターである。

 多くの人は、資格を取得するために大金を支払って勉強している。ここで大金を支払うのは資格を取得できたならば自身がより高収入の職に就くことができるからと見込んだ上でのことであった。資格を生かして自分の腕一本で生きている姿は、組織で遊泳してゆるりと生きてやれといった発想とは無縁の誇りと潔さが感じられた。ところがいま、弁護士や公認会計士は昔ほど仕事がないらしいというウワサを耳にするようになった。それどころか食うに困る人が続出しているらしい、という声も聞こえる。そこで著者は、弁護士、公認会計士、税理士、社会保険労務士などの国家資格、あるいはTOEICなどの英語能力試験などの実態を探る取材を始めた。その結果、明らかに違和感を抱かずにはいられない事実が、続々と浮かび上がってきた。たとえ司法試験に合格しても、大手事務所に入れるようなエリートは上位7校で成績10番以内、英語が達者な20代の男性ばかりだという。せめて中小事務所の軒先を借りるノキ弁になれないかと就職活動をしても、すげなく断られる若手が多く、何のスキルも実務経験もないのに、自宅でケータイひとつで即、開業せざるをえない通称ソクドクのケー弁が続出している。5人に1人の弁護士の年収は、年間所得が100万円以下と、生活保護受給レベルにまで落ち込んでいるようである。公認会計士も、弁護士と似たような状況下にあるという。現代社会においては、資格を取得できたとしても職に就けないという人が増えている。弁護士、公認会計士だけでなく、税理士、弁理士、 司法書士、社労士などといった資格までもがこれに当てはまっている。資格を取得することができても、高収入の仕事に就けないばかりか、勉強のために大金を失う時代になっている。背景には、資格を所持して業務を行っている者が高齢者となっても引退せずに業務を行い続けている、という事情が存在する。人材が過剰となっており、新規に資格を取得した者は職に就けない状態なのである。また、IT化が発達によって、素人のコンピュータの操作により複雑な業務が容易に行えるようになっていることもある。サラリーマンが資格貧乏に陥らないためには、独立の前に実務経験を積むこと、スペシャリスト顔はやめること、人が行かない空白地帯を見つけることなどが必要になってきている、という。

第1章 イソ弁にさえなれない――弁護士残酷物語
 5人に1人は「生活保護受給者並み」の所得/たった10年で2倍に/突出して多い30代/「法科大学院修了者7〜8割合格」の空手形/三振が怖い/数字合わせだった「3000人構想」/三流大学にも法科大学院が出来たワケ/失敗の理由/法学部まで巻き添えに/需要がない組織内弁護士/類似資格の存在/事件数もピークアウト/国選弁護人の仕事も奪い合い/8割超の法科大学院が定員割れ/試験対策はやっぱり予備校頼み/すさまじいカースト構造/予備試験という抜け穴/司法修習も自腹に/最初の弁護士業務は「自己の自己破産」?/「ケー弁」現る/過払い金バブル/使い捨てされた若手の行き先/弁護士がすし屋になっちゃった!/「過払い組」は福島を目指す/ボランティア活動が食い扶持に/始まったディスカウント競争/「特別負担」の憂鬱/エリートは霞が関を目指す/有望株は「リーガル商社マン」/「食べログ」みたいにランク付けされる?

第2章 “待機合格者”という生殺し――公認会計士の水ぶくれ
 “待機合格者”が続出/公認会計士も10年で2倍に/金融庁と経団連が後押し/「給料半年分あげるから出ていってくれ」/狙い撃ちされた「会計バブルの申し子」たち/若手リストラの酷い手口/会計大学院は入ると損をする/リストラ組の行き先/「企業財務会計士」という詐術/経団連の拒否/IFRS強制適用の時限爆弾/日本の会計士資格はガラパゴス

第3章 爺ちゃんの茶坊主になれ!――税理士の生き残り作戦
 「足の裏にくっ付いたご飯つぶ」/月5万円の顧問料が5000円以下に/記帳代行業務も壊滅状態/全自動会計クラウドサービスの衝撃/e-Taxでも出る幕ナシ/マイナンバー制度導入で個人客はいなくなる?/営業に引っかかるのはケチな客ばかり/税理士を変えると税務調査が来る?/「節税コンサルタント」になれるか?/仲間の足もとを見る元国税/不動産屋、生命保険代理店になる人も/会計士の首に鈴を付けられるか?/全員で「オース!」/箔付けに集団で著書を出す/税理士事務所が税理士を採らない理由

第4章 社会保険労務士は2度学校へ行く
 10年前から1万人増/人気の理由は独立・開業のしやすさ/親に「テヘペロ」で食いつなぐ/ボトルネックは独占業務の少なさ/「うざい社員」になるから転職できない/恐怖の「ヒヨコ食い」/笑顔の練習に励む中年社労士の悲哀/今度は先生として資格予備校に逆戻り/合格祝賀会写真のウソ/人気講師はホスト並みの口のウマさ/やり手は生保営業マンと組む/沖縄というオイシイ穴場/鬱病患者の「障害年金」申請でひと儲け

第5章 TOEICの点数が上がると英会話が下手になる
 受験者数230万人超/「TOEIC採用」はもはや下火?/英会話が出来るようになるとスコアが下がる/900点でも半数は喋れない/「ガラパゴス化した経産利権」/安倍政権はTOEFLへの移行を推進/先進企業は「英語面接」/結局は「話す内容」

第6章 それでも資格を取りたいあなたのために
 アドバイスその1・サラリーマン根性を捨てる/アドバイスその2・資格にこだわり過ぎず、まずは就職を/アドバイスその3・サラリーマンになったらサラリーマンになりきる/アドバイスその4・人が行かない「空白地帯」を目指す/アドバイスその5・出来ない仕事も引き受ける/アドバイスその6・顧客の話し相手になる/アドバイスその7・先輩を頼る

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2017年08月27日

廃線紀行 − もうひとつの鉄道旅

 ”廃線紀行 − もうひとつの鉄道旅”(2015年7月 中央公論新社刊 梯 久美子著)は、東北海道の根北線から鹿児島の交通南薩線まで各地に散在する廃線から50を精選して踏破し往時の威容に思いを馳せつつ現在の姿を活写している。

 廃線とは、廃止になった鉄道路線のことである。絶景廃線と呼びたくなる路線がある一方で、ありふれた景色の中を通っているが、歩いてみると何とも楽しい路線も少なくない。もしあなたが鉄道が好きで、歩くことも好きなら、ぜひ廃線歩きを経験してみてほしい。きっと、鉄道旅の新しい楽しみ方を発見できるはずだ、という。

 梯久美子氏は1961年熊本県生まれ、父親は自衛官で5歳のとき熊本から札幌に転居した。北海道札幌藻岩高等学校、北海道大学文学部国文学科卒業後、社長室勤務を経て編集・広告プロダクションを起業した。2001年よりフリーライターとして雑誌にルポルタージュを執筆し、2006年に第37回大宅壮一ノンフィクション賞、2017年に第68回読売文学賞、第67回芸術選奨文部科学大臣賞、第39回講談社ノンフィクション賞をそれぞれ受賞した。

 5歳になる年の夏の引っ越しは、親子5人、鉄道で日本をほぼ縦断する大移動で、子供たちにとってはまさに非日常の胸おどる経験であった。車窓を流れる景色もシートに伝わる振動も駅弁の彩りも、幸福な記憶として刻まれたのだろう。以来、鉄道の旅をこよなく愛するようになった。鉄道旅の楽しさの大きな要素は、心地よいスピード感である。近くの景色はすばやく流れ、遠くの風景はゆっくり変化する。だが、歩く速さでしか発見できないものもある。雑草の陰に隠れたキロポスト、錆びかけた信号機や警報機、蔓性の植物がからみついた架線柱などなど。廃線に魅せられたのは、子供の頃から地図を見るのが好きだったことに加え、ここ10何年か歴史にかかわる取材を多くしていることが関係している。何の痕跡も残っていない区間を古い地図を頼りにたどるようなとき、いかにも鉄道の線路っぽくゆるやかなカーブを描いている道を見つけて、これは線路跡が転用された道路ではないかなどと推測する。地面の上を水平方向に移動するのは地理的な旅であるが、廃線歩きにはこれに、過去に向かって垂直方向にさかのぼる歴史の旅が加わる。廃線の旅の必携アイテムは地図と年表で、両方をポケットに入れて歩いていると、廃線とは、地理と歴史が交わる場所であることに気づく。天災、戦争、線路の付け替え、モータリゼーションの普及、そして過疎、さまざまな理由で鉄道は消えていった。だが昔の路盤を歩いていると、いま自分が踏んでいる土の上を、かつて多くの人々の人生を乗せて列車が走っていたことを実感する。廃線歩きの基本は、かつての線路の跡を徒歩でたどることである。線路が撤去されずに残っている新しい廃線では、レールや枕木を踏みながら歩く経験ができるし、明治時代に廃止になった路線でも、アーチが美しいレンガ造りのトンネルや、どっしりとした石積みの橋脚などが、ちゃんと残っている。線路の跡を徒歩でたどると、走っている列車から見るのとは違った景色が見えてくる。何度か廃線を歩いていると、だんだん痕跡を見つけるコツがわかってきて、たとえば線路跡に沿って石やコンクリートの段差が続いていると、これはホームの跡だな、と見当がつく。靴底に硬いものが触れて地面を見ると、とっくにレールが撤去された道床から、白っぽく風化した枕木がなかば土に埋もれながら顔を出していたりする。本書では、北海道から鹿児島県まで、古くは明治40年に廃止になった関西鉄道大仏線から、新しいところでは平成19年に廃止になったくりはら田園鉄道および鹿島鉄道まで、100年間の廃線の歴史をたどった。平成22年1月から同26年12月まで、読売新聞の土曜夕刊に連載した紀行文の中から、50本を選んでまとめてみた。

はじめに 歩く鉄道旅のすすめ
北海道・東北
 下夕張森林鉄道夕張岳線/国鉄根北線/国鉄手宮線/定山渓鉄道/岩手軽便鉄道/くりはら田園鉄道/山形交通高畠線/国鉄日中線
関  東
 鹿島鉄道/日鉄鉱業羽鶴専用鉄道/足尾線/JR信越本線旧線/日本煉瓦製造専用線/東武鉄道熊谷線/陸軍鉄道聯隊軍用線/東京都港湾局専用線晴海線/横浜臨港線・山下臨港線
中  部
 新潟交通電車線/JR篠ノ井線旧線/布引電気鉄道/JR中央本線旧人日影トンネル/国鉄清水港線/名鉄谷汲線/名鉄美濃町線/名鉄三河線(猿投−西中金)/名鉄瀬戸線旧線
近  畿
 三重交通神都線/国鉄中舞鶴線/蹴上インクライン/江若鉄道/JR大阪臨港線/姫路市営モノレール/三木鉄道/関西鉄道大仏線/天理軽便鉄道/近鉄東信貴鋼索線/紀州鉄道
中国・四国
 JR大社線/下津井電鉄/靹軽便鉄道/国鉄宇品線/JR宇部線旧線/琴平参宮電鉄(多度津線・琴平線)/住友別子鉱山鉄道(上部鉄道)
九  州
 JR上山田線/九州鉄道大蔵線/国鉄佐賀線/大分交通耶馬渓線/高千穂鉄道/鹿児島交通南薩線

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posted by kpie44 at 05:52 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

いのちの器 - 医と老いと死をめぐって

 ”いのちの器 - 医と老いと死をめぐって ”(1994年8月 PHP研究所刊 日野原 重明著)は、著者が70代のときに医と老いと死をめぐって思うところを執筆した随筆集である。

 聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏は、自宅で静養を続けていたが体調を崩し、2017年7月18日午前6時半に呼吸不全で死去、享年105歳であった。1911年山口県生まれ、京都帝大医学部卒、1941年から聖路加国際病院に勤め、同病院内科医長、聖路加看護大学長、同病院長などを務めた。また、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等も務めた。京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士、マックマスター大学名誉博士で、日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章した。

 予防医療の重要性を唱え、1954年、聖路加病院内に民間として初の人間ドックを開設した。また、成人病と呼ばれていた脳卒中、心臓病などを習慣病と呼んで病気の予防につなげようと1970年代から提唱した。子供のころはステンレスやプラスチックやディスポーザブルの器はなく、たいていの容れ物は土でできた陶器や磁器の容れ物であった。小さな手に待った大切な器を落として当惑したり、叱られたことを思い出す、という。私たちの今のからだは、ステンレスでもプラスチックでもなく、朽ちる土の器である。その中に何を盛るかが、私たちの一生の課題である。若い時から、一生をかけて盛る、土でできたいのちの器を、いのちゆえに器も大切にしたいものである。

 1911年に山口県吉敷郡下宇野令村にある母の実家で、6人兄弟の次男として生まれた。父母ともにキリスト教徒で、父親・日野原善輔はユニオン神学校に留学中だった。日野原重明氏は父親の影響を受け、7歳で受洗した。1913年に父親が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居した。1915年に父親が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会に移り、神戸に転居した。1918年に神戸市立諏訪山小学校入学、1921年に急性腎臓炎のため休学、療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始めた。1924年に名門の旧制第一神戸中学校に合格したが、入学式当日に同校を退学し関西学院中学部に入学した。1929年に旧制第三高等学校理科に進学し、1932年に京都帝国大学医学部に現役で合格し入学した。大学在学中に結核にかかり休学し、父親が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間の闘病生活を送った。1934年に京都帝国大学医学部2年に復学した。父親はいつも前向きに、新しいものを求めていきいきと生き続けた。生前、骨になるまで伝道し続けたいと口ぐせのように言っていたという。その言葉通りに、81年の生涯を最後までキリスト教の伝道に捧げ、神から与えられたいのちを燃焼し尽くした。信仰の人、努力の人、実践の人であったが、それにも劣らぬ強い信仰心をもち続けた母親によって、自分の小さないのちを生かす道を示され、今日までの医師としての歩みを続けてきたという。第二次世界大戦勃発の翌年に、戦時下で燈火管割下の暗い式場で静子と結婚の式を挙げ、戦後に三人の男の子が生まれた。第二次大戦中は、応召した海軍で少尉となったものの、学生の時に病んだ胸の傷痕のために召集はなく、東京・築地の聖路加国際病院で昼夜を分かたず忙しく診察に明け暮れしているうちに、やがて終戦を迎えた。壮年期を、戦前、戦後の激しい時代の中に過ごし、それから、はや半世紀が経過しようとしている。医学の研究と教育と臨床に熱中して働き、自分の壮年期の終わりを意識しないうちに還暦を迎えていた。それから矢のように年月が過ぎ、親しい後輩と教え子の数人に招かれた席が喜寿の祝いとなった。還暦の2年前には、思わぬアクシデントとして、よど号のハイジャックに遭遇した。生還してからは全く刷新された思いで、今日までの生活をフル回転し続けた。貝原益軒も、老後の一日は若き時の十日に、一月は一年に値し、老後は、あだに日を暮らすべからずと言っている。喜寿を過ぎて今を生き、高等学校や大学での良き友、良き師、良き文学や美術、音楽との出会いでとり入れられたことを感謝している。この本の中で、第一部は昭和63年に一年にわたって中日新聞(東京新聞)に連載したものに加筆したものである。第二部のうち最初の5篇は、平成元年に、雑誌、歯界展望に連載したものに手を加えて転載したものであるという。

いのちの四季
 いのちを考えよう・正月はよい習慣を身につける絶好の機会/健全な心を宿す・たとえからだは病んでも心こそ朽ちない宝/成人病・医学の進歩よりも意識の革命を/人生の半ば・最後の審判のための意義ある記録を残す/脳死・市民が参加する英国の倫理委員会に学ぶ/病者・じっと耐えて雪解けの春を待つ細い竹/耐寒と心・春を待つ思いは生きるエネルギー源/入試と人間形成・創造力と高い感性は受験では育たない/卒業式・山また山の人生への出発点/難聴・音の世界から隔離される人間の孤独/お墓・家の中にも故人が愛用した品物を/季節の言葉・自然への共感性を絆としてきた日本人/花冷え・老人のカゼは軽くても早く受診を/習慣病・「人は習わし次第」病気予防は各自の責任/婦人の健診・奥さんの健康にも愛のこもった配慮を/科学技術・最先端の技術よりも「養生」あっての医学/人生の第六期・健やかな老後は誕生日の禁煙から/急病に備える・かかりつけの主治医を持つことの大切さ/母への言葉・成人してからも時には心の会話を/老齢者社会と男性・家庭中心の生活が老人の健康を育む/

 先人の医師に学ぶ・医師を正しく選択し心の交わりを持つ/病気の一次予防・衣食住の悪習慣を改める生活のデザイン/音の公害・駅や空港を騒音のない健やかな環境に/いのちと時間・かぎりある未来の「時」をどう刻むか/第三の人生・定年十年前から生き方を組み立て直そう/ヘレンーケラーに学ぶ・心やからだに痛みのある人の友となる/自助と庇護・病から立ち上がる心を支えるもの/エイズ・患者と共存しながら蔓延を防ぐ教育を/自殺を避ける術・うつ病の早期治療で悲劇を防ぐ/言葉と手紙・手で書かれた「ふみ」の中のさまざまな人生/義務教育と生涯学習・何をどう学ぶかこそ、生き方の選択/ハートの日・文明国家の病から心臓を守ろう/終戦記念日・耐えることを経験しない豊かな時代の不幸/北米のホスピス・生涯の終わりに贈る優しく気高い愛/気象情報と健康情報・医師の言葉を生活に上手に取り入れる/リハビリ会議に思う・「世話される」日は誰にも必ず訪れる/文明国の怠慢・聴診器・血圧計もない救急車のお粗末さ/ガンは避けられる・生活習慣を改めることで予防できるガン/老人国家と病気・北欧で学んだ尿失禁者への温かな配慮/糖尿病・「肥ゆる秋」でなく「心高める秋」に/老いに再び光を・医学の進歩で取り戻す「心の窓」/心身のリハビリ・周囲の接し方でボケは正常に戻る/セルフ・チェック・通信サービスの進歩でより正確な健康管理/「文化」の本質・からだという朽ちる土の器に健やかな精神/中高年のストレス・医師に「自分」を打ち明け、行く道の指針を/三歳児・周りの人との距離を直感で判断する子供/健やかな人間

 自然からの恵みに感謝しよう/紅葉に寄せて・自らを自らの色素で染める人生の秋/自己投資・いのちのサポートとしての定期健診/ノーベル週間・医学研究者に愛の心をどう育てるか/人生の冬に・「最期の光」に人は何を求めるか/心の中の春・健やかな魂はいつまでも生き続ける
医と老いと死をめぐって

 病人と医師・もっと心と肌で触れ合う信頼関係を/言葉と医療・病は語り合いの中で癒される/患者の生き甲斐・病人を孤独にさせてはいけない/死を学ぶ・自分のものでない痛みや不安を汲み取る感性/病名告知・死んでいった友の遺した言葉の重さ/老いる・外の世界とふれあう場を作ってあげよう/人間ドツク・病気とは発見すべきものでなく予防すべきもの/老人の正常値・老人の健康評価にはゲタをはかせて/老人医療の行方・患者とコンピューターの間で/人生の苦しみ・生・老・病・死を超える出会い/人生の悦び・患者の側に立った終末医学の確立を/死を看取る・もの言えず死んでいくことの淋しさ/いのちのうつろい・生と死の狭間で精一杯生きる

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2017年08月17日

子規と漱石

 ”子規と漱石 − 友情が育んだ写実の近代”(2016年10月 集英社刊 小森 陽一著)は、夏目漱石のいちばんの理解者であった正岡子規の生き方を中心に二人の関係を紹介している。

 第一高等中学の同窓生である子規と漱石は、意見を闘わせながら新たな表現を模索した。しかし、1902年に亡くなった子規からの最後の手紙を、漱石は返事をせずに放置したという。

 小森陽一氏は、1953年東京生まれ、1976年北海道大学文学部卒業、1979年同大学大学院文学研究科修士課程修了し、大学院在学中に札幌の予備校講師を勤め、その後、成城大学勤務を経て東京大学に着任した。現在、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授、専門は日本近代文学である。

 子規は1867年9月に松山藩士の長男として伊予国・温泉郡で生まれ、明治という時代の新しい活字メディアである新聞と雑誌を舞台に、短詩型文学としての俳句と短歌を革新する運動を展開し、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

 漱石は1867年1月に江戸・牛込馬場下の名主の家の末子五男として生まれ、第一高等学校卒業後、東京帝国大学で英文学を学んだ。卒業後、松山中学校、熊本第5高等学校の英語教師を経てイギリスに留学し、帰国後、東京帝国大学で英文学を教えた。子規の弟子高浜虚子の勧めで、子規と虚子が刊行していた俳句雑誌に小説を執筆した。小説家としての能力が高く評価され、1907年に朝日新聞専属小説家として入社し、独自の小説世界を構築した。

 子規は、1872年に父が没したため家督を相続し、大原家と叔父の後見を受け、外祖父の私塾に通って漢書の素読を習った。翌年、小学校に入学、後に、勝山学校に転校し、1880年に旧制松山中学に入学した。1883年に中退して上京し、受験勉強のために共立学校に入学した。翌年、旧藩主家の給費生となり、第一高等学校に入学し、常盤会寄宿舎に入った。東大予備門では漱石と同窓であった。1890年に帝国大学哲学科に進学したが、後に文学に興味を持ち、翌年、国文科に転科した。この頃から子規と号して句作を行った。大学中退後、叔父の紹介で1892年に新聞日本の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年に俳句の革新運動を開始した。1894年に日清戦争が勃発すると、翌年、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡った。その2日後に下関条約が調印されたため、5月に帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院し、7月に須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年に俳句雑誌”ホトトギス”を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。そして、漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。短歌においても、古今集を否定し万葉集を高く評価して、形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催し短歌の革新につとめた。漱石と子規の交友が始まるのは、二人が第一高等中学校本科一部に進学してしばらくしてからの、1889年1月頃であった。この年の5月9日に常規は突然喀血し、翌日50句近い俳句を作った際に子規と号した。漱石は13日に子規を見舞いに行き、その日のうちに手紙を書いた。兄が同じ日に吐血したことを打ち明け、自分の身内と同じように、あるいはそれ以上に心配をしていることを、さり気なく子規に伝えた。子規は喀血する前の5月1日、7種の異なった文体、漢詩、漢文、和歌、俳句、謡曲、論文、擬古文体小説で編んだ文集を脱稿し、友人たちに回覧した。この文集の末尾に、漱石は漢文で評を書き、最後に七言絶句九篇を付けて、5月26日に病床の子規を見舞い返却した。このときはじめて”漱石より”と署名した。後に、漱石の文字に誤記があったかもしれないという手紙を出して、子規に再確認を促した。自分の書いた文章に、相手の注意を向けさせ、自分もまた相手の書いた文章を注意深く批評するという関係を、漱石は子規と結ぼうとしていたのである。この日から、子規と漱石という二人の文学者の交友が始まった。漱石は生前の子規を、自らの俳句の宗匠として位置づけた。そうすることが、当時は不治の病だった結核を悪化させていく子規に、精神的な生命力を与えようとする、漱石の友情の表明であった。東京と松山、あるいは熊本という形で離れていた子規と漱石は、活字印刷と郵便の制度を媒介として、作者と読者の役割を転換し続ける言葉のやり取りを続けた。子規は漱石の手紙の読者であり、俳句については読者兼添削者でもあった。子規は、ときに編集者となりときに批評家になった。地方都市に暮らしていた漱石は、新聞や雑誌の読者であると同時に、編集者予規に俳句を選ばれることにより、活字媒体における作者ともなっていった。二人の文学的関係は、1900年に漱石がロンドンに留学した後も継続している。二人が最後に会ったのは、漱石がイギリス留学に出発するに際して、子規に別れをいいに行った時だった。その時、子規は餞別として”萩すすき来年あはむさりながら”の句を贈った。子規が漱石にあてた生涯最後の手紙には、”僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居るやうな次第だ”と書かれている。本書は、こうした子規と漱石の間で生み出された、近代日本語の表現の水準を探っている。

第一章 子規、漱石に出会う/第二章 俳句と和歌の革新へ/第三章 従軍体験と俳句の「写実」/第四章 『歌よみに与ふる書』と「デモクラティック」な言説空間/第五章 「写生文」における空間と時間/第六章 写生文としての「叙事文」/第七章 病床生活を写生する『明治三十三年十月十五日記事』/第八章 生き抜くための「活字メディア」/終章 僕ハモーダメニナツテシマツタ

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2017年08月12日

平田篤胤: 交響する死者・生者・神々

 ”平田篤胤: 交響する死者・生者・神々”(2016年7月 平凡社刊 吉田 麻子著)は、かつて国粋主義の元祖とされ国学において宣長学の俗化と捉えられてきた篤胤の知られざる生涯を紹介している。

 平田篤胤は、戦後、皇国史観の元祖、狂信的国粋主義者という偏った見方でしか語られず、また、無視され続けてきた。しかし、平田家に伝わる膨大な新資料を整理すると、その実像は、若くして亡くなった妻や、幼くして亡くなった子を思う、家族愛にあふれている。また、現代にも通ずる日本独自の豊かな死生観を探究した、江戸後期を代表する思想家でもあった。

 吉田麻子氏は1972年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程単位取得退学し、現在、学習院女子大学・相模女子大学・東海大学などで非常勤講師を務めている。1998年に、それまで未公開だった先祖伝来の気吹舎資料の調査を、平田篤胤神道宗家当主より許された。また、2001年に、当時、国立歴史民俗博物館館長であった宮地正人氏と出会い、その指導を仰ぎながら共に調査を進めた。

 平田篤胤は江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者で、1776年出羽久保田藩生まれ、成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となった。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎=いぶきのや、家號を真菅乃屋=ますげのやといい、医者としては玄琢を使った。1843年に67歳で亡くなり、墓所は秋田市手形字大沢にあり、国の史跡に指定されている。東京都渋谷区に篤胤を祭った平田神社があり、千葉県旭市に平田篤胤歌碑が残されている。死後、神霊能真柱大人=かむたまのみはしらのうしの名を、白川家より贈られている。復古神道、古道学の大成者であり、大国隆正によって、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人=うしの中の一人として位置付けられている。平田篤胤という人物について、これまである偏ったイメージをもって批判的に語られてきた。たとえば、倫理学者の和辻哲郎は篤胤を、”日本倫理思想史”の中で、狂信的国粋主義の変質者と呼んでいる。また、思想史研究者の安丸良夫は篤胤の思想を、”日本ナショナリズムの前夜”の中で、人間の頭脳か考えうるかぎりもっとも身勝手で独りよがりな議論と評している。篤胤の語る死後の世界は、実は日本神話の神々の織りなす壮大なコスモロジーの中に含み込まれて構想されている。そこでは、日本を中心とした世界観が思想全体を覆っていて、日本が世界のもとの国であると主張している。日本の万事万物は万国にすぐれている、あるいは、わが天皇が万国の大君などといった、極端な文言か並んでいる。そのような側面が、篤胤没後の幕末維新期に、尊皇攘夷と王政復古運動、廃仏毀釈、祭政一致など、一連の社会的な情勢や展開に多大な影響を与えたと言われている。さらに、戦前の国家主義に利用されるといった、大きな歴史的経緯にも関わることとなったことから、篤胤についての偏った見方が生まれ無視されることとなった。しかし、未公開だった気吹舎資料の厖大な書簡や草稿類は、これまでのような単純な裁断を許さない迫力を有していた。そこには、戦前の国家主義や国粋主義といった言葉には、とうてい収まりきれない、豊かな感性と思想があった。そのことによって、もういちど篤胤の書いた書物に立ち戻って考えたいという欲求が湧き上がってきた、という。篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していた。西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などに精通し、心霊現象、死後の世界、霊魂の実在、パワースポット、生まれ変わり、神などなどを考察した。人が生きているあいだには、どうしてもそのように穏やかな波間にたゆたっているわけにはいかなぐなることかある。なんとなく、あるような、ないようなではすまされない、この世ならぬものへの止みがたき希求の瞬間が訪れる場合かある。それは、社会的環境やその変化によってもたらされることもあり、また個人の人生における何らかの衝撃による場合もあろう。平田篤胤は、江戸時代後期の日本においてその瞬間を迎え、自身の強い実感と現実とのあいだにある混沌とした大きな闇を、なんとか言葉で解明し、他者に説き広めようとした。死後の魂の行方や、この世ならぬものの存在の有無といった問題は、実は私たちか死んだ後に関わってくる話ではない。まさに生きている私たちの世界がどのように成り立っているか、あるいは人間が生きるということはどういうことなのかを捉え直すことに他ならない。少なくとも篤胤は、人間を、そのいとなみを、間違いなく愛している。名も無き庶民を、人間か生きることを、まるごと肯定している。にもかかわらず、中心としているのは人間ではない。では何を中心としているのかといえば、海、山、川、雨、風、稲など、万物にやどる八百万の神々とそこら中にある亡くなった人たちの魂である。生きている人間だけを大切にするのでは、真の意味で人間を大切にすることかできないということである。この篤胤独自の哲学は、江戸時代の平田門人たちだけでなく、現代社会に生きる私たちにとっても、けっして見過ごせないものであるように思われる。篤胤の、生きている人間を中心としないヒューマニズムと、それを支えていた日本の前近代的な感性は、現代社会のありようを見つめ直す、大きなヒントになるのではないか。

第1章 平田国学の胎動/第2章 西洋の接近と『霊能真柱』/第3章 地城の奇談と平田門人/第4章 世界像と祈り/第5章 生の肯定、死生の捉え直し/第6章 近世後期の知識人たち/第7章 平田国学における倫理/第8章 広がりゆく書物と篤胤の最期

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2017年08月09日

大江匡衡

 ”大江匡衡”(2006年3月 吉川弘文館刊 後藤 昭雄著)は、平安中期に漢詩文の才で栄達をめざした文人官僚大江匡衡の生涯を紹介している。

 大江匡衡=おおえのまさひらは、平安中期の詩文の才に秀でて優れた漢詩文を制作した文人官僚で、一条天皇の侍読などを歴任し、藤原道長と緊密な関係を築き、晩年は尾張・丹波の国守を務めた。

 後藤昭雄氏は1943年生まれ、1970年九州大学大学院文学研究科博士課程修了し、1982年に九州大学文学博士となった。鹿児島県立短期大学講師、静岡大学教育学部講師を経て、1983年大阪大学教養部助教授、1994年同文学研究科教授となり、2007年定年で名誉教授となった。2008年から2013年まで成城大学教授を務めた。

 大江匡衡は村上天皇の代である952年に、大江音人を祖とし菅原氏=菅家と並ぶ学問の家柄の大江氏=江家に生まれた。平安時代中期の儒者・歌人で中納言・大江維時の孫、左京大夫・大江重光の子で、官位は正四位下・式部大輔、中古三十六歌仙の一人であった。大江氏は菅原道真の失脚後に飛躍し、聖代とされている村上朝には、匡衡の祖父にあたる維時や一族の大江朝綱らが儒家の中心的存在となった。父の重光は、対策に及第している文人官僚であった。晩年に自身の半生を回顧した長編の述懐詩によれば、大江匡衡は7歳で読書をはじめ、9歳で詠作を行ったという。964年に13歳で元服し、祖父の維時から教戒を受けた。ただし、維時は実際には963年に死去している。966年に15歳で大学寮に入り、翌年には寮試に合格して擬文章生となった。紀伝道を学び、973年に省試に合格して文章生となった。なお、この時期に父の重光が死去している。976年〜978年ころ、赤染時用の娘で歌人として知られる赤染衛門を妻としている。匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られ、仲睦ましい夫婦仲より匡衡衛門と呼ばれたという。979年に対策に及第した。985年に襲撃され、左手指を切断された。犯人は藤原保輔とされている。991年に仁康上人が河原院で五時講を行った際に執筆した願文により名声を高め、侍従に任官した。998年に従四位下に叙され式部権少大輔に任官し、一条天皇の侍読となった。1009年に文章博士となり、尾張守となった。東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至った。匡衡が文人として活躍するのは一条天皇の時代であるが、一条朝こそ平安朝文学の精華である”源氏物語”や”枕草子”を生み出した時代である。それぞれの作者である紫式部と清少納言は、一条天皇の后として寵愛を競い彰子と定子に什える女房であった。さらに、歌人として和泉式部、また匡衡の妻である赤染衛門がある。一般的には、一条朝は女流文学が華やかに花開いた時代、というイメージで理解されているに違いないが、それだけではなかった。文字に仮名に対して真名があるように、文学にも仮名の文学に対して漢字の文学=漢詩漢文があった。仮名文学全盛の時代と見える一条朝においてさえ、男性の貴族たちの間では、和歌よりも漢詩の方が、文学として正統な、より価値のあるものと評価されていた。平安朝の漢文の名篇を選録した”本朝文粋”には、匡衡は作者別では最も多い数の作品が収められている。ただし、表や願文、奏状など、上流貴族の依嘱を受けて制作した作品がかなりある。このことは、文人として匡衡が重要な位置にあったことを示すものである。また、広く貴族社会の中にあっては、詩文制作の専門家という限定的立場に置かれていたことを物語る。匡衡の伝を叙述していくに当たって最も基本となるのは、もちろん匡衡が作った詩文である。匡衡には詩集”江史部集”があり、130首余りの詩と29首の詩序が収められている。平安朝には多くの文人詩人が登場したが、その詩文集が現存するのはごくわずかな人々であり、匡衡はその数少ない幸運な詩人の一人であった。また、匡衡は歌人としても、中古三十六歌仙の一人で、歌集”大江匡衡集”を持っており、すなわち和漢兼作の詩人であった。匡衡の生涯を追っていくうえで、妻で歌人である赤染衛門の存在は大きい。匡衡は一条天皇期に文人として活躍し、藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、時折彼らの表や願文、奏上などの文章を代作し、名儒と称された。また地方官としても善政の誉れ高く、尾張国の国司としての在任中は学校院を設立し、地域の教育の向上に努めた。公卿としての地位を望んだが果たせずに終わった。

第一=稽古の力(誕生とその時代/少年期/大学での修学/赤染衛門との結婚)/第二=帝王の師範(官途に就く/文章博士/帝師として)/第三=学統の継承(尾張赴任/京へ帰還/再び尾張へ/丹波守への遷任と死/詩文と和歌/子供たち)/人と文学/系図/略年譜/参考文献

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2017年08月05日

世界の四大花園を行く - 砂漠が生み出す奇跡

 ”世界の四大花園を行く - 砂漠が生み出す奇跡”(2012年9月 中央公論新社刊 野村 哲也著)は、一年に一度、花園に生まれ変わる、南米、オーストラリア、アフリカの砂漠の絶景をカラーで紹介している。

 世界でいちばん美しい花園は、砂漠の中にある、という。砂漠とは死の世界であり、そこは灼熱の太陽と干からびた空気に満ち、草本は絶え動物たちの姿はない。だが時として、ここに恵みの雨が降り注ぎ、それが大地にしみわたって、ある闇値を超えたとき、信じられないような奇跡を起こすことがある。荒涼とした砂漠に、突如、大花園が出現するのである。雨季とともに花開き、まもなく消えてしまう幻の花景色である。

 野村哲也氏は1974年岐阜県生まれ、中部大学大学院工学研究科修了、高校時代から山岳風景や野生動物を撮りはじめ地球の息吹をテーマに、アンデス、南極、パタゴニアなどに被写体を求めてきた。2011年より南アフリカのステレンボッシュに移り住み、四季を通してナマクワランドの花園を撮影してきた。今までの渡航先は85ヵ国に及び、秘境のツアーガイドやテレビ番組制作にも携わっている。また、日本国内ではスライドショーなどの講演活動を続けている。

 四大花園とは野村氏が命名したもので、南アフリカ、オーストラリア、チリ、ペルーにある、という。南北600キロも花街道がつづく南アフリカ、クリスマスリースのような花束が咲くオーストラリア、世界でもっとも乾燥した大地がピンクの花で敷き詰められるチリ、瑠璃色の花が砂丘を埋めつくすペルーである。著者はこれらすべての花園を訪ねて地球を何周も巡り、多種多様な花、そこに生きる人々や動物の姿を写真に収めてきた。南半球が春を迎える9月、大陸西岸に広がる世界の砂漠地帯に、極楽浄土のような絶景が生まれる。360度見渡す限りの花園に包まれるのは、砂漠はあまり起伏がなく、ある時期に全面花園になるからである。2001年の初夏、ペルーの砂漠でこの信じかたい光景を目の当たりにした著者は、不思議な縁に突き動かされるようにして、世界中で次々と、互いを結び合う夢のような繋がりの力に驚き圧倒され続けた。本書は、いまだ知られざる世界四地域の砂漠の花園の全貌を、余すところなく紹介するものである。本物の感動を味わえるのは現地を訪れて実際に体験することなので、できるだけ細かいデータや地図を掲載し、地名を現地の発音に近づけるなどして、手軽なガイドブックの役割を兼ねたものにもなっている。四大花園のなかでも、屈指の規模を誇るのは南アフリカのナマクワランドである。2011年に著者は南アフリカに移住し、腰を据えてこの花園を撮り続けることを決意した、という。アフリカの著名な写真家アラン・プロストからの一枚のポストカードが決め手になった。色とりどりのワイルドフラワーが絨毯のように赤土の山へと続いていき、花の息づかいや風の音色までも聞こえてきそうな写真だった。その場所を見たくなり、夏のある日、ニューウッツヴィル周辺をくまなく探した。ひとつ、ふたつ峠を越えたところで、穴が開くほど見たポストカードの風景か迫ってきた。カメラを片手に同じ画角になる場所へ立った。雲間から透明な光か射し込み、山がさらに赤く色づき、生ぬるい熱風か砂上を走り、照りつける太陽が気温を押し上げた。生命は流転の旅を繰り返し、同じ風景は二度と現れない。一瞬一瞬の尊さを自分自身に映し込んでいく作業、それこそが写真=写心の力となり、通い続けることが力強さとしなやかさを育んでいくのかもしれない。砂漠の花園、そこに生きる動植物、関わり合ったすべての人々、その一つひとつが宝の珠となり、映し合い、生命は網目のように未来へ繋がっていく。

第1章 ペルー共和国−海霧が作る花園
第2章 南アフリカ共和国−蛍光色の極楽花園
第3章 オーストラリア連邦−一万二〇〇〇種類の花園
第4章 チリ共和国−幻の巨大花園
最終章 四大花園を旅して−光のルーツを追って

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2017年08月02日

サハラ砂漠 塩の道をゆく

 ”サハラ砂漠 塩の道をゆく”(2017年5月 集英社刊 片平 孝著)は、ラクダのキャラバンで運ばれる塩の交易アザライに密着した往復1500キロ、42日間の大旅行を写真と文章で紹介している。

 サハラ砂漠はアフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大の砂漠である。南北1,700千米に渡り面積は約1,000万平米であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占めている。サハラ砂漠全体の人口は約2,500万人であり、そのほとんどはモーリタニア、モロッコ、アルジェリアに住んでいる。サハラ砂漠内で最大の都市は、モーリタニアの首都ヌアクショットである。その他、重要な都市としては、ヌアディブー、タマンラセト、アガデズ、セブハ、インサラーが挙げられる。かつてこのサハラの奥地に、金と同じ重さで取引された岩塩があった。いにしえの黄金都市トンブクトゥからサハラ砂漠奥地のタウデニ岩塩鉱山への、いのちの塩を求めての旅であった。

 片平孝氏は1943年宮城県生まれの写真家で、1969年からサハラに魅せられ、砂漠の旅を続けた。1972年にハウサ族のラクダのキャラバンに密着し、サハラの塩の道の東西ルートを踏破した。この時、命懸けで塩を運ぶ人々の姿に感動し、以来、塩を産出する土地を求めて、世界中で取材を続けている。

 サハラにおいてもっとも希少な資源は水であるが、サハラは数千年前までは湿潤な土地であり、そのころに蓄積された化石水が地底奥深くに眠っている。この化石水は現在の気候条件下では再生不可能なものであり、使用しきってしまえば一瞬にして無用の長物と化すと言われている。サハラはさほど鉱物資源の多い地域ではないが、それでもいくつかの大規模鉱山が存在する。サハラでもっとも豊富で価値のある資源は石油である。とくに砂漠北部のアルジェリアとリビアには豊富な石油が埋蔵されており、アルジェリアのハシメサウド油田やハシルメル油田、リビアのゼルテン油田、サリール油田、アマル油田などの巨大油田が開発され、両国の経済を支えている。また、モロッコと西サハラには燐酸塩が埋蔵されている。西サハラのブーカラーで採掘されるリン鉱石は全長約90千米以上のベルトコンベアーで首都アイウンまで運ばれ、船に積み込まれる。この採掘は全域が砂漠の西サハラにおいて最大の産業となっている。このほか、砂漠西部のモーリタニア北部、ズエラットには巨大な鉄鉱床が存在し、ここで採掘される鉄鉱石は近年大西洋沖合いにて石油が発見されるまでモーリタニア経済の柱となってきた。また、砂漠中央部、ニジェール領アーリットにはウランの鉱床があり、アクータ鉱山とアーリット鉱山の2つの鉱山が開発されて、ほかに見るべき産物のないニジェール経済の牽引車となってきた。また、北東部のリビア砂漠においては、リビアングラスという天然ガラスが埋蔵され、古代エジプト時代より宝石として珍重されてきた。また、サハラ北部には砂漠のバラが多数存在し、土産物となっている。歴史上においては、サハラでもっとも貴重な鉱物は塩であった。古来、人々は、塩を手に入れるために命を賭して戦い、様々な工夫と知恵を絞ってきた。古代から近代に至るまで、多くの国の財政は塩にかけた税金で賄われていた。フランス革命は、塩にかけた重税に対する民衆の怒りの爆発でもあった。塩は時に思いもよらない力と価値を生み出す。かつて金と同等の希少価値を持つ塩があった。塩が奴隷の体重と同じ重さで取引された時代もある。しかし、現代の塩は台所の隅っこでただの調味料として無関心に扱われ、塩の摂り過ぎは健康を害するとして悪者扱いされることさえある。塩は、人の命を繋ぎ、人の命を破壊する諸刃の剣でもある。塩のふるさとは太古の海だ。大昔に海だったサハラ砂漠には、海塩をはじめ、湖塩、岩塩など、地球上のすべての塩が存在している。なかでもサハラ砂漠の奥地に産出する岩塩は、かつて王者の商品とまで呼ばれ、塩の採れない西アフリカ内部の森林地帯では金と同じ重さで取引されるほど、大変な貴重品だった。アフリカの政情は、空模様のように変わる、たまたま治安が良くなった年があった。2002年に世界遺産の撮影で28年ぶりにトンブクトゥを訪ねた時、外国人でもタウデュ鉱山に行けるようになったことを知った。2003年12月にアザライと旅をするという夢を実現させるために、4度目のマリに飛んだ。初めてアザライを目にしてから、すでに33年の時が流れていた。本書はこのときの記録である。

第1章 タウデニ岩塩鉱山への旅立ち/第2章 タウデニ岩塩鉱山/第3章 タウデニからの帰り道/第4章 旅の終わりの試練

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2017年07月30日

鬼才 五社英雄の生涯

 ”鬼才 五社英雄の生涯”(2016年8月 文藝春秋社刊 春日 太一著)は、時代劇映画ややくざ映画で活躍した五社英雄監督の評伝である。

 五社英雄と言えば、”鬼龍院花子の生涯””極道の妻たち””陽揮楼””吉原炎上””三匹の侍””人斬り”など、異色の映画を作った極彩色のエンターテイナーであった。テレビでも、ひらけ!ポンキッキの企画に携わり、三匹の侍は続編も作られるほどの人気となった。

 春日太一氏は1977年東京生まれ、日本大学芸術学部卒業し、同大学大学院博士後期課程修了、芸術学の博士号を取得した映画史・時代劇研究家である。五社英雄は1929年東京都生まれ、明治大学商学部卒業後、ニッポン放送プロデューサー、フジテレビ映画部長、五社プロダクション社長を務めた。

 草創期のテレビは新しいメディアとしての可能性に満ち溢れていて、作り手たちは、テレビだからこその表現方法を探って多くが芸術家・思想家のような小難しいことばかりを述べていた。そうした中で一人異彩を放っていたのが五社だった。満足でない制作環境への文句、映画界への嫉妬、そして徹底した観客へのサービス精神があった。テレビドラマでは刑事ものやジキルとハイドなどではプロデュースも担当し、原作・脚本・監督をこなす映画監督であった。テレビ出身の映画監督の先駆けとして活動していくが、テレビ界出身ということで、長らく日本の映画評論界から不当に無視に近い扱いを受けてきた。また、その言動は常に毀誉褒貶の対象だった。しかし、現在の時代劇やアクションは五社の存在なくしては語れない。真っ白なジャケットとズボンで敵だらけの現場に乗り込み、水たまりがあればそのジャケットを脱いで女優にその上を歩かせて周囲の度肝を抜いた。また、こういう話をすれば相手は喜んでくれるだろうとの想いから、相手に合わせてエピソードを面白おかしくでっちあげたこともあった。父親は鳶職をしていて、その世界に入る時は誰もが彫り物を体に彫り込むことになっていた、と言ったことがあった。彫ったらこの子の人生は変わると、彫り師はなんとか止めさせようとしたが、父親は聞かなかった、これで人生が変わるようだったら、もうそんな奴はいらんと言った、という。青年は父親に言われるまま、背中に彫り物を入れることになった。しかし、背中に彫り物があったことは確かだが、実際に彫り物を入れたのは50歳を過ぎてからのことだった。ちなみに、五社の父親は鳶でもなかった。五社は作品を通してだけでなく、常日頃から、いかにして周囲の人間を楽しませるか、そのことだけを考えてきた。そのために彼は、自らの人生をも脚色していたのであった。1980年には銃刀法違反で逮捕され、一時は映画界を追放されてすべてを失った。フジテレビを依願退職し、オファーされていた映画”魔界転生”の監督もなくなり、妻にも逃げられた。生活していくため”五社亭”という店名の飲み屋の開店の準備をしていたが、それを見かねた岡田茂・佐藤正之の尽力により映画界に復帰した。1982年の映画”鬼龍院花子の生涯”で復活し、以降は女優たちの濃厚な濡れ場やヌードに彩られた極彩色の映画を連発して、低迷する日本映画界を牽引した。今では当たり前の、刀がぶつかり合い、肉を斬り骨を断つ効果音を、最初に生み出したのも五社だった。テレビの小さな画面でいかにして映画に負けない迫力や殺気を出すか、に悩んだ末に辿りついた発想だった。1985年に五社プロダクションを設立し、映画”世界最強のカラテキョクシン”の総監修や、映画”陽揮楼UKAGERO”の脚本監修も手がけた。1992年8月30日に、呼吸不全のため死去した。根強いファンに支えられながらも映画賞には縁が薄く、キネマ旬報ベストテンには一度も入賞しなかった。”陽暉楼”では日本アカデミー賞において、監督・脚本・主演男優・助演男優・助演女優の主要5部門で最優秀賞を独占しながら、作品部門では優秀賞に漏れるという珍記録を作った。ハッタリ入り乱れた生涯に翻弄されながら、著者は渾身の取材で鬼才の真実に迫っている。

第1章 情念/第2章 突進/第3章 転落/第4章 復活/第5章 未練

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2017年07月26日

藤原伊周・隆家

 ”藤原伊周・隆家”(2017年2月 ミネルヴァ書房刊 倉本 一宏著)は、栄華を誇る藤原道長の陰で生きた中関白家の栄光と没落、そしてその後を描いている。

 藤原伊周=これちか、隆家は平安期の公卿の兄弟で、父道隆に引き立てられたが、伊周は父死後叔父道長と対立し花山上皇と闘乱した等の罪で大宰権帥に左遷され、隆家は兄に連座して左遷されたが後に復帰した。隆家は、満州民族を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した1019年の刀伊の入寇事件で海賊を撃退した。

 倉本一宏氏は1958年三重県津市生まれ、1983年東京大学文学部国史学専修課程卒業、1989年同大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学、1997年博士(文学、東京大学)で、現在、国際日本文化研究センター教授を務めている。

 中関白家は藤原北家の中の平安時代中期の関白・藤原道隆を祖とする一族の呼称である。道隆は摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男で、花山天皇退位事件で父の意を受けて宮中で活動し、甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。妻・高階貴子は女房三十六歌仙に数えられる歌人である。花山天皇は第65代天皇で、冷泉天皇の第1皇子、母は藤原懐子、円融天皇の譲位をうけ984年に17歳で即位した。しかし、右大臣藤原兼家・道兼父子にはかられ、986年に在位1年余で退位し元慶寺=花山寺で出家した。道隆は990年に父の後を継いで摂関に就任し、自己の系統を摂関家の嫡流にすべく尽力した。関白道隆が全盛期を迎え、個人的能力に秀でた嫡男の伊周は異数の昇進を続け、994年に道長など3人の大納言を超越して内大臣に任ぜられた。次の世代の政権担当予定者としての地歩を固めつつあった。その弟の隆家は参議、庶長子の道頼は権大納言に任ぜられ、娘の定子は一条天皇の中宮、同じく原子は東宮居貞親王=後の三条天皇の妃となった。定子の女官には、”枕草子”の作者清少納言がいた。しかし、彼らの春は永くは続かなかった。995年に道隆と道頼が急死し、中関白家は政権交代のレールを敷き終わらないまま、その中心を失ってしまったのである。その運命の変転の前には、残された者は、あるいはまったく無力に立ちつくし、あるいは空しい足掻きを行って、没落を早めるのみであった。中関白家は、あたかも彗星のごとく光り輝き、そして消え失せていった。その後叔父である道長との権力闘争に敗れた伊周が、花山院闘乱事件などによって大宰権帥に左遷され、隆家もこれに加担したとして連座した。花山院闘乱事件は、996年頃、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君に花山法皇が通いだしたところ、伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家が従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いたとされる事件である。花山法皇は出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり隆家は4月に出雲権守に左遷された。また伊周は、勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法をひそかに行ったとして、大宰権帥に左遷された。どちらも実質的な配流であり、姉弟であった一条天皇・中宮定子の落飾という事態をも招いた。その後、定子は道長の娘である彰子に追いやられるように病没し、遺された敦康親王も皇位に就くことなく病死したため、外戚になることもなかった。伊周の子である道雅も問題行動が多く不遇のまま没し、隆家の家系のみが続いたが、大臣以上を輩出することはなかった。中関白家の人々というのは、単純に言うならば、父の道隆が戯の人、母の貴子が才の人とすると、伊周が才の人、隆家が戯の人、そして定子は両方を受け継いだと言えよう。それに清少納言の影響もあり、笑いに包まれた一家であった。嫡男の伊周は家柄がよくて容貌がよく、学問があって、女性にもてて、自己主張が強く、若くして親の引きで出世した。隆家の方は豪毅にして竹を割ったような性格、また権力者に対しても物怖じしない態度、すぐに暴力に訴える行動様式、にもかかわらず誰からも好か札る立ち位置と、伊周とはまことに対照的な人物像が浮かび上がる。また、結構長寿を得ることができ、多くの子女を儲け、子孫はそれなりに繁栄するなど、伊周とは好対照であった。たとえ不遇な境地にあっても、与えられた立場をしっかり守り、その立場の中で最善を尽くす、そして自らの誇りと矜持は守るといった生き方は、千年を経た今でも強く心を打つ。

第一章 道隆政権誕生まで  兼家雌伏の時代/摂政兼家の誕生と道隆の昇進
第二章 中関白家の栄華   摂政道隆/「中関白道隆」と『枕草子』の世界
第三章 「内覧」伊周    中関白家最後の栄華/伊周の内覧宣旨と道隆の死
第四章 道長政権の成立と長徳の変  道長政権の成立/長徳の変/伊周・隆家の召還
第五章 道長政権下での復権 敦康親王の誕生と定子の死/道長政権下での復権/道長家栄華の「初花」
第六章 呪詛事件と伊周の死 道長・彰子・敦成呪詛事件/伊周の死
第七章 道長の栄華と「刀伊の入寇」 「この世をば」と敦康親王の死/「刀伊の入寇」と隆家/隆家の死
おわりに――中関白家の末裔

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2017年07月22日

カザフスタン

 ”カザフスタン”(2006年9月 白水社刊 カトリーヌ・プジョル著/平山智彦・須田将訳)は、ユーラシアの中心に広大な国土を擁するカザフスタンの風土・歴史・政治・経済・外交を紹介している。

 カザフスタン共和国は、中央アジアとヨーロッパにまたがる共和制国家で、首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ、ロシア連邦、中華人民共和国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海、アラル海に面している。世界第9位の広大な国土面積を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。国土の大部分は砂漠や乾燥したステップで占められ、地形は中国国境やアルタイ山脈を含むカザフ高原、中部のカザフステップ、西部のカスピ海沿岸低地の3つに分類される。

 著者のカトリーヌ・プジョル女史は、フランスの国立東洋言語文明学院の教授である。フランス国立東洋言語文明学院は、パリにある研究機関、高等教育機関で、略称、INALC=イナルコと言い、国立東洋言語文化大学と訳されることもある。西ヨーロッパ起源以外の言語と文明について、研究および教育を行っている。フランスの教育法では、大学とは別の特別高等教育機関の一つで、バカロレアを取得すれば誰でも入学でき、位置付けは大学と全く同等となっている。

 宇山智彦氏は1967年生まれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程中退、日本の中央アジア地域研究者、歴史学者、政治学者で、現在、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授を務めている。

 須田将氏は1975年生まれ、上智大学外国語学部フランス語学科卒業、同大学院外国語研究科博士前期課程修了、執筆当時、北海道大学大学院文学研究科博士後期課程在籍中であった。

 カザフスタンは、面積272万4900?、人口1760万人で、民族はカザフ系65.52%、ロシア系21.47%が多く、ほかにウズベク系、ウクライナ系、ウイグル系、タタール系、ドイツ系などで構成されている。言語はカザフ語が国語で、ロシア語は公用語となっている。宗教はイスラーム教70.2%、ロシア正教26.3%が多く、ほかは仏教、無宗教などである。14世紀頃まで現在のカザフ人とほぼ同じ人種的特徴と、カザフ語とよく似た言語が定着し、15世紀後半 遊牧ウズベク国家から分離し、キプチャク草原に勢力を拡大し、カザフ・ハン国が成立した。18世紀初にジュンガルとの戦いの中でカザフ人の一体性の意識が明確化し、大ジュズ、中ジュズ、小ジュズの3つの部族連合体に分裂した。1730年代にカザフの支配層の一部がロシア皇帝に臣従し、18世紀中頃には清朝にも朝貢した。1820年代までロシア帝国が南部を除くカザフスタンを直接支配下に収めた。1837年から1847年までケネサルの対ロシア反乱が起こり、1850年から1860年代までカザフスタン南部がロシア帝国に併合され、カザフスタン全域がロシアの支配下になった。1920年にはロシア連邦共和国の一部として、カザフ自治ソビエト社会主義共和国が成立し、首都はオレンブルグとなった。1925年に首都をオレンブルグからクズィルオルダに移し、国名をカザフ自治ソビエト社会主義共和国に変更した。1929年に首都をアルマティに移転し、1936年にソ連邦を構成するカザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格した。1986年にはカザフ人共産党第一書記コナエフ解任に抗議するデモ、アルマ・アタ事件が起こり、内務省軍と警察による弾圧があった。1990年にナザルバエフ大統領は就任し、共和国主権宣言を行い国名をカザフスタン共和国に変更した。1991年に共和国独立を宣言し、首都をアルマティからアクモラ、現アスタナに移転した。カザフスタンの歴史は逆説的で、数千年のあいだ、境界の不明確な領域に広がっていたカザフスタンは、遊牧という特徴とテュルク語の独占権の喪失と引き換えに、近い過去において地歩を確立した。ソ連時代がカザフスタンの現在の形を生み、以前からの大変化を完結させた。幾度かの手直しを経て、カザフ共和国を生んだ領域画定の政策は、ソ連中央のシステムヘの統合における新たな層をなした。ツァーリズムの実践で伝統社会の本質を構成するものと対決したのに対し、ソ連の指導者たちは真の断絶をもたらし連邦の他の部分に統合するために中央アジア的な特徴を衰弱させた。スターリン期の抑圧政策は、憲法制定、イスラーム法と慣習法アーダトの禁止、世俗化という法的な断絶と、金の流れの中央管理、集団化という経済分野での断絶を伴った。数千年にわたる豊かな文明を持つものの、ソヴェト民族政策による遺産をそのままの形で引き継いだカザフスタン共和国の政治的・法的・心理的な枠組みは、まだ確立されるに至っていない。カザフスタンは、国内情勢・国際情勢が同国に可能性を与えた場合には、成果をあげることのできる切り札を持っている。有用かつ貴重な一次資源が豊富で、有能な労働力と犠牲に慣れた住民、技術と政治の革新に適応できる能力のある行動的な若年層を持っている。グローバルな観点からみると、陸の孤島からの脱却作戦か成功し、中央アジア各共和国の国内状況が安定を維持し、アフガニスタンが再建された場合、カザフスタンは大陸横断交易に欠けていた鎖の輪となり、ユーラシア大陸の軸としてその歴史的役割を再び見出すであろう。連続的な文化的ショックの中心であるカザフスタンは、ロシア人とカザフ人という明確に区別される民族と、無神論から生き残った正教とシャーマニズムによって消化されたイスラームという2つの異なる文化システムを内包するため、アジア的東洋と西洋の真の融合体となっている。カザフ人は一方では、影響力があり信頼できる西洋の寄与を求め、他方では、その再建はおそらく幻である征服された遊牧世界に根を下ろす、アジア的な遺産を持つ。両者のあいだで引き裂かれたアイデンティティが提示する歴史的方程式を、カザフ入は解くことかできるに違いない。

序   領域から共和国へ
第1部 カザフ空間とユーラシア
 第1章カザフ人登場以前のカザフ空間/第2章多様性の少ない遊牧世界−諸オルダ/第3章ロシアによる征服と植民地化
第2部 ソヴェト・カザフスタン
 第1章1917年の革命−時系列的概略/第2章スターリン時代/第3章ソヴェト空間への統合−フルシチョフからブレジネフまでの経済と文化/4章主権の主張−ペレストロイカから1991年まで
第3部 脆弱な巨人−ポスト・ソ連の移行から再構成へ
 第1章独立以降の政治状況/第2章新しいパートナーたちに向けた開放−国際的均衡のなかでのカザフスタン/第3章深い変化を遂げつつある文化と社会

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2017年07月17日

すべての疲労は脳が原因

 ”すべての疲労は脳が原因”(2016年4月 集英社刊 梶本 修身著)は、疲れているのは体じゃない脳だったといい最新科学が解明した疲労の正体を明らかにしている。

 私たちが日常的に使う”体が疲れている”とは、実は脳の疲労にほかならない。栄養ドリンクや運動は疲れに効くとか、乳酸=疲労物質はすべてウソであるという。

 梶本修身氏は1962年生まれ、大阪大学大学院医学研究科修了、医学博士で、大阪市立大学大学院疲労医学講座特任教授、東京疲労・睡眠クリニック院長を務めている。

 ものごとはきりのいいところまでやらないと気が済まない、ストレス解消のために体を動かすのが習慣である、責任感があり遅くまで残業しても苦にならない、日中に眠気があり大きないびきをかくと言われる、集中力が高く何かに没頭すると周りが見えなくなる、疲れたら栄養ドリンクをよく飲む、屋外ですごす時間が長い、長時間のドライブでも途中休憩をあまりとらない、熱めのお風呂に長湯をするのが好きである、休日は遠くのテーマパークやアウトレットに足を延ばす、

 以上の10項目のうち、1つでも思いあたることがあれば、脳疲労が蓄積している可能性があるという。世界的にみて疲労の研究の歴史はまだ浅く、日本において国が研究をスタートさせたのは1990年代である。1984年にアメリカのネバダ州で慢性疲労症候群の患者が発見されたのを機に、日本では1991年に厚生労働省がこの病態の対策として研究班をスタートさせた。そして、1999年に文部科学省の研究班があとを継ぐ形で、疲労および疲労感の分子・神経メカニズムとその防御に関する研究班を発足させた。日本は疲労大国であるがゆえに、その分野の研究はいまや世界でトップクラスの水準となっている。疲労と聞くとガス欠のイメージを持っている人も多いと思われる。また、仕事や運動をすればエネルギーを消費するから体が疲れるのは当たり前と思っている人も多い。しかし、エネルギー自体が枯渇して疲労を起こすことは滅多にない。仕事や運動をして体の疲れを感じるのは、エネルギーが不足したからではない。日本では疲労が浸透しているにもかかわらず、一方で、実は、疲労の原因や科学的なメカニズムはほとんど理解されていない。疲労が起きるのは細胞のサビに原因があり、細胞が酸化ストレスにさらされることでさびてしまい、細胞本来の機能を維持できなくなることで起こる。酸化ストレスは、体内で活性酸素が過剰に発生することで引き起こされる有害な作用である。ただし、疲労を起こす原因のすべてが酸化ストレスというわけではない。たとえば、がん患者の場合は、がん細胞による体全体への悪液質が発生し、それが疲れの原因になる。疲労とは症候群であり原因はさまざまであるが、大多数の健康な人においては細胞への酸化ストレスが大きく関わっている。酸化ストレスがもっとも激しいのは、筋肉や肝機能などではなく脳の自律神経の中枢である。たとえば、長時間のジョギングや暑い中ゴルフをしていると、体が疲れたと感じる。ヒトは運動を始めると数秒後には心拍数がにがり呼吸が速く大きくなるが、それを秒単位で制御しているのが脳の自律神経の中枢と呼ばれる視床下部や前帯状回なのである。運動が激しくなると脳の自律神経の中枢での処理が増加し、脳の細胞で活性酸素が発生し、酸化ストレスの状態にさらされることでさびつき、本来の自律神経の機能が果たせなくなる。これが脳で疲労が生じている脳疲労であり、ヒトはそのときに体が疲れたというシグナルを眼窩前頭野に送り、疲労感として自覚する。健康な人における疲労とは、日本疲労学会では、一般に運動や労力などの身体作業負荷あるいはデスクワークなどの精神作業負荷を連続して与えられたときにみられる、身体的あるいは精神的パフォーマンスの低下現象と定義されている。パフォーマンスの低下現象とは、本来の能力を発揮できない状態であり、たとえば、思考力が低下する、刺激に対する反応が鈍くなる、注意する力が衰え散漫になる、動作が緩慢になる、行動の量が低下するという変化であり、さらに、目がかすむ、頭痛がする、肩こりが起こる、腰が痛いなどの症状を言う。疲労とは、医学的には、痛み、発熱と並んで人間の生体アラームのひとつと考えられている。つまり、これ以上、運動や仕事などの作業を続けると体に害が及ぶという警報である。もしも警報を発することができなければ、死にいたるまで作業を続けてしまう恐れがある。その危険を回避するために、痛みや発熱と同様に疲労という警報を発し、それ以上の活動を制限するように働いている。疲労とは、生物が生命を守るために体の状態や機能を一定に保とうとする働き、ホメオスタシスのひとつである。アラームが効かない状態で、疲労感を覚えることができずに運動や仕事の負荷作業を連続して行ってしまうと、過重労働で重篤な病気、また過労死につながることがある。

 本書では、疲労とは何か、最新の抗疲労研究の結果から現代人の疲労の本質である脳疲労のメカニズムを探って、その解消法を伝えている。前半の第一章から第三章は脳疲労と疲労について解説し、後半の第四章から第六章では脳疲労を解消するための科学的に根拠のあるメソッドを具体的に紹介している。

はじめに疲労を科学することとは/第一章疲労の原因は脳にあり/第二章疲労の原因物質とは/第三章日常的な疲労の原因はいびきにあった/第四章科学で判明した脳疲労を改善する食事成分/第五章「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減する/第六章脳疲労を軽減するためにワーキングメモリを鍛える/あとがきにかえて

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2017年07月14日

隕石

 ”隕石”(2017年5月 白水社刊 マテュー・グネル著/斎藤かぐみ訳/米田成一監修)は、隕石の基礎知識から、発見の歴史、宇宙科学の現在までを詳細に解説し隕石研究の現在の状況を知ることができる。

 隕石とは、惑星間空間に存在する固体物質が地球などの惑星の表面に落下してきたものを指し、分類すると、鉄隕石、石鉄隕石、石質隕石の3つの種類に分けられる。鉄隕石は主に金属鉄からできている限石で、ニッケルも多く含んだ鉄ニッケル合金で、コバルト、金、白金、イリジウムのような貴金属もわずかながら含まれている。石鉄隕石は鉄ニッケル合金と石質のケイ酸塩鉱物がまざった成分の隕石で、石質隕石は主にケイ酸塩鉱物からなる隕石である。

 マテュー・グネル氏は1971年生まれ、1994年に物理学で修士の学位を取得し、1995年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジで研究を行い、1996年にパリに戻ってからさまざまな阻石研究者と交流し、2000年にパリ第7大学から博士の学位を取得し、大英自然史博物館研究員、パリ第11大学講師を経て、2005年よりパリ国立自然史博物館に勤務、2006年に国際隕石学会ニーア賞を受賞し、2008年からパリ国立自然史博物館の教授に就任した。

 斎藤かぐみ氏は1964年生まれ、東京大学教養学科卒業、欧州国際高等研究院修了のフランス語講師・翻訳家である。米田成一氏は1960年生まれ、1982年東京大学理学部化学科卒業、1987年東京大学理学系研究科化学専門課程卒業、その後、東京大学大学院理学系研究科化学専門課程博士課程単位修得退学、1987年から日本大学文理学部助手、1992年からシカゴ大学博士研究員を経て、現在、国立科学博物館理工学研究部理化学グループ長、理学博士で、専門は宇宙化学、隕石学である。

 パリ国立自然史博物館の隕石研究者である著者が、私たちをマクロとミクロが行き交う世界へと誘う。隕石は天空から地球に飛来した石であり、その年齢は太陽系の年齢であり、人類が手にできる最古の物体である。隕石は神秘のしるしとして、地と天を同じ目で見るようにと私たちを促すと同時に、最先端の機器を使った科学研究の対象として、現在の研究の様子をかいま見せてくれる。過去と現在を結び、博物学と先端科学を架橋してくれる、そんな存在は阻石の外にはない。隕石の研究は、仏語では宇宙化学、英語では隕石学と呼ぶ。地球外天体と生物圏の相互作用、私たちの太陽系の形成、天体の地質進化、地球上の生命の起源などが課題となる。ヨーロッパで隕石が地球外から来たことが科学者に受け入れられたのは、18世紀末から19世紀初めのことで、以後、本格的な収集・保存が行なわれるようになった。1985年までに発見された2700個の隕石中、落下するところが目撃されたのはおよそ45%である。南極では日本をはじめとして各国の南極観測隊が1985年まででも7500個の隕石を回収した。隕石カタログ2000年版には南極隕石17,808個を含む22,507個が掲載されている。このうち21,514個が石質隕石、865個が鉄隕石、116個が石鉄隕石である。隕石の多くはおよそ45億年ほど前にできたもので、太陽系の初期、惑星が形成された当時の始原的な物質であろうと推定されている。隕石は地表に到達するまでに破片になることもあれば、大きな塊のまま到達することもある。大気との衝突によって多数の破片になり、楕円形の長径数kmから数10kmの地域に、数10個から数100個程度、まれに数万個程度の隕石となって落下する。この場合は数100gから数kg程度のものが多い。大きな塊のまま落ちてくることもあり、北アメリカのバリンジャー隕石孔は直径1.2kmあり、数万トンから数10万トンの質量だったと推定されている。隕石そのものが発見された中で最大なのはナミビアのホバ隕石で、重さ66トンである。隕石の真の価値が理解されるようになるのは20世紀後半になってからである。これは、さまざまな分析技術の進歩によるところが大きい。特にウランの放射壊変を利用した年代測定法か開発され、1956年に地球の年齢が推定されたが、これは地球の岩石とウランをほとんど含まない鉄隕石とを比較することによってなされた成果である。また、一部の例外を除くと隕石の種類にかかわらずほぼ全ての隕石が約46億年の年代を示すことから、太陽系か形成されたのは約46億年前と推定されている。地球の年齢は、地球が小さな原始地球から現在の大きさまで成長する時間が必要なため不確かさが残るが、成長を始めたのはやはり約46億年前と考えられる。なお、地球の内部は現在でも熱く、地球表面が絶えず新しく作り替えられているため、地球の岩石は最も古いもので約40億年、岩石に含まれる鉱物でも約44億年が最古であり、地球の岩石の分析だけでは地球の年齢を求めることはできない。隕石の構成成分をさらに詳しく年代測定すると、炭素質コンドライトに含まれるCAIと呼ばれる包有物が太陽系で最古の年齢を示し、ある分析では45億6720万年±60万年という精度で求まっている。このように、隕石は太陽系の形成から惑星の成長までを記録した物的証拠として計り知れない科学的な価値を持っている。本書はこれらの科学的成果を詳細に解説しており、隕研究の現在の状況を知ることか可能である。日本の隕石についての補足説明もあり、九州の直方隕石は落下が目撃され現代まで破片が保存されている世界最古の隕石であるという、また、東京のコレクションは、国立極地研究所が保有する南極隕石の数は、現在約1万7000個で、その数量は世界有数のものとなっている。

第1章 惑星科学と宇宙化学の基礎知識
 基本的な定義/惑星科学の基礎知識/地球化学の基礎知識/同位体宇宙化学の基礎知識/始源的な天体から物質分化した天体へ/宇宙の玉突き/隕石の分類
第2章 隕石小史
 迷信と驚嘆/十八世紀末の転換点/十九世紀―系統的な研究の始まり/二十世紀―宇宙の時代
第3章 地球上の隕石
 大気圏突入/地球外物質の採集/地球外物質のフラックス/衝突と生物圏/隕石の落下年代/こなたの隕石、かなたの隕石
第4章 隕石の見分け方
第5章 母天体から地球へ
 隕石の起源/隕石の照射年代/隕石の地球までの移動
第6章 コンドライトと太陽系形成
 コンドライトの化学組成と同位体組成/コンドライトとその構成要素の形成年代/カルシウム・アルミニウムに富んだ包有物と鉄苦土性コンドルールの形成/酸素同位体組成の進化/短寿命消滅核種/基質―出発物質/昔の光沢いまいずこ
第7章 天体の地質進化
 衝突と衝撃/コンドライトに見られる熱変成と熱水変成/物質分化
第8章 隕石と生命の起源
 隕石中の地球外生命/隕石中の生命前駆分子/宇宙化学と生命出現の背景状況

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2017年07月12日

地球の生物:過去・現在・未来


第15回 地球の生物:過去・現在・未来 海部宣男先生

 これまでの太陽系についての知見を踏まえて、宇宙の中の地球とその上で進化してきた生物の歴史を概観します。

 地球の生物史は地球史とほとんど同じ長さを持ち、それと一体となって進んできました。

1. 宇宙の中で地球と生物を考える

 地球に住む私たちは、炭素の化合物である有機物を基礎とする身体を持ち、岩石の地殻の上に立ち、酸素に富む空気を呼吸し、多彩なミネラルを溶かし込んだ水を飲んでいます。

 また、大量の鉄とコンクリートを用い、金や銀を通貨とし、そして炭素の燃焼やウラニウムの核反応などによるエネルギーを使いながら、文明社会を築いています。

 これらの材料・物質はすべて、宇宙における恒星や暗黒星雲の活動と物質の進化を通じて生産・蓄積されてきました。

 138億年の宇宙史の中で、さまざまな過程を通して地球という天体に集積され、私たち地球の生物はそこから出発して、今日の生態系を作り上げてきたのです。

 地球の生物は、宇宙における物理法則と物質進化という宇宙に共通する基盤に立ちながら、地球という環境に適合した形で生まれ、地球環境の変動に適応して進化してきました。
 
 私たちは、地球が生み出した、地球の生物なのです。

 138億年前、私たちが住むこの宇宙は、加速度的な膨張=インフレーションの中で、空間および物質が現在の形を取ることで、スタートしたと考えられます。

 非常な短時間で終わったとされるインフレーションは、膨張をつづける超高温・高密度のビッグバン宇宙を生みました。

 宇宙が膨張とともに冷えるとより弱い力が働くことは可能になり、さまざまな物質が形を成し、次第に複雑な物質構造が可能になりました。

 現在、その結果の一つとして、地球生命や私たちの文明の活動があります。

 インフレーションの当初は、現在の素粒子論が記述できない超高エネルギー状態で、空間や力、物質の現れ方も、現在とは異なっていたと推定されます。

 インフレーションの加速度的膨張はほぼ10-33秒という、私たちの常識を絶する短時間で終わり、後には超高温・超高密度のビッグバン宇宙が残されます。

 膨張とともに冷却が急速に進み、クォークなどの素粒子が形成され、強い力が働いて陽子などの素粒子やヘリウム原子核が形成され、クーロンカが働いて原子が構成されました。

 最後に最も弱い力だが遠くまで届く重力が働いて、天体の銀河や星の形成が始まりました。
 最初の天体形成の時期は観測的宇宙論が追いかけている最先端のテーマの一つですが、膨張開始から1〜2億年の頃ではないかと考えられています。

 天体の形成が始まった当初、宇宙の元素としては最も簡単な元素である水素とヘリウムしか存在しませんでした。

 私たち生物に不可欠な酸素やケイ素や炭素、金属といった重い元素は、恒星が形成されてから、その核融合反応によって合成されたものです。

 惑星形成の基本的プロセスは固体微粒子の凝集によるコアの形成であり、ガスである水素やヘリウムを除いて重元素だけを選択的に惑星に取り込む過程でもあります。

 生命という複雑なシステムの発生、それによってはじめて可能になりました。

 大気は金星では地球の100倍火星では100の1弱で、気温は金星は極度に高く火星は極度に低いため、表面に液体の水が存在できるのは、太陽系では地球だけになっています。

 太陽からの放射量だけであればこれはどの違いは生じませんが、大気による温室効果が気温の大きな違いをもたらしているのです。

 地球の大気は炭酸ガスがほとんどなく酸素が多いのが特徴で、酸素はシアノバクテリアや植物による光合成で蓄積されたもので、初期の地球大気中には存在しませんでした。

 大量に存在した炭酸ガスは海洋に溶け、また侵食作用や光合成によって地中に固定されて、長い間に劇的に減少しました。

 海洋は炭素の循環などを通して地球の気候をある程度安定化する役割も果たし、海洋の存在が大気をコントロールして、生命に適切な気候を維持してきたと言えるようです。

 条件から少しはずれると金星のように暴走的気候へのスイッチが入ってしまいますので、液体の水の存在は、生物の発生と維持にとって重要と考えられます。

 地球の水は半径6000kmの球体の表面を平均わずか5kmの深さの層で覆い、3割近い面積の陸地を水面上に残しています。

 宇宙における氷粒子の多さを思えば地球は深い海に完全に覆われていても不思議ではなく、衛星や外縁天体の多くは分厚い氷や水に覆われています。

 地球型惑星は氷を含まない惑星として生まれたはずで、海の本は後で彗星などにより供給されたか地殻から搾り出されたのかという、地球の水起源論はまだ決着がついていません。

 海洋の存在は生命にとって基本ですが、陸地の存在も地球の生物進化には重要だったと思われます。

 陸地の浸食でリンやカルシウムなど生物にとって不可欠な元素が海に供給され続けてきたことが、生物進化に重要な役割を果たしたと考えられます。

 加えて、侵食作用を通じて大気中の炭酸ガスを海に流し沈殿固定化することで、地球の気温を押し下げてきました。

 長期にわたっては気候の基本条件も変わり、地球では炭酸ガスの長期的減少に加え、何度かの全面氷結期や最近の氷河期もありました。

 地球もゆっくり冷却しており、その影響に太陽自体の放射の増大も重なって、地球の海洋も10億年以内になくなるという予測があります。

2. 地球史と地球生物史

 46億年前に誕生した時の地球は非常に高温で、惑星形成の残漬である微惑星等の衝突も多く、海が安定的に存在できるまでに数億年を要しました。

 生物は、高温の海、炭酸ガスを多く含む高温の人気という、現在とはおよそ異なる地表環境で誕生しました。

 現代に生きている地球生物は、真正細菌、古細菌、真核生物の3つに大別されます。

 真正細菌と古細菌は、ともに原核生物と呼ばれる小さく原始的な単細胞生物ですが、両者の分岐は30億年ないしそれ以上前です。

 大型の真核細胞生物の登場は、20億年くらい前と思われます。

 原核生物には、自己を外の環境と区別、栄養を摂取し活動、自己を複製、遺伝子の複製ミスや変異を通し環境に合わせてダーウィン進化、という4つの特性があります。

 真核生物は、真核糾胞の単体、または多細胞体です。

 原核生物は、基本としては多細胞体を形成しません。

 真核生物は多彩な細胞機能を活かして、巨大な多細胞生物を出現させました。

 多細胞生物の代表は、私たちに身近な植物と動物です。

 巨大化した細胞と原核生物との共生を通して20億年前に出現した貞核細胞生物は、その後の地球生物の多様性の基盤であり、その出現は地球生物史上の大事件でした。

 これまでに見つかっている最古の生物の痕跡は、専門家により意見が分かれますが、38億年前から35億年前のものです。

 安定した海洋が生まれると、おそらく海底の噴火口近くや浅瀬などで、最初の生命が生まれたのではないかと思われます。

 生物が発生した後は単細胞の時代が長く続き、本格的な多細胞生物の出現にはなお時間がかかりました。

 長い生物の歴史の中で、地球の環境は大きな変化を何度も繰り返したことが分かっています。

 その原因は、地球の内部からも地球の外部からもあり、生物自体が引き起こした大変化もありました。

 しかし、そのたびに地球の生物は打撃ををこうむりながら生き延び、それによってかえって進化の速度を増してきたと考えられるようになりました。

 大気中の酸素濃度は段階的に増え、それと反対に炭酸ガス濃度はほぼ一方的に下がり続けてきました。

 生物による光合成と陸地の浸食による、炭酸ガスの固定の結果です。

 海水が減ったり地球の内部活動が強くなって陸地が増えると、空気中の炭酸ガスは浸食によって海に流れ、岩石への固定作用を受けて炭酸ガスは減ります。

 一方、地球内部の運動が激しくなれば、火山活動で炭酸ガス放出が増えます。

 炭酸ガス濃度の低下は、地球の気候の長期的寒冷化をもたらしました。

 一方で酸素が増えれば、酸素から獲得した大量のエネルギーを消費して、動き回りエサをとる動物の出現が可能になります。

 私たち人間は脳で大量の酸素を消費し、十分な酸素なくしては生きていけない動物です。

 長期にわたる地球環境の変動は、海洋や地殻の変化のみならず、生物の大量発生とその活動によっても引き起こされました。

 最近、およそ22億年前と7億年前の2度にわたって、地球全体が凍りついたと考えられるようになっています。

 原因は特定はされていませんが、当然生物の大量の死滅が起こったはずです。

 生物はその長い歴史の中で、何度も大きな危機に瀕してきました。

 原因は、大規模な酸素欠乏、光合成の途絶、天体衝突、大規模火山活動など諸説があり確定していません。

 地球環境は基本的には安定ですが、まだ十分特定できない原因によりしばしば突然の気候変動が起こり、生物は大打撃を受けてましきた。

 それでも生物はしぶとく生き残り、大絶減のたびに生じる生態的な隙間を新しい環境に適応した新しい種が急速に埋めることに

 大絶滅は最近5.5億年でも少なくとも5回確認されていますので、その前の35億年の間にも多くの環境大変動が起きたと考えるのが自然でしょう。

 真核細胞の出現した20億年前と、多細胞生物の大発生した6億年前にも、地球生物史上の大事件があったのではないでしょうか。

3. 地球の生物と人間、文明、未来

 地震波を世界各地で同峙に観測し相関分析から地球内部の構造を拙き出す地震波トモグラフィーという方法によって、個体地球の理解はかなり進んでいます。

 それによって、海洋プレートが冷えて沈み込む一方、熱いマントル物質が地下深くから上昇し、全休としてマントル内部の対流が進んでいる様子が見えてきました。

 そうした大きな変動はプレート運動に新たな変化を起こし、大陸を離合集散させます。

 地球の大陸は過去、3億年前のパングア、22億年前のゴンドワナ、10億年前ロディニアというふうに、2〜3億年の周期で一つに纏まった超大陸を作ってば分裂してきました。

 現在は、ユーラシア超人陸の形成中と昆ることができます。

 そのほか、たとえば27億年前には突然、地球に磁場が生まれたらしいです。

 これも内部運動の大きな変化に起因していることは間違いありません。

 そうした地球自体の運動や冷却に伴う長期的な変化は、地球の気候にも大きな変化を及ぼし地球生物の進化にも大きな影響を与えたであろう。

 地球の生物は、地球環境に全面的に依拠し、ときどき思いがけない形で起きる環境変動に対応して新しい環境に適応するものが生まれて生きのび、進化を続けて、現在に至った。

 その中で、二足歩行をはじめ、手を用いて道具を作り、脳を大きくして計画的行動を発展させ、20万年前に文化を持つ種として現れたばかりの動物が人間です。

 人間は地球生物としてはじめて自己を認識し未来を考える能力を持ち、言語などの情報を共有し、科学・技術・産業、総称して文明という新しい社会活動を行う動物です。

 地球の未来については、長期的にはある程度のことが予測できます。

 太陽は中心部で核融合反応が進み、ヘリウムが中心に溜まるとともに、少しずつ明るさを増してきています。

 今後もそれは続き、およそ50億年後には急速に膨れ上がって、赤色巨星になるでしょう。

 金星はのみこまれ、たぶん地球も蒸発するでしょう。

 少なくとも灼熱の世界になるでしょう。

 その前に太陽放射で地球の海は干上がりますが、地球自体の冷却に伴う海の消滅のほうが、それより早いかもしれません。

 地球の海はいま、少しずつマントルに吸収される過程にあるらしいです。

 プレートは岩石中に取り込んだ海水をマントルに運び込みますが、地下の高温のため水は分離してふたたび地上に帰ってきます。

 ところが地球内部が冷えると、水を海に戻すこのプロセスが働かなくなります。

 そのためすでに数億年前から海水のマントルヘの吸収が始まっているらしく、地球に海がなくなるのは10億年くらい先と言われています。

 そうなれば、地球の現在の気候も生態系も維持できません。

 もっとも、何億年も先の地球にどんな生物がいるかは全く予想できません。

 そんな先の話でなくとも、地球における環境の大変動の可能性は、過去の例からいろいろ考えられています。

 環境に変動をもたらすほどの大隕石衝突の時間スケールは、数100万年でしょう。

 超火山の噴火も、それに劣らない気候の人変動を起こします。

 7万4千年前におきた超火山級のトバ火山の大噴火では、当時の人類の数が急減したことが知られています。

 超火山の時間スケールは、10万年のオーダーです。

 氷河期もあり、過去200万年にわたって10万年ごとに繰り返された氷期と間氷期のうち、最新のウルム氷期が12000年間前に終わった後の比較的温暖な間氷期に私たちはいます。

 また寒い氷期が訪れると考えたほうがよいという研究者も多いようです。

 次の氷期が来るとすれば、過去の明確な同期から言って5万年から10万年以内ということになります。

 そうした変化はおおごとではありますが、生物も人間も何とか対応していけるでしょう。

 最も時間スケールが短く、そして真剣に考えなければならないのは、人間自身が作り出す環境変化です。

 前までは無限に大きく思われた地球という容れ物は、今は小さく感じられるほどになりました。

 人為的温暖化、食料、水不足などの問題や、化学物質の蔓延、人類活動によるかつてない規模の生物大絶滅と生態系の激変など、課題は山積みになりつつあります。

 人間活動による環境変化の最も深刻な問題は、その時間スケールの短さにあります。

 時間スケールは世代を重ねる必要からかなり長く、さまざまな中和要素が自然に働きます。

 けれども人間活同の場合、時間スケールが桁違いに短いので、人間以外の何ものも、それを中和することができません。

 人間はそれに対応できるでしょうか。

 あるいは、急激で方向性が分からない変化を自分で生みだし、有効な対応ができずに人間文明が自滅して短命に終わるという可能性もあるのでしょうか。

 それはまさしく、現代に生きる私たち人間自身の問題です。

 第一生物はすべての生物の祖の原核生物、第二生物は巨大な細胞を組み立てた真核生物、第三生物は真核細胞を何兆個も積み上げ分業化して大型生物となった多細胞生物です。

 人間は知りたがりの動物で、空間と時間を越えて知を共有する動物であり、地球が産んだ第四の生物といえます。

 地表をほぼ覆い尽くして生きる第四生物としての人間は、自身が生み出しだ巨大な活動の結果に、自分で責任を負わなければなりません。

 人間は、すでにその第一歩を踏み出しているといえないでしょうか。

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posted by kpie44 at 13:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 太陽系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする