2018年04月14日

幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎

 ”幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎”2017年6月 洋泉社刊 中村 彰彦著)は、徳川脱藩と称し鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いを駆け抜け華麗なる転身をした遊撃隊隊長・人見勝太郎の生涯を紹介している。

 人見勝太郎は幕臣であったが、後年は、官僚、政治家、実業家に転じ成功を収めた。1843年に京都で生まれ、剣術砲術や儒学を学び、のち徳川義軍遊撃隊に加わり遊撃隊長にもなった。明治元年=1868年に榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国政府が成立したとき、松前奉行を務めた。1876年に七等判事として司法省に出仕し、間もなく内務省に転じた。1880年に茨城県令に任じられ、5年4カ月にわたりその地位にあって腕をふるった。退官後も、利根運河会社社長、台湾樟脳会社設立発起人などを歴任した。

 中村彰彦氏は1949年栃木市生まれ、宇都宮高等学校、東北大学文学部国文科を卒業した。在学中に第34回文學界新人賞佳作に入選し、卒業後の1973年から1991年まで文藝春秋に編集者として勤務した。同社の雑誌編集部および文藝出版部次長を歴任し、1987年に第10回エンタテインメント小説大賞を受賞し、1991年より執筆活動に専念してきた。1993年に第1回中山義秀文学賞、1994年に第111回(1994年上半期)直木賞、2005年に第24回新田次郎文学賞を受賞した。歴史小説・時代小説を中心に執筆し、日本文藝家協会評議員、憂国忌代表世話人、会津史学会会員、会津親善大使、伊那市ふるさと大使を兼ねている。

 人見勝太郎は徳川脱藩と称して、旧幕府脱走軍を統率した。徳川脱藩という言葉は、旧幕府、あるいは駿府藩となってからの徳川家を去った者、という意味合いで使用されている。14代将軍徳川家茂が1866年に病死し徳川慶喜が15代将軍に就任したが、翌年に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し勅許を受けた。この時点で江戸幕府は消滅したが、江戸城、二条城、京都守護職、京都所司代、その他の機構はなお存続していたため、幕府という言葉に代わって旧幕府という表現が使われ出した。その後、王政復古を布告済みの新政府は徳川一門の徳川家達に宗家を家督相続させることを確認し、家達に駿河府中城改め駿府城と駿河一円、遠江、陸奥のうちに70万石の土地を与えると決定した。以後、旧幕府の旗本・御家人たちは駿府藩徳川家の家中の者となり、駿府城は1871年の廃藩置県まで存続した。

 人見勝太郎は、1843年に二条城詰め鉄砲奉行組同心で、御家人10石3人扶持の人見勝之丞の長男として京都に生まれた。1867年に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたった。鳥羽・伏見の戦いにおいて、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張した。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡った。箱館戦争において、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり、五稜郭に向かうが峠下で新政府軍と遭遇し、峠下の戦いに参加した。旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任した。1869年の箱館総攻撃に際して、七重浜に出陣し、辞世の漢詩を揮毫した旗を翻し戦った。そのとき負傷して箱館病院に入院し、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩に預けられた。1870年に釈放され、5ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊した。

 維新後は、1871年に静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任した。1876年に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。1877年に群馬県官営工場所長、1879年に茨城県大書記官、翌年、茨城県令を務めた。その後実業界に転じ、1887年に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立し、初代社長に就任した。また、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与した。1897年から旧幕府主催の史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残し、1922年に享年80歳で死去した。人見勝太郎関係資料はかなり少ないが、”人見寧履歴書”と題する回想録を残した。人見は、維新後、寧=やすしと名乗った。かつて著者は、”KENZAN”という小説誌の第14号と第15号に、”幕臣人見寧の生涯”という歴史ノンフィクションを連載した。同誌は第15号で休刊となったため執筆を中断していたが、このところ時間ができたので加筆に取りかかったという。本書は、回想録やほかの史料を参看しながら、幕末維新の荒波を浴びつつ生きた、一代の風雲児の足跡をたどっている。

第1章 幕府の遊撃隊に参加して/第2章 敗退/第3章 転進/第4章 脱藩大名との出会い/第5章 箱根戊辰戦争/第6章 奥州転戦の足取り/第7章 「蝦夷島政府」の誕生/第8章 「好し五稜郭下の苔と作らん」/第9章 戊辰の敗者の彷徨/第10章 辣腕の茨城県令

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2018年04月09日

からだの進化

3 からだの進化 梅ア 昌裕先生

(目欄&ポイント)

 人類はホモ・サピエンスという一つの生物種で、およそ20万年前にアフリカ大陸で進化したと考えられています。

 その後、一部のグループはアフリカ大陸を離れ、地球の全域に拡散していきました。

 その中で、自分たちが進化したアフリカ大陸とは異なる環境条件への適応を迫られました。

 ここでは、ホモ・サピエンスが暑さや寒さなどの環境条件に対処するメカニズムと、様々な環境への適応が人類集団の生物的な多様性につながっていくメカニズムについて学びます。

1. なぜ人間のみかけは多様なのか

 地球上に暮らす人間は、全員がホモ・サピエンスという同じ種の生物でありながら、顔かたち・体つきがこれほどまでに多様になったのはなぜなのでしょうか。

 生態学的特徴の一つめは、ほとんどの哺乳類は固有の生息地域をもっているのに対し、人類は地球上のあらゆる場所に暮らしているということです。

 二つめは何でも食べることであり、この雑食性は、結果的に、人類が地球上の様々な自然環境で生きることのできる基本的な条件となっています。

 多様な顔かたち・体つきの人類が、地球上のあらゆるところに存在し、それぞれの地域で生産される植物や動物を食べながら生存しています。

2. ホモ・サピエンスの進化と出アフリカ

 最初の人類である猿人から私たち現生人類=ホモ・サピエンスまで、進化のプロセスでたくさんの新しい人類集団が生まれそして絶滅しました。

 猿人がアフリカ大陸で二足歩行を始めた700万年以上前で、その後、猿人の一つのグループであるホモ・ハビリスが原人に進化しました。

 今から20万年位前にアフリカ大陸で原人がホモ・サピエンスに進化し、10万年位前に一部がアフリカを出て中東を通り、ヨーロッパ、北東アジア、東南アジアヘ拡散しました。

 先住者のネアンデルタールなどの人類集団とは一部混血した痕跡があるものの、基本的には先住者集団とおきかわりながらその居住地を拡げたと考えられています。

3. 暑さ寒さへの適応

 人間は恒温動物ですので、脳や内臓などの温度=深部体温が37度に保たれていることが重要です。

3-1 寒さへの適応

 人間は熱帯で進化したために暑さに強く寒さに弱いという特徴をもっておりますので、ホモ・サピエンスがアフリカ大陸を出てからの寒さ対応が問題となります。

 熱帯雨林帯は降水量か多く気温が高いという特徴がありますが、温帯さらに高緯度にある寒帯など、現在、多くの人類が居住する地域は気温が低く降水量も少ないです。

 アレンの法則では恒温動物は同じ種でも寒い地域に生息するほど突出部が短くなるとされ、ベルクマンの法則では同じ種でも寒い環境に生息するものほど体重が大きいとされます。

 しかし、人類の表現型と寒さへの対応を一般的な法則で説明するのは困難で、ホモ・サピエンスは生物的適応だけでなく家や服などの文化的適応を行ってきました。

3-2 暑さへの適応

 人類は熱帯で進化したために暑さに対する耐性の高い生物で、体表には多数の汗腺が存在しし子供期の熱暴露によって活性化されます。

 気温が深部体温より高くなると体表部分の毛細血管が拡張し、心拍数をあげて体の深部にある熱を血液にのせて体表まで運び、そこで汗の気化によって熱を体から逃がします。

 このメカニズムによって、乾燥した砂漠で動かないでいる場合には気温50度まで、乾燥した日陰を歩く場合には気温47度までは、深部体温を37度に保つことができます。

 暑さへの耐性という人間の能力にはふだん暮らしている環境条件が関わっており、順化の期
間をおくことで暑さへの耐性に関わる集団間差はほとんどなくなります。

4. 人類集団ごとの生物的特徴と健康

 人類の集団には移動と隔離が起きて、新しい環境に移動し新しい場所ではもとの人類の集団から隔離され、各集団の遺伝的変化は共有されず固有の遺伝子プールが形成されてきました。

 南アメリカやポリネシアのように、アフリカから離れた場所の人類集団は、そこに到達するまで移動と隔離を多く繰り返したため、遺伝的な均一性が相対的に高いことが多い。

4・1 緯度と肌の色

 一般的に、低緯度地域の人類集団では肌の色が濃く、高緯度地域の集団では薄いという傾向があります。

 肌の色を左右するメラニン色素は細胞に有害な紫外線を吸収する性質をもっているため、紫外線の強い低緯度地域ではメラニン色素が多いことが生存に有利だと考えられます。

 一方、紫外線は体の中でのビタミンDの合成にも関わり、紫外線の弱い高緯度地域では紫外線を吸収するメラニン色素が多いことが生存にとって不利に働くと考えられます。

 重要なことは、メラニン色素の量が人類の生存に有利に働くかどうかは、居住環境の紫外線がどのくらいの強さであるかに依存するということです。

4-2 倹約遺伝子と肥満

 遠洋航海によって南太平洋に移動していった人々は優れた航海術をもっていたとはいえ、途中で食料が底をつくような状況でどう生き残ったのでしょうか。

 端的にはエネルギー効率の良い人々だったと思われ、効率的消化と余剰エネルギー貯蔵ができる身体的特徴をもち、消費エネルギーや基礎代謝量が少ない人などが考えられます。

 このような特徴をもった人が食料の豊富な環境で暮らすと、余剰エネルギーが多くなることになりそれが脂肪として体に蓄えられやすいことになります。

 この倹約遺伝子仮説は、わずかな栄養効率の違いが肥満の原因になることになり、南太平洋諸国の住民に肥満や糖尿病が多く見られることをうまく説明できます。

4・3 牧畜と乳糖不耐性

 これまでに乳糖不耐性に関連する遺伝子が特定され、乳糖不耐性の割合に関わる集団間差が遺伝子によってある程度は説明できることがわかっています。

 中国、日本、タイ、極北先住民、アメリカ大陸先住民などの殆どの大人は乳糖を消化できませんでしたが、乳を食料とする牧畜民では乳糖不耐性は20%程度と顕著に少ないです。

 近年、乳糖不耐性の割合が高かった東アジアで牛乳摂取量が急速に増加し、乳糖不耐性には遺伝的な背景だけでなく、習慣や慣れが大きく関わっていると明らかになってきました。

 人類集団の間に見られる生物的な違いは遺伝的な違いだけではなく、むしろふだんの習慣によって形成されている部分が大きく、違いは順化によってかなり消失するようです。

5. まとめ

 私たち人類=ホモ・サピエンスはアフリカ大陸を離れ、極端に異なる環境条件でそれぞれが適応しながら生存したため、人類の集団は様々な生物的特徴をもつに至りました。

 遺伝的にはサピエンスの集団間の多様性はチンパンジーに比べて遺伝的な多様性は小さいですが、生物的特徴の違いの中には遺伝的な違いに裏打ちされている部分もあります。

 遺伝的な違いを生み出した時間は長くても20万年ほどであり、集団間に見られる生物的特徴のばらつきの中には順化によって消失するようなものも多いです。

 地球上の様々な人類集団は文化的側面に着目した場合それぞれが異なるという理解が一般的ですが、生物的な側面に着目した場合はみな同じであるという理解が一般的です。

・進化とは何か?

 進化という言葉は良い方向への変化の意味で使うことがありますが、生物学では進化は様々な偶然が重なって生まれる遺伝型の変化であり、そこに良い悪いの方向性はありません。

 ダーウィンの進化論は、次の三つの原則から成り立っています。

・生物には変異がある。そしてその変異は少なくとも部分的にはその子に受け継がれる。

・生物は生き残れる以上に多くの子や卵を産む。

・平均すれば、その環境にとって好ましいとされる方向に最も強く変異している子孫が生き残って繁殖するだろう。したがって、好ましい変異は、自然淘汰によって個体群の中に蓄積されていくだろう。

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2018年04月07日

ビジネスエリートの新論語

 ”ビジネスエリートの新論語”(2016年12月 文藝春秋社刊 司馬 遼太郎)は、論語そのものではなくサラリーマン生活の支柱になるような古今東西の金言名句を中心に書かれたビジネス社会で働く人々への厳しくも励ましに満ちたエールである。

 旧作は昭和35年に、”名言随筆サラリーマン哲学”として六月社から刊行され、昭和47年に”ビジネスエリートの新論語”として六月社書房から刊行された。両方とも、福田定一著となっている。本書は、経新聞記者時代の司馬遼太郎が、本名である福田定一名で刊行した“幻の司馬本”を、単独としては著者初の新書として刊行したものである。著者はサラリーマン記者としてほぼ10年の間に新聞社を3つ変り、取材の狩場を6つばかり遍歴した。最初の数年間は、いつかは居ながらにして天下の帰趨を断じうる大記者になってやろうと、夢中ですごした。しかし、駈出し時代の何年かはアプレ記者と蔑称され、やや長じた昭和35年ころには、事もあろうにサラリーマン記者とさげすまれるにいたっているという。組織を生きるには、何が大切でどんな意識が必要なのであろうか。

 司馬遼太郎は1923年大阪市生れ、1936年大阪市難波塩草尋常小学校卒業、1940年私立上宮中学校卒業し、旧制大阪高校、翌年旧制弘前高校を受験するも不合格であった。1942年に旧制大阪外国語学校蒙古語学科に入学し、1943年に学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業、翌年9月に正式卒業となった。兵庫県加東郡河合村青野が原の戦車第19連隊に入隊し、1944年4月に満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し12月に卒業した。1945年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう、いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろうとの疑問を持ち、昔の日本人はもっとましだったにちがいないとして、22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いたという。

 筆名の由来は、司馬遷に遼に及ばざる日本の者、故に太郎から来ている。産経新聞社記者として在職中に直木賞を受賞し、歴史小説を中心に戦国・幕末・明治を扱った作品を多数執筆した。また、多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。ほかに、菊池寛賞、吉川英治文学賞、日本芸術院恩賜賞、読売文学賞、朝日賞、日本文学大賞、大佛次郎賞などを受賞し、また、日本芸術院会員で文化功労者であり、文化勲章も受章している。本書は、著者の深い教養や透徹した人間観が現れているばかりでなく、大阪人であることを終世誇りとして、卓抜なるユーモア感覚に満ちている。

 論語は孔子と高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。孟子、大学、中庸と併せて、儒教における四書の1つに数えられる。論語は五経のうちには含まれないが、孝経と並んで古来必読の書物であった。顔氏家訓勉学篇では、乱世では貴族の地位など役に立たないが、論語・孝経を読んでいれば人を教えることができるとしている。宋学では論語を含む四書をテキストとして重視し、科挙の出題科目にもなった。大工さんには大工さんの金言がある。その職業技術の血統が、何百年をかけて生んだ経験と叡智の珠玉なのだ。植木職でも陶工の世界でも同じことがいえよう。サラリーマンの場合、いったい、そんなものがあるだろうか。

 学者、技術家、芸術家などの職業感覚からみれば、まことにオカシナ職業の座にサラリーマンというものは座っている。じつにサラリーマンたるや、きょうは営業課員であっても、あすは庶務課員もしくは厚生寮カントク員と名乗らねばならぬかもしれぬ宿命をもっている。職業がへんてんとして変るのだ。この本で日本のサラリーマンの原型をサムライにもとめたが、サムライも発生から数百年間、サラリーマンではなかった。戦闘技術者という、レッキとした職業人であった。ところか、徳川幕府の平和政策は、いちように彼らをサラリーマン化してしまった。もはや、刀槍をふりまわす殺人家としての金言は要らない。しかし、平凡な俸禄生活者としての公務員に甘んじさせるために、何らかのサラリーマン哲学が必要だった。

 儒教の中でも、ことに朱子の理論体系か幕府の気に入り、多少の革命思想をふくむ陽明学などは異学として禁じたほどだった。いずれにせよ、儒教のバイブル論語が、江戸サラリーマンの公私万般におよんだ金科玉条であった。本書には、”ユーモア新論語”という副題がふられている。しかし、孔子さまの向こうを張って、昭和の論語を編むという恐るべき考えはさらさらない。最初は、鎌倉サラリーマンの元祖というべき、大江広元の座右訓の”益なくして厚き禄をうくるは窃むなり”である。また、本書の2部に収録、記者時代の先輩社員を描いたとおぼしき”二人の老サラリーマン”は、働くことと生きることの深い結びつき問う、極めつけの名作短編小説である。いずれも、現代の感覚をもってしても、全く古びた印象はないものになっている。

第1部
 サラリーマンの元祖/洋服をきた庶民/秩序の中の部品/サラリーマンの英雄/サラリーマン非職業論/ロマンの残党/義務のたのしみ/長男サラリーマン/人生観の年輪/サービスの精神/収支の観念/恒産という特権/明日を思い煩うな/反出世主義/親友道と仲間道/湿地に咲く花/金についての人格/公憤のない社会/グチはお教だ/ホワイト・カラー族/真鍮の人生/約束を守る/顔に責任を持つ/崩れぬ笑い/猫にも劣った人物/奴レイ人種/起こるということ/議論好きは悪徳/職業的倦怠感/無用の長物/上役と下僚/階級制早老/女性サラリーマン/職場の恋愛/女性に警戒せよ/サラリーマンの結婚/大度量の女房/家庭の芸術家/家庭という人生/停年の悲劇/運命論が至上哲学/サラリーマンと格言/不幸という喜び
第2部
 二人の老サラリーマン/あるサラリーマン記者

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2018年04月02日

文化としてのドメスティケーション

2 文化としてのドメスティケーション 梅崎 昌裕先生

(目標&ポイント)

・人類が植物や動物をドメスティケートし栽培化・家畜化したのは、ごく最近のことです。

・ドメスティケーションによって植物や動物はどのような特徴をもつようになったのでしょうか。

・そして、ドメスティケーションによって人類の生活はどのように変わってきたのでしょうか。

1. 食べ物は誰がつくるのか

 米、小麦、トウモロコシ、イモ類などの炭水化物を多く含む食べもののほとんどは、人間が田んぼや畑で栽培したものです。

 ウシ、ブタ、ニワトリなど動物性食品も、そのほとんどは人間が飼育した家畜であり、ふだんの食事には野生の動物はほとんど登場しません。

 現代社会では、栽培された植物、飼育された動物を食べるのがあたりまえですが、栽培と飼育という技術が発明されたのはわずかに1万年より少し前のことです。

 ドメスティケーションとは、人間が野生の植物や動物を、栽培化された植物、飼育化された動物に変えてきたプロセスを指す言葉です。

2. 植物のドメスティケーション

2-1 栽培化された植物

 植物を栽培するためには、栽培に適した栽培化された植物と、それを栽培する技術が必要で、栽培化された植物は、もととなる野生の植物から人間がつくりだしたものです。

 栽培化された植物が備える人間にとって都合のよい特徴は、ほとんどの場合、植物の生存にとっては不都合な特徴です。

 栽培化された植物は、植物がその生存を可能にするために有していた特徴を失った状態にあり、栽培化された植物は、自然の中では生きていけません。

 栽培化された植物が生きられる環境をつくる栽培技術体系が農耕であり、それは、現代農業の技術を利用した現代農業と、在来の知識や技術に立脚した在来農耕に分けられます。

2-2 農耕の類型化

 現代農業と在来農耕には、栽培化された植物が成長環境を確保し、成長植物を収穫する共通点がある一方、栽培化された植物が成長環境を確保する手段に大きな違いが見られます。

 現代農業では、農学という学問分野において開発された除草剤、化学肥料、化学物質などの様々な製品の使用が前提となっています。

 耕起、収穫などでは農業機械が使われることも多く、近年では、バイオテクノロジーの発展を背景として、作物としての生産性、食害耐性などが飛躍的に高められました。

 対照的に、在来農耕のあり方は基本的にローカルであり、在来農耕は在来知識、規範、儀礼、暦など社会の中の多様な文化的行為との繋がりをもっています。

2-3 現代農業と在来農耕の対比

 土地当たり収穫量は関東地方がパプアニューギニア高地の一番肥沃な畑に比べ約2倍で、人間と機械の合計投入エネルギーは、トラクターを使うと人間が鍬を使う場合の2.5倍必要です。

 1ヘクタールの農地を耕す時間・人間の投入エネルギーは、人間が鍬を使う場合はトラクターを使う場合のおよそ100倍必要です。

 産業革命によって、世界各地では在来農耕が人間の投入する時間とエネルギーが少なく、安定的で生産性の高い現代農業にとって替わられてきました。

 一方で、現代農業での食料生産に必要な全体のエネルギー量は在来農耕よりも大きく、在来農耕から現代農業への置き換わりは地球環境への負荷を増大させる側面もありました。

3. 動物のドメスティケーション

3-1 飼育化された動物

 飼育化された動物はそれぞれの野生種に比較すると人間の役に立つ能力が強化され、人間にとって望ましくない性質が弱められる方向に変化しています。

 すべての飼育化された動物に共通するのは、人間に対する攻撃性や警戒心が少なく、人間とうまくやっていけるような穏やかな性質をもっていることです。

 いくつかの例外はあるものの、基本的には人間の利用できないものを食べて生存することができ、子どもをつくり育てることが人間によって管理されていることが多いです。

 飼育化された動物は人間が準備した餌を喜んで食べ人間の目の前で子どもを産みますが、これは飼育化されていないほとんどの動物にはあてはまりません。

3-2 飼育化された動物の利用

 栽培化された植物と同じく、飼育化された動物は人間のつくった構造物(柵、檻など)によって外敵と隔てられ、成長に必要な食料を人間に与えられて育ちます。

 攻撃性、極端な警戒心などそれぞれの野生種が自然環境の中で生存するのに不可欠であった特徴は消失しているため、一般的に完全な自然環境下での生存は困難です。

 飼育化された動物の人間にとっての主たる用途は、食べ物、道具や服の材料、労働力・輸送力、愛玩・実験の対象、威信財などで、ほとんどは複数の用途に用いられます。

 それ以外にも、狩猟で活躍するイヌ、漢方薬の材料になるトナカイ、など、特異的な特徴によって人間の役に立つ動物も多いです。

3-3 飼育化された動物が人間の生活に与えた影響

 飼育化された動物の中でも家畜とよばれるものは、人間の利用できない資源を食べて成長し、人間に肉や乳、労働力などを提供します。

 一方で近年になって、飼育化された動物の存在が、人間の罹患する感染症の流行に大きな影響を与えていることが知られるようになりました。

 ウイルスや細菌の中には人間と飼育化された動物のどちらにも感染するものがあり、生物は高密度で存在すると個体間の接触が増え感染症が拡がりやすくなっています。

 症状を起こすことなく感染するにもかかわらず、人間には重篤な症状を引き起こすタイプのウイルスや細菌は、感染した動物を判別するのが難しいためにコントロールが難しいです。

4. まとめ:ドメスティケーションの捉え方

 人間は生態系の一員として、他の生物と同じように被食−捕食の関係の中で生きていましたが、ドメスティケーションによって人間の生存は相対的に容易になりました。

 ドメスティケーションは、人間が他の生物を自分の都合のよいようにコントロールして、生態系の構造を人為的に改変した現象といいかえることもできます。

 およそ1万年前から現在までのドメステイケーションの試みは人類史の中でも大きな発明の一つであり、結果として今日の人類の食生活や労働のあり方に大きな影響を与えました。

 より少ない労働投入によりおいしいものが食べられるようになり、人口に占める肥満者の割合が増加し、活動不足によって引き起こされる疾患の有病率が上昇しました。

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2018年03月31日

池田光政−学問者として仁政行もなく候へば

 ”池田光政−学問者として仁政行もなく候へば”(2012年5月 ミネルヴァ書房刊 倉地 克直著)は、江戸前期の備前岡山藩主で仁政理念に基づいた藩政を展開し新田開発や藩校開設などを行った池田光政の生涯を紹介している。

 池田光政は、1609年生まれの江戸時代前期の大名である。姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男として生まれ、母は江戸幕府2代将軍秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫であった。当時の岡山藩主・池田忠継が幼少のため、利隆が岡山城代も兼ねていた。1613年に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。1616年に利隆が死去したため、幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となった。1617年に幼少を理由に、因幡鳥取32万5,000石に減転封となった。1632年に叔父の岡山藩主池田忠雄が死去し、従弟で嫡男の光仲が3歳の幼少のため、光政が岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった。以後、輝政の嫡孫である光政の家系が、明治まで岡山藩を治めることとなった。本書の大筋は、著者が2009年度から2011年度にかけて岡山大学、大谷大学、九州大学で行った講義によっているという。

 倉地克直氏は1949年愛知県生まれ、1972年京都大学文学部卒業、1977年京都大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学、1980年から岡山大学文学部講師、助教授、教授を経て、2007年に社会文化科学研究科教授、2015年に定年退任、現在名誉教授である。なお、池田家文庫は、戦後、岡山総合大学設立期成会が買取り、岡山大学に寄贈された。池田文庫は、光政が鳥取から岡山城に入部して以来廃藩置県に至るまでの、約240年の備前藩藩政資料と池田侯爵家襲蔵の図書類である。内訳は、藩政資料68,083点、和書4,166部22,117点、漢籍653部10,420冊となっている。

 江戸時代には全国に260あまりの藩があり3000人を超える大名がいたが、現在使われている高等学校の日本史教科書に登場するのは、幕府の老中などを務めたものを除くと、10人にも満たない。池田光政はその数少ない大名の一人で、江戸時代前期を代表する典型的な大名として取り上げられる。この時期の大名はどのような課題に直面し、それをどのように処理しようとしたのか、を説明するために、光政の治績か取りあげられるのである。鳥取藩主としての光政の内情は苦しかったようである。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だった。藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。岡山藩主としての光政は、儒教を信奉し陽明学者熊沢蕃山を招聘し、1641年に全国初の藩校花畠教場を開校した。1670年に日本最古の庶民の学校として閑谷学校も開いた。

 教育の充実と質素倹約を旨とし、備前風といわれる政治姿勢を確立した。干拓などの新田開発、百間川の開鑿などの治水を行い、産業の振興も奨励した。このため光政は、水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学と心学を藩学として実践した。光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とし、神仏分離を行ない寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。また、光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行い、庶民の奢侈を禁止した。光政を明君とする評判は当時からあった。三代岡山藩主池田継政は祖父光政を敬慕し、その政治理念を受け継ぐことを理想とした。家中に伝えられた光政の逸話を集めたものに”有斐録”があり、のちに”仰止録””率章録”といった言行録も作られた。いずれも、光政の偉業を賞揚しその言行に依拠することで、家中の結集を図ろうとする意図をもって編まれたものである。時代を経るにしたがって、明君光政像は教訓化、理想化された。また、光政には自筆の日記が残っており、そこに光政の自意識の高さを認めることができる。

 本書の副題とした言葉は光政の言葉そのままではない。”池田光政日記”1655年4月15日にあるのは、”我等学問者と有名ハ天下ニかくれなく候ニ、仁政行ハ一ツとしてなく候ヘバ、名過候、此天罰ハのがれざる所ニて候”である。光政が学問に志す者であることは天下のだれもが知っている。そうした者であるのに仁政の行いは一つもなく、民に苦しみを与えている。これは名か過ぎて実がないということだ。だから、天罰は遁れられないのであり、今回の洪水は天が自分への戒めとして与えられたものだ、といっている。光政の治者としての個性は、学問者であること、仁政行の実践を目指したこと、常に自己反省を欠かさなかったこと、などが重要な点である。1672年に隠居し藩主の座を長男の綱政に譲り、次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与した。1681年10月に岡山に帰国した頃から体調を崩し、1682年5月に岡山城西の丸で享年74歳で死去した。巻末に。詳しい年譜が付いている。

第1章 岡山以前の光政/第2章 光政における「家」と「公儀」/第3章 最初の「改革」と「治国」の理念/第4章 二度目の「改革」と「心学者」たち/第5章 最後の「改革」と光政の蹉跌/第6章 晩年の光政

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2018年03月27日

地球におけるヒトの存在

1 地球におけるヒトの存在  高倉 浩樹先生

(目標&ポイント)

・ヒトは文化的存在であると同時に太陽の恵みに依存する生物です。

・狩猟採集民だった時代に地球上に拡散したヒトは、農業革命と産業革命をへて独自のエネルギー連鎖をつくり今日に至っています。

・エネルギーは身体の栄養源であると同時に社会を支える動力源です。

・人類史はエネルギー拡散の流れを様々な地域でヒトが独自の系をつくりだしてきた過程といえます。

・文化をエネルギー利用の観点から見ることで、地球におけるヒトの存在を鳥瞰する視点を紹介します。

・地球環境問題と人類史を関連づけて理解します。

1.太陽の恵み

 ヒトは地球上の生物と同様に太陽の恵みがなければ生存できない存在でもあります。

 電気は石油や石炭などを利用してつくられ、風力や潮力も太陽の熱エネルギーが地球に降り注ぐ中で出現するものです。

 水や大気などの無生物を含めた物質循環つくりだす大元は太陽から発せされる光と熱のエネルギーです。

 地球の大気や水の動きは太陽によってつくられ、ヒトの文明社会はその土台の上に成り立っています。

2.共通言語としてのエネルギー

2-1 30人の奴隷

 ある地球物理学の研究者によれば、現代日本人は一人一人30人の奴隷を使って生活しているといいます。

 日本人一人が一日に摂取するエネルギーは2400kcalですが、消費する総エネルギー量は平均すると72000kcalとなり、約30倍です。

 奴隷30人が必要なエネルギー量を、一人の人物が現代の日本で生活していくには必要なのです。

 こにょうに、物理学的視点で人間活動を捉えることは、地球におけるヒトの存在を考える上
できわめて重要です。

2-2 時代格差と地域格差

 ある研究によれば、ヒトの祖先であるアウストラロピテクスは一人一日当たり3000キロカロリー消費していました。

 中世ヨーロッパでは輸送が増え2万kcal、産業革命後は工業化が始まり7〜8kcal、1970年当時の米国人は25万kcalになっていました。

 文明が発達すればするほど人類はエネルギーを利用=消費する社会をつくっていることを示しています。

 世界の貧困問題や南北格差に見られるように現代世界では、1996年では、米国27万、英国13万、韓国10万、中国24万で、世界平均は約5万kcalです。

3.エネルギー循環の人体と社会

3-1 代謝とダイエット

 ダイエット本にはカロリー制限のことが書いてありますが、カロリーは我々が暮らしている標準大気圧の中で1グラムの水の温度を1度上昇させるのに必要な熱量のことです。

 ヒトの行動はエネルギーの摂取と消費という観点で把握することが可能で、摂取した栄養分を体内で燃焼させ、作り出したエネルギーを生命維持のため消費しています。

 代謝とは、食べることを通して外部から取り入れた物質をもとに体がエネルギーを生産し、利用するために物質を変えていく過程です。

 人類史におけるエネルギー消費が徐々に増えてきているのは、人間以外のエネルギーを我々の社会はどんどん取り入れてきたからなのです。

3-2 社会の中のエネルギーの変換

 地球の生命活動を支えるエネルギー起源は太陽に遡り、地球の断面積1億3000万?で地球全体にすると毎秒41兆キロカロリーを受け取っています。

 太陽の恵みがヒトに回わってくるまで幾つもの過程があり、太陽の恵みを地球の生命が使えるように変換した蓄えによって、すべての生態系は成り立っています。

 植物が光合成を通して得た72京kcalのうち7.2京kcalを草食動物が利用し、それ以外は植物の生命維持や再生産に利用されています。

 ヒトの一日のエネルギー推奨量2100kcalから、地球上の人口維持に必要なエネルギー量は0.5京calで、植物が太陽から固定したエネルギーの約1%弱を人類が必要としています。

4.エネルギーの最大消費の起源と石油文明

4-1 エネルギー生産技術としての農業

 700万年前に出現した人類の祖先は雑食だったといわれ、肉をどう手に入れていたかについては諸説あるが、いわゆる死肉あさりをしていたという説が最近有力です。

 約1万年前に始まる農業や牧畜は、食べるための穀類や家畜を野生の再生産の過程から切り離したという点に注目する必要があります。

 農業はヒトが生存していくために編み出した技術の代表的なものであり、その中でヒトは生存にとって好ましい特定の流れを見いだし、強化・拡張してきた。

 人類史はエネルギー利用の拡大史であり、ヒトの人口は80億を超え地球上分布していない場所はないという意味で巨大な個体群です。

4-2 蒸気機関の発達と石油文明

 18世紀に発明された蒸気機関は、従来のヒトの社会には存在しなかった動カエネルギーをつくりだしました。

 人類史を紐解くと、石炭・石油の利用はほとんど暖房用の熱源でしたが、蒸気機関が発明され鉄道や機械制工業の発生に繋がりました。

 石油は19世紀まで熱源以外の利用はほとんどされなませんでしたが、原油から灯油を精製する過程で発生する揮発油を動力化した内燃機関が、自動車や飛行機を生み出しました。

 石油化学の発展によってプラスチック製品が誕生し、従来の太陽エネルギーに基づく地球上の物質循環とは異なるエネルギー拡散の系を、鉱物資源をつくってヒトがつくりました。

5.エネルギーと文化

 1950年代のアメリカの人類学者レスリー・ホワイトは、文化を進化という観点で着想し、エネルギー消費量を量的に分析して、社会の発達段階を科学的に把握できると考えました。

 エネルギー消費量の増加が社会の進化であると主張しましたが、過度に物質主義に立脚した議論は、今日では、ほぼ忘れ去られたといってもよい状況です。

 しかし、ホワイトによる文化の定義は興味深く、ヒトの社会の物質的基盤に接近し伝統と工業化をエネルギー消費の観点から連続的に捉える、という点は着目していいでしょう。

 議論の欠点は過度に物質主義で外側からの視点であることですが、他の社会科学や自然科学と共同して、ヒトの存立を理解する土台を提供しているのではなでしょうか。

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2018年03月24日

伊勢崎藩

 ”伊勢崎藩”(2018年1月 現代書館刊 栗原 佳著)は、藩校の学習堂を設立した日本有数の教育藩で向学心により幾多の危機を克服してきた伊勢崎藩の沿革を紹介している。

 伊勢崎藩は江戸幕府の成立当初から存在した。一般的には譜代2万石の小藩で、厩橋=前橋藩主から後に姫路藩主となった酒井雅楽頭家から分岐した支藩というイメージか強い。だが、酒井忠寛が伊勢崎藩主となる1681年まで、伊勢崎藩は数奇な運命を辿った。

 栗原 佳氏は1989年前橋市生まれ、群馬大学教育学部で社会専攻、学習院大学大学院人文科学研究科で史学専攻、その後、高校地理歴史科の教諭となった。伊勢崎商業高校勤務を経て高崎女子高校に勤務しており、NPO法人歴史資料継承機構じゃんぴん会員である。伊勢崎商業高校には4年間勤務したが、生まれも育ちも前橋市であり伊勢崎に住んだ経験は一度もないという。やっと伊勢崎の土地勘がついてきて、教員生活も慣れてきたところで本書の執筆依頼を頂いたとのことである。

 伊勢崎藩を最初に支配したのは徳川家康の家臣の稲垣氏で、志摩国鳥羽藩・稲垣氏の祖・稲垣長茂が加増によって1万石を領したことに始まる。長茂は1600年の会津征伐時に牧野康成の大胡城を守備し、1601年に上野佐位郡で加増されて1万石の大名として諸侯に列し、伊勢崎藩主となった。稲垣氏は長茂、重綱と2代にわたって伊勢崎を支配したが、重綱は1614年からの大坂の陣に参戦し戦功を挙げ、1616年に越後藤井藩2万石に加増移封された。治世は僅か16年という短いもので、支配領域は佐位郡という伊勢崎の東武南部の領域のみであった。その後、武蔵川越藩初代藩主で後に上野厩橋藩初代藩主となった、雅楽頭系酒井家宗家初代の酒井重忠の嫡男の酒井忠世が、那波藩という伊勢崎の西部を支配し稲垣氏の旧領をも吸収した。忠世は上野那波藩主、伊勢崎藩主となり、1617年に重忠が死去して遺領の厩橋3万3千石を継ぎ、それまでの領地と併せて8万5千石となった。

 忠世が厩橋藩を継いだときに、伊勢崎藩領はそのまま厩橋藩領に組み込まれた。1623年に秀忠の嫡子の家光の世継が確定すると、忠世は家光付きの家老の年寄衆に加わった。忠世は1636年に死去し、同年のうちに忠世の跡を継いだ嫡子・酒井忠行も死去した。このため、酒井氏の家督は忠行の嫡男・酒井忠清が継ぐこととなった。このとき、忠清の弟・酒井忠能が、兄より上野那波郡など3郡2万2,500石を分与され、伊勢崎藩主となった。しかし、1662年に忠能は7,500石を加増されて3万石の上で信濃小諸藩に移封され、伊勢崎は廃藩となった。その後、1681年に4代将軍徳川家綱の下で大老を務めた酒井忠清の三男・酒井忠寛が兄・忠挙より2万石を分与され、前橋藩の支藩的な性格を帯びて伊勢崎藩が再立藩した。忠寛が藩主となって以降は、その子孫が伊勢崎藩主となった。その後厩橋藩の酒井氏は姫路藩に移封となり、伊勢崎藩は姫路藩の支藩的存在となった。3度目の正直で酒井氏の安定した支配か確立した。小藩であった伊勢崎藩は財政問題が常にネックとなり、時代を経るにしたがってさらに悪化していった。こうした状況を打開するために藩校で朱子学の教育か始まり、家臣に浸透していった。

 18世紀の後半には、藩政の重役に朱子学者が多く登用された。藩内は強い師弟関係で結ばれ、伊勢崎藩が浅間山犬噴火で大きな被害を受けた際には善政を行うことで難局を乗り切った。教育はやがて庶民にも広まって郷学が造られ、伊勢崎は日本有数の教育藩となった。日光例幣使道に沿った町の市では、様々な商品か取引された。日光例幣使街道は江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後に東照宮に幣帛を奉献するための勅使が通った道である。農村では蚕糸業が発展し、伊勢崎太織を生産するようになり、これが近代以降の絣の町伊勢崎繁栄の基礎をつくった。蚕糸業が発展したことで、幕末開国後は伊勢崎の蚕種か欧米に輸出されるようになった。開国の影響で伊勢崎藩も幕末の緊迫した情勢に巻き込まれていく。戊辰戦争では宗家の意向に従いはじめは旧幕府軍についたが、後に新政府軍側について参戦した。幕末、最後の姫路藩主となった酒井忠邦は、伊勢崎藩の7代藩主・酒井忠恒の九男である。幕末には新政府から警戒されたが、8代藩主・酒井忠強は自ら謹慎することで恭順の意を示した。その後、1869年の版籍奉還により忠強の跡を継いだ酒井忠彰は知藩事となり、1871年の廃藩置県により伊勢崎藩は廃藩となった。藩主家は、1884年に子爵となった。なお、この本の中では伊勢崎の名所やグルメも紹介されている。

第1章 伊勢崎藩の成立−幕府の始まりからめまぐるしく入れ替わった伊勢崎藩の支配者/第2章 伊勢崎藩の武士たち−役職に励み、苦しい生活に悩まされ、偉業を成し遂げた武士がいた伊勢崎藩/第3章 浅間山大噴火を乗り越える−関 当義・重嶷父子の活躍−未曽有の大災害を克服し、伊勢崎藩全域に広まった教育熱の高まり/第4章 人々の暮らし−伊勢崎太織生産の拠点や、交通の要衝としての伊勢崎藩を支えた人々の暮らし/第5章 幕末の伊勢崎藩−幕末のめまぐるしい情勢に、藩として対応に追われた時代

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2018年03月18日

総合人類学としてのヒト学

 放送大学の、”総合人類学としてのヒト学(’18)”を受講します。

 専門科目としての文化人類学への導入としての科目です。

 人類学は一般に、人類の進化や生物学的側面を研究する自然人類学と、人類の社会的・文化

的側面を研究する文化人類学あるいは社会人類学に大別されされます。

 文化人類学は、人間の生活様式全体の具体的なありかたを研究する人類学の一分野です。

 主任講師は、高倉浩樹先生です。

 1968年東京都に生まれ、1992年上智大学文学部卒業、1998年東京都立大学大学院社会科学研究科単位取得退学(社会人類学博士号1999年取得)。

 東北大学教授で、専攻は、環境人類学、災害人類学、ロシア・シベリア研究です。

 各回のテーマと放送内容は次の通りです。

 第 1回 地球におけるヒトの存在

 第 2回 文化としてのドメスティケーション

 第 3回 からだの進化

 第 4回 食べものをとる

 第 5回 家畜とともに暮らす

 第 6回 食べものをつくりだす技と場

 第 7回 ヒトの家族の起源

 第 8回 ヒトの繋がりと社会集団

 第 9回 時間と空間を区切る

 第10回 遊ぶことと祈ること

 第11回 もののやりとりと社会関係

 第12回 支配の仕組み

 第13回 近代世界の成立と国民国家の形成

 第14回 グローバリゼーションとローカル社会

 第15回 地球温暖化と人類社会

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2018年03月17日

装丁、あれこれ

 ”装丁、あれこれ”(2018年1月 彩流社刊 桂川 潤著)は、本に生命を吹き込む装丁という仕事にまつわるあれこれを紹介している。

 装丁は書物を形づくることやその方法をいい、一般的には本を綴じて表紙などをつける作業を指す。装幀と書かれることもあるが、正しくは装い訂める=よそおいさだめる意味の装訂であるとも言われている。書画の表具を意味する幀が好まれ、装訂の略用表記の装丁とともに定着している。広義には、カバー、表紙、見返し、扉、帯、外箱のある本は外箱のデザイン、また製本材料の選択までを含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。装幀を担当する専門家のことを装幀家、装丁家と呼び、装幀と本文のデザインなどを含めた図書設計を行う専門家のことを図書設計家と括る場合もある。

 桂川 潤氏は1958年東京生まれで、立教大学大学院文学研究科前期課程修了の装丁家・イラストレーターである。キリスト教系NGOや研究所の勤務を経て、1995年からブックデザインの仕事をはじめ、2010年に第44回造本装幀コンクール日本書籍出版協会理事長賞を受賞した。本書は”出版ニュース”の連載コラム”装丁”に掲載された2012?2017年分をまとめたものである。

 明治までは、造本作業は単に製本と呼ばれ、明治末年頃からの出版文化の発展とともに、装い釘じるという意味の装釘が使われ始めた。装釘は、装い釘うつを意味する熟語として中国古代より存在した熟語である。1920年代後半からは、釘との連想を避けて装幀と表記することが多くなった。1946年に発表された当用漢字表には幀・釘ともに入っていなかったため、1956年の国語審議会報告では装幀、装釘には装丁が置き換えられることとされたが、装幀や装釘も一般に用いられている。装幀とブックデザインという言葉は、同じ意味で使われることもそうでない場合もある。ブックデザイン、カバーデザイン、カバーイラストレーションと分けて表記されている場合は、ブックデザインはカバーを除いた書籍本体のデザインのみを意味する。著者は、装丁家と名乗っても、まず何の仕事か理解してもらえないという。ブックデザイナーと言いかえると少しは通じるけれど、今度は、本のデザインって、いったい何をデザインするんですか、と訊ねられる。奥さまは、ご主人がこの仕事をするまで装丁という職能を知らなかったそうである。本の顔と姿かたちを誰が考え出すのか、と訊ねると、そんなの自然に出来ると思っていた、と返されて絶句したとのことである。

 言われてみると、いっさいの作為を感じさせず、自ずから生じたように映る装丁こそ、理想の装丁かも知れない。編集者が装丁した本には、通常、装丁者名が記されない。編集者装丁はテクストに寄り添う装丁であり、そのゆかしさに独特の魅力があった。しかし、時代とともに書物の量産化・商品化が進み、装丁にも広告デザイン的なテクニックや鋭い批評性が求められ、さらに多忙を極める編集者からは装丁に携わる余裕が奪われた。結果、装丁家が編集作業から独立した書物の演出家として脚光を浴び、百花線乱のブックデザインが奸を競うようになった。多機能端末が登場した2010年以降、書籍電子化の波を受けて、紙の本と装丁は消えてしまうのかと、あちこちで訊ねられたそうである。しかし5年を経た今(原稿執筆時点)、出版状況はいっそう厳しいけれど、紙の本はどっこい生きている。魅力的な本屋やブックカフェが話題を呼び、ブックイベントが各地で催され、本と装丁の面白さに惹かれる人が以前より増えたように感じる。世の流れは未だ油断ならないが、存外一本調子ではなさそうだという。装丁論と出版文化論を通じて、本をめぐる真摯なる問いである、理想の装丁とは何かを徹底的に考えようとしている。

「理想の装丁」装丁備忘録2012-2017
2012年 電子本は、これから?/本から離れようつたってそうはいかない/《ソウテイ》あれこれ/なぜリアル書店で本を買うのか/やはり本屋が面白い/3・11後のデザインの可能性/「ゆるい」装丁の時代/日本の電子出版を創ってきた男たち/本と電子書籍の定義は?/電子書籍の「表と裏」/”モノ”から。コト”へ、物”から語り”へ/PDF写真集の試み
2013年 紙の本ならではの装丁/物である本の儚さ/二枚腰のしたたかさか求められる装丁家/「本の気配」を感じるということ/「本の未来」について/仕事の域を超えてゲラ読みに熱中した一冊/映画『世界一美しい本を作る男』を観て/坂川事務所の集大成
2014年 電子カレンダーと手帳/本を舞台に真剣勝負/韓国の書籍装頓と装禎家/装丁はモノから切り離せない/制約を楽しむ/世の流れは「手書き」へ/「偶然の装丁家」/リアルな本の存在意義/菊地信義の批評性/鈴木成一の仕事/紙の本と電子本を知り尽くした山田英春/二冊の写真集
2015年 変幻自在の「和田ランド」/祖父江版『心』/『工作舎物語』/デザイナーの仕事/中小出版、当面はPDFで電子出版?/韓国のブックデザイン/ミシマ社のブックデザインに注目/『書影の森』(みずのわ出版)について/一箱古本市に参加して/エンブレム問題とブックデザイン/坂川栄治流/小さな出版社のもっとおもしろい本
2016年 年末進行のアルゴリズム/本の顔は背である/ブックデザイン派の装丁/ミシマ社と春風社/昨今のラフ、カンプ事情/西日本の個性的な書店・版元巡り/広告出身のブックデザイナー/BBOは地域の祭りに成長/俳句と装丁/本とは何か/「鈴木…久美さん。おーっ!」/鳥海鯛の書体
2017年 花森安治の装釘集成/加藤典洋さんの三冊/身体としての書物/「世界のブックデザイン」展から/紙の本は美しくなければ…/装丁のいい本は中身もいい/佐藤正午本の装丁/韓国の本屋事情/タラブックスの本づくり/たかが帯、されど帯/装丁家ふたりのエッセイ/17年のキーワードは「地方」
〈予感〉を包み込む
私が装丁家になった理由/現実と異界をつなぐ扉/予感を包み込む
あとがき/初出一覧/人名索引/事項索引

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2018年03月10日

岩瀬忠震 五州何ぞ遠しと謂わん

 ”岩瀬忠震 五州何ぞ遠しと謂わん”(2018年1月 ミネルヴァ書房刊 小野寺 龍太著)は、ハリスと談判して日米通商条約を作り上げ井伊直弼の慎重論を押し切って独断調印した開国の立役者の岩瀬忠震を紹介している。

 五州とは五大州のことで、世界を地理学的に分けた5つの州の総称である。アジア州、ヨーロッパ州、アフリカ州、アメリカ州、オセアニア州を指す。ただし、ほかの分類もある。岩瀬忠震=いわせただなりは幕末の日本の外交・防衛・通産の高級官僚であって、漢詩・和歌・絵画にも堪能だった無頼の一男児である。五言絶句”航海誰か自ら任ず”に、”只許す、碧翁知ると、五州何ぞ遠しと謂わん。吾、亦、一男児”とある。男児たる自分は五大州を股にかけて往くのだという意気込みが感じられる。

小野寺龍太氏は1945年生まれ、1963年福岡県立修猷館高等学校卒業、1967年九州大学工学部鉄鋼冶金学科卒業、1972年九州大学大学院工学研究科博士後期課程単位取得退学、現在、九州大学工学部材料工学科教授を経て、九州大学名誉教授と務めている。工学博士であるが、日本近代史、特に幕末期の幕臣の事跡を調べている。

岩瀬忠震は江戸時代後期の幕臣、外交官で、列強との折衝に尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に幕末三俊と顕彰された。旗本・設楽貞丈の三男として、江戸芝愛宕下西久保で生まれた。血縁をたどると、麻田藩主青木一貫の曾孫、宇和島藩主伊達村年の玄孫であり、男系で伊達政宗の子孫にあたる。母は林家の大学頭の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。1840年に岩瀬忠正の婿養子となり、家禄800石の岩瀬家の家督を継いだ。1843年に昌平坂学問所大試乙科に合格し、成績が優秀だったため褒美を受けた。1849年に部屋住みより召し出されて西丸小姓番士となり、同年に徽典館学頭を命じられた。翌年甲府へ出張し、老中首座・阿部正弘より時服を拝領した。1年後江戸に戻り徽典館学頭としての功績が認められ、白銀15枚を拝領した、次いで、昌平坂学問所の教授となった。1854年に阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられ、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。その後も外国奉行にまで出世し、1855年に来航したロシアのプチャーチンと全権として交渉し、日露和親条約締結に臨んだ。1858年にはアメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に井上清直と共に署名するなど、開国に積極的な外交官であった。

 同年、13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で徳川慶喜を支持する一橋派に属し大老となった井伊直弼が、反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷された。1859年には蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園で書画の生活に専念した。1861年に44歳で失意のうちに病死したが、維新後に正五位を贈られた、島崎藤村の”夜明け前”にも登場する偉人である。少なくとも日本の将来、すなわち開国、貿易、外国文明の移入、産業振興、富国強兵を安政の始めにはっきりと見通し、断固としてその道を推し進めたのは岩瀬を措いて他に見られない。安政4年=1857年に書いた建白書を読めば、明治維新の精神がその10年以上前に述べられていることに驚嘆するという。維新後の日本の進路が明確に述べられており、西郷、大久保、木戸の三傑や近頃流行の坂本竜馬などは、10年後に岩瀬の後を追ったまでである。彼らは元々、藩の武人であって己の藩の権力拡張を第一義とし、日本の将来を見通したわけではなかった。

 もちろん彼らも成長して立派な政治家になったが、先見性という意味では岩瀬に百歩を譲るという。現在、岩瀬忠震の名は日米通商条約に調印した人物としてのみ史上に残っているが、日米条約の前に長崎でオランダ・ロシアとの通商条約に調印していた。この条約は岩瀬のイニシアティブの下に日本側から蘭露に提示したものであって、ペリーとの日米和親条約調印後わずか3年で外国に通用する条約草案を作ったというのは驚くべき偉業であった。この素地があったからこそ、日米条約もほぼ対等なものに仕上がったのである。またこのような外国交渉に尽庫している間も、出張の道中に炭鉱があれば坑道にもぐって石炭塊を掘り出し、港や海峡を通ればその地理を平面図に描き、砲台を見分し、西洋型船の建造に当たった。

 岩瀬は先見性のある官僚であったが、一方で稀に見る人間的魅力があった。魅力の第一は、意気に満ちた爽快な生き方である。開国貿易という政洽的目的を達成するためには右顧左眄せず、思った通りに直言、実行し、自己保身などは一切考えなかった。井伊直弼にも橋本左内にも幕府の小史にも、相手の身分の高下を問わず自分の信念を熱誠をもって披歴した。儒教道徳に忠実で、主家の徳川家、特に遠祖家康を尊敬していたが、日本全体の興隆のためには徳川家を越えて、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城などの諸藩主や、橋本左内のような陪臣とも喜んで協力した。それが災いして井伊直弼によって永蟄居という重罰を加えられたが、忠震は決して後悔しなかった。このような快活な性格に止まらず、見ぬものに憧れるロマンティックな気分があり、真の自然愛好家でもあった。それを表現できる文学的才能と書画の才を持ち合わせ、絵画は日本画の専門家が嘆賞するほどのものであるし、漢詩や和歌はその時々の気分をよく表現している。海外雄飛の夢も単に論理から割り出したものではなく、ロマンティックな性情にその萌芽があったとみるべきである。しかも夢想家ではなく、快活な滑稽の才があって、日本人外国人を問わずみなを笑わせた。これまで大きく取り上げられることのなかった幕末の偉人の評伝であり、一次史料を多く用いてその魅力に迫っている。

序 開国の立役者・岩瀬忠震/第1章 無為の青年期/第2章 儒者としての4年間/第3章 鯤=こん、化して鵬=ほうとなる/第4章 貿易開始の主張と日蘭日露通商条約締結/第5章 長崎往復道中日記から 付録 日記「和田嶺から諏訪湖」/第6章 横浜開港意見書と当時の一般世論/第7章 ハリスとの交渉−日米修好通商条約/第8章 日米通商条約の勅許下らず/第9章 井伊直弼の登場と日米通商条約調印/第10章 オリファントの見た忠震と安政の大獄/第11章 作事奉行への左遷/第12章 蟄居と終焉/岩瀬忠震略年譜

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2018年03月03日

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末

 ”レンズが撮らえた F・ベアトの幕末 ”(2012年11月 山川出版社刊 小沢健志・高橋則英監修)は、幕末の時代を外国人戦場カメラマンの目で捕えた日本の各地の写真を紹介している。

 フェリーチェ・ベアトはイギリス領ゴルフ島出身の報道写真家で、1863年に来日し、1864年の下関戦争に従軍し、1863年〜1884年まで日本に在住した。日本滞在中、江戸期の各地の風景とさまざまな階層、職業の人々や風俗を撮影したほか、横浜、長崎、京都、大坂、神戸、鎌倉、箱根、富士登山、下関戦争、東海道、中山道、日光街道ほかも撮影した。アルバムは、幕末期の駐日オランダ総領事ポルスブルックのコレクションにある、一冊の和装丁アルバムで、現オランダ海洋博物館所蔵となっている。ほかに、イギリス艦船エンカウンター号の海軍中尉であったダグラス所蔵のものもある。2つとも和製本の4つ目綴じで、同じ柄の赤い絹表紙となっているが、なかにある写真の枚数と台紙数は異なっているという。

 監修は小沢健志氏と高橋則英氏、執筆は田中里美氏、天野圭悟氏、三井圭司氏、谷 昭佳氏である。小沢健志氏は1925年生まれ、日本大学法文学部卒業、九州産業大学大学院教授、日本写真芸術学会名誉会長などを歴任している。日本の幕末から明治期の写真に関する研究については第一人者で、先駆的な研究を行った。高橋則英氏は1978年日本大学芸術学部写真学科卒業、日本大学芸術学部助手、専任講師、助教授を経て、2002年から日本大学芸術学部教授を務めている。専門領域は写真史、画像保存で、近年は日本初期写真史の調査や研究を行っている。田中里美氏は2005年日本大字芸術学部写貞学科卒業、2007年日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程映像芸術修了、日本大学芸術学部写真学科専任講師。天野圭悟氏は法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了、初期写真研究家で主要な研究テーマは近世文化史。三井圭司氏は日本大学博士課程満期退学、東京都写真美術館学芸員。谷 昭佳氏は植田正治写真美術館学芸員を経て、2000年から東京大学史料編纂所史料保存技術室技術専門職員。

 F・ベアトは、撮影した写真の多くは古くから知られていたにもかかわらず、過去には永くその正体が明らかでない写真家であった。ベアトの写真は歴史的価値が高いものであるが、このような重要な仕事を行った写真家の事歴が永く不明であったのは不思議なことである。ベアトは1834年、当時イギリス領であったイオニア海のゴルフ島、現ギリシア領の出身である。1825年にイタリアのヴェネチアに生まれたとする説やほかの説もあるが、いずれにしてもイタリア系の血筋であった。ベアトの姉(もしくは妹)のマリアはイギリスの写真家ジェームス・ロバートソンと結婚した。その関係で、オスマン帝国造幣局の主任彫刻師を務めていたロバートソンから、ベアトと兄のアントニオは写真の技術を学んだと考えられる。1855年、ロバートソンがクリミア戦争に従軍することになり、ベアトも助手としてクリミアに赴き撮影を行った。イギリスの写真家ロジャー・フェントンが従軍撮影した写真が有名であるが、フェントンがコレラにかかり帰国したため、ロパートソンがその代わりとして従軍した。ロバートソンとベアト兄弟はその後、パレスチナやエジプトで撮影を行った。 

 1857年にはロバートソンがインドにおけるイギリス市の公式写真家となり、ベアトも1858年にインドに赴いた。ベアトはその後1860年には、アロー戦争ともいわれる第二次アヘン戦争の撮影しようと、イギリス軍司令官サー・ホープーグラントとともに中国に渡った。ここでもベアトは、北京の紫禁城の見事なパノラマ写真などを撮影したが、北京南東の大活砦の戦いでは戦闘後の城壁の内部など、戦争のリアリティーを伝える写真を撮影した。戦争写真家としての十分な経験と実績をもったベアトが日本へやってきたのは、1863年の春ごろである。来日してすぐにベアトは、エメェ・アンベール率いるスイス外交使節団の江戸市中視察行に同行して撮影を行った。その後、横浜外国人居留地にスタジオを構えて活動を始めたが、イラストレイテッド・ロンドン・ニューズの特派員で画家であるチャールズ・ワーグマンと共同経営であった。ベアトは中国でワーグマンと知り合い、ワーグマンは1861年にひと足先に来日していた。1864年の下関戦争の際もワーグマンとともに従軍した。

 日本での撮影はどこでも自由に行うということはできず、開港地から十里四方に設けられた外国人の遊歩区域が生な撮影場所であった。横浜や、同じ開港地である長崎で多くの撮影を行った。また、外交使節団とともに行動することで遊歩区域外の撮影を行うことができた。1867年にはオランダ総領事ポルスブルックー行の富士登山に同行し、箱根や富士吉田での撮影も行った。この時期ベアトは日本各地で、外交筋からの依頼や海外の新聞への寄稿などのため精力的に撮影を行った。ベアトのように大判の原板で確かな技術により、幕末の記録を行った写真家はほかにいない。ベアトの写真の素晴らしさは、優れた技術によって江戸期の日本の様子を数多く現在に伝えている点である。その後、ベアトは1877年には、スタジオを建物やネガなども含めてスティルフリート&アンデルセンに売却し、写真から離れ、投機的な事業に専念することになる。そして洋銀相場や米相場で大きな損失を出して財産を失い、1884年に20年余り過ごした日本を離れた。

 ベアトという写真家には、波乱万丈という言葉がふさわしいと思われる。また、ベアトについてはまだ謎に包まれていることも多い。しかし未だその全容は明らかではないとはいえ、ベアトという優れた写真家の仕事は歴史のなかで光彩を放っている。

F.ベアト写真アルバム/F.ベアトの見た幕末の日本/フェリーチェ・ベアトについて/フェリーチェ・ベアトの生涯/幕末日本の風景/幕末日本の風俗/史料からみるベアト/下関戦争とフェリーチェ・ベアト/最初期ベアトアルバムの史料的考察

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2018年02月24日

物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説

 ”物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説”(2017年10月 集英社刊 桜井 俊彰著)は、人種的・言語的にイングランドと異なるウェールズがいかにイングランドに抵抗し統合されたかを知ることができる。

 イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの地域から成り立っている。これらの地域は、その歴史的経緯からイギリスでは別個の国という感覚で人々に認識されている。イングランドと同様にほかの3国は英国議会に議席を持つと同時に、それぞれ独自の地域議会や政府があり首相や閣僚もいる。イギリスをいろいろな言語を待った多様な民族がいるミニ大陸と仮定して考えてみると、少し見えてくることがある。

 桜井俊彰氏は1952年東京都生まれ、1975年に國學院大學文学部史学科を卒業し、広告会社でコピーライターとして雑誌、新聞、CM等の広告制作に長く携わり、その後フリーとして独立した。1997年ロンドン大学ユニバシティ・カレッジ・ロンドン史学科大学院中世学専攻修士課程修了し、現在、歴史家、エッセイストとして活躍している。

 ウェールズはイングランドの西隣、ブリテン島の南西部に位置し、面積は約2万平方キロメートルである。日本の四国と東京を合わせたほどの広さで、この中に約311万人が暮らしている。イギリスの総人口6565万人のうちの、約4.7%を占めている。ウェールズの人々は公用語である英語を話し、同時に、独自の言葉であるもう一つの公用語、ウェールズ語を話している。ウェールズ人は、かつてヨーロッパに広く住んでいたケルト人の末裔である。ケルト人は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族である。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などに、その民族と言語が現存している。アーサー王伝説は中世後期に完成し、トマス・マロリーがまとめた、アーサー王を中心とする騎士道物語群である。内容は、アーサーの誕生と即位、アーサー王の宮廷に集った円卓の騎士達の冒険とロマンス、聖杯探索、ランスロットと王妃グィネヴィアの関係発覚に端を発する内乱の4つの部分に分けられる。トマス・マロリーは1399年生まれのイングランド人で、その生涯に関して確実とされるものは少ない。

 ケルトの民ブリトン人の島だったブリテン島をローマ軍が征服し、属州として支配を開始したのは1世紀中頃であった。5世紀に入るとローマは撤退、アングロサクソン人が侵入を始めた。ウェールズという言葉は、侵入者アングロサクソン人がブリトン人を呼んだよそ者という意味の、古い英語からきている。1066年にノルマン征服王ウィリアム1世がイングランドを征服したが、ノルマン朝によるウェールズへの侵略・植民政策は、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功とはならなかった。以降も、イングランドから度重なる侵略を受け続けたが、ウェールズはその都度撥ね返して独立を守ってきた。1258年にウェールズの事実上の統治者グウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズ大公を名乗り、ウェールズ公国が成立した。しかし、イングランドからの圧力に加えてウェールズ内部での権力闘争の激化、オックスフォード条項以降のコモンロー支配によってウェールズは弱体化していき、徐々にイングランドに臣従せざるを得なくなった。1282年、ルウェリン・アプ・グリフィズがイングランド王エドワード1世に敗れてからは、ウェールズはイングランドに占領されその支配下に置かれることとなった。ウェールズはイングランドの一地方となり、エドワード1世は長男エドワードにプリンス・オブ・ウェールズの称号を与え、ウェールズの君主としてウェールズを統治させた。

 このような過程を経て、ウェールズはイングランドに征服されその統治を受けることになったが、このことが逆にウェールズ人の民族意識を強めた。ウェールズ人は頑なにイングランドとの同化を拒み続け、この地に植民した異民族のほとんどはことごとくウェールズ人化していった。1455年からの薔薇戦争の際、ウェールズはその政争争奪の舞台になり、やがてウェールズ人がイングランドの王となるときを迎えた。ヘンリー・テューダーはイングランド中部レスターシャー州で行われた戦い、世にいうボスワースの闘いでウェールズのシンボル、赤竜を軍旗に掲げて兵を鼓舞し、シェイクスピアに大悪党として描かれたイングランド国王リチャード3世を葬った。ヘンリー・テューダーこそ、イギリスを世界に覇を唱える海洋国家へと導いていったエリザベス1世女王の祖父であり、近代英国史の幕を開けたテューダー朝の開祖のヘンリー7世である。ヘンリー7世は、戴冠式から1年後に誕生した最初の息子に、アーサーという名前をつけた。残念なから、聡明との評判高き王子アーサーは15歳の若さで病死した。後世のテューダー家に至っては、1536年の合同法によるウェールズ統合により、単一国家イングランド王国あるいはイングランドおよびウェールズとし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は、同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになった。

 本書は、イングランドに押されっぱなし、負けっぱなしだったウェールズの、この大逆転のときにまで至る、その抗争の歴史を辿ってみるものである。これは、今日のイングランドとウェールズの関係を正しく見ていくため、さらに、UKのこれから進んでいく道をしっかりと見極めていくために必要な知識である。

プロローグ 「よそ者」と呼ばれた人たち/第1章 ブリトン人から、ウェールズ人へ/第2章 ノルマン人西へ、ウェールズへ/第3章 独立を懸けた最後の戦い/第4章 赤龍の旗のもとに/エピローグ ウェールズよ、UKよ、何処へ

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2018年02月17日

AIが文明を衰滅させる ガラパゴスで考えた人工知能の未来

 ”AIが文明を衰滅させる ガラパゴスで考えた人工知能の未来”(2017年12月 文芸社刊 宮崎 正弘著)は、人類の知能を超える衝撃に始まったAIの近未来が明るいのか暗いのかについてガラパゴスで考えた未来を紹介している。

 AI=人工知能は、計算機=コンピュータによる知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野である。人間の知的能力をコンピュータ上で実現する、様々な技術・ソフトウェア・コンピューターシステムなどを指している。そのAIがついにチェス、将棋、囲碁のチャンピオンを負かしたことで大きな話題になっている。チェスは1997年、将棋は2013年、囲碁は2017年に、パターン認識による記憶回路の優劣は機械が勝ると証明された。AIが人間を超える日は本当に来るのであろうか、ドローンがすでに実用化されているが兵士も機械化されつぎにロボット戦争が地球を変えるのであろうか、文明の進化に背を向けたガラパゴスの古代生物のたくましさふてぶてしさは逆説なのであろうか、人間の文明は何処へ向かい何を目指すのであろうか、大量の失業者を適切に産業の配置換え再編に適応させることが可能なのであろうか。

 宮崎正弘氏は1946年金沢生まれ、早稲田大学中退で、在学中は日本学生同盟に所属し、日本学生新聞編集長を務めた。その後、雑誌の企画室長を経て貿易会社を経営、1982年から評論活動を始め、現在は、拓殖大学日本文化研究所客員教授を務めている。国際政治、経済の舞台裏を独自の情報で解析する評論やルポタージュに定評があり、同時に中国ウォッチャーとして中国33省を踏破し健筆を振るっている。

 ガラパゴス諸島は東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島で、正式名称はコロン諸島である。日本の技術について、ガラパゴス化という言葉が生まれた。孤立した環境の日本で最適化が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残される。それだけでなく、外国から汎用性と低価格の製品や技術が導入されると、最終的に淘汰される危険に陥る。進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句であるが、ガラパゴスの意味が転じて古代生物が生き残っている比喩としても用いられる。そこで著者は、AI文明の近未来を正反対に文明に取り残された場所から考えてみよう、と思い立ったという。スマホが携帯電話をこえて主流となり、パソコンは小型化し、多機能化して海外でも通信がきるようになった。パソコンから携帯電話、インターネットに匹敵するような次のビジネスは、あらゆる事象を変革するだろう。デジカメはいまでは2000万画素が常識であり、世界の奥地からでも配信が出来る。世界のニュースを同時に共有できる時代となった。

 ガラパゴスのホテルに泊まったときの驚きは、エレベータはないのにWifi設備がちゃんとあったことだという。世界の果てで撮影したスマホの写真を地球の裏側に瞬時に送ることも可能となり、メディアの送り手が交替した。フェイスブック、ブログ、ツイッターで少数意見が多数意見となり、マスメディアの情報操作がしにくくなった。米国におけるリベラルなメディアの劇的な影響力低下に繋がり、部数が激減した。いずれ多くの新聞は経営難から消えて無くなるだろう。IoTとはあらゆるモノ、事象かコンピュータに繋がるという意味である。コンピュータなどの情報・通信機器ばかりか、存在する様々な物体に通信機能を持たせ、インターネットに接続したり、あるいは相互に通信しあって自動認識や自動制御、遠隔計測などを行うことが含まれる。

 産業革命で機械化が進むと多くの単純労働が雇用を奪われたが、コンピュータ化によっては銀行も人員整理がすすみ、工場では自動化で人間が不要となる部署が増えた。株式投資でも、いまやAIが判断し、企業業績を科学的に分析し、さらに為替、金利要因を加えての売買ソフトが組み込まれ、瞬時にして取引か成立する。そしていま、フィンテックの導入によって、5年後には多くの銀行員が失職する怖れが出ている。また、これまで生き残る職種とされてきた会計士、弁理士、行政書士、税理士といった専門業にも、失業の大波か押し寄せるという。かくして、何かとてつもないことが日本ばかりか世界中で始まろうとしている。人類史上最大のパラダイムシフトである。しかし一方では、サイバー攻撃などで、AI時代への懸念、不安がますます大きくなり、AIロボット兵士やAI核ミサイルなどが大きな懸念材料となっている。AIには明るい未来だけでなく、深刻な問題も山積みである。

プロローグ 機械が人間を支配する/第1章 AI近未来は明るいのか、暗いのか/第2章 ガラパゴスで考えてみた/第3章 ツイッター政治という新現象/第4章 文明の進歩と人類の衰退/第5章 「こころ」の問題とAI/エピローグ AIで精神は癒されない

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2018年02月10日

常識が変わる スペシャルティコーヒー入門

 ”常識が変わる スペシャルティコーヒー入門 ”(2016年12月 青春出版社刊 伊藤 亮太著)は、堀口珈琲の代表者によるおいしいコーヒーを求めている人への道案内の書である。

 株式会社堀口珈琲の創業者は代表取締役会長の堀口俊英氏で、1990年に東京・世田谷で創業した。1996年に現在の世田谷店の場所に移転し、法人化して有限会社となった。1999年に喫茶店・レストラン向けの業務用コーヒー需要の増加に対応するため、狛江店を開店した。2001年にカフェやビーンズショップの新規開業の支援を本格化し、2002年に堀口珈琲研究所を設立した。2004年に株式会社化し、狛江店を現在の場所に移転した。2008年に上原店を開店し、産地への積極的な開拓を通し生豆の調達の充実を図った。伊藤亮太氏は2013年から代表取締役社長を務め、コーヒー豆の小売・通販、コーヒー豆の卸売、生豆の卸売、喫茶店の運営、コーヒー学習講座の実施、開業支援等のコンサルティングなどを行っている。1968年千葉県銚子市生まれ、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業で、卒業後、宇宙開発事業団に10年間勤務した。1997年からの3年間の米国駐在時にコーヒーの可能性に目覚め、2002年にコーヒー業界に転身した。2003年に有限会社珈琲工房ホリグチに入社した。入社以来一貫して海外のコーヒー関係者との連絡調整を担当し、コーヒー産地へも頻繁に足を運んだ。

 コーヒー業界では、スペシャルティ、サスティナブル、サードウェーブなど、新しい言葉が次々出ている。スペシャルティコーヒーは、特別な素晴らしい風味特性を持つコーヒーのことである。サステイナブルコーヒーは、スペシャルティコーヒーの中でもさらに持続可能な営農によって栽培されたコーヒーである。スペシャルティコーヒーという言葉は、1974年にアーナ・ヌーツェン氏が業界紙のインタービューで、自分の販売するインドネシアやエチオピア、イエメンの豆を指して使ったのが最初である。そして、1978年に、特別な地理条件や微小な地域の気候がユニークな風味を持つコーヒー豆を生み出すと、一歩進んだ見解を示した。サードウェーブコーヒーは、一般に、ファーストウェーブ、セカンドウェーブの次の段階をさしていとされている。ファーストウェーブはコーヒーを大量に販売しようとするコーヒー業者たちを指し、消費を飛躍的に増大させることか使命であった。セカンドウェーブは職人気質を意味し、コーヒーの仕事を始めた時期が1960年代後半であろうと1990年代半ばであろうと、原料の産地や焙煎に関心をもつなど共通の傾向があった。しかしスターバックスなど一部は大企業化し、コーヒーの自動化と均質化へと向かってしまった。

 サードウェーブは、コーヒーを自動化・均質化しようとした一部のセカンドウェーブに対する反動である。2003年にトリシュ・ロスギブ氏が、アメリカのロースターズギルドの会報で使ったのが最初である。ロスギブ氏は当時滞在していたノルウェーでの経験をもとに、そこで知り合った小規模なコーヒー業者のことを念頭にサードウェーブという言葉を使った。それはコーヒー業界にいる人やその考え方、行動のあリ方であって、決して時代区分やブームのことではなかったという。サードウェーブという言葉は第三の波ということではなく、日本では曲解されている。19世紀前半までにアメリカの家庭にはコーヒーが普及していたし、19世紀後半になっても生のコーヒー豆を買って自宅で焙煎するのが一般的だった。1960年代〜70年代にも、深煎り浅煎りを問わず、各地で高品質なコーヒーを取り扱っていた人々が存在していた。また、セカンドウェーブでは、本来の小規模で職人気質を貫いた人たちまでもが大規模なコーヒーチェーンとともにシアトル系といっしよくたにされてしまった。伊藤氏は、サードウェーブという言葉を定義することができず、するつもりもないという。しかし、言葉がこれだけ普及したのは、単に言葉のインパクトが強かったからではなく、はじめに何らかの同時代的な現象を多くの人が認識したからである。実際、小規模なコーヒー業者とは遠く離れた立場にいる人たちでさえ、サードウェーブという言葉を用いるようになっている。サードウェーブの例が端的に示すように、外国から来た考え方を無批判に受け入れてしまったり、歪めて広めてしまったりする傾向が、最近の日本のコーヒー業界には強いように思われる。

 こうした中にあって、コーヒーを買う側はもちろん、売る側にもコーヒーに関する情報を読み解くリテラシーが求められていると感じる。本書は品質の高いコーヒーを求める人やそういう人たちに商品を提供する側の人たちを主な読者として想定し、その人たちかコーヒーリテラシーを高める一助になることを目指している。コーヒー入門という言葉が書名の一部となっているが、本書はコーヒー全般についての入門書ではない。コーヒーの飲用の歴史には触れていないし、コーヒーのおいしい淹れ方を使用器具別に解説してもいない。おすすめのコーヒーを産地別に紹介しているわけでもなく、焙煎のテクニックを指南しているわけでもない。一冊の本として完結させるために必要な情報を除き、それらは先行する数多の書籍や雑誌、ムックなどにできるだけ委ねるというのが、本書の基本姿勢である。本書で取り上げているのは、コーヒーの本質にかかわったり、コーヒーの品質を大きく左右したりするにもかかわらず、あまりに当たり前か地味だったからか、あるいは難しかったからか、これまで他書があまり取り扱わなかったことが中心である。第1章を含め最初の3つの章は飲み物としてのコーヒーかできるまでについて記述しているので、そうしたことに十分知識がある人や、それほど関心がない人は、いきなり第4章や第5章を読み、必要に応じて前の章に戻るのもおすすめという。

1 種子から生豆まで・ミクロ編/2 種子から生豆まで・マクロ編/生3 豆から飲み物まで/4 スペシャルティコーヒー/5 サステイナブルコーヒー

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2018年02月03日

ぶらりあるき北海道の博物館

 ”ぶらりあるき北海道の博物館 ”(2017年11月 芙蓉書房出版社刊 中村 浩著)は、2005年から始まったぶらりあるきシリーズの18冊目で自ら北海道の博物館を145か所も訪問して感じたままをまとめた記録である。

 2005年のパリに始まりヨーロッパ編5冊を終えたあと、2012年から東南アジア編の刊行を開始し、2016年のチェンマイ・アユタヤでシリーズそのものを終了させようと思っていたという。しかし、日本については奄美・沖縄しかなかったため、せめて北海道はやっておきたいと以前から考えていたそうである。

 中村 浩氏は1947年大阪府生まれ、1969年立命館大学文学部史学科日本史学専攻卒業、大阪府教育委員会文化財保護課勤務を経て、大谷女子大学文学部専任講師、助教授、教授となり現在、名誉教授で、高野山真言宗龍泉寺住職を務めている。文学博士で、専攻は、日本考古学、博物館学、民族考古学、日本仏教史である。大学退職後で時間の余裕ができ北海道に飛んだとのこと、でも実際に行ってみると、北海道はあまりにも広く博物館施設が点在していて交通機関が不便なことなどから、当初の目算通りにはいきそうにないことがわかった。また、取材完了まで何年もかけると、閉館・休館など、博物館の状況が変わってしまうという新たな問題も生じたという。

 北海道は四季の自然をはじめ、数多くの歴史遺産を残す極めて魅力に富んだ地域である。博物館施設も、総合博物館、歴史博物館、美術館、科学博物館、動物園、植物園、水族館、産業博物館など多種多様な施設が設置されている。日本の博物館の総数は1256館あり、最も多い東京都の95館、次に長野県の85館、そして北海道が65館を数える。博物館類似施設は全国で4430館あり、北海道は272館で、長野県の277館に次ぐ設置数となっている。北海道の博物館は設置数が多いだけでなく、その種類や内容も多種多様なものがある。本書は、博物館の展示の特徴がわかるように分類して編集してある。

 総合博物館・地域の博物館 北海道博物館〔札幌市〕/札幌市時計台/小樽市総合博物館運河館/余市町歴史民俗資料館/苫小牧市美術博物館/市立函館博物館/市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)/旧函館博物館一号・二号/箱館奉行所復元建物/五稜郭タワー「五稜郭歴史回廊」〔函館市〕/登別市郷土資料館/仙台藩白老元陣屋跡〔白老町〕/沙流川歴史館〔平取町〕/旭川市博物館/網走市立郷土博物館/知床博物館〔斜里町〕/羅臼町郷土資料館/標津町ポー川史跡自然公園/標津町歴史民俗資料館/中標津町郷土館/同緑ヶ丘分館/米町ふるさと館〔釧路市〕/釧路市立博物館/ふるさと歴史館ねんりん〔芽室町〕

 北海道開拓に関する博物館 北海道開拓の村〔札幌市〕/旭川兵村記念館/鳥取百年記念館〔釧路市〕/帯広百年記念館

 アイヌ・北方民族に関する博物館 サッポロピリカコタン(アイヌ文化交流センター)/北方民族資料室〔札幌市〕/函館市北方民族資料館/アイヌ民族博物館〔白老町〕/アイヌ生活資料館〔登別市〕/知里幸恵銀のしずく記念館〔登別市〕/二風谷アイヌ文化博物館〔平取町〕/萱野茂 二風谷アイヌ資料館〔平取町〕/二風谷工芸館〔平取町〕/川村カ子トアイヌ記念館〔旭川市〕/アイヌ文化の森伝承のコタン資料館〔鷹栖町〕/アイヌ文化情報コーナー「ル・シロシ」〔旭川市〕/道立北方民族博物館〔網走市〕/阿寒湖アイヌコタン・阿寒湖アイヌ生活館〔釧路市〕

 政治・行政・軍事に関する博物館 札幌市資料館/知事公館〔札幌市〕/赤れんが庁舎〔札幌市〕/樺太関係資料館〔札幌市〕/赤れんが北方領土館〔札幌市〕/北鎮記念館〔旭川市〕/博物館網走監獄/姉妹町友好都市交流記念館〔斜里町〕/北方領土館〔標津町〕/十勝川資料館〔池田町〕

 考古学に関する博物館 手宮洞窟保存館〔小樽市〕/フゴッペ洞窟〔余市町〕/モヨロ貝塚館〔網走市〕/釧路市埋蔵文化財調査センター/史跡北斗遺跡展示館〔釧路市〕

 産業博物館・企業博物館 サッポロビール博物館〔札幌市〕/雪印メグミルク酪農と乳の歴史館〔札幌市〕/千歳鶴・酒ミュージアム〔札幌市〕/ニッカウィスキー余市蒸溜所〔余市町〕/ウィスキー博物館〔余市町〕/男山酒造り資料館〔旭川市〕/池田ワイン城〔池田町〕/ビート資料館〔帯広市〕

 水産業・林業に関する博物館 小樽市鰊御殿/よいち水産博物館〔余市町〕/旧下ヨイチ運上家〔余市町〕/旧余市福原漁場〔余市町〕/函館市北洋資料館/マリンポトス・くしろ〔釧路市〕/木と暮らしの情報館〔旭川市〕/りんさんし博物館〔旭川市〕/クラフト舘〔旭川市〕

交通・運輸・科学に関する博物館 小樽市総合博物館(本館)/函館市青函連絡船記念館摩周丸/函館空港ギャラリー/エアーポート・ヒストリー・ミュージアム〔千歳市〕/大空ミュージアム〔千歳市〕/炭鉱と鉄道館〔釧路市〕/鉄道記念館・愛国駅〔帯広市〕/札幌市立青少年科学館/余市宇宙記念館(スペース童夢)/旭川市科学館サイパル/オホーツク流氷館〔網走市〕

 動物園/動物に関する博物館 札幌市円山動物園/ヒグマ博物館〔登別市〕/旭山動物園〔旭川市〕/釧路市動物園/おびひろ動物園/阿寒国際ツルセンター(クルス)〔釧路市〕/神馬事記念館〔釧路市〕/馬の資料館〔帯広市〕

 水族館/魚に関する博物館 サンピアザ水族館〔札幌市〕/札幌市豊平川さけ科学館/おたる水族館/千歳水族館/登別マリンパーク ニクス/標津サーモン科学館
 植物園 北海道大学植物園〔札幌市〕/札幌市北方自然教育園/函館市熱帯植物園/北邦野草園〔鷹栖町〕/帯広野草園

 教育・スポーツ・娯楽・宗教に関する博物館 コロポックル(木路歩来)館〔旭川市〕/釧路市立こども遊学館/札幌ウィンタースポーツミュージアム/さっぽろ雪まつり資料館/天使の聖トラピスチヌ修道院 〔函館市〕

 人物を顕彰した博物館・記念館 函館市文学館/三浦綾子記念文学館〔旭川市〕/井上靖記念館〔旭川市〕/箱館高田屋嘉兵衛資料館/港文館〔釧路市〕/土方歳三函館記念館/石川啄木函館記念館/北海道坂本龍馬記念館〔函館市〕/西川徹郎文学館〔旭川市〕/バチェラー記念館〔札幌市〕/宮部金吾記念館〔札幌市〕/植村直己記念館〔帯広市〕/北島三郎記念館〔函館市〕/大乃国記念室〔芽室町〕

 大学博物館 北海道大学総合博物館〔札幌市〕/北海道大学農学部博物館〔札幌市〕

 美術館 北海道立近代美術館〔札幌市〕/三岸好太郎美術館〔札幌市〕/本郷新記念札幌彫刻美術館/北海道立旭川美術館/旭川ステーションギャラリー/雪の美術館〔旭川市〕/西美の杜美術館〔美瑛町〕/釧路湿原美術館〔釧路市〕/道立帯広美術館

 世界遺産・自然公園のガイダンス施設 知床世界遺産センター〔斜里町〕/知床自然センター〔斜里町〕/知床森林生態系保全センター〔斜里町〕/ルサフィールドハウス〔羅臼町〕/羅臼ビジターセンター/春採湖ネイチャーセンター〔釧路市〕/釧路湿原ビジターラウンジ展示室〔釧路市〕/阿寒湖畔エコミュージアムセンター〔釧路市〕

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posted by kpie44 at 07:52 | Comment(0) | 地理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月27日

新大陸が生んだ食物

 ”新大陸が生んだ食物 ”(2015年4月 中央公論新社刊 高野 潤著)は、いまの日々の献立に欠かせなくなったいろいろな中南米原産の食物をカラー写真と文章でたどっている。

 私たちが日常的に目にする食材の多くや、世界各国の代表的な料理に使われている有名な食材も、大航海時代以降にようやく世界中に広まったものである。たとえば、サツマイモは中央アメリカ、南メキシコ、ジャガイモは南米のペルー南部チチカカ湖周辺、トウガラシはメキシコ、ズッキーニは中米、ピーマンは熱帯アメリカ、カボチャは南北アメリカ、トマトは中南米のアンデスの高原地帯、インゲン豆は中央米、ピーナッツは南米、ヒマワリは北米が原産である。

 高野 潤氏は1947年新潟県生まれで、写真学校卒業後、1973年からペルーやボリビア、アルゼンチン、エクアドル、コロンビア、チリなどを歩き、アンデスやアマゾン地方の自然 、人間、遺跡などを撮り続けている。山野を歩きつづける生活を通して、中南米原産植物の数の多さを知ったという。

 高度差数千メートルを持つアンデス山脈の地形や気候気温の変化が、それぞれの地で植物を育み、原産種の宝庫といっていいほどの豊かさを生んできたに違いない。15世紀末から16世紀にかけてのコロンブスの新大陸到達や、スペイン人によってマヤ、アステカ、インカなどの文明か征服されてから、それらの中南米原産植物かヨーロッパへ伝わり、やがて、アフリカ、アジア、そして日本へと伝播した。中南米原産種の味覚はその発祥地や経由地を含めて、多くの人たちが何千年も受けついで育てつづけてきた努力の結実といっていいだろう。アンデスやアマゾンを歩きながら、植物の存在か不思議に思えてしかたかなかった。陸地上の大小無数の動物たちのほとんどか棲息していられるのも、植物が用意してくれる環境があるからこそといってもいいだろう。そうした環境への動物たちの依存は、そのまま、そこで食べ物が得られるという依存に重なっているところか多い。人間を含めて、すべての生を応援している植物が、密接に人の生活に結びついてきた例もある。一つが日本の稲、一つがアマゾンのヤシ、もう一つがチチカカ湖内にあるウル族の浮島一帯に密生しているトトラである。

 米は昔から日本人の食の中心を支えつづけてきただけではなく、神事に供えられ、日本の酒文化を育てた日本酒を生んだ。稲はしめ縄に使われるほかに、縄、藁ぶき屋根、藁靴、草履、草鮭、雨具、畳の台、俵、燃料、家畜の飼料、畑の肥料など、たくさんの用途に使われてきた。ヤシは、もしヤシかなかったら先住民が果たして生活してこられただろうかと疑問に思ったほど、昔から生活の基本に関わってきた。固い樹皮は床、壁という建材に、吹き矢の筒、弓とその矢に取りつける鏃、投げ槍などの狩猟具に使われてきた。葉は屋根、壁、寵材などに用いられ、葉の骨のような芯部は吹き矢、新芽は繊維になって袋やハンモックなどに利用されてきた。食の面では多くの果実か果物として食べられたり、なかには酒に加工されたり油か採取されたりするものもある。また、新芽が生野菜として食べられる種類もある。トトラはウル族たちの住の根底ともなる居住地を確保するために敷きつめられ、住居は屋根や壁を含めてまるごと、そのなかに敷く寝床にも利用されてきた。ほかに、大小の小舟や魚獲りのための簾状の網などをつくっていた。また、近くの密生地に好んで棲む水鳥の卵や親鳥を採取狩猟し、茎の根本部分を生食用にしたり花部分を胃腸薬に用いたりしてきた。

 この三つは、生きる、活かされるというところで、人間と植物か同盟しあったような関係にあるが、これら以外にも日本の稲と類似しているものとして、アンデスのトウモロコシかある。薪の入手が難しい高地では、茎や穂軸を燃料としていた。牛馬か飼われるようになってからは、収穫後の茎を飼料に使ってきた。似た多面性は見られないものの、ジャガイモはアンデス高地で生きる人たちの生活の基本となる輪のなかに組みこまれていた。アルパカやリャマの糞が、燃料以外にも肥料としてジャガイモの成長と結びつき、家畜に優れた獣毛を育ませている寒冷気候が、ジャガイモの保存食づくりに結びついていた。このように高地ではジャガイモ、アルパカやリャマ、寒冷気候か、ここだけにしか生まれないというセットの形で連鎖しているのである。何千年も前からつづけてきた人間の努力の積み重ねにも驚かされるが、その期待に応えて、人間がもっとも必要とする食べ物を産んでくれた栽培植物の偉大さにも驚かされる。地球上に多くの人たちが生きてこられたのも、大昔に自分たちを見つけてくれた人間の側に寄り添って、芽を出して実ることを怠らなかったそれらの植物かあったからこそということにもなる。そうした作物や果実類のなかに中南米の原産種か含まれているのである。本書では、世界へと広まったもののなかから、日本人の生活に浸透したもの、あるいは浸透しつつあるものを、原産地の地形環境や気候、食利用などを含めて紹介している。

第1章 作物や果実との出会い
 驚きだったジャガイモ食/自炊生活とともに知った現地の作物や料理/温暖な山間のトウモロコシ生産地/豊富な作物が実るバージェ地方/アマゾン域と海岸地帯
第2章 トウモロコシ
 栽培地の広がり方/時代とともに変化した川の流域とアンデネス栽培/寒冷気候対策のパンキイ栽培/文明の要所とトウモロコシ栽培地/昔のトウモロコシ食/インカ時代から飲まれていた濁り酒チッチャ/食材としてのトウモロコシ
第3章 ジャガイモ
 祖としての野生種/ワルワルやコチャ方式によるジャガイモ栽培/アンデス世界を変えたチューニョやモラヤ/ジャガイモ農地の今昔/自然が与えた困難と試練/古典種系ジャガイモと出会う/地中の芸術品を試食する/保存食用品種のクシ、ワニャ、ルキ/ジャガイモ利用の料理
第4章トウガラシ
 アンデス側を代表するロコトの栽培地/南北に広がるロコト/「水棲亀の子亀」というトウガラシ/代表的な激辛トウガラシ/料理とトウガラシ利用/ロコトが支える食文化/幅広いトウガラシソースの素材
第5章 豊富な原産作物と果実類 `
 奇跡の植物キヌア/サツマイモやカボチヤ、マカやヤコン/色も形も違うさまざまなアボカド/パパイヤとパイナップル/チョコレートの原料カカオ/カシューナッツとブラジルナッツ
おわりに 人と結びついてきた植物の不思議

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posted by kpie44 at 05:56 | Comment(0) | 自然科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月20日

世界の地下鉄駅

 ”世界の地下鉄駅 ”(2017年11月 青幻舎刊 アフロ(写真)・水野久美(テキスト)著)は、インパクトあふれる魅力的な国内外の地下鉄駅を華麗な写真を中心に厳選して紹介している。

 世界中の都市に張り巡らされている地下鉄は、華麗かつ幻想的に空間が彩られている。いくつかの地下鉄は、まるでアートギャラリーかと思うほど美しくインパクトがある。本書は、世界の36箇所の地下鉄駅の斬新で華麗なアーティスティックな空間をきれいな写真と簡潔なテキストで紹介している。

 テキストを担当した水野久美氏は、愛知県犬山市生まれ、大学卒業後、編集プロダクションに所属した。そして、旅行ガイドブックやグルメ情報誌などの制作に携わり、2004年4月に独立した。現在、フリーライターで、カルチャースクールの世界遺産講座講師を務める他、日本文化チャンネル桜の番組のキャスターを務めている。著書には、”いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城””世界の廃船と廃墟””世界の国鳥”などがある。

 写真を担当したアフロは、株式会社アフロ /Aflo Co.,Ltdで、 東京都中央区築地に本社のある、資本金4,000万円、創業1980年、創立1982年11月、従業員数139名(2016年1月現在)の会社である。

 地下鉄の歴史は19世紀のイギリスのロンドンから始まった。1863年1月10日にメトロポリタン鉄道のパディントン駅からファリンドン駅の間、約6kmが開通した。当時のイギリスは鉄道の建設が盛んであったが、ロンドン市内は建物が密集しており地上に鉄道を建設できなかったためである。この路線を計画したのはロンドンの法務官であるチャールズ・ピアソンで、1834年に開通したテムズトンネルをヒントにしたとされる。車両は開業当初から1905年に電化されるまでは蒸気機関車を使用していた。硫黄を含む煙が発生するため、駅構内は密閉された地下空間ではなく換気性を確保した吹き抜け構造となっていたほか、路線の一部も掘割であった。イギリスでの開業後はしばらく間があき、30年近くたった19世紀末〜20世紀初頭に欧米の各地で建設されていった。1875年にトルコのイスタンブールで地下ケーブルカーが開業した。1896年にハンガリーのブダペストでも本格的地下鉄が開業した。ブダペスト地下鉄は当初から電化されており、これは地下鉄としては世界で最初の電化路線であった。さらに1898年にはアメリカ合衆国のボストン、そして1900年にはフランスのパリにおいて開通した。ドイツのベルリンでも1880年頃には地下鉄を通す計画が存在したものの反対勢力によって計画が遅れ、開通は1902年であった。

 第一次世界大戦が開戦するまでには西ヨーロッパや北アメリカの大都市に、第一次世界大戦中から20世紀半ば頃まではヨーロッパ各地の中都市や日本を中心に建設が行なわれていたが、1970年代以降はアジアなどの発展途上国での建設が盛んになった。地下鉄は今や都市交通の基軸という機能美だけでなく、狭い、暗い、怖いといった圧迫感を払拭するユニークなパブリックアートが多数取り入れられている。たとえば、剥ぎ出しの岩盤が迫るストックホルムのソルナ・セントラル駅には、約lkmにわたり炎のように燃える赤い空とスプルースの本の森が描かれている。産業汚染で脅かされていた北欧のヘラジカや、清流で釣りをする親子など、迫りくる当時の危機と葛藤が表現されている。一方で、ストックホルム中央駅であるT−セントラーレン駅は、地下鉄全3路線が交わり混雑するブルーラインのフラットホームがあり、乗客の精神か落ち着くようにブルーが採用されている。さらに、クングストラッドゴーダン駅もストックホルムにあるが、駅名の由来でもある隣接の王立公園の歴史を示す独創的なアートが特徴である。このように、それぞれの駅には異なったアートがあり、アートに込められた背景を知ればその国や地域の特性が見えてくる。アートギャラリーをめぐるように心華やぐ幻想的な地下空間の魅力を楽しんでいただきたいという。

1.ヨーロッパ
 ソルナ・セントラム駅(スウェーデン/ストックホルム)T‐セントラーレン駅(スウェーデン/ストックホルム)、クングストラッドゴーダン駅(スウェーデン/ストックホルム)、アール・ゼ・メティエ駅(フランス/パリ)、ヴェストフリートホフ駅(ドイツ/ミュンヘン)、ハーフェンシティ大学駅(ドイツ/ハンブルグ)、ハイデルベルガー・プラッツ駅(ドイツ/ベルリン)、聖ゲッレールト広場駅(ハンガリー/ブタペスト)、カナリー・ワーフ駅(イギリス/ロンドン)、ベイカー・ストリート駅(イギリス/ロンドン)、サザーク駅(イギリス/ロンドン)、ダンテ駅(イタリア/ナポリ)、トレド駅(イタリア/ナポリ)、オライアス駅(ポルトガル/リスボン)、パコ・デ・ルシア駅(スペイン/マドリード)、コムソモーリスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、スラブ大通り駅(ロシア/モスクワ)、マヤコフスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、ルミャンツェヴォ駅(ロシア/モスクワ)、ゾロティボロタ駅(ウクライナ/キエフ)
2.北・中央・南アメリカ
34丁目‐ハドソン・ヤード駅(アメリカ/ニューヨーク)、81丁目自然史博物館駅(アメリカ/ニューヨーク)、デュポンサークル駅(アメリカ/ワシントンD.C.)、ハリウッド/ハイランド駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ハリウッド/バイン駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ミュージアム駅(カナダ/トロント)、コピルコ駅(メキシコ/メキシコシティ)、カルデアル・アルコベルデ駅(ブラジル/リオデジャネイロ)
3.アジア
 バールジュマン駅(アラブ首長国連邦/ドバイ)、アストラムライン新白島駅(日本/広島)、美麗島駅(台湾/高雄)、復興駅(北朝鮮/平壌)、北土城駅(中国/北京)、雍和宮駅(中国/北京)、国博中心駅(中国/重慶)、烈士墓駅(中国/重慶)

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posted by kpie44 at 06:01 | Comment(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月16日

まとめと発展

15 まとめと発展 大森 聡−先生

 これまでの学習を総合して、地球をシステムとして再度見直してみます。

 また、システムを広げて、地球システムと太陽系や銀河系との関りや、地球に近い惑星である火星の研究の状況を学び、地球をさらに広い視点からとらえる考え方を知ります。

15.1 地球システム

 システムの考え方は、社会科学、生命科学、心理学などの分野で発展し、複雑な仕組みを要素に分解して個別の役割について解析します。

 多くの場合、システムの構成要素は小さなサブシステムで構成されており、地球システムも地球を構成する互いに作用し合うサブシステムの集合体となるでしょう。

 地球を主にシステムのダイナミックスの空間と時間スケールを基準に分割して、銀河系、太陽系、固体地球、中心核、地磁気、海洋、大気について説明してきました。

 46億年の地球の歴史を生命生息環境と他のシステムとの関わりとしてとらえ、全地球史の時間スケールでは地球システムの仕組み自体が変化していることも示しました。

 私たちが生活している地表と対流圏は、表層環境圏というサブシステムとして定義することができ、私たちはこの表層環境で暮らしているのです。

15.2 人間圏との関わり

 ここまで説明してきた地球のダイナミックスを、人間の暮らす表層環境圏との関わりとしてとらえ直してみましょう。

15.2.1 100億年スケールのダイナミックス

 100億年スケールのダイナミックスは、地球を含む太陽系と銀河系を作った宇宙スケールの変動です。

 138億年の宇宙の歴史の途中に我々はいるか、その過程で起きた恒星の誕生、進化、そして死(爆発)が、私たちの太陽系の物質を作る元素を合成しました。

 宇宙の第一世代の恒星は水素とヘリウムしか持たないため、太陽系のような惑星系は存在しませんでした。

 恒星が核融合で輝き水素から鉄までの元素を生成し、その後の超新星爆発で鉄より重い元素が生成したと考えられています。

 太陽系は宇宙誕生から約92億年後に誕生した恒星のサイクルの少なくとも2世代目より後の恒星です。

15.2.2 10億年スケールのダイナミックス

 太陽系は46億年前に誕生、月地球系は45.3億年前までに誕生、当時の太陽は現在よりも30%暗く、現在に向けて連続的に明るさは増加しています。

 誕生当時の地球は現在とは異なる内部構造や表層環境で、内部構造が現在とほぼ同じになったのはおよそ25億年前に内核が誕生しマントル対流が始まった後でした。

 内核は形成後から現在も年数mm程度成長していると考えられ、内核の成長により外核の対流が比較的安定し、宇宙線に対するバリアーである地磁気の強度か保たれています。

 マントル対流は表層プレートを駆動してプレートテクトニクスが機能して、陸を作る花崗岩と安山岩マグマを生成し、大陸を少しずつ増加させていきました。

 大陸地殻の量は25億年前には現在の20%程度、5億年前には80%に達しました。

 陸の物質が風化して海に供給されるイオンは生命の骨格を形成する材料として使われるため、陸の増加は動物の進化と密接に関わっています。

 陸の面積は動植物の活動領域を決め、生物の量を制約しています。

 プレートの運動は、マントルの熱を宇宙空間へ逃がす働きも持っています。

 大気組成も46億年間の間に大きな変化を遂げ、二酸化炭素はほとんどが30億年前頃までに、海洋地殻中のマントルに沈み込み地表から除去されました。

 酸素濃度は地球形成時には痕跡程度でしたが、酸素発生型光合成生物や陸からの砕屑物などの働きから、25億年前付近と5億年前付近で数桁上昇し現在の濃度に達しました。

 全球凍結現象は23億年前と7〜6億年前に発生していますが、これが周期性をもつものかどうかは明らかでなく、また、全球凍結に至る原因についてはさらなる研究が必要です。

15.2.3 数億年〜数千万年スケールのダイナミックス

 プレートテクトニクスは数億年スケールの変動を担い、2〜4億年程度で超大陸が分裂して再び集合するサイクルが存在します。

 大陸の分布が高緯度や低緯度に偏ると太陽放射の吸収量への影響が大きくなり、全地球的な気候に影響を与えることになります。

 沈み込むプレートは水や二酸化炭素を地表からマントルヘ運搬する働きを持ち、その量は数億年間のスケールで大気や海洋の組成や量を変化させ得ます。

 顕生代の大量絶滅は平均2600万年程度の間隔で発生しており、大量絶滅の後には新たな生態系が繁栄します。

 私たち人類は、白亜紀末の大量絶滅後の哺乳類が繁栄する新生態系の一員であると考えることが出来ます。

 大量絶滅を周期的と考えるか否か、また、周期的だとしてこれを一般的に説明する大量絶滅モデルはなにかなど、未解明な点は多いです。

15.2.4 1000万年〜数万年のダイナミックス

 1000万年〜数万年のスケールの出来事には、人類が実際に経験してきたか、またはこれから経験する可能性のある現象が含まれています。

 プレートテクトニクスは重要な役割を持っていおり、プレート収束帯の沈み込みや大陸衝突による造山運動は数千万年の時間スケールで起こります。

 50Maのインド・アジア衝突によりヒマラヤが形成され、モンスーン気候を誕生させ、地表の風化を促進し、大気中の二酸化炭素を減少させて、表層環境を寒冷化させました。

 大陸の分裂・移動過程も気候に影響を与えました。

 南極と南米間の陸橋が35Ma頃に完全に分断し、南極を周回する海流が出現した結果、気候はさらに寒冷化に向かいました。

 現在の地球はその寒冷化した気候の延長上にあり、地球の軌道要素による変動が出現することになりました。

 火山噴火により放出される火山ガスは大気組成にも影響を与え、数100〜1000万年の時間スケールでは大気の化学組成を決める要因の一つになっています。

 100万年以上の長い時間スケールでは、岩石と大気の間に起こる化学反応も大気の組成を変化または安定化させる要因となります。

 人の暮らす表層環境と中心核は直接接してはいませんが、これらの遠く離れたサブシステム同士は、地磁気という現象を通して関係を持っています。

 地磁気の向きは20万年〜数10万年のサイクルでNとSが入れ替わっており、逆転が起きる際には磁極の数が増えたり磁気が弱まるなどの現象が起きると推定されています。

 数万年〜数10万年周期の気候変動は、主に地球の軌道要素と太陽活動の周期変動によって引き起こされ、ミランコビッチサイクル、氷期・間氷期のサイクルが起きています。

 ミランコビッチサイクルは、地質記録としては、約250万年前から確認されますが、40万年前までは4万年周期、その後は10万年周期が卓越するようになりました。

15.2.5 大気と海洋のダイナミックス

 大気のダイナミックスはおよそ年変化を基本とし、これに対して、海洋は年〜1000年の時間スケールで循環しています。

 海洋との相互作用によって、海洋のイベントであるエルニーニョや北半球温帯地域の気象との関連など、1年間以上のスケールで変動する気象現象もあります。

 海洋は一般的には熱の吸排出が大気よりもゆっくりしていて、海水の循環は気温を安定させようとする方向の、負のフィードバック効果を持っています。

 一方で、巨大な氷河湖の崩壊と大量の淡水の流出によって熱塩循環が停止して、数10年間で10℃もの急激な表層環境の気温低下が起きた記録も氷床コアに残されています。

 水蒸気や二酸化炭素などの温室効果ガスは表層環境の気温を決定する大きな要因の一つであり、また、成層圏にはオゾン層が存在し太陽からの紫外線を吸収しています。

 一方、表層環境圏からは、生物活動や人間の工業活動から発生するガスや水の蒸発などの効果が、大気の組成に影響を与えています。

15.2.6 資 源

 人類文明が利用している資源について説明です。

 エネルギー資源:

 地球における真の一次エネルギーは、太陽光(核融合)、地熱、および放射性元素の崩壊熱(核分裂)です。

 太陽光に起因する、数時間から1年程度の時間スケールの対流の物理エネルギーが、水力、風力、波力などの形態として利用されています。

 また、太陽光は、光合成を通して化石燃料を生成しました。

 地熱は地球内部の熱ですが、マントル対流によって地表に運搬され高温のマグマが上昇する場所ではさらに大きいです。

 放射性元素は、原子力燃料として用いられるウランの他に、トリウム、カリウムなどが、半減期の長い放射性熱源となっています。

 金属・非金属資源:

 人類が利用している元素資源には、地殻・マントルに大量に存在する元素もあれば、ごく微量にしか存在しない元素もあります。

 元素の濃集には、ほとんどの場合に、水またはメルト(マグマ)が関係しています。

 地球最初の酸素増加イベントで形成された縞状鉄鉱層は、人類が現在利用している鉄の大半を占めています。

 海水中に溶けていた鉄イオンが酸化されて、不溶性の水酸化第2鉄として沈殿することで海底に濃集しました。

 金は熱水で移動する性質があり、火山・温泉地帯に鉱床が出来、また、岩石が風化して砂になると、金は水流中で選別が起きて砂金鉱床が生成します。

 白金は地殼には入りにくく、大規模な塩基性マグマ中で沈殿したり、または、地表に表れたマントルの岩石から直接、砂白金として鉱床が生成します。

 アルミの原料であるボーキサイトは、化学的風化で移動しない性質を持つため、高温多湿地域の風化作用によって、溶出しやすい成分が溶け出した後に残ったものです。

 その他の資源:

 石油は化石燃料として以外に高分子化合物の原料として重要で、人類が利用するエネルギー源が他に移行しても、石油が不要になるわけではありません。

 石油はそれ自体が複雑な有機化合物で、これを精製・分解して単純な構造の純物質を取り出し、これらを原料として石油化学製品(プラスチック、化学繊維など)が合成されます。

15.3 システムを拡げる(1):表層環境圏と太陽系・銀河系

 太陽は表層環境圏の主エネルギー源です。

 地球は自転しながら太陽の周りを扁平楕円軌道上を公転し、自転軸の傾きで各地における太陽からの入射量が変化し、対流圏における気象現象の季節の変化が起こっています。

 この自転軸の傾きのふらつきや楕円軌道の微妙な変化による太陽からの距離変化が、数万年〜数十万年周期の気候変動の原因であると考えられています。

 また、地球の衛星である月は重力によって地球の自転軸を安定させ、潮汐作用(潮の満ち引き)を起こしています。

 太陽から放射される太陽風は、地磁気圏を介して表層環境圏とつながっています。

 多くは地磁気圏の外側を迂回する様に流れていますが、一部が地球極地方に侵入し大気と作用してオーロラが発生します。

 銀河系から放射されている銀河宇宙線(陽子を主とする電荷を待った粒子)が、太陽系と地球システムに降り注いでいます。

 銀河宇宙線のエネルギーは高く生命に放射線障害を引き起こすほどの強さですが、太陽風が銀河宇宙線の太陽系への侵入を阻むバリアーとして機能しています。

 また、地磁気および地球大気は、銀河宇宙線が直接表層環境圏に降り注ぐのを防ぐバリアーとなっています。

 近年、人工衛星を用いた銀河系内の精密測量により、恒星の位置と運動が詳細に分かるようになって、銀河系の構造や古地理を定量的に議論することが可能になり始めました。

 また、地球の堆積物中から超新星爆発生成物や暗黒星雲起源物質などを分析できる機器も開発され、銀河系システムと地球システムの関連の実証的研究が可能になりつつあります。

15.4 システムを拡げる(2):火星

 地球は、2014年現在、人類が唯一知っている生命の住む天体です。

 なぜ地球に生命か誕生し高等生命を経て知性を持つ人類にまで進化したのか、それは人類の根源的問題であろう。

 地球と生命の歴史はしだいに明らかになってきていますが、その一般性を議論するためには、地球と似たようで違う惑星や、地球外の生命に関する情報か不可欠です。

 地球に類似した環境という点では火星が一番地球に近いです。

 火星探査は1960−70年代の探査後いったんミッション数が減少しましたが、1990年代後半から21世紀に入って、探査車と軌道衛星による探査が行われました。

 これにより、火星の研究は大きな進歩を遂げました。

 火星は、かつては、大量の海(火星表面積の25%、深度最大1600m:2015年3月時点の研究による)を持つ惑星だったこと、がほぼ確かであると考えられています。

 2012年の無人探査車キュリオシテイの岩石の画像から、地球の礫岩に似た岩石で、丸みを帯びた形状の礫が存在し、礫の大きさは1cm以下で、基質は砂のようだと分かりました。

 礫岩:

 堆積岩です。堆積岩は、どのようにして形成されるのでしょうか?

 堆積岩(砂と礫からなる):

 地表の岩石が物理的風化により、砕屑物となり、河川により運搬されて堆積した堆積物が固結した岩石です。

 または、礫が火山噴出物で基質も火砕質物質の場合は、火山噴火にともなう噴出物が堆積したものと考えられます。

 物理的風化:

 岩石中の鉱物の膨張率の違いで、太陽の熱と夜間の冷却により岩石に割れ目が生じ、岩石が砕屑物に変化することです。

 このときに、水が関与し、割れ目に浸潤した水が凍結したりすると、物理的風化が促進されます。

 礫の円磨度:

 水に運搬された距離、河床に存在した時間、水の流量によって礫の丸まり方がきまります。

 川の存在:

 礫が円磨される程度には水の流れか定常的に存在していた、と考えられます。

 そのためには、水が低地から高地へと循環する仕組みが必要です。

 水循環:

 地表で水に位置エネルギーを与えて高地に運ぶ過程は、水蒸気としての蒸発、上昇気流、雲形成、そして降雨という一連のプロセスでのみ説明できます。

 水をめぐる気象現象の存在:

 液体の「海」が存在し、蒸発が起きる程度の太陽エネルギーの入射、大気循環の存在を示します。

 このように、地球の岩石・過程に関する知識の背景から、火星の岩石画像から火星の古気候に関する考察を引き出すことができます。

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2018年01月13日

日本人だけが知らない砂漠のグローバル大国UAE

 ”日本人だけが知らない砂漠のグローバル大国UAE ”(2017年2月 講談社刊 加茂 佳彦著)は、日本以上に進んだ社会を築いたアラブ首長国連邦=UAEは夢とおカネが湧き出る国だったという。

 領域はかつて、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えた。その後、ペルシアの支配、イスラム帝国の支配、オスマン帝国の支配を受けた。16世紀にはポルトガルが来航し、オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配した。現在のUAEの首都はアブダビで、東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと隣接している。商圏として中東・アフリカという将来性豊かな広大な後背地を擁し、欧米のビジネスマンはイスラム世界、アフリカ大陸へのアウトリーチの準備に余念がない。GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先である。原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかである。アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっている。UAEは石油の国であるが世界一が目白押しである。世界一高いビル、世界一大きいモール、世界一長い自動制御都市鉄道、世界一高い懸賞金の競馬レースなどである。海外就労地として米国人に最も人気の国で、外国人居住者の比率が最も高く、世界最大級を誇る政府系投資ファンドがある。また、ドバイはペルシャア湾岸地域最大の海上輸送ハブであり、中東一円へのゲートウェーでもある。

 加茂佳彦氏は1952年生まれ、東京大学工学部卒業後外務省に入省し、さらにアマースト大学を卒業した。その後、内外で勤務し、在ヒューストン総領事、在ホノルル総領事、在アラブ首長国連邦特命全権大使を歴任した。2015年に外務省を退官し、国立研究開発法人海洋研究開発機構国際審議役、2016年に同志社大学グローバル・コミュニケーション学部、同志社女子大学大学院国際社会システム研究科で非常勤講師を務めている。

 アラブ首長国連邦は、アラビア半島のペルシア湾に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家である。首長国とは、アブダビの旗のアブダビ首長国、ドバイの旗のドバイ首長国、シャールジャの旗のシャールジャ首長国、アジュマーンの旗のアジュマーン首長国、ウンム・アル=カイワインの旗のウンム・アル=カイワイン首長国、フジャイラの旗のフジャイラ首長国、ラアス・アル=ハイマの旗のラアス・アル=ハイマ首長国である。各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能している。ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきている。アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名でない。しかし、筆者は、2012年から2015年までの様々な体験は、今までの中東のイメージをまったく塗りかえるような新鮮なものであった。

 中東といえば、紛争続きの不穏な政情に揺れ、テロ事件が各地で頻発し、難民が流出する地城でしかないと刷り込まれてきた。このイメージ自体は一概に的外れだと言えないが、日本人の常識に囚われていては見えてこないもう一つの中東の顔がある。ここがあの中東の国かと疑いたくなるほど超近代的都市が築かれ、治安も良く緑もあって世界中の商品が手に入る。さらに、世界中からやってきた外国人があたかも自分の国に居るかの如く社会の隅々にまで進出し、皆で協力し合ってUAEという国を動かしている。世界最先端のグローバル社会が息づいていて、仕事を求める外国人だけではなく、ビジネスチャンスを探して世界中の企業がUAEに注目している。ドバイ、アブダビはアフリカ情報がどこよりも多く、早く出回る情報ハブであることと関係している。これは、両都市がアフリカヘの航空ハブであることの帰結である。また、ドバイはペルシャア湾岸地域最大の海上輸送ハブでもある。UAEに軸足をおいて、今後躍進が期待されるアラブ世界、イスラム世界、アフリカ大陸にアウトリーチすることも大いに有望である。戦乱に明け暮れ停滞に沈む不幸な地域の一角に、UAEのようにまったく違う中東もあることを承知してもらいたい。

 現在世界の人々は、このまったく違う中東に大きな関心を寄せ、積極的に関与して、そこから最大の利得を引き出そうとしている。この常識破りの国UAEが全世界に提供している様々な好機や便益を、ひとり日本人だけが知らないままでいいわけはない。我が国におけるUAEについての情報不足は相当深刻であり、特に一般読者向けの啓蒙書がほとんど見当たらない。外国との関係強化の第一歩は相手のことをよく知ることである。UAEには我々が注目すべき中身があるのに、情報不足のため日本での関心も十分に掘り起こされているとは言い難い。UAEについてもっと多くの人に知ってもらいたいとの思いに突き動かされ、また、自分が書かなければ誰が書くのかと自らを奮いたたせて本書を執筆したという。紛争や政治不安が続く中東にあって、政治的安定を保ち、経済的繁栄を続けるUAEは異彩を放っており、今や世界を代表するグローバル国家となり、人類の未来の可能性を感じるほどである。ただし、民主制をとっていないことや、若者のモラールの阻喪、居住者間の貧富の格差などは国の統治や社会の在り方に根差した容易ならざる問題であり、本書でも適宜触れていく。克服すべき問題はあるにせよ、また石油の富に恵まれた幸運はあるにせよ、UAEはやはり刮目すべき国であり、実際に体験したUAEの魅力と強さを、ひとつひとつ明らかにしていきたい。

第一章 これだけは知っておきたいUAE/第二章 伝統と超近代が融合するUA/第三章 UAEの面白さがわかるレア体験/第四章 海賊が支配したこともあった歴史/第五章 中東・アラブ情勢の中で/第六章 UAEの繁栄は盤石か/第七章 実は深い日本との縁/第八章 グローバル社会UAEで働く/巻末付録 こだわりのUAE特選ガイド

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2018年01月10日

日本列島の形成史

14 日本列島の形成史 大森 聡−先生

 こまで学習した内容を総合的に活用して、日本列島の形成史とその研究の地球科学における重要性について理解を深めます。

14.1 現在の日本の地質と地形

 日本はプレート収束縁、沈み込み帯上に位置し、日本列島を形成している地質体は、主に堆積岩と変成岩、花崗岩、火山岩で構成されています。

 静岡と日本海側の新潟・富山の県境を結ぶラインよりも西側では、ほぼ東西方向に延びた帯状に地質体が分布していて、それを切る様にして花崗岩体が存在しています。

 糸魚川・静岡構造線よりも東側、東北日本では、帯状の配列は西日本ほど明瞭ではなく、比較的新しい地層が地表に表れ、火山が、海溝に平行な配列を示しています。

 北海道では、南北に延びる帯状構造が明らかです。

 地形的には、およそ海溝と平行に日本の陸地部分が分布していると言えます。

14.2 日本列島形成史

 日本列島形成は、おおざっぱに3つのステージに分けることができます。

14.2.1 黎明期

 約7億年前頃に超大陸ロディニアが分裂して、現在のアジア大陸・中国の南部分に相当する南中国地塊(小大陸)が作られました。

 現在に至るまで日本列島の成長の場である、大陸の縁がこの時形成されました。

 当時の大陸配置は現在とはまったく違う様相で、南中国地塊は、現在のオーストラリアや南極となる地塊の付近に位置していたと考えられています。

 南中国地塊形成直後は、現在の大西洋両岸のように、南中国地塊の縁には沈み込み帯は存在していませんでした。

14.2.2 成長期

 520Ma頃に南中国地塊の沖で海洋プレートの沈み込みが開始して、南中国地塊のプレート収束縁は成長期を迎えることになります。

 日本列島は基本的に、南中国地塊および250Ma以降は一体化した南北中国地塊の縁において、複数回の太平洋型造山運動と前後する付加体の形成で成長しました。

 日本海の形成によってこの成長過程の記録が失われたり複雑な改変を被ったりしましたが、現在の西南日本には比較的よくこの過程が保存されています。

 中央海嶺の近くでは沈み込むプレートの年齢が若く厚さが薄く沈み込み角度が浅くなり、相対的に高温の場所ですので沈み込み帯の火成活動が活発化します。

 沈み込み角度が浅くなると広域変成岩が地下深部から絞り出されて上昇し、中央海嶺が完全に沈み込んでしまうと沈み込んだ物質は再びマントル深部へ沈み込んでいきます。

 火成活動によって、沈み込まれる側の地殻深部で花崗岩マグマに触れる部分の温度が上昇し、低圧高温型の変成作用が進行します。

14.2.3 日本海形成

 日本海の拡大は30Ma頃から始まり、アジア大陸の東の縁の部分が火山活動によって割れ始め、いくつもの湖の形成を経て、外海と接続されて海となりました。

 日本海形成時に海底火山から噴出した凝灰岩がこの頃の地層に広く分布し、緑色を呈する特徴からグリーンタフと呼ばれています。

 大陸から分断した地質体が移動して現在の位置にいたる過程には、回転をともなう観音開き型や平行移動型が提案されています。

 いずれの移動様式であっても、日本海の拡がりにともなって、現在の日本列島となった地質体が、境界にトランスフォーム断層を形成しながら現在の位置に至った点は同じです。

 現在の日本列島の形は、太平洋プレート、フィリピン海プレートの沈み込みによる隆起や沈み込みによって、蛇紋岩の浮力、マグマの上昇流に支えられて陸の形が決まっています。

 沈み込むプレートと日本海の拡大方向はほぼ相対する方向であったため、大陸側の古い地質体が太平洋側の新しい地質体にのし上がる様に移動して、地質体の再配列も起きました。

 天然ガス、石油資源、メタンハイドレートは、日本海形成の初期、大陸が割れ始めた頃、多数の湖地帯に大量の有機物を含む泥が供給・堆積されて形成されました。

 有機物を多く含む泥の堆積は、還元的な覆いとなって沈殿物が海水へ再溶解することを防ぐ役割も果たしました。

14.3 日本から学ぶ地球

 日本列島を形成した地質プロセスの多くは地球全般に応用できる場合も多く、日本列島の研究から地球全体の成り立ちの理解に貢献できます。

14.3.1 付加体

 日本の成長は、付加体と島弧火成活動による成長と、構造侵食による削剥・縮退のせめぎ合いで説明されます。

 付加体という概念は、1976年に日本で勘米良によって提唱されました。

 付加体は海洋底の岩石や堆積物を陸側に保存しますので、プレートテクトニクスが機能している惑星で、古い海洋底の情報を与えてくれます。

 日本列島は誕生以来ほとんどの期間、太平洋に面した収束的プレート縁辺部に位置し、衝突型造山運動の影響を被っていないため、比較的、付加体の情報がよく保存されています。

 日本海の拡大がなければ、なおわかりやすかったでしょう。

14.3.2 沈み込み帯のBMW(Big Mantle Wedge)モデルの確立

 日本列島形成史のほとんどは、520Maから始まる海洋プレートの沈み込みに関連しています。

 大陸移動とともに地球上における日本の位置も変遷を経ましたが、250Maの南北中国の衝突の後はほぼ現在と同じ位置で2億年以上海洋プレートの沈み込みが継続しています。

 沈み込み帯を経由した大規模物質循環に関わる沈み込み帯のBMWモデルの研究も、日本の沈み込み帯において発展しました。

 2億年という比較的長い期間、同じ場所で沈み込みが継続していて、さらに地球内部の観測に不可欠な地震波を観測する高精度の地震計が多数配置されています。

14.3.3 イギリスの歴史と日本の未来

 イギリス・グレートブリテン島が、古い大陸縁や海洋の沈み込み帯における、複数回の島弧と付加体の成長と、複数の島弧・大陸の衝突と融合で形成された歴史が描像されました。
 
 イギリス形成モデルは、実は、日本の将来の予測にも関係しています。

 2億年よりも未来には太平洋やフィリピン海は消失し、オーストラリアや北米大陸がユーラシアに衝突していると予想されています。

 ユーラシア大陸縁にある日本は、これらに衝突される位置にあります。

 衝突型の造山運動を経て風化侵食による削剥を受けますと、地表に残るのは、複数の太平洋型造山帯が衝突で合成された、現在のイギリスのような地質構造ではないでしょうか。

14.4 まとめ

 日本列島の形成が始まった南中国大陸の縁は、超大陸の分裂という数億年サイクルで起きる現象が発端で形成しました。

 その後、分裂した超大陸は1億年ほどかけて、次の超大陸ゴンドワナを形成しました。

 この時始まった南中国地塊への海洋プレートの沈み込みが、現在まで5億年間以上にわたる日本形成の場となりました。

 海洋プレートは継続的に日本の下へ沈み込みましたが、数千万年から1億年程度の間隔で到来する中央海嶺の沈み込みにほぼ同期して、広域変成岩が上昇しました。

 付加体の成長も間欠的で、付加体が存在しない時代も、構造侵食によって日本列島の構成要素が削られて、マントルに沈み込んだ可能性が高いです。

 これらのサイクルは沈み込むプレートの中央海嶺からの距離と関係していて、サイクルの継続時間は沈み込む側の海洋の大きさを反映しています。

 日本の面した海洋は超大陸の反対側で、半球規模の大きさで5億年以上大陸衝突が起きなかったため、複数回の付加体形成一変成岩上昇一構造侵食サイクルが日本の骨格を造りました。

 日本形成の最終段階である日本海の拡大の原因となったマントル内の上昇流の形成には、マントルウェッジに放出された水が大きな役割を持っていたと考えられます。

 マントル遷移層まで運ばれた水や構造侵食によってマントル遷移層まで運ばれた大陸地殻物質は、次の大陸分裂の原動力となる可能性があります。

 現在の日本列島は、10億年スケールの超大陸サイクルの半ばにあります。

 日本列島の付加体と太平洋型造山帯の広域変成岩や島弧花尚岩は、全地球ダイナミックスに関わる海洋プレートの大循環に関する5億年間の記録を読み解くためのカギです。

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