2018年06月21日

支配の仕組み

12 支配の仕組み 赤堀 雅幸先生

(目標&ボイント)

 狩猟採集の時代はヒトの集団は小規模でたがいの関係はきわめて平等でしたが、農耕と牧畜が開始されると、集団は大規模になり統御する支配の仕組みは段階を踏んで発展しました。

 支配の仕組みはやがて国家を生み出し、国家に属して生きることはいつの間にか私たちにとって当たり前のこととなっています。

 国家の成立にいたる道筋をたどりながら、支配を権力の一方的な行使とみるだけでは不充分で、支配が社会的な容認に基づくことに目を向けましょう。

1. 群れを超えて生きる

 ヒトはこれまでの歴史の中に数多くの支配者を生み出し支配の仕組みを練り上げてきましたが、ヒトが最初からたがいを支配しようと争ってきたかははっきりしません。

 狩猟採集の時代にはヒトはバンド=群れとよぱれる自律的な小集団をつくって暮らしてきましたが、おたがいに対等で特定の指導者がいなかったとされています。

 この時代は集団の規模に制約があり、大きくなりすぎたバンドは支えるための支配の仕組みより、複数のバンドに別れてそれぞれ別々に暮らす選択をせざるをえませんでした。

 しかし、1万年ほど前に栽培化家畜化が始まり、多くの恵みを安定して得る農耕牧畜は土地や水を資源として支配し、必要な人力も労働力という資源と位置づけるようになりました。

 ここから、ヒトはより大規模でより複雑に構造化された社会の形成へと一歩を踏み出し、その社会を維持するための支配の仕組みを整えていきました。

 バンドの内部で大切にされていた血の繋がりに基づく親子関係と、血の繋がりのない者の結びつきの夫婦関係がまず新しい時代に適応するため応用されることとなりました。

 ヒトは家族を維持するのに家族外から妻を迎え、家族を支える親子と夫婦という二つの関係のあり方を論理的に拡張することで、部族のような大きな組織を形成するのに成功しました。

 この段階ではまだ特定の個人や集団が他に優越し支配する構図は見られず、単系出自に基づいて構成された部族では、多く個人や小集団の間の対等性や自律性が強調されます。

2. 有力者から支配者へ、部族から首長制と国家ヘ

 バンドや部族には様々な作業を一時的に指揮する者はいても決まった支配者は存在せず、支配権力が機能するには何らかの制度的保証が必要となります。

 この条件を満たし特定の小集団が優越しその小集団を代表する個人が首長として大集団の全体を束ねるような組織形態を首長制とよびます。

 出自だけで特定の首長家が優越することは殆どなく、小集団が他の小集団を統御する利益があって、同盟や対立をはらむ競争が行われた結果、首長位が社会的に受け入れられました。

 首長たちの多層的階層は、社会全体の余剰生産物を利用することで、直接の生産活動から解放され、祭祀を含んだ政治=まつりごとという新しい生業を見出すこととなりました。

 首長制では、首長という焦点が存在して財物の交換がさらに体系化され、小集団の生産物の一部を首長が集め、これを他の小集団に分配する再分配経済がしばしば行われまた。

 集団への帰属が首長との関係によって規定されうるものとなり、異質な集団がそのままより大きな集団に組み込まれ、構成単位が多様化することも見られました。

 首長制の次の段階が国家であり、最初の都市国家は5000年ほど前に成立し、社会統御機関としての政府、支配拠点としての都市、職能細分化、階層多元化、構成員多様化が見られます。

 ただし、これらの諸特徴のいくつかは首長制の社会にもその萌芽が見られるので、首長制と国家の間に絶対的な差異はないという考え方もあります。

3. 支配の正当性

 平等主義的社会でもビックマンは様々な能力に傑出しそれで支持者たちに庇護を与え、支持者たちから余剰生産物を集め、他の人々に分け与えることでさらに支持者をふやします。

 しかし、ビックマンの影響力は支持者をふやすほど多くの負担を支持者に求めざるをえないため、いつかは離反を招き必然的に破綻します。

 他者に意志を強制する直截な力である暴力には個人の発揮しうる限界があり、軍事力以外に支配を正当化する要素として、経済面で支配者が効果的な役割を果たすことが重要です。

 支配者の地位の正当化と人々の容認として、血筋による王統の一貫性がしばしば強調され、また首長や王たちは人々にとって親として、建国の父や国父と位置づけられました。

 首長や王が超自然的に支配を容認されるという王権神授説が唱えられ、また劇場国家概念から神々の世界を王たちが体現し人々があるべき姿を見てそれに従うと唱えられました。

 さらに、首長位や王位の超自然的正当性の確保を進めて、首長や王が彼らを戴く制度そのものとー体であると考える、シルック王国の神聖王レスのような例もあります。

 ヒトが発達させてきた支配の仕組みは、単に自己や自己の所属する小集団の利益を増進するために他者や他の小集団にその意志を強要するというには留まらない営みです。

 支配は自他を含むより大きな集団の存続に有効であり、また支配される側の許容と了承を得られるよう自らを規制しつつ機能する行為です。

4. 支配の仕組みの複雑化と多元化

 歴史的な流れに沿って、バンドから部族、首長制、国家へと支配の仕組みが複雑化していく過程を進ってきました。

 新しくより複雑な支配の仕組みが出現したからといって、それ以前の仕組みが時代遅れの不要なものになったわけではありません。

 最新、狩猟採集の人々が生業形式を捨て去って国家へ組み込まれる例がある一方、なかには狩猟採集の暮らしに留まり続けるという選択をする人々もいることが報告されています。

 南米のグラヤキやグアラニの人々は、国家について充分な理解を有しながら、積極的に支配の機構の出現を阻止しようとしています。

 バンドや部族、あるいは素朴な首長制の下に生きる人々がときとして国家の支配を要さない、もしくは過剰な支配として忌避するという生き方があることを示しています。

 部族には部族に、首長制には首長制に、国家には国家に適した政治状況があって、しかもそれらが複合することでより有効に機能することも可能です。

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2018年06月16日

醤油・味噌・酢はすごい−三大発酵調味料と日本人

 ”醤油・味噌・酢はすごい−三大発酵調味料と日本人”(2016年11月 中央公論新刊 小泉 武夫著)は、日本の代表的な発酵調味料である醤油・味噌・酢の生成過程、興味深い歴史と文化、驚くべき機能などを詳しく紹介している。

 調味料は、料理の素材を引き立て、味付けの決め手となり、古くから用いられてきた。世界で最も広く使われている調味料は、塩、酢、砂糖である。東アジア、とくに日本では、みそ、しょうゆといった、ダイズ原料の発酵調味料がきわめて広範囲に利用されている。ダイズの原産地が東アジアであったからである。しかし、ヨーロッパではダイズの栽培利用が行われていなかったため、そうしたものはなかった。

 小泉武夫氏は1943年福島県生まれ、実家は小野町の酒造家で、田村高等学校、東京農業大学農学部醸造学科を卒業後、東京農業大学より農学博士号を取得した。1982年に東京農業大学応用生物科学部醸造科学科教授、1994年に財団法人日本発酵機構余呉研究所所長に就任した。2009年に東京農業大学を定年退職、同大学名誉教授、この間、鹿児島大学客員教授、別府大学客員教授を歴任した。現在、広島大学、鹿児島大学、琉球大学、石川県立大学等の客員教授を務めている。専門は、発酵学、食品文化論、醸造学である。

 発酵調味料の醤油・味噌・酢は、日本の食卓に欠かせないばかりか、海外での需要も年々高まっている。日本人は昔から、美味な食べものや美味しい料理、体にとって大切な食べものなどを、知恵と工夫によって編み出してきた。その中には、目にも見ることのできない微細な生きものである、微生物を使って造り出したいくつかの発酵食品もある。中でも、味付けの基本となる発酵調味料の醤油、味噌、酢を、すでに奈良時代から食卓へ登場させていた。これは、地球上の多くの民族の中でも、特筆すべきことであると言えよう。もしも日本に、この素晴らしい調味料が生まれていなかったら、日本人の食文化はとてもみすぼらしいものになっていたであろう。この三つの発酵調味料にはそれぞれに関連性があって、醸造学的視野から造り方を見たり、発酵学的視野から発酵徽生物を見ると、互いに共通した幾本かの線によって結ばれている。それは、日本人の大昔からの稲作あるいは米食の文化と密接につながっているのである。

 昔から日本人は水田で稲を育て、その田圃を囲む畔に大豆を植えて同時期に収穫してきたが、これを食事学的に考えてみると、水田は耐であり畔は醤油あるいは味噌汁であって、ここに日本人の食の原風景が読める。日本には特有の気候風土があるため、我が国の国菌である麹菌が、地球上最も旺盛かつ強健に分布棲息している。この菌が米や大豆、麦に繁殖して麹をつくり、醤油、味噌、米酢が得られるのである。初見は奈良時代の播磨国風土記にあり、神様に捧げた蒸米にカビが生え、それをカビタチと言った。さらに、カムタチ、カムチ、カウジ、コウジに語源変化して、今日の麹に至っている。醤油、味噌、米酢を造るのには、共通した麹菌の応用が大昔から続けられてきた。この三大調味料はまた、日本人の食生活においても共通した役創を担ってきた。それはまず、味噌と醤油の美味しさと、酢の酸っぱさといった味の演出である。味噌汁がなければ一汁三菜を基本とする和食は成り立たず、醤油がなければ日本食文化ならではの魚介の生食である刺身も食べられず、酢がなければ酢知えや酢〆はできないし鮨もできない。

 これらの三つの調味料をさらに調理学的視野から見てみると、そこには食の保存という共通のキーワードか宿っている。近年まで冷蔵庫などなかった時代には、味噌漬けや醤油あるいは溜漬け、酢漬けにしておくことにより、食べものは腐敗から逃れることかでき、美味しく永く貯蔵することができた。さらにこれら三種の発酵調味料は、生臭みを消すのには魔法のような力を持ち、とりわけ地球上最も大量に魚を食べる日本人にとって、最も理想的調味料なのである。また、醤油、味噌、酢は日本人の食事の基本である粒食と実によく調和している。おむすびに味噌あるいは醤油を塗ってそのままでも、それを焼いても粒の飯と実によく合って美味しい。さらに日本人のみの食法である握り鮨では、飯粒に酢を加え、それを握った酢と飯の相性は、生の魚介まで巻き込んで絶妙の美味しさになる。また、この三つの発酵調味料は、いずれも神格化され祀られているという点も誠に日本的である。日本の各地には、味噌神社や味噌天神があったり、醤油や酢を祀る神社がある。

 発酵調味料は、日本の各地においては地域性の違いによって醸され方や風味の強弱、好み、さらには使い方などに差異かあり、それが地域の食文化として残ってきた。これらのことは、日本人がいかにこれらの調味料を大切にしてきたかを物語る。このように、醤油、味噌、酢は、日本人にとって切っても切れない重要な嗜好品である。また、味噌や酢には健康を維持し、老化を防ぐ保健的機能性がしっかりと宿っている。近年の科学的知見をふまえ、血圧上昇や肥満の抑制、発ガン予防などの驚くべき効能も紹介されている。発酵調味料の歴史や周辺の食文化、さらには現状と今後を理解することは、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された今こそ時宜を得たものである。発酵興味料が日本に誕生していなかったら、今日のこの民族の繊細で大胆、粋にして大らかな味覚の生理的感覚は育っていなかったであろう。日本料理の何もかも、醤油、味噌、酢がなかったら何も語れない。まさに天下無敵の調味料なのである。

第1章 醤油の話−塩のこと/醤油の歴史/醤油ができるまで/日本の魚醤/日本人の醤油観/醤油の現状とこれから 
第2章 味噌の話−味噌の歴史/味噌の造り方と種類/味噌の成分/豆味噌のこと/郷土にみる味噌の名産地/味噌の料理と調理特性/味噌の神技、諺と民話/味噌の保健的機能/味噌の現状とこれから 
第3章 酢の話−「酢」とは/日本の酢の歴史/酢の造り方と種類/酢と日本人の料理/酢と鮨/酢の保健的機能/酢の現状とこれから

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2018年06月09日

人はなぜ星を見上げるのか 星と人をつなぐ仕事

 ”人はなぜ星を見上げるのか 星と人をつなぐ仕事”2016年8月 新日本出版社刊 橋 真理子著)は、つなぐ、つくる、つたえるをキーワードに星を介して様々な分野と人をつないでいる宙先案内人による20年間の仕事の記録である。

 プラネタリウムや星・宇宙を仕事のパートナーにするようになって、まもなく20年になるという。高校生のときに出逢ったぞオーロラを追いかけ、大学卒業後の大学院では5年間研究生活を送っていた。自分が取り組みたいテーマを見出すことができずに行き詰まったとき、人生に最も大きな影響を与えた一人で、オーロラやアラスカに駆り立てた写真家の星野道夫氏の突然の訃報に接した。

 星野道夫氏は1952年千葉県生まれ、慶應義塾高校を経て慶應義塾大学経済学部卒業の、写真家、探検家、詩人であった。1978年にアラスカ大学野生動物管理学部に入学し、アラスカの大自然の中で、自然と人の関係性をテーマに、多くの写真と文章を残した。1996年にテレビ番組の取材のため滞在していたロシアのクリル湖畔に設営したテントでヒグマの襲撃に遭い、43歳で死去した。

 橋真理子氏は1970年埼玉県生まれ、北海道大学理学部を経て名古屋大学大学院でオーロラ研究を行った。星野道夫氏の訃報に際し、いつかミュージアムをつくるという夢を思い出し、科学館で修行を積むことを決心した。1997年から山梨県立科学館天文担当として、全国のプラネタリウムで類をみない斬新な番組制作や企画を行った。2013年に独立し、宇宙と音楽を融合させた公演や出張プラネタリウムを届ける仕事を行っている。最新スペースエンジンUNIVIEWの描く壮大な宇宙映像と、音楽と語りが融合したSpace Fantasy Liveを学校や企業ホールで行なう他、移動プラネタリウム、キャリア教育に関する講演、星・宇宙に関するイベント企画、番組制作、運営に関するコンサルタント、プラネタリウム職員研修などを行った。2014年からは、病院や施設に星を届ける病院がプラネタリウムを重点的に行っている。作曲家・ピアニストの小林真人氏、作詞家・詩人の覚和歌子氏、音楽家の丸尾めぐみ氏などとともに、多面的な宇宙を見せている。2008年人間力大賞・文部科学大臣賞を、2013年日本博物館協会活動奨励賞を受賞した。現在、星空工房アルリシャ代表、星つむぎの村共同代表、日本大学芸術学部・山梨県立大学・帝京科学大学非常勤講師を務めている。

 青春の日々に、研究で落ちこぼれ、自分は何を目指していたのか、ほんとうは何をやりたかったのかと自問自答したことがあった。やがて、自分とは何かという答えのない深みへと発展し、その井戸に降りたまま、しばらく抜け出られない日々が続いた。どうにも答えが出ずアラスカに出向いたことが一つの光となり、見失った自分を取り戻すことができたという。北海道の自然に魅了され、多くの人々に出会った多感な大学時代を経て、大学院で自然科学の研究の現場に触れてきた。今の目標は、サイエンスと社会の接点をつくりだすことにある。サイエンスそのものより、人間と自然そのものに対する思い入れのほうが強い。ただ、人がやるからサイエンスが面白いのであり、自然があるからサイエンスがある。その視点から、なるべくたくさんの人にとってサイエンスが文化になれば素晴らしいなと想っている。自然に対する愛情や、好奇心がサイエンスをつくりだすということを、研究の現場と一般の人々をつなげられる場所を提供することによって伝えたい。サイエンスを知ることで、得られる新たな驚き、発見がどこかで人間や自然を愛することにもつながるのではないか。

 ほんとうにつながるかどうかはわからない。けれど、人と人をつなげ、多くの人生を知り、多くの考えに出会う。そうした営みの中にサイエンスがあるということ、驚きは自然が与えてくれるものだということは確信をもっていえる。星野道夫氏にオーロラに憧れた高校生は、研究者から星と人々をつなぐ仕事にふみだした。星空と対峙することの意味を考え、多くの人々に出会い、心から幸せと思える仕事をやってきた。さまざまな実践の中で気づかされてきた星の力を、必要とするであろう人のところに届けるべく、2013年から宙先案内人として活動を始めた。そして2016年に科学館を退職し、星つむぎの村という団体を立ち上げ、あらたなスタートラインに立った。本書は、その仕事に至った背景と、多くのかけがえのない出逢いを語り、星と人とをつなぐ仕事を通して見えた人の思いを述べている。星は、いつもみんなの上で輝いていて、なぜか夢や希望を与えてくれるものである。ぜひ、空を見上げて、自分のこと、将来のこと、家族のこと、友達のこと、いろいろ考えてもらえるといいな、という。

プロローグ−20年前の手紙から/1 そうだミュージアムをつくろう/2 子どもたちの宇宙を原点に/3 「オーロラストーリー」が生み出したもの/4 心の中の星空をドームに―プラネタリウム・ワークショップ/5 星空が教えるめぐる時/6 星を頼りに―ぼくとクジラのものがたり/7 星で心をつむぐ−星つむぎの歌/8 見えない宇宙を共有する/9 星から生まれる私たち/10 遠くを見ること、自分を見ること/11 戦争と星空―戦場に輝くベガ/12 星がむすぶ友情―宮沢賢治と保阪嘉内/13 ほしにむすばれて―人と宇宙のドラマ/14 震災の日の星空/15 手紙を書くこと、見上げること/16 音楽とともに/17 宙をみていのちを想う―医療・福祉と宇宙をつなぐ
/18 星を「とどける」仕事へ/エピローグ−星つむぎの村へ

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2018年06月04日

遊ぶことと祈ること

10 遊ぶことと祈ること 今村 薫先生

(目標&ポイント)

 ヒトの特徴は大人になっても遊ぶことだといわれます。

 生物学的な生存維持以上の意味をもつ遊戯の意味に触れながら、現実世界を越えた想像力に基づく歌と踊りの体験について考え、さらに信仰や宗教の意義について解説します。

1. 遊びと模倣

 ヒトの特徴は大人になっても遊ぶことであるといわれており、オランダの歴史家ホイジンガは人間をホモ・ルーデンス=遊ぶヒトと名づけました。

 遊びと物まねは同じものではありませんが、重なる部分が多く、また、技術の学習と習得という実用的な面や、想像力の源として、純粋な喜びや楽しみへ繋がる側面をもっています。

1-1 模倣の進化的青景

 ヒトは自分たちが思っている以上に物まねが得意で、模倣を可能にする裏付けとして、他の個体の行動を見て同じ行動を反応する、ミラーニューロン神経細胞の存在が挙げられます。

 模倣について、認知心理学者トマセロは、真の模倣と、行動の目的を理解し目的へたどり着く独自の試行錯誤であるエミュレーションを、分けて分析する必要性を主張しています。

 まるごと他個体の行動をまねる真の模倣はヒトは行いますがチンパンジーは行わず、チンパンジーが行うのはエミュレーションだと言います。

 ヒトの模倣の特徴は身振りだけの行為を模倣できることで、他人の動きそのものを注目し他人の動きをなぞるようにまねて、自分の心を他人の心と重ね合わせることができます。

1-2 模倣の二つの側面

 物まねや模倣は新しい技術を獲得するときの有益な方法であるだけでなく、人と人を繋ぐコミュニケーションにとっても重要です。

 しかし、この二つは明確に分けられるものではなく、日本の伝統技能においてまねることが重要視されるものが多いですが、最終的には一種のコミュニケーションを目指しています。

 臨書は、手本を忠実に真似る形臨から始まり、段階がすすむと作者の生き方や精神性を模倣する意臨を行い、最終的に手本を見ずに書く背臨の境地に至ること目指しています。

 一見、技能の習得を目的とするための模倣に見えても、人間は、模倣して手本の作り手の行動をなぞり、さらに、手本の示す世界観を変容させ、手本とは別の世界を創造するのです。

1-3 サンにおける物まね

 サンは子どもだけでなく大人もさかんに物まねを行い、人物描写のための物まね、自分の体験の再現、動物の動作や鳴き声の物まねなどを行います。

 サンは娯楽的な物まねのほか狩猟現場で狩猟技術の一端として物まねを行っており、物まねは娯楽であると同時に、生業活動の狩猟に結びつく行為でもあります。

2. サンの子どもの遊び

2-1 「遊び」と「実用」の境界があいまい

 サンの子どもの遊びは日本の子どもの遊びと比べ、道具を使った遊びが少ない、鬼ごっこや隠れんぼやかけっこが見られない、遊びと実用の境界があいまい、という特徴があります。

 3歳前後のままごと遊びを経て、4〜5歳では12〜13歳くらいまでの年齢の子どもたちと混じって遊ぶようになり、少年少女が一緒になって大人の日常生活のまねをすることもあります。

 定住キャンプから数10m離れたところに自分たち用の小さな小屋を建て、その前で煮炊きをしたり、食べ物を分配したり、歌を歌ったり、大人の男女の恋愛の様子をまねたりします。

 大人の日常生活のまねごとは、手本である大人の世界をできるだけ正確に模倣しようとしつつ、しかし、模倣すること自体を楽しんで役柄を演じているのです。

2-2 「狩猟遊び」と「騎馬猟ごっこ」

 サンの少年たちは小さな弓矢やパチンコで鳥や小動物を捕まえて狩猟遊びをしますが、大人の狩猟と同じことをして狩猟の訓練をしているとは限りません。

 狩猟遊びとは別に演劇的要素の強い騎馬猟ごっこをして遊ぶことがありますが、ごっこ遊びにはあらすじが子どもたちの間で共有されていることが指摘されています。

 あらすじは@木の枝でおもちゃの棚と馬をつくるA全員がハンターになり槍をもち馬にまたがって全力疾走するB獲物役の少年は倒れ獲物をハンターが解体する、という3つからなります。

 騎馬猟ごっこは全体で1時間足らずの遊びで、身体活動も楽しさの一因ですが、それ以上に共有された想像上の世界を参加者全員でつくり上げることに楽しさと喜びがあります。

3. ダンスと祈り

 ヒトの模倣の特徴は対象の動きを正確になぞることであり、なぞることで対象の心理に近づき、さらに対象を越えて別の世界をつくり出すこともできます。

 歌やダンスも遊びの一種であり、サンの場合、動物の模倣をモチーフにしたダンスを踊ることで、自然界への祈りを表現させています。

3-1 初潮儀礼

 サンの少女は15〜16歳になって初潮を迎えた瞬間から、その後の数年間、様々な儀礼行為や禁忌事項を守らなければならない初潮儀礼があります。

 人生の節目に行う通過儀礼ーつであり、少女は約2週間別の小屋に隔離され、年長の女性から教訓を受け、女性たちが集まってダンスを踊って祝福されます。

 初潮儀礼で最も華やかなのは祝福のダンスで、同じキャンプや他のキャンプの女性たちも集まって少女を祝福し、半数は歌い手にまわり手を叩きながら甲高い声で歌います。

 野生動物のエランドの群れをモチーフにしたダンスは、雨が降り、植物が実り、動物が肥え太って大地を駆けまわる世界を再現しています。

3-2 ヒーリング・ダンス

 サンでは薬を飲んでも治らない重い病気には、伝統医が踊りを踊って治療することがあり、これをヒーリン・ダンスといいます。

(1)ダンスの始まり

 ヒーリング・ダンスは日が暮れてから始まり、焚き火の周りに10人あまりの女性たちが集まり輪になって座り、病人を連れてきてこの輪に加わらせます。

 まず、一人の女性が手を打ち鳴らしながら甲高い声で一っの旋律を歌い、即座に数人が合いの手を入れ、旋律を重ねてポリフォニーが始まります。

 さらに、次々と女性たちが唱和し、複雑なリズムを拍手で刻み、歌声の厚みが増し、男性の踊り手たちが一列になって、ステップを踏みしめながら女性たちの背後を回り始めます。

 4〜5人の踊り手たちの中で一人のヒーラーが治療の中心になり、病人の病を自分の身体にのり移らせ、さらに超自然的存在であるカミを説得して病気を治せると信じられています。

(2)治療すること

 ヒーラーは病人と呼吸を合わせ意識を病人に集中させ、病人の身体に取りついた邪悪なものを自分の身体にのり移らせ、ヒーラー自身も他の踊り手たちも次々と意識を失い倒れこみます。

 このときヒーラーの意識はカミのところへ行きカミと激しく口論し、カミが病人の治癒に同意するとヒーラーの痛みは解放されます。

 砂の上で痙拳するたびに身体の痛みは振り落とされて消えていくという、トランス状態になりサン語では”ダンスにおいて死ぬ”と言い表されます。

 女性たちの歌声のポリフォニーと手拍子のリズム、ヒーラー自身の激しいステップとダンスは一種の文化的装置で、ヒーラーはこの中でトランス状態に入れるように経験を積みます。

(3)聖なる体験

 サンの治療方法は超自然的存在との直接接触または直接交流によって諸問題を解決するという点で、シャーマニズムの一種です。

 基本特徴として、シャーマン=治療者と神霊との間にシャーマン側の意志による直接の交流があり、神霊の人間への憑依や、神が人間に啓示を与えるなどがあるとされます。

 これに対して、宗教学者のエリアーデは、シャーマニズムは人間であるシャーマンの魂が身体から離れて天空を飛翔して神霊と交流するという、聖俗二元論を唱えました。

 しかし、聖と俗は二者択一ではなく緊張関係を保ちつつ共存・両立するもので、人間社会はたえず聖なる世界に立ち戻り、俗なる世界の更新をはかるべきだと結論づけました。

(4)カミの存在

 サンはガマという超越者の存在を信じており、ガマはこの世界を造った創造主であり、人間に悪も善ももたらすといいます。

 ガマはもっぱら悪の部分が強調されていて、悪いことはガマの仕業とされ、また、善悪かかわらず、人智を超えたこと、自分の責任にできないことはすべてガマのせいにされます。

 ガマは昔話や物語ではピーシツォワゴと呼ばれ、創造神的な性格をもち、同時に民話の世界でトリックスターといわれ、いたずら者の地位を与えられ動物のようでもあります。

 物語の中の動物たちはいずれも動物としての特徴をもちながら常に人間の姿で登場し、人間と動物は不可分として描かれますが、自然を支配するカミは最高神ではありません。

(5)女性たちによる歌

 踊り手たちがトランスに陥っている間も、女性たちは途切れることなく歌を歌い続け、声を重ね合わせ、間髪容れずに手拍子を入れ意識を集中させています。

 中の数人の女性は意識を失った踊り手たちが焚火に突っ伏して火傷をおわないように、踊り手の体を支えたりしています。

 ダンスがクライマックスに達すると突然女性たちは歌声をとざし、手拍子だけの掛け合いが数小節続き、やがて、それもピタリと終わり静寂だけが残ります。
 一曲およそ一時間のダンスが何度も繰り返され、夜が白々と明けるまで延々と続き、女性たちの歌声によって、ヒーラーはエネルギーをもらいます。

(6)キャンプ全体の浄化

 サンでヒーリング・ダンスは特定の病人の治療を目的にしていますが、病人だけでなくダンスに参加した人全員が癒されます。

 さらに、踊り手たちが邪悪なものを追い払うことで、キャンプ中から悪いものがすべてとりはらわれて浄化されると言われます。

 ヒーラーはキャンプにとって重要な存在ですが、特別視されることはなく、他の男性と同じように日常生活を送り、専業化はされていません。

 日常生活とヒーリング・ダンスは連続し、人を癒す能力は誰にでもあり、人を癒すことが本当の人間、普通の人間として生きることを可能にすると言うサンもいます。

4. 祈りの世界の創造

 サンは動物の形跡を読み取ってなぞり、動物の行動をまね、ブッシュの中を歩き回り、植物と地形で作られた景観をなぞことで、カミの存在を感じカミを想像することに繋がります。

 動物をまねること自然をなぞることを様式化し、想像上の世界を皆で共有する場がサンの歌とダンスです。

 幾重にも重なった歌声と激しいリズムに合わせて、声を出し、呼吸し、手を打ち、踊るといった総合的な身体活動が意識の変性を引き起こし、カミとの直接対話を可能にします。

 この宗教体験において人々は癒され、さらに豊饒や平安を祈ることができ、感情の表現であるダンスと、治療を目的としたダンスは、一見異なっていても実は同根です。

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2018年06月02日

蒲生氏郷物語−乱世を駆けぬけた文武の名将

 ”蒲生氏郷物語−乱世を駆けぬけた文武の名将”(2011年6月 創元社刊 横山 高治著)は、織田信長の寵臣で信長の娘・冬姫と結婚し現在の会津若松の基礎を築きわずか40才でこの世を去った蒲生氏郷の生涯を紹介している。

 蒲生氏郷は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主を務め、文武両道にすぐれた武将として戦国乱世を駆け抜けた。大将ながら戦場で抜群の槍働きをなし、平時は城下の整備発展に尽くしたという稀有の名将として知られている。

 横山高治氏は1932年三重県津市生まれ、明治大学政治経済学部卒業。元読売新聞社会部記者で、読売新聞大阪本社にて河内支局長、連絡部次長などを歴任した。三重県平成文化賞、大阪府知事賞を受賞し、大阪歴史懇談会会長を務めた。

 蒲生氏郷は1556年に、近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれた。蒲生家は、日本の貴族の元祖、大職冠・藤原鎌足の流れを汲む名門藤原氏の一族である。母は近江の国守、近江源氏・佐々木六角家の重臣・後藤播磨守の娘で、ともに名門の家系である。幼名は鶴千代、初名は賦秀=やすひで、または教秀=のりひでと言った。1568年に観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した。鶴千代と会った信長は、”蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん”と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという。鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた。岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親となった、弾正忠信長の一文字を与えられ、忠三郎賦秀と名乗った。

 1569年の南伊勢大河内城の戦いにて、14歳で初陣を飾った。戦後、信長の次女を娶って日野に帰国した。1570年4月に氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり、一千余騎で参陣し朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され5,510石の領地が加増された。その後、同年7月の姉川の戦い、1571年の第一次伊勢長島攻め、1573年4月の鯰江城攻め、8月の朝倉攻めと小谷城攻め、1574年の第二次伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦い、1578年からの有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。1582年に信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城へ走って、明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は山崎の戦いで敗死し、その後は清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従った。1583年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。

 戦後、亀山城を与えられたが、自身は入城せず家臣の関盛信を置いた。1584年の小牧・長久手の戦いでは、3月に滝川一益・浅野長吉・甲賀衆等と共に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めた。1585年の紀州征伐や富山の役にも参戦し、この頃に賦秀から氏郷と名乗りを改めている。秀吉の諱の一字を下に置く賦秀という名が不遜であろう、という気配りからであった。1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐でも活躍を見せた。一連の統一事業に関わった功により、1590年の奥州仕置において、伊勢より陸奥国会津に移封され42万石の大領を与えられた。これは、奥州の伊達政宗を抑えるための配置であったと言われている。会津において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置した。そして、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から若松へと改めた。氏郷はキリシタン大名で洗礼名をレオンと言い、会津の領民にも改宗を勧めた。

 氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。1592年の文禄の役で肥前名護屋城へと参陣し、陣中にて体調を崩した氏郷は翌年11月に会津に帰国した、1594年春に養生のために上洛したが、この頃には病状がかなり悪化し、1595年2月7日、伏見の蒲生屋敷において享年40歳で病死した。蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された。未完の天下人、文武両道の達人、蒲生氏郷は戦国の名将であり、申し子であった。

 戦国史上、ひときわ輝く名将である。大変な戦略家にして文化人大名であり、もし氏郷が長生きをしていれば、大坂夏の陣も関ヶ原合戦も勃発せず、日本の歴史は少しは変わっていたかもしれない。茶聖・千利休の言として、氏郷を”文武二道の御大将にて、日本に於いて一人二人の御大名”と讃美した言葉が伝わっている。利休七哲の中でも氏郷は筆頭とされ、細川忠興と高山右近とは特に親しかった。戦国武将としては珍しく側室を置かず二人の実子が早世したため、蒲生家の血が絶える遠因となった。不幸にして働き盛りの40歳で世を去り、蒲生家も四代で滅んだが、氏郷は不朽の名将であり、今日の町づくりの先駆者であった。

第一章 湖国に華やぐ日野・蒲生家
 「荒城の月」ゆかりの会津鶴ヶ城/戦国風雲の申し子/蒲生の系譜/栴檀は双葉より芳し/近江源氏佐々木氏/痛恨の後藤騒動
第二章 鶴千代、晴れの松坂初陣
 織田信長、近江に侵攻/信長、鶴千代にひと目惚れ/伊勢大河内城に初陣/信長に従い各地に出陣/戦国乱世の先鋒/伊勢の関と神戸の両家/伊賀天正の乱
第三章 信長、秀吉の天下布武
 本能寺の変/日野篭城、秀吉に従う/清洲会議/伊勢路燃ゆ
第四章 松坂少将、戦雲・金鼓の夢
 松ヶ島城血戦と遷都/松ヶ島懐古/松坂開府/松阪を愛した文化人/氏郷はキリシタンか
第五章 みちのく鶴ヶ城の会津宰相
 会津転封/みちのく転戦/苦難の奥州平定/鶴ヶ城築城/会津の城下町づくり/氏郷名残りの茶道文化/会津の隠れキリシタン/氏郷と政宗、宿命の闘い/春の山風
第六章 悲愁、春の山風
 蒲生家残照/秀吉による毒殺説/晩歌

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2018年05月31日

時間と空間を区切る

9 時間と空間を区切る 赤堀 雅幸先生

(目標&ポイント)

 言語というヒトに特異な能力を使って、私たちは時間と空間を区切り、切り離してから組み立て直し、ついには世界を分解し、再構成します。

 ですが同時に、言葉にならないものの存在も、区切られた時間や空間の不自由さも私たちは知っています。

 言葉を使うヒトの特性を踏まえ、言葉がヒトに齎したものと言葉が課した制約を明らかにし、言葉の限界を乗り越える試みを、儀礼や信仰といった論点を交えて見ていきます。

1. 鳴くこととしゃべること

 人間がしゃべることができるのは鳴くことができるという能力の延長上にありますが、いつからヒトがしゃべるようになったのかははっきりしません。

 ヒトの前頭葉にあって発話を司るブローカ野は猿人には見られず、ヒトが聞いた言葉を理解することは聴覚野のそばのウェルニッケ野が主な役割を果たしています。

 哺乳類は元来、聴覚が発達した夜行性の動物ですが、ヒトとサルは昼行性に移行して視覚を発達させ、ヒトは常時直立二足歩行してからヒトになりました。

 話し聞くと別に読み書きもヒトの歴史に重要な役割を果たし、エジプトで約5000年前の表語文字がフェニキア文字をさらにギリシア文字を生み、その後のラテン文字につながりました。

2. 世界の切り分けと再統合

 言葉を使って効率よく情報を伝えることができ、一人で考え事をするときも言語を使用し、自分自身やまわりの物事を把握する、唯一ではありませんが強力な道具になっています。

 どのような言語も物事を区分し再結合して多様な意味をつくりますが、その多様性は言語の二重分節性と個々の言語による具体化の自由さに拠っています。

 世界中に非常にたくさんの言語があることは、構造主義言語学によれば、ランガージュ、ラング、パロールの関係として説明され、言語のあり方は文化全体のあり方にも重なります。

 ランガージュ=言語能力はヒトに共通に備わった言語を操る能力、ラング=言語はランガージュの具体的な個別の言語、ラックの枠中の実際の具体的な発言がパロール=発話です。

3. 二項対立と料理の三角形

 男と女のように単語と別単語の対比による二項対立がありますが、多数の二項対立が結びつき世界は二つ対抗関係として理解され、これを象徴的二元論、象徴的二分法などとよびます。

 構造主義人類学の生みの親のレヴイ=ストロースは、二項対立とは別に広く見られる思考の様式として、三項が互いに対立するあり方を三角形として論じました。

 英国の人類学者リーチはこれをより一般化して、プラス・マイナスは明確な二項対立、ゼロはそのどちらでもなく両者に対立、これをプラス・マイナス・ゼロの関係と説明しました。

 この図式はさらに日常と非日常と言い換えることができ、日常と恵みの非日常と災いの非日常という三角形が形成され、一義的な日常と両義的な非日常の対比が見られます。

4. 境界と通過儀礼

 フランスの人類学者ファン・ヘネップは、ヒトが人生の途上で行う様々な儀礼=人生儀礼や、何らかの集団に加わる際に行う儀礼=加入儀礼を一括して、通過儀礼とよびました。

 儀礼とは日常の中に人為的に境界を作り出す仕組みで、ヒトは徐々に成長し老いる中で、壮年から老年へ、現実の人生が言語が表すような段階的になるように儀礼を積み重ねます。

 通過儀礼はたいてい分離、移行、統合の三つの段階を踏んで行われ、参加者は古い日常から引き離され、非日常の移行のときを過ごし、新しい日常に帰還するという手順を踏みます。

 儀礼における非日常は日常に戻る前提ですが、干魃、飢饉、疫病、戦乱などは制御されない非日常であり、収めるための状況儀礼は状況自体が非日常であるため分離の段階を欠きます。

5. 世界観と宗教

 世界観は世界のありようと自分の立ち位置を言語や図解によって表したもので、世界に一定の秩序があるという前提に立ち、たいてい世界と自分を調和的に肯定します。

 宗教は日常を超える領域を想定した世界観を提示し、通常には知覚できない存在を前提とし、日常の領城との関係を価値付けられた全体として世界のあり方を語ります。

 宗教は近代化の進行と共に衰えるという考え方がありますが、これはどうやら誤った予測だったらしく、1970年代から人々が宗教に回帰する神の復讐が起きています。

 ギアーツは近代化がもたらした大きな社会の変化が既存の宗教と人々の日々の暮らしとの接点を見失わせ、そこから生じた危機意識が宗教に新しい方向付けを促すといいます。

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2018年05月26日

イースター島を行く−モアイの謎と未踏の聖地

 ”イースター島を行く−モアイの謎と未踏の聖地”(2015年6月 中央公論新社刊 野村 哲也著)は、絶海の孤島で失われた文明の謎を追い隠された聖地を求めイースター島に立つ1000体ものモアイをカラーで紹介している。

 イースター島は、南太平洋ポリネシアの東端に位置する、チリ領の火山島である。総面積はわずか163.6?で、瀬戸内海に浮かぶ小豆島ほどの大きさしかない。島を領有する南米チリとは東に3700km、人の住む最も近い陸地ピトケアソ諸島ですら西に2000kmも離れており、まさに絶海の孤島という表現がふさわしい。現地語名はラパ・ヌイで、正式名はパスクア島である。ラパ・ヌイとは、ポリネシア系の先住民の言葉で広い大地を意味する。そして、パスクアはスペイン語で復活祭=イースターを意味する。1722年4月5日にオランダ人の提督ヤコブ・ロッフェーヘンかヨーロッパ人として初めて渡来したが、その日はちょうどキリスト教の復活祭の日であったことに由来する。日本では英称由来のイースター島と呼ばれることが多い。

 野村哲也氏は1974年岐阜県生まれ、高校時代から山岳地帯や野生動物を撮りはじめ、アラスカ、アンデス、南極などの辺境地に被写体を求めた。2007年より2年ごとに住処を変えるライフスタイルを続け、現在までに南米チリのパタゴニア、南アフリカ、イースター島などに移住した。今までの渡航先は102ヵ国に及び、秘境のツアーガイドやテレビ番組制作にも携わっている。スライショーなど講演活動で国内外を飛び回っている。

 イースター島はモアイの建つ島として有名である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。この海底火山の噴火によって形成された島に、最初の移民が辿り着いた時期については諸説がある。文字記録が無いため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀〜5世紀頃とする説や西暦800年頃とする説が有力だった。近年の研究では西暦1200年頃ともいわれる。移民は遥か昔に中国大陸からの人類集団の南下に伴って、台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派で、いわゆるポリネシア人である。ポリネシア人の社会は酋長を中心とする部族社会で、酋長の権力は絶対で厳然たる階級制度によって成り立っていた。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を部族の守り神として祀る習慣があった。初期のヨーロッパ人来航者は、ホトゥ・マトゥアという首長が一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。上陸したポリネシア人は鶏とネズミを共に持ち込んで食用とした。

 イースター島といえば、誰しも思い浮かべるのは、かの有名なモアイ像だろう。虚空を見つめ、海を背にして立ち並ぶ、謎めいた三頭身の石造彫刻である。ミステリアスでいながら、どこかユーモラスでもあるこの石像群は、10世紀から17世紀にかけて、各部族の守り神や墓標として作られたものとされている。アフというプラットホーム状に作られた石の祭壇作りは7世紀?8世紀頃に始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになった。加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在し、採石の中心はラノ・ララクと呼ばれる直径約550mの噴火口跡であった。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイも作られていった。モアイの語源には諸説あるが、島民たちに聞けば、誰しも”生きている顔”のことだという。その名の通り、一見同じように見えるモアイの顔はどれも個性的で、島に約1000体ある石像のなかには、赤いモアイ、正座するモアイ、四本の手を持つモアイなどの変わり種も多い。

 モアイは比較的加工し易い素材である凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられており、デザインも時代につれ変化していった。モアイは”海を背に立っている”と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。現在、アフに立っている全ての像は、近年になって倒れていたものを立て直したものである。だが、この島の本当の魅力は、モアイだけでは語り尽くせない。断崖絶壁に隠された処女の洞窟アナ・オケケ、水の洞窟アナ・テ・パフ、夏至の日にだけ壁画を照らすアナ・カイ・タンガタなど、洞窟群は200以上ある。また、瑠璃色の宇宙のような火口を持つラノ・カウ火山、絶景を見渡す最高峰テレバカ火山、モアイの大製造工場ラノ・ララク火山など、火山群が70以上ある。さらに、生涯の幸福をもたらす幻の緑閃光、グリーンフラッシュ、全土か熱狂の渦に包まれる島のオリンピックのタパティ祭り、どんなガイドブックにも載っていない、ごく一部の島民だけが知る未開の聖地などもある。

 イースター島はかつては緑溢れる豊かな島だったが、モアイ倒し戦争や西洋人の来航によって、1万人以上いた島民は約100人にまで激減し、文明は失われてしまった。島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息した。著者はこれまで、取材で計15回イースター島に足を運び、現地でしばらく生活してみたそうである。この島を観光で訪れる人たちの多くかモアイだけ、それもかなり表層的な部分だけを見て満足していることに、少し残念な思いを抱いていたという。そこで本書の前半では、独自に考えたルートに沿ってモアイの歴史的・文化的背景を、できるだけ掘り下げて紹介することに取り組んだ。後半では、滅多に立ち入ることかできない最深部への旅を通して、未だ知られざる、隠された島の素顔を描くことに挑戦したそうである。前半がイースター島の表の顔を紹介したものだとすれば、後半は隠された秘密の素顔を、初めて白日のもとにさらしたものといえるかもしれない。ガイドブックはもちろん、ネットで探してもまず見つけることかできない、特別なガイドが導く特別なイースター島が紹介されている。

第一章 モアイの島
 ラパーヌイ ハンガロア村 モアイルート @アナーケナ アフ・ナウナウ アフーアトウレーフキ Aテーピトークラ Bアフートンガリキ Cラノーララク モアイの制作ステップ 個性的なモアイたち モアイの運搬について Dアフーアカハンガとアフーハンガーテエ(バイ
フー) アフーアカハンガ アフーハンガニアエ(バイフー) Eビナプー アフータヒラ アフービナプー Fオロンゴ 鳥人儀礼
第二章 歴史の島
 モアイの眼 ロンゴ・ロンゴの木板島の形成−300万年前〜75万年前 最初の居住者−600〜900年 モアイの誕生−900〜1680年 島の環境問題 モアイ文化の終焉−1680〜1722年 部族闘争激化−1722〜86年 奴隷狩り−1805〜79年 チリによる支配−1879〜1903年 ウィリアムソン・バルフォア株式会社−1903〜53年 今日の島−1953〜2014年
第三章 内なる島
 洞窟ルート @タハイ儀式村 Aアフ・フリ・ア・ウレンガ Bプナ・パウ Cアフ・アキビ Dアナ・テ・パフ Eアフ・テベウ Fアナ・カケンガ(ドス・ペンターナス) Gアフ・ハンガ・キオエ Hアナ・カイ・タンガタ
第四章 祭りの島
 島の日常 タパティ祭り タパティ開催 トライアスロン 競馬ハカペイ 布作り 歌合戦 カイカイコンテスト(あやとリ) 昔話合戦 ハーモニカコンテスト 飾りものコンテスト ファッションショー グループダンス 巨大なモアイ像と山車のパレード 最終日
第五章 聖なる島
 パトとの出会い @ポイケ半島 Aテレバカ火山とグリーンフラッシュ Bピンクの浜と珊瑚のプール Cモアイと皆既日食 D北部の特別な道(グレートートレック) E生命の樹
終章 祈りの島々

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2018年05月21日

ヒトの繋がりと社会集団

8 ヒトの繋がりと社会集団 深山 直子先生

(目欄&ポイント)

 ヒトの繋がりの特徴について、普遍的側面と時代的変化に留意しながら考えます。

 まず、親子と婚姻という二つの関係に基づいた親族という繋がりを解きほぐします。

 その過程では、出自を原理とする集団形成についても触れます。

 次に近代以降に重要性を増してきた繋がりとして、地縁、社縁、情報縁について、それらの差異に留意しながら見ていきます。

1. 社会的動物としてのヒト

 ニュージーランドの先住民マオリは、挨拶する際には決まった型の自己紹介で始め、自然環境や社会環境の中に位置付け、人との関係性や集団の成員権を通じて理解します。

 多様な繋がりの存在はマオリ社会に限らず現代日本も同様で、家族、親戚、学校、会社、バイト先、居住場所、サークル、インターネット空間などにおいて、他者と繋がっています。

 ヒトはこのような繋がりに生きる動物でありしばしば社会的動物といわれますが、社会性は身近な動物や昆虫にもあり、人間だけに認められるとは限りません。

 ヒト以外にも社会性は認められますが、他者との繋がりの複雑さ、形成する集団の多様さ、死者や会ったことがない人々まで含む点で、ヒトとその他の生物は一線を画しています。

2. 親族という繋がり               ・

2-1 親子関係と婚姻関係

 ヒトの繋がりの中でも、時代や地域、文化を超えて普遍的に指摘できるのは、世代をまたぐという意味でタテ繋がりの親子関係と、同世代間のヨコ繋がりの婚姻関係です。

 母子関係は最も基本的なヒトの繋がりであり、母は子が生まれた直後から、長期間にわたり授乳・養育し様々なリスクから守り、特別に強い繋がりを必然的にもっています。

 父と子の繋がりには曖昧な部分がありますが、人類社会の父はきわめて文化的な存在となり、父と子の繋がり、ひいては家族を含む親族集団の多様性を生み出したと考えられます。

 親族は親子関係と婚姻関係に加え血縁があり、同世代である兄弟姉妹の関係が重要な意味をもっており、婚姻関係にある2人の男女とその未婚の子を核家族と称しています。

2-2 出自と出自集団

 家族はより広い親族という関係に埋め込まれていて、理念的にはタテ方向にもヨコ方向にも無限に広がるカテゴリーですが、その範囲を定めるための原理が出自です。

 出自とはある個人が祖先との間にもつ繋がりを意味し、個人には無数の祖先がいて出自にも無数の辿り方があり、父子関係からは父系出自が、母子関係から母系出自があります。

 父系か母系どちらか一つの出自=単系出自を原理としますと、特定の祖先を始点に定めた場合、始祖からその出自をもつ子孫全てが出自集団の成員になります。

 一方で、祖先の性別にこだわらない出自の辿り方をしたり、状況に応じて父系と母系どちらか一方を選択したりする社会もあり、その場合は成員権の基準が曖昧です。

2-3 父系社会と母系社会

 父系出自集団では集団形成の軸は男性の連なりですが、姉妹たちもまたこの集団の成員として位置付けられ、男性たちは母との繋がりを通じて姉妹たちと同様に母系出自を辿れます。

 中国の漢族では子が誕生すると男性も女性も父の姓を名乗り父系出自集団の成員になり、オセアニアのミクロネシアの島々の多くで母系出自の原理が発達しています。

 母系出自集団は多くの場合、固有名と位階を表す称号をもち土地や財産を所有し、婚姻の相手は他の母系出自集団の成員でなくてはいけないという規則が見られます。

 父系社会と母系社会は対称的とはいえず、父系社会では大抵男性が女性に比べて優位に立ちますが、母系社会は必ずしも女性が優位に立たないことに留意する必要があります。

3. いろいろな繋がり

3-1 地縁

 常に移動をともなう生活では血縁の連鎖による親族集団が最も重要な社会集団でしたが、約1万年前に農耕という生業形態が発明され特定の場所に定住化する人々が登場しました。

 これ以降、親族に加え地縁が意味をもつようになり、ある領域に根差した政治的結合や経済活動が強まったりすると、血縁よりむしろ地縁が重要視される場合があります。

 現代日本の自治会や町内会といわれる集団は地域共同体の事例であり、住民への情報伝達、清掃や防犯の取り組み、伝統行事など年間を通して多様な活動を行っています。

 NZマオリ社会は出自集団の部族集団で構成されていましたが、20世紀半ば以降、都市化にともない、帰属する部族集団とその領域、さらにマラエから遠ざかりました。

3-2 社縁

 現代社会では親族集団や地域共同体以外にも、定の目的を達成したり関心を満たしたりするために結成された結社=アソシエーションが存在します。

 結社の線を社緑と呼び、工業化と都市化にともなって血縁および地縁に措抗するようになり、現代ではより一層重要性か増しています。

 血縁や地縁は生まれや住まうところによって決まってしまう部分か大きいですが、社縁は私たちが自発的につくったり断ったりすることができる繋がりです。

 血縁や地縁の活動は幅広く個人は多様で包括的な存在ですが、社縁の活動は限定的で個人は断片的ですので、社縁は、血縁、地縁に此べて広く浅い繋がりを可能にします。

3-3 情報縁

 1990年代以降、インターネット利用者数は爆発的に増加し、パソコン、携帯電話、タブレットから情報を、受信・発信、交換することは、世界各地において日常の光景となりました。

 個人間の繋がりの促進を支援するSNSの発達もあって、現実社会で繋がらないような多様な人々が、特定の目的や関心だけを共通点に情報禄をつくっています。

 特定の掲示板サイトやメーリング・リスト、グループ・チャットなどに集い交流している場合、結社に似たインターネット・コミュニティが出現します。

 個人は社縁異常に簡単に無数の情報禄を作ることができ、情報縁が従来の現実社会の繋がりを強化する事例も多くなり、情報縁は、血縁、地縁、社縁と補強関係にあります。

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2018年05月19日

凜とした小国

 ”凜とした小国”(2017年5月 新日本出版社刊 伊藤 千尋著)は、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーといういま輝いている4つの国の現状を紹介している。

 凜としたというのは、態度や姿などがりりしくひきしまっているさまを指している。ここで紹介しているのは、世界に通じる価値観を持ち胸を張って独自の国づくりをする凛とした4つの小さな国々である。それは、中米のコスタリカ、民主化したばかりのミャンマー、米国と国交を回復したキューバ、シルクロードの中心地のウズベキスタンである。

 伊藤千尋氏は1949年山口県生まれ、下関西高等学校を経て、1973年に東京大学法学部を卒業した。大学4年の夏休みに朝日新聞社から内定を得たが、産経新聞社が進めていた冒険企画に応募し、調査探検隊を結成して東欧に飛んだ。東欧では現地のジプシーと交わって暮らし、日本初のジプシー語辞書を作り、帰国後は新聞にルポを連載した。ジプシー調査でジャーナリズムの醍醐味を知り、1974年に再度入社試験を受けて朝日新聞社に入社した。長崎支局、筑紫支局、西部本社社会部、東京本社外報部を経て1984年から1987年までサンパウロ支局長、1991年から1993年までバルセロナ支局長、2001年ロサンゼルス支局長となった。その後、雑誌編集部員を経て、2009年に定年を迎えるが再雇用で雑誌編集部に勤務し続けている。

 あなたは、旅に出たいと思ったことはないだろうか、逃げるためではなく、向かう旅である。権力におもねて卑屈に生きるのは貧しい人生である、小粒でも自由で凛とした生き方を貫きたい。就職の内定を断ってルーマニアに飛び、人生を旅で過ごすジプシーことロマ民族を追う流浪の旅で、想像もしなかった生き方に接し、うかがい知れない世界があることを肌で感じ取った。新聞記者になってからも世界を旅し、中南米、欧州、米国の特派員をし、週刊記者としてアジアを回った。退職後はフリーのジャーナリストとして、これまで世界78の国を現地で取材した。記者の目で現地を探り各地を見比べると、大国と呼ばれる国よりも独自の価値観を持ち自立する小国の方が、人間も国も輝いていることを知った。

 日本は明治以来、ひたすら大国を夢見てまず軍事大国となり、無謀な戦争で挫折したあとは超大国にすり寄り、経済大国になると図に乗って過去の軍事大国に戻ろうと画策する。しかし、気がつけば経済で中国に追い抜かれ不況は長引き、経済大国は有名無実である。正社員を保つことすらできず、年金さえ保障されない。幸福度の世界ランキングは先進国で最下位で、開発途上国よりも下にある。本来の豊かさにおいて、日本は途上国に後退している。本書は、2016年から17年にかけて訪れた、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミヤンマーの旅で目にした記録である。 ウズベキスタンとミヤンマーは初めての訪問で新鮮だったし、コスタリカやキューバはそれまでの訪問で得た知識の蓄積を内容に込めた。

 コスタリカは人口4857万人(2016年)中央アメリカ南部に位置する共和制国家で、北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。この国は1949年、日本に次いで世界で2番目に平和憲法を持った。これにより常備軍を持たない国となったが、非常時徴兵は規定されている。日本と違って完全に自ら創り、しかも本当に軍隊をなくした。周囲の中南米の国々が内戦で明け暮れた時代も、この国だけは平和を維持した。かつてコスタリカの大統領は内戦をしていた周囲の3つの国を回って戦争を終わらせ、1987年度のノーベル平和賞を受賞した。大統領が行ったのは平和の輸出である。自らの平和と中立を保ち世界に平和を広め平和国家としての地位を確立することが、この国の平和外交である。米国のトランプ政権が国境に壁を築き、欧州では難民を閉めだそうとする時代に、コスタリカはだれも排除しないことを掲げた。さらに環境問題では世界の先進国で、エコツアーの発祥の地である。

 キューバは人口1123万人(2016年)、カリブ海の大アンティル諸島に位置した、ラテンアメリカの共和制国家である。2014年12月に、米国のオバマ大統がキューバとの国交回復を発表し、2015年7月に国交が回復された。その効果は絶大で、それまでキューバを訪れる観光客は年間に300万人ほどだったが、2015年は350万人を超えた。2016年2月には米国とキューバの間の航空協定が結ばれ、2016年にキューバを訪れた観光客は400万人を超えた。米国と国交を回復したキューバでは、個人崇拝をさせない姿勢がカストロの死後も貫かれている。かつて軍服姿の警官が街のあちこちにいたが、今では治安が良くなりあまり見かけなくなった。

 ウズベキスタンは人口3212万人(2017年)、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和国で、北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接している。国土の西部はカラカルパクスタン共和国として自治を行っており、東部のフェルガナ盆地はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいる。かつてソ違という超大国の傘下にあったこの国は、他の国々とは違って自立に成功した。シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、青の街サマルカンドや茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名である。ソ連からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。

 ミャンマーは人口 5288万人(2016年)、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家で、独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦であった。南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。1948年に英国から独立したあと、穏健な社会主義政権が生まれた。しかし、共産党の武装蜂起、少数民族の反乱、さらには中国の国民党軍が侵入して内戦状態になった。ひどい混乱の中、1962年にクーデターが起き、議会制民主主義を否定し、ビルマ式社会主義という特異な政治体制が敷かれ、社会主義を看板に掲げた軍事独裁政権になった。つい最近まで閉ざされた国だったが、1988年に民主化を求めて人々がゼネストをしき、彗星のように躍り出たのがスーチーさんである。2015年の総選挙でスーチーさんが率いる党が圧勝し、2016年にスーチーさんの側近が大統領に就任し、ようやく民主主義の新政権が発足した。いずれも発展途上であり歴史的、経済的な事情から困難も多いが、懸命に生きようとする姿勢には見習うべきものが多い。

 世界がグローバリズムの風潮に追いまくられて人間性を失う時代に、経済的には貧しくとも人間としての心の豊かさを求め、自立した独自の価値観を堅持している社会がそこに見えた。凛として主張する姿は、こちらの方が本来の大国のようにも思えたという。

第1章 平和憲法を活用するコスタリカ/第2章 キューバは今―米国との国交を回復して/第3章 シルクロードの中心、ウズベキスタン ソ連後の中央アジアを探る/第4章 闘うクジャク―ミャンマ

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2018年05月13日

ヒトの家族の起源

7 ヒトの家族の起源 今村 薫先生

(目標&ポイント)

 動物の中でヒトだけが様々なかたちの家族をもち、そのうえに親族、地域集団などの重層的な社会組織とネットワークを形成しています。

 人類の家族は、インセスト・タブー、外婚、コミュニティーの存在、性別分業などの重要な特徴をもっています。

 このような家族の類型と進化を、霊長類学の知見も踏まえて議論します。

1. 家族とは何か

 動物の中でヒトだけが様々なかたちの家族をもち、社会全体として新たな家族が形成され、文化や社会が次の世代に継承されていきます。

 家族は居住空間をともにしており、生産活動と消費をともに行い、夫婦の性的関係で結ぱれ、子どもを産み育てるという生殖と教育の場でもあります。

 ジョージ・マードックは2001年に、家族の基本的な単位は夫婦と未婚の子の核家族と提唱しましたが、欧米以外の社会の民族誌から核家族論が批判されるようになりました。

 現在の人間社会において家族はこのように多様であり、核家族とは真逆に見える社会、経済と教育も親族集団、地域集団において機能しているような社会も多いのです。

2. 霊長類の社会構造

 霊長類の社会構造の進化は、より多くの個体と交渉を保とうという傾向と、特定の雌雄の安定した結びつきを達成しようという背反する二本の糸に操られてきました。

 類人猿の社会では、オランウータンは単独・集団非継承、テナガザルは単雄単雌・集団非継承、ゴリラは単雄複雌・集団承継&非承継、チンパンジーは複雄複雌・集団承継です。

 これらの類人猿はヒトに近い動物としてヒト上科にまとめられ、5種類の類人猿はすべてメスの子が単位集団を出ていく共通点をもっており、非母系でまとめられます。

 霊長類には母系の社会が多いですが、類人猿のように非母系の社会もあり、順位が世代を超えて固定することはなく、個体の関係がより柔軟で多様になる特徴があります。

3. インセスト・タブー,そして外婚        1

 今西錦司は、インセストタブー、外婚、地域社会、労働の性別分業の4つが存在すれば人間家族と呼んでよく、分業を除く3条件はすでに類人猿社会に備わっていたと考えました。

 インセストの回避とは近親相姦の回避であり、どの関係をインセストと見るかは社会により異なりますが、世界中例外なく、最も血縁度の高い関係では回避すべきとされています。

 インセストの回避はヒト以外の動物も、群れで生まれた子が性成熟に達すると、オスまたはメスが集団を出ていくことで、集団の構造としてインセストが回避されています。

 人間の伝統的社会で見られるインセスト・タブーは結果として外婚を導き出し、ヒト以外の動物の単位集団はヒトの外婚集団と類似した機能を果たしました。

4. 重層的社会                  !

4-1 地域社会                       ]

 ヒトの社会は家族の上に何層にもわたる上位集団を重ねたり組み合わせたりしながら、複雑な経済活動や政治を可能にしてきました。

 ヒトの重層的な社会の原型は、ゴリラのような単雄複雌型と、チンパンジーやボノボのような複雄複雌型の2種類のいずれかは、現在のところ決着はついていません。

 ゴリラ型が原型であった場合、初期の人類家族は一夫多妻であり、父親がはっきりしている点でヒトの社会に類似し、家族が複数集まって友好的な関係の地域集団が形成されます。

 チンパンジー・ボノボ型が原型であった場合、オスもメスも複数の乱婚的な単位集団から、特定のオスとメスが安定的な配偶関係を結んだ家族が析出してきました。

4-2 繁殖戦略と社会

 豊かな熱帯雨林は食べ物が豊富にあり、母親が手をかければ子どもが確実に育つので、ヒト科の動物は少数の子どもを手間暇かけて育てる少産多保護をとってきました。

 ヒトは授乳期間が概ね半年〜数年で年子を生むことも可能であり多産多保護の傾向がありますが、ヒトの場合、離乳後の子どもの世話が他の類人猿よりも格段に必要です。

 ヒトが短い出産間隔でたくさん産めるのはオスの育児参加のためとも考えられ、ヒトは進化の早い段階から雌雄の安定した配偶関係を結び、オスが母子を助けたと言われます。

 オスの育児参加は人類進化にとって決定的に重要な事柄ですが、オスは必ずしも遺伝的な父親であるとは限らず、血のつながりはなくても父親の役割を果たす男性が必要でした。

4-3 性と個体関関係

 類人猿は季節的な繁殖期がなく一年中繁殖が可能ですが、メスには性周期があり発情期には普段はしぼんでいる性皮とよぱれる部分があります。

 チンパンジー・ボノボの性皮は大きな果実のように腫れ上がりますが、ゴリラでは性皮の腫脹はほとんど見られません。

 性皮の腫脹があるチンパンジー・ボノボは配偶関係が不安定な乱婚型で、腫脹が見られないゴリラは配偶関係が安定した一夫多妻型です。

 チッパンジーは極端な少産多保護でメスはほとんど発情せずメスの奪い合いによる仲間同士の緊張関係がありますが、ボノボはニセの発情をして仲間同士の緊張関係を解決しています。

 ゴリラは一夫多妻型でメスの性皮はほとんど腫脹せず、リーダーオス中心の群れは一定地域を遊動しますが、排他的なテリトリーをもたずリーダーオスどうしの関係は対等に近いです。

 現在のヒトは性皮が腫脹するなどの発情行動はまったく見られず、人類の女性は進化の過程で性皮の腫脹という特徴を失ったのではなく、もともともっていなかったと推測しています。

 雌雄の体格差と社会のタイプは相関があり、性的二型の大きい動物は一夫多妻型になり、性的二型の小さい動物は一夫一妻型になるか、あるいは乱婚型になる傾向があります。

 初期人類の社会は雌雄はある程度安定した配偶関係をもち、かつ、雌雄が複数いる群れ生活をおくるという重層的な社会だったようです。

5. 分配と性別分業

 初期人類の女性は面倒見のよい男性を配偶者に選び、性関係を強固にして食料供給を安定的にし、男性は自分の遺伝子を受け継ぐ子どもだけに食物を分け与えようとしたと考えられます。

 家族は核家族で夫婦が収穫物の肉と採集物を交換したと想定しがちですが、現代の狩猟採集民では、肉はキャンプやバンドの共同体全体に最終的に行き渡るように分配されています。

 肉と採集物は男性にも女性にも分配の末に行き渡りますが、これは共同体での共有であって男性と女性の一対一の交換ではなく、核家族は独立した経済単位ではありません。

 人間は家族と共同体の二つの集団に所属しますが、人類は共同での子育ての必要性と食の分かち合いの精神によって、家族と共同体の二つの集団の両立を成功させたのです。

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2018年05月12日

藤原秀衡 − 義経を大将軍として国務せしむべし

 ”藤原秀衡 − 義経を大将軍として国務せしむべし”2016年1月 ミネルヴァ書房刊 入間田 宣夫著)は、豊富な財力をもって中央政界とのつながりを強めながら仏教文化の大輪を花開かせた平安時代末期の豪族の藤原秀衡を紹介している。

 藤原三大の栄華と言われ、初代の藤原清衡が中尊寺金色堂で死去したのは、1218年秋の7月16日のことであった。御曹司と呼ばれた次男の基衡が、兄の小館惟常との二子合戦に勝ち抜いて、清衡の後継者としての地位を確立したのはその翌々年のことであった。そのとき、基衡は27歳で、その子の秀衡は9歳であった。清衡によって始められた仏教立国の事業は、二代目の当主たるべき基衡によって継承され、さらなるレベルアップが目指された。そして、治承から文治年間の争乱期には、軍事優先路線への転換を図って、広域軍政府樹立を目指したが、志なかばで斃れた。

 入間田宣夫氏は1942年宮城県涌谷町生まれ、1964年東北大学文学部国史学専攻史学科卒業、1968年東北大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程中退で、同年東北大学文学部助手となった。その後、山形大学助教授、東北大学助教授、東北大学東北アジア研究センター教授などを歴任し、2005年に東北大学名誉教授となった。東北芸術工科大学教授を経て2013年4月に一関市博物館長に就任した。専門は日本中世史で、2004年から2006年まで平泉の文化遺産世界遺産登録推薦書作成委員会委員となり、NHK大河ドラマ”炎立つ”の監修を務めた。

 藤原秀衡は平安末期の1122年に父は藤原基衡、母は安倍宗任の娘で、奥州藤原氏の三代として生まれた。1157年に基衡の死去を受けて家督を相続し、奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となった。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職で、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率した。この頃、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えたが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として、下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。秀衡は、源 頼朝のライバルとして、日本史の表舞台に登場することになった。1180年に頼朝が関東に挙兵したことによって、その背後を脅かす存在として、奥州の秀衡に対する期待が、京都方面で一挙に高まることになった。一躍、時の人になった秀衡であるが、その人となりについては具体的な情報が決定的に不足している。それもあってか、京都方面では、さまざまな人物像がかたちづくられ、流布されることになった。保守的な公家の間には、秀衡を含めて平泉藤原氏歴代の当主を蝦夷の王=野蛮人の王とみなす伝統的なイメージが消えやらず、強固な存在感を保ち続けていた。それに対して、高野山や東大寺など、仏教界においては、秀衡の評判は上々であった。

 秀衡は、武家の名門に生まれ、勢徳希世の人にして信心が厚く、仏教の興隆に尽くした理想的な人物であったとされている。公家側にあっても、後白河法皇の周辺では、それに共通するような人物像がかたちづくられていたらしい。通常一般の人びとの間でも、さまざまな人物像がかたちづくられていたのに違いない。けれども、それらの人物像のいちいちについて、それぞれの背景にまで遡って、具体的に検証するという作業が、きちんと行われてきたのかといえば、かならずしもそうとは言い切れない。ましてや、それらの人物像の相互関係などに踏み込んで考えられてきたとは、とても言い切れない。源 義経の保護者として有名で、治承・寿永内乱の中で、源 頼朝の背後をつくことを期待され、地方豪族としては異例の国守に任ぜられたが、結局、兵をあげなかった。しかし、頼朝追討の請文を提出したのは事実で、平家追討中の木曾義仲に呼応して頼朝を討とうと呼び掛けたともいわれている。平泉に宇治平等院の鳳凰堂を模して無量光院を建て、その東門のところに加羅御所をつくって常の居所とした。またその北に平泉館という宿館を構えていたが、それは奥羽支配の政庁というべきもので、いま柳之御所跡と称している場所がそれである。臨終の床において、源 義経を総大将として、鎌倉殿源頼朝に立ち向かうべきことを息子らに遺言した。しかし、平泉存続のためのこの方策は実らず悲劇の結末に向かうことになった。

 秀衡は、蝦夷の王でもなければ、北方世界の王でもない。そうではなくて、兵とよばれる家から台頭してきた地方豪族の一人だったのである。すなわち、時代の流れに向きあうなかで、さまざまな試行錯誤を経ながら、ないしは路線の転換を余儀なくされるなかで、地域的軍政府樹立のとぼくちまで辿りつくことができた人物だったのである。北方世界に向きあう辺境のなかの辺境ともいうべき地政学的な条件を最大限に生かすことによって、あわせて中央政権との対話と交渉を最大限に生かすことによって、人生を切り開くことができた稀有の人物だった。これまで、学界では、秀衡をもって、始めから、蝦夷の王だったとか、北方世界の王だったとかするような伝統的な志向性がもてはやされてきた。それにともなって、秀衡の政権を、長城の外側に根差した北方異民族の国家たるべき遼や金に、さもなければ渤海や西夏になぞらえるような指摘がくりかえされてきた。これに対し、本書では、日本国の内側における歴史の文脈のなかで、中央と地方のないし首都と農村の対話・交流のなかで、秀衡の人生を見すえる。あわせて、内乱のどさくさのなかで、想定外の事態に向きあうことによって、軍事優先路線への大胆な転換をよぎなくされるという秀衡晩年における決断のありかたについて、石母田史学の基本に則りつつ、それを浮き彫りにする。

序 章 さまざまな人物像/第一章 立ちはだかる大きな壁/第二章 偉大な祖父、清衡の国づくりを振り返って/第三章 平泉三代の御館、秀衡の登場/第四章 秀衡を支える人びと/第五章 都市平泉の全盛期/第六章 鎮守府将軍秀衡の登場/第七章 秀衡の平泉幕府構想/第八章 義経を金看板とする広域軍政府の誕生/第九章 文治五年奥州合戦/終 章 平泉の置きみやげ/引用・参考文献/藤原秀衡略年譜

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2018年05月11日

5月9日〜10日に磯部温泉へ

5月9日〜10日に磯部温泉に行ってきました。

○磯部温泉

 群馬県安中市にある温泉で、温泉記号の発祥の地として知られています。

 碓氷川に架かる愛妻橋・鉱泉橋からは妙義山を展望できます。

碓氷川.jpg

 鉱泉橋近くには足湯があり、愛妻橋のJR磯部駅側に市営の日帰り入浴施設があります。

 明治の児童文学者・巌谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話を書き上げました。

 おとぎ話自体は各地に昔からありますが、巌谷小波の関係で磯部温泉が舌切雀伝説発祥の地とされています。

 竹の春 雀千代ふる お宿かな

磯部旅館.jpg

 名物は磯部せんべいとふわとろ豆腐です。

 磯部せんべいは温泉水を利用し、薄く焼いたせんべいです。

 ふわとろ豆腐は磯部温泉の温泉水を使用した湯豆腐です。

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2018年05月06日

食べ物を作り出す技と場

6 食べ物を作り出す技と場  梅ア 昌裕先生

(目標&ポイント)

 現代農業の特徴は、植え付けや収穫などだけでなく、作物の生長のための物質循環、水の供給、温度管理などにも人間が関与することです。

 それに対して、在来農耕は植え付けや収穫は人間が管理するものの、作物の生長に関わる部分は自然生態系のサービスに依存するという特徴があります。

 本章では、焼畑農耕、水田耕作、サツマイモ耕作などを事例に、在来農耕の特徴を学びます。

1. はじめに

 いかなる農耕においても、栽培化された植物の植え付けや収穫は人間によって管理されるのが原則です。

 一方、植物や動物の成長そのものには、大気の管理、物質循環、水の供給など自然生態系のサービスが大きな役割を果たしています。

 自然生態系のサービスを利用する度合いは農在来農耕ではその度合いが大きく、実践には自然についての広範な知識が必要とされます。

 また、在来農耕は、狩猟採集や家畜飼養、漁掃など、ほかの食料獲得行動と一緒に複合的なシステムを構成していることが多いです。

2. 焼畑農耕

2-1 耕作の手順

 焼畑農耕は、二次林または自然林を伐採し、そこに火入れをすることによって作物を栽培する空間をつくりだす農耕の一つの形態です。

 伐採した樹木や下生えの草本を燃やすことによって肥沃な畑をつくりだし、休耕期間をとることで生態系サービスを利用した地力の回復が可能となる点に特徴があります。

 焼畑とブルドーザでつくった畑を比較すると、陸稲、キャッサバ、大豆を植えた場合、いずれの作物も焼畑の方が生産性が高く、特に3年目の陸稲と大豆の生産性では顕著です。

 樹木や下生えが燃えた灰が肥料になり、整地した場合に比較して、土壌が踏み固められず水分を含みやすく、肥沃な表土が維持されることなどがその理由です。

2-2 焼畑のバリエーション

 一つは根菜型焼畑農耕であり、東南アジアの熱帯降雨林を起源地とし、タロイモ・ヤムイモ・バナナ・サトウキビなどの栄養繁殖をする作物を中心にした耕作が行われます。

 もう一つは雑穀栽培型の焼畑農耕であり、シコクビエ、モロコシ、アワ、キビなどを中心とした種子作物が栽培され、ゴマなどの油脂作物が随伴するという特徴をもっています。

 焼畑にはそれぞれの地域環境に応じて様々なバリエーションがあり、上記二つの類型が混合したような焼畑、根葉型焼畑農耕に陸稲が加わるものなども見られます。

2-3 ほかの生業との複合

 攪乱とは、台風などの自然の力あるいは人間の活動による生態系の構造の変化を指し、効果が大きすぎると生物種やバイオマス(生物量)が減少し、いわゆる環境破壊に繋がります。

 焼畑農耕で自然林や二次林が伐採されることは自然生態系にとっては攬乱ですが、適度な攬乱は生物多様性の維持によい効果をもつことが知られています。

 長い休耕期間を経た二次林には地表に太陽光線がほとんど届かず、地表部ではほとんど植物が成育せず,またそれを餌とする野生動物も少ないです。

 しかし、焼畑のための伐採によって人為的に擾乱されると地表に太陽光線が届き、そこには栽培化植物以外にも様々な植物が生育し、それを餌とする小動物が生息するようになります。

2-4 狩猟・採集の場としての焼畑

 パプアニューギニア低地社会では、焼畑として使った後の二次林が,家畜であるプタの飼養にとって重要な空間になっています。

 そこには、人間が放棄してから自然に育ったイモ類などを見つけることができ野生のブタも現れ、飼養されるメスブタは交配して森の中で子どもを産みます。

 中国の海南島に暮らすりー族は、在来の陸稲、トウモロコシ、タロイモ、ヤムイモ、キャッ
サバ、カボチャなどを混植する焼畑農耕を行っていました。

 リー族にとっての焼畑は、作物の栽培だけでなく、野生動植物の採集・狩猟の場としても機能する複合的な生業の場となっていました。

3. 水田耕作

 水田で耕作されるイネにはジャポニカ品種とインディカ品種があり、前者は長江の中下流域が原産地ですが、インディ力種は現在まで原産地についてははっきりしていません。

 現代的な水利システム導入前の水田耕作は、雨の少ない時期、水は競合資源であり、用水路はそこを流れる水を利用する人の共有財産で、その管理は共同作業で行われました。

 水田は稲を栽培する場であると同時に、漁撈、養殖、採集、そして稲以外の作物の栽培が行われる場であり、漁撈では稲作のパタンにあわせて様々な漁法が存在しました。

 水田は人間が新しく作りだしたニッチであり、水田およびその周辺には様々な野草が生え、一部は食用や薬用に供されたり、飼料として使われることも多かったようです。

4. 在来知のあり方

 ここまで説明してきた焼畑農耕と水田耕作では、それを行う人々のもつ在来知が大きな意味をもっています。

 農耕に関わる在来知はその社会の人々の頭の中にあって人から人へと伝えられ、農耕を行う中で新しい経験が積み重ねられて在来知は上書きされていきます。

 在来知のあり方は、住民によって長い間かわることなく守りつがれてきた民俗知識という、ステレオタイプ化されたイメージとは大きく異なっています。

 たとえば、サッマイモ耕作のための植樹と除草に関わる知識体系の中に、集団でそれなりに共有され、そのまわりに、個人レベルの経験によって新しく生まれ続ける領域が存在します。

5. 農耕の現代化で人類が失ったもの

 一つは、在来知によって行われる農耕は複合的であり、焼畑農耕は狩猟や家畜飼養の空間を創出し、水田耕作は米の生産に加え、魚や小動物、可食野草の採集を可能にしていました。

 現代農業は農作物の生産が最優先で生業の複合性は殆ど失われ、農薬により水田の可食雑草や水田漁携の魚類も大きく減少し,また、漁獲されることもなくなりました。

 二つは、在来農耕にはそれを裏打ちする在来の知識体系が存在し、農耕を実践する人々の個人的な経験の中で生まれ、社会の中でゆるく統合された状態で存在するものでした。

 在来の知識は、書籍などに記録されることのなく人々の頭の中に存在するものですので、在来農耕が消滅すると、それとともに消滅するものです。

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2018年05月05日

拝啓、本が売れません

 ”拝啓、本が売れません”(2018年3月 KKベストセラーズ刊 額賀 澪著)は、平成生まれのゆとり作家が直面した出版不況の現実の中でいかに自分の本を売っていくかについて探ろうとしている。

 書店員、ライトノベル編集者、ブックデザイナー、Webコンサルタント、映像プロデューサーなど、出版業界だけでなくさまざまな業界で活躍するキーパーソンを取材している。額賀 澪氏は1990年茨城県行方市生まれ、私立清真学園高等学校、日本大学芸術学部文芸学科を卒業した。高校時代に第22回全国高等学校文芸コンクール小説部門で優秀賞を受賞、日本大学芸術学部在学中に第24回舟橋聖一顕彰青年文学賞を受賞した。大学卒業後、広告代理店に勤務し、会社員として働くかたわら、2015年に第22回松本清張賞、第16回小学館文庫小説賞を受賞した。2016年末に広告代理店を退社し、現在、作家業のほか、フリーライターとしても活動している。

 書籍や雑誌等、紙の出版物の販売額は、再販制度や委託制度に支えられ、出版業界は1900年代後半まで順調に発展を遂げてきた。しかし、ピークの1996年を過ぎると紙の出版物の売上は減少し続け、特に雑誌の売上の落ち込みは業界の大きな課題となっている。過去5年以上、書籍の市場規模は減少傾向をたどっている一方、出版点数は伸びつづけていて、1点当たりの売上高が急激に減少している。市場の縮小に伴い、出版社や書店の数も年々減少している。本が売れなくなった原因については、さまざまな説がとなえられている。たとえば、若者が携帯に小遣いを使い果たして本を買えなくなったこと、若者の活字離れの傾向、新古書店が増えていること、公共図書館の無料貸し出しなどが挙げられている。しかし、流通経路にも大きな変化が見られる。高度経済成長期までは本は主に町の小さな書店で売られ、本の流通は小さな書店の店頭と御用聞きの二本の柱で支えられていた。高度経済成長で人件費が上昇すると、本の流通は書店の店頭での販売だけに頼るようになり、大規模な書店が増えるようになった。さらに、近年、読書好きが書店に集まるのは当然だとはいえない状況が生まれてきている。書店の規模が大きくなりすぎなかなか本を探し出せなくなり、出版点数が多すぎて店頭での回転が早くなり読みがいのある本もあまり出てこなくなった。また、インターネット書店や電子書籍など、本を取り巻く環境の大きな変化があげられる。インターネット書店は時間と場所を選ばすに商品が購入でき、ライフスタイルの多様化に合わせ年々拡大している。出版物についても、書店やコンビニエンスストアでなく、ネット書店で購入する読者が増えてきた。電子書籍は、21世紀に入り日本での市場は拡大し続けている。

 では、これからどうすべきなのかについては、今後、いろいろな試行錯誤が続いていくと思われる。本書は、そのような試行錯誤の一つであろう。この本が、”面白そうじゃん、買おう”と思った方はどうぞこのままレジへといい、”興味ない、買わない”と思った方はこの本を棚に戻し他の本を手に取ってください、という。そのまま書店を出ていかないでください。本屋さんには、たくさんの面白い本があります。この本はその中のたった一冊です。世界は”面白い本”であふれています、と続く。これは、読書の楽しみ、読書の素晴らしさを思い出して、周囲にそれを伝えていく努力をしていこうというのであろう。登場人物は、平成生まれのゆとり作家・額賀 澪、へっぽこ痛風編集者・ワタナベ氏、作家になりたい額賀の同居人・黒子ちゃんである。ワタナベ氏と、額賀の本をベストセラーにする方法を探して、本を作ることになった。ゆとり世代はお先真っ暗で、老後が不安で死にそうだという。黒子ちゃんはまだ作家デビューはしていないけれど、大手出版社が主催するライトノベルの新人賞で結構いいところまで行ったことがある。二人は都内のワンルームのアパートでルームシェアをして暮らし、六万円の家賃を折半して暮らしている。毎年100人を超える新人が生まれ5年後はほとんどが行方不明という厳しさの中で、二人は日々原稿と戦っている。本書の執筆に関連して取材した相手は、元電撃文庫編集長でストレートエッジ代表取締役社長の三木一馬氏、さわや書店フェザン店・店長の松本大介氏、株式会社ライトアップ・Webコンサルタントの大廣直也氏、カルチュア・エンタテインメント株式会社・映像プロデューサーの浅野由香氏、ブックデザイナーの川谷康久氏である。これらの方々との出会い、本のプロット、執筆、改稿、ゲラ、装幀、本が本屋に並ぶという過程が紹介されている。はたして、本書はどれくらい売れるであろうか。

序章、ゆとり世代の新人作家として/第一章 平成生まれのゆとり作家と、編集者の関係/第二章 とある敏腕編集者と、電車の行き先表示/第三章 スーパー書店員と、勝ち目のある喧嘩/第四章 Webコンサルタントと、ファンの育て方/第五章 映像プロデューサーと、野望へのボーダーライン/第六章 「恋するブックカバーのつくり手」と、楽しい仕事/終章、平成生まれのゆとり作家の行き着く先/巻末特別付録 小説『風に恋う』(仮)

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2018年04月30日

家畜とともに暮らす

5 家畜とともに暮らす 高倉 浩樹先生

(目標&ポイント)

 家畜群とともに移動する遊牧民の生活に象徴されるような牧畜社会について理解を深めるのが目的です。

 約1万年前に始まる栽培化と飼育化は、社会が植物・動物の再生産に関与・管理する働きかけであり、国家と文明の起源に寄与するといわれています。

 農業開始後に現れた飼育化(家畜化)によって、農耕・狩猟採集・漁撈を補完させた牧畜社会という独自の仕組みを人類は編み出しました。

 人類史からは三タイプの牧畜社会が存在し、これを解説しながら環境への文化的適応の可能性について考えます。

1. 遊牧の風景

 モンゴルの樹木や建物がまったくない広大な草原が広がる大地に、ウシやヒツジ、ウマなどが群をなし、人々はそれらの家畜をともないながら生活しています。

 この章では、家畜群をともなって移動しながら暮らす牧畜社会の特徴について、どのような起源で始まり、人類の歴史にとっての意味などを考えてみます。

2. 牧畜社会の特徴

2-1 ドメスティケーションと社会

 多くの牧畜社会が存在しているのは、乾燥地帯や寒冷地帯、さらに高地などの厳しい生態環境であり、その多くは農耕、狩猟、採集が難しい場合です。

 人類は家畜群をともなうことで、ヒトが食料として利用できない草などの植物を家畜か摂取し、家畜という動物を通してヒトがエネルギーを摂取し生存することができました。

 栽培化あるいは飼育化・家畜化=ドメスティケーションによって、ヒトと動植物の関係は変わりましたが、必ずしも栽培化=農耕社会、飼育化=牧畜社会ではありません。

 動物の場合、イヌは13000〜8000年前にアジアやアメリカの各地で地域独自に飼育化され、家畜プタは東アジアが起源のようで、おおよそ6000年前に遡るらしい。

2-2 牧畜的家畜

 ヒツジやヤギ、ウシ、ウマ、ラクダ、トナカイ、リャマ、アルパカなどの有蹄類で群居性の牧畜的家畜は、囲いや柵などなくてもヒトとともに移動します。

 野生段階では動物はホームレンジ=独自の生息域をもちますが、牧畜社会では去勢によりヒトが好ましい種オスを選び出し、家畜群と人はホームレンジを共有します。

 家畜のみでの自給自足は難しく、ほとんどの場合、周囲の農耕民や狩猟採集民と交易したり、自身で補足的に農耕や狩猟・漁搭・採集をしたりするのが特徴です。

 牧畜社会は、乾燥地牧畜、寒冷地牧畜、高地牧畜と大きく三つに分けることができ、乾燥地はアジア、地中海、アフリカ、寒冷地はユーラシア、高地は南米などに存在します。

3. 乾燥地牧畜

3-1 西アジアにおける起源

 牧畜社会が最初に成立したのは乾燥地であり、最初の飼育化はヤギで紀元前7000年頃イランで、ヒツジは少し離れた地城で数100年遅れて、その後、ウシも飼育化されました。

 飼育化の起源地は、植物栽培の起源地の紀元前9000〜8300年前の西アジア・レヴァント回廊からかなり西の場所で発生し、双方の起源地は必ずしも一致していません。

 当初の家畜は農耕社会の生産手段で、牧畜社会はまだ後のことであり、特に搾乳はさらに時代がさがり、紀元前6000年紀後半になって初めて行われるようになりました。

 最初の飼育化が行われてから1000年以上は肉確保のためでしたが、乳利用以降は家畜を殺さずに食料を確保できるようになり、遊牧生活による家畜飼養の意味は大きく変わりました。

3-2 乳製品の意味と生態的意義

 乳は栄養学的に完全食に近くヒトは乳さえあれば生存可能ですが、西アジアで乾燥地牧畜社会が確立された頃は、現代のように年中牛乳を生産することはできませんでした。

 ヒツジやヤギは主に1−2月に出産し、1月中旬位から授乳と平行して搾乳が行われ、約1ヵ月後に草も生えて搾乳量も増え、6月下旬が最も多く9月下旬まで続きました。

 搾乳できない期間に備えるため、牧畜民はこの間に乳を長期間保存できるような食品に加工して、ヨーグルトなど簡単な乳製品を作りました。

 これを元にしてバターやチーズなどがさらに加工され、搾乳ができなくなった季節も保存食として利用されました。

3-3 ミルクの分解酵素と進化

 乳製品を食料として獲得できたのは、人類史における画期的な文化技術の開発でしたが、哺乳類は成人になるにつれ、乳糖を分解するラクターゼ酵素が発現しなくなります。

 それは哺乳類の自然淘汰による生物進化の結果であり、乳製品の中でもチーズなどの加工品は乳糖が減少していて消化しやすくなっています。

 搾乳が始まったのは紀元前6000年紀後半以降であり、搾乳は乾燥地型の牧畜社会を可能にし、また、ヨーロッパや中東の定住農耕民のエネルギー摂取においても重要でした。

 我々が日常食べているチーズやバターは、西アジアの牧畜社会の出現を可能にし、乳加工製品は家畜の季節的リズムを前提とした保存食として発達しました。

4. 多様な牧畜社会

4-1 交易と遊牧国家

 牧畜社会は牧畜生産だけで食べていくことは難しく、乳加工製品が隣接する農耕民と交易され穀類と交換されて入手されるのが一般的でした。

 農耕社会も農耕の生産物の穀類や野菜・果物だけに依存することは珍しく、農耕社会の住民も肉や魚は、狩猟や漁掃、家畜飼育を自集団内や他集団と分業して得ています。

 季節移動を行う遊牧の場合、社会内部での分業は難しく、交易・戦争などによって生産物を入手するか、内部で農耕・狩猟・漁持・採集を組み合わせることが行われてきました。

 たとえば、中国の漢族と北方民族との対立は農耕社会と牧畜社会の対立であり、モンゴルや中央アジアの牧畜社会は、農耕社会との歴史的関係の中で巨大な遊牧国家をつくりました。

4-2 寒冷地牧畜

 乳利用を行わない寒冷地牧畜と高地牧畜も多様な社会をつくっていて、ヨーロッパ北部からシベリアにかけて見られるのはトナカイ牧畜社会です。

 当初は運搬利用の50〜100頭の小規模家畜群でしたが、19世紀になるとシベリアのツンドラ地帯で1000〜2000頭に拡大し、食料の多くを家畜トナカイに依存するようになりました。

 興味深いのはタイガのトナカイ牧畜民はトナカイから搾乳を行うことで、量は限られ加工食品にすることはなく、自家消費として用いるだけでした。

 20世紀末のソ連崩壊期に国営農場システムが崩壊する中でシベリア先住民の中には、定住村から離れトナカイの群を追いながらの遊牧生活に戻る人々が出現しました。

4-3 高地牧畜

 南アメリカの高地牧畜ではモルモット、アルパカ、リャマなどが6000年前に飼育化され、スペイン人の到来以降、ウマ、ヒツジ、ウシなども飼われるようになりました。

 3400〜3800mでは牧畜に加えてトウモロコシや豆類などが栽培され、それ以上ではジャガイモだけが栽培され、さらに4100m以上になると農耕は不可能で牧畜だけが行われました。

 リャマやアルパカの乳は量が少なく乳製品としては利用できず、寒冷地牧畜のように肉畜ではないため、輸送力と毛皮の経済的家畜でした。

 低地に暮らす農民との交易活動による専業牧畜社会であり、高地という地域生態系の組み合わせによって支えられ、低地社会との経済関係によって成り立っていました。

5. 共生的牧畜

 ヒトは万物の霊長として知られていますが、すべての植物や動物を栽培化・飼育化できたわけではありません。

 栽培化できた植物の数は何百何千種もありますが、ヒトの食料生産に直結する穀類は15種類ほどで、中でもトウモロコシ、イネ、コムギが栽培面積、生産面で他を圧倒しています。

 動物になると飼育化できたのはわずか14種しかおらず、このうち群を作る動物として牧畜社会をつくりだすのに貢献したものは9種しかいません。

 家畜としてのある生物集団が世代を超えて存続するには動物側にもメリットが必要で、生態学的にはヒトと家畜の共生関係が必要です。

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2018年04月28日

横山大観−近代と対峙した日本画の巨人

 ”横山大観−近代と対峙した日本画の巨人”(2018年3月 中央公論新社刊 古田 亮著)は、日本美術院の創立に参加し日本画の近代化に大きな足跡を残した横山大観の生涯を多くのカラー図版とともに紹介している。

 今年の4月13日から7月22日にかけて、東京と京都の近代的美術館で生誕150年横山大観展が開催される。40メートル超で日本一長い画巻《生々流転》(重要文化財)や《夜桜》《紅葉》をはじめとする代表作に、数々の新出作品や習作などの資料をあわせて展示されるようである。大観を語ること、それは近代日本画を語ることであり、日本の近代そのものを語ることであるという。大観は明治日本が推し進めた近代化や、日清・日露戦争の勝利、太平洋戦争への邁進と敗北を目の当たりにした。天心没後は再興日本美術院を主宰し、朦朧体とよばれる画風を試みるなど、日本画の近代化に大きな足跡を残した。また、水墨画でも新境地を開拓した。

 古田 亮氏は1964年東京都生まれ、1989年東京芸大美術学部美術学科卒、1993年同大学院博士課程中退、東京国立博物館美術課絵画室研究員、1998年東京国立近代美術館勤務、2001年同主任研究官となり、2006年から東京藝大大学美術館助教授、2007年から准教授を務めている。美術史学者で、専門は近代日本美術史である。

 横山大観は1868年に水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。府立一中、私立東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学んだ。1888年に母方の縁戚である横山家の養子となった。東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受けた。1889年に東京美術学校に第1期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らに学んだ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。美術学校卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。この頃より。雅号として大観を使い始めるようになった。1896年に母校・東京美術学校の助教授に就任したが、2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり天心が失脚した。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表した。しかし、保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始め、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受けた。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。

 1907年に文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任した。また、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を1913年にに再興した。以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年に朝日文化賞を受賞、1935年に帝国美術院会員となった。1937年に第1回文化勲章を受章し、帝国芸術院会員となった。同時代を生き、そして若くして亡くなった菱田春草、今村紫紅、速水御舟が、どちらかといえば天才と呼ばれるのと対照的である。大観は、20代でデビューした後、30代は春草とともにはじめた無線描法か膠朧体との非難を浴びた。華やかな活躍は40代からである。50代になると新聞雑誌等では実際に巨匠と呼ばれるようになり、多くの話題作、力作を発表した。戦争中は彩管報国を実践し、太平洋戦争を生き抜いたが、戦後は戦争責任を問う声も上がった。大観という画家はそうした様々な評価の変遷を経験している。波乱万丈というにふさわしい人生だが、毀誉褒貶が相半ばする評価のなかで、生前から国民画家としての揺るぎない地位も築いていた。大観の人気は、歿後60年を迎え、歴史上の画家となっても衰えを知らない。

 回顧展が開かれる度に驚異的な観客数を集める、数少ない近代画家のひとりである。その意味で、巨匠大観は今日もっとも信用されている画家のひとりと言うべきかもしれない。大観作品の魅力のひとつは、強い意志と信念とをもって日本人の心を表現しようとした、その気魄とでもいうべきものだろうか。伝えたい何かかある絵は、かならず人々の目に触れる機会を待つものである。ただし、大観の絵はかならずしもすべての人々の心を虜にするわけではない。むしろ、アンチ大観の感情を招いてきたことも事実である。性急な西洋化と帝国主義、そして敗戦後の民主主義への転換という、近代日本の歩みそのものに存する矛盾が、時代とともに生きたひとりの人間に、そして大観作品に、そのまま映し出されている。ひとりの画家が成したことの意味を問うことは難しい。本書の場合、近代日本で日本画という新たな伝統を背負って生きた画家に対して、体制、社会、経済、思想といったことについての時代ごとの変化にも配慮しつつ、やや離れたところから大観像を結ぼうと試みたという。画家の成した仕事はその作品とその表現がすべてである。本書はカラー版として企画され、多くの作品を掲載することかできたため、図版頁だけを追えば、大観の作品史が眼で理解できるようになっている。

第1章 誕生−明治前半期/第2章 苦闘−明治後半期/第3章 躍動−大正期/第4章 大成−昭和初期/第5章 不偏−戦後・歿後

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2018年04月23日

食べものをとる

4 食べものをとる 今村 薫先生

(目標&ポイント)

 人類社会の基礎は長期間にわたる狩猟採集時代に築かれました。

 化石人類の発見と古環境の復元、および考古学的な文化の証拠から人類の進化と食物獲得行

動について議論します。

 さらに、現代に生きる狩猟採集民の生活から自然利用、分配行動、平等主義的な社会を解説

します。

1. 初期人類の生活

 生物すべてを客観的に分類して、それぞれにつけた名前のことを学名といい、ヒトにはホモ

・サピエンスという学名がつけられています。

 ホモ・サピエンスは、約20万年前に地球上に登場し、遺伝的、身体的な基本設計は現在の現

代人に至るまで変わっていません。

 人類と類人猿の形態上の違いは、大きく分けて直立二足歩行と大きな脳の二つで、この二つ

が出現する時期はずれいました。

1-1 直立二足歩行のきっかけ

(1) サバンナ説

 1960年代後半から1970年代にかけて発見され、当時としては最古の人類と考えられていた数

種類のアウストラロピテクスの生息環境は乾燥地のサバンナだと考えられました。

 森林に残り続けたものが、ゴリラ、チンパンジー、ボノボといったアフリカの類人猿になり

、樹から降りて森林からサバンナヘ進出したものが人類の祖先になったという説です。

(2) エネルギー効率論

 地上をゆっくりと移動するには、ヒトの二足歩行がチンパンジーの四足歩行より4倍もエネル

ギー効率がよく、ヒトの祖先は地上で二足歩行するようになったとする仮説です。

(3) 果実食仮説

 1990年代以降、サヘラントロプスやアルディピテクスなどの化石が発見され、初期人類は熱

帯雨林とサバンナが入り混じった環境で、二足歩行していたと想像されるようになりました。

 二足歩行のきっかけは、樹上で立ち上がって両手で果実を容易にかき集めるためであると主

張する研究者もいます。

(4) オスの育児参加説

 アメリカの形質人類学者ラプジェイが1980年代に発表した仮説で、初期人類のオスが特定の

メスとその子どもに食物を手で運ぶことによって二足歩行が進化したという仮説です。

1-2 二足歩行後の進化を推進したもの

 現在のところ、最初の人類が二本足で歩き始めた理由は明らかではありません。

 最初の人類が直立二足歩行を行うようになってから脳が発達するまで、どのようにして食料

を調達し、何を主に食べていたかについて以下の仮説があります。

(1) 狩猟仮説

 石器を使って狩猟したことが人類進化を推進したという狩猟仮説は、1950〜60年代にかけて

提唱された理論です。

 サバンナは植物性の食物が乏しく、代わりに草食動物の肉を求めて狩りを行うようになり、

棒や石を常に持ち歩くことで、二足歩行がより上手になりました。

 また、枝や石をそのまま道具として使ったり加工して道具を製作することで手先が器用にな

り、脳が発達しました。

(2) 死肉拾い仮説

 遺跡から発見された石器で最古のものは約250万年前のもので、狩猟仮説に対して現在では批

判や修正が加えられています。

 人類は最初から狩猟ができたわけではなく猿人、あるいはホモ・ハピリスくらいまでは、肉

食獣が倒した獲物を拾って肉を得たほうが多かったのではないでしょうか。

 ホモ属の常習的狩猟は180万年前に出現したホモ・エレクトス以降といわれ、石器も解体用で

なく狩猟具の槍が使われたのは、さらに時代が下った50万年前からです。

(3) 採集仮説と掘棒の重要性

 現在の類人猿の食物を見ると食物全体に占める肉の割合は3%程度であり、これまでの仮説は

肉食を重要視しすぎています。

 ランガム&ピーターソン1998、リーバーマン2015らは、ヒトが多量の地下の資源の存在に気

づいたとき、掘棒という重要な道具が発見されたと主張しています。

 掘棒は長さ80cm太さ3cmほどの真っすぐな枝の片方をとがらせた簡単な道具で、用途は多種多

様で手の延長として使われるだけでなく、武器や狩猟道具としても使われました。

 正確な起源は不明ですが、人類史上、猿人などの早い段階から行われたと推測され、掘棒や

運搬具の製作と使用は、その後の石器製作や使用につながる素地をつくりました。

(4) 初期人類からホモ属までの食生活

 700万年前の最初の人類は果物が食物の中心で、400万年前のアウストラロピテクスは豆やイ

モなどの植物性食物をメニューに取り入れて食べていました。

 250万年前までに植物食以外に死肉拾いによって肉を食べるようになりましたが、まだ本格的

な狩猟は始まっておらず、石器は骨を割ったり肉を削り取るために使われました。

 180万年前にはホモ・エレクトスが出現し脳容量も急激に増大し、この時代になって初めてヒ

トは常習的に狩猟を行うようになりました。

 ホモ・エレクトスになって身体も一回り大きくなり、直立二足歩行が完成し、食性も根茎や

豆、果実、葉などの植物食中心から次第に肉食にも傾斜するようになっていきました。

2. 現代の狩猟採集民

 ホモ・エレクトスの出現以降、20万年前にホモ・サピエンスが誕生し、それから約1万年前

に農耕・牧畜が始まるまで、人類は延々と狩猟採集生活を送っていました。

 二重分節言語、インセスト・タブー、親族組織およびこれの上に形成される集団間の連帯な

どの人類に固有の文化的特徴は、長い狩猟採集生活を通じて築かれたものです。

 現代の狩猟採集民が野生動植物の直接的利用に依存しており、その生活の中には、過去の人

類の生活と共通する部分があることも確かです。

2-1 狩猟探集民サンの社会

 サンは、南部アフリカのボツワナ、ナミビア、南アフリカに広がるカラハリ砂漠に住む狩猟

採集民で、ブッシュマンといわれることもあります。

 サンには10以上の言語集団が含まれますが、ここで紹介するのは、この言語集団のうちの
一つであるボツワナに住むセントラル・カラハリ・サンです。

 1970年代終わりまでは伝統的な遊動生活を送っていましたが、その後、生活の定住化が進み

、現在では病院や学校の整った集落に定住し伝統文化や生活は大きく変化しています。

(1) 遊動生活とキャンプのメンバー

 サンは水資源と植物にあわせて頻繁に移動し、狩猟採集民の居住集団は一般に「バンド」と

いわれますが、サンの居住集団は不安定で流動的でキャンプとよばれます。

 サンは出自を父方にも母方にも等しくたどりうる双系で、血縁がなくても気のあう友人どう

しが同じキャンプに住むこともありました。

 夫婦と未婚の子どもたちからなる核家族ごとに小屋を建て、キャンプの中心に向かって入口

を開けて暮らしました。

 キャンプのメンバーは流動的でいつでも分裂したり合流したりしましたが、平均して約5家族

(20〜30人)程度が同じキャンプで行動をともにしました。

(2) 「父系・父方居住バンド」モデルとその問題点

 1930年代のアボリジニ研究で提唱された父系・父方居住バンドは、狩猟採集民バンドは父系

集団で構成され、結婚した夫婦は夫の両親と同じバンドに住む父方居住が標準といいます。

 チンパンジーの同じ集団のオス同士は親密で強固な絆を形成しますが、他集団のオスとは激

しい闘争を繰り広げます。

 しかし、ゴリラやボノボなどの生態と行動の研究により、チンパンジーに見られるオスの絆

や暴力性は、他の類人猿に当てはまると限らないと指摘されるようになりました。

 また、ヒトの狩猟採集民社会について、現在では多くの研究者が、狩猟採集民はより柔軟で

双系的な居住を示すと主張しています。

2-2 サンの食料獲得

 サンの伝統的な生業は狩猟採集で、食用にする植物は80種以上、動物は40種を超えるが、こ

れらは食料としてだけでなく水源としても重要です。

 野生スイカから得た水、ウリ科の根茎から搾り取った水分、また、動物の胃液さえ重要な水

源です。

(1) 狩猟

 キリン、エランド、ゲムズポック、クーズー、ハーテビーストなどの大型哺乳類は、昔は弓

矢で捕まえていました。

 弓矢猟は1970年以降、槍猟に取って代わられましたが、槍は数メートルしか投げられないの

で、槍猟には犬や馬といった家畜動物が必要です。

 イシカモシカ、ヤプダイカーなどの中型哺乳類は罠で捕まえ、その他、トビウサギに特化し

た猟法、夜行性で就巣性の動物を対象にした猟法など、様々な狩猟の方法があります。

 動物の習性を知り、足跡や糞、草の倒れ方などから、動物の行動を読み解き、風の匂い、空

の色から天候を予測し、この複合的な知識によって獲物の発見や追跡が可能です。

(2) 採集

 採集物は季節によって異なりますが、一年を通して採集できるのは植物の根茎であり、ウリ

科の根茎を中心に、10種くらいの植物の根を利用しています。

 12月に入って雨が降り出すとユリ科の葉、次いで果実を採集し、2月ごろから野生のメロンを

収穫し、4月5月は実りの季節で毎日大量の豆やキノコを採集します。

 また、イモムシなどの昆虫、陸ガメ、ダチョウの卵などの動物性食物も採集します。

 男女とも狩猟も採集も行い、臨機応変に自然の動植物を利用し、男女問わず、全面的に自然

から食物を引き出します。

2-3 食物分配

 サンは、狩猟で得た肉をキャンプのメンバー全員に徹底的に分配し、食物分配は生活全般を

集団のメンバーと共有していることの一部で、共有は社会の核として機能しています。

 肉は生肉のままあるいは干し肉で狩猟に参加した人々で第一次分配が行われ、一次分配を受

けた人は第二次の分配を、その後、さらに親しい友人などへ第三次分配が行われます。

 このような分配は、一対一の関係よりも、場の全体性を重視して肉がキャンプ全体に行き渡

るように分けられますので,全員への分かち合いと表現したほうがふさわしい。

2-4 平等主義社会

 サンの社会は経済的に社会的に政治的に平等主義を志向し、貧富の差がほとんどなく社会的

分業が見られず、政治組織が未発達で首長などの政治的なリーダーがいない。

 サンは頻繁に移動を繰り返すので家財道具などの持ち物は最小限にとどめ、狩猟で得た肉を

徹底的に分配し貧富の差はなくなります。

 しかし、この分配によって物質的には平等になりますが、受け手は与え手に対して心理的な

負い目を抱き、結果的に与え手のほうが優位な立場になってしまいます。

 サンの人々は気前よく肉を他人に与えますが、生まれつきのお人好しなのではなく、サンの

社会は不平等の淵をのぞき込みながら、かろうじて踏みとどまっている社会なのです。

3. 狩猟採集民の多様性

 1万年前に農耕・牧畜が始まるまでは人類の生活基盤は狩猟と採集だけで、今日まで伝統的な
生活を残している狩猟採集民は世界中で30程度を数えるにすぎません。

 今日の狩猟採集民はその民族のアイデンティティを保っていたとしても、実際の生活は産業

社会に生きる現代人として貨幣経済に取り込まれて生活している人がほとんどです。

 現代の狩猟採集民は極地、ツンドラ地帯、タイガ地帯、落葉樹林帯、大草原、大盆地、熱帯

降雨林、サバンナ、半砂漠など、きわめて多様な環境に暮らしています。

 歴史時代も含めると狩猟採集社会は多様であり、平等主義的な社会から奴隷を組み込んだ階

層社会までをカバーする、広大なスペクトルをなしてきました。

4. 食物の社会道具化

 動物一般は独立生計であり、子ども、老齢、病気や怪我をした個体であっても、他の個体か

ら食物をもらうことはけっしてありません。

 動物の消費は手から口へで消費の遅滞は起こりませんが、類人猿には消費の遅滞=食物分配

が萌芽的に見られます。

 しかし、類人猿の分与からヒトが行う分配へと至るにはさらに大きな飛躍が必要で、所有と

いう抽象概念が存在しなければなりません。

 なぜ人は分配するのかという問いを突き詰めていけば、いわば他の規則に先立つもっとも根

源的な規則であることに行きつきます。

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2018年04月21日

チェコの十二ヵ月−おとぎの国に暮らす

 ”チェコの十二ヵ月−おとぎの国に暮らす”(2017年12月 理論社刊 出久根 育著)は、プラハに移り住んだ絵本画家によるチェコでの日々を綴るエッセイ画集である。

 プラハはチェコ共和国の首都であり、東経14度45分に位置する同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市であり、人口は約120万人である。市内中心部をヴルタヴァ川が流れ、古い町並み・建物が数多く現存し、毎年海外から多くの観光客が訪れる。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もある。独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備え、世界で最も美しい都市の一つである。

 出久根 育氏は1969年東京生まれ、武蔵野美術大学造形学部を卒業し、1998年にボローニャ国際絵本原画展で入選し、1999年にドイツのグリム兄弟博物館ギャラリーにおいて、グリム童話をテーマとする作品を展示・出品した。2002年よりチェコのプラハに在住している。2003年に第19回ブラチスラヴァ国際絵本原画展でグランプリを受賞し、2006年に第11回日本絵本賞大賞を受賞した。挿絵は細部まで緻密に描かれ、登場人物や動物が背後の暗がりから抜き出てくるような質感で描かれている。

 チェコスロバキアは、1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家である。現在のチェコ共和国とスロバキア共和国により構成されていた。建国当初には現在のウクライナの一部のカルパティア・ルテニアも領域に加えられ、首都は現在のチェコ首都であるプラハ、国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年から1989年まで国名はチェコスロバキア社会主義共和国であった。現在のチェコ共和国、通称チェコは、中央ヨーロッパの共和制国家で、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離して成立した。歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきたが、ヨーロッパ共産圏が全滅した時点で再び中欧または中東欧に分類されている。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接している。チェコに移り住む前、チェコといえば、カフカの迷宮のような不可思議な街を思い描いていた、という。ドイツからプラハヘ向かう列車の窓に映る風景は、次第に古びた灰色の街へと移行していった。初めて訪れたプラハは、それまで行った西欧のどの街とも違う、重々しい空気をただよわせていた。新参者の観光客には、店の店員はにこりともせず、まるで愛想が無く、外国人には不親切で意地悪な国という印象を持った。

 けれども縁あってその数年後にプラハで暮らすことになり、現地へ飛び込んでから初めてチェコ語に触れ、最初は若い学生たちに混ざってチェコ語を習った。ドラムに乗って街を散策し、知らない路地をうろうろと歩き回り、週末などには遠方へ足を延ばし、街路樹の林檎やプラムをもいでかじり、知らない土地の人の親切を受けたり、思いがけない出来事にも出遭った。チェコに移り住むことになったのは、突然の決断であった。当時は、まさにこれから取りかかろうという仕事が目の前にあったが、その頃にはパソコンは普及していたから、深く考えもせず、日本を離れて飛んで来てしまったという。メールで仕事のやりとりをしながら、追伸に、近況報告がてらチェコでの身近な出来事を書いていた。それを読んでいた編集者から、毎月きちんと書いてみたらと勧められ、それから、理論社のホームページに”プラハお散歩便り”として連載をすることになった。書き始めてみると、書くために見る、見ると書きたくなる、という具合に、チェコ生活に欠かせない連載ページとなった。無理のないペースで書いてきたため、ときどきお休みしてしまう月もあったが、実に11年にわたって書いてきた。これからも書き続けていきたいという。

 チェコのカレンダーでは、1月5日は三人の王様の日といって、キリストの誕生を祝いに東方から三人の王様がそれぞれ贈り物を持ってやって来た日である。2月は復活祭の46日前までの3日間は謝肉祭で、キリスト教による四旬節の期間に入る前に行われる。3月は四旬節の最後の日曜日に死を追い出す。冬に別れを告げて春を迎える。3月末か4月は春分の日の後の満月の日のすぐ後の日曜日が復活祭で、キリストの復活を祝う。4月30日は魔女焼きの日で、古くからの異教の習慣として残る春を祝い魔女の人形を焼いて厄を祓う。5月1日は五月祭が行われ、若い青年たちが春の象徴である大きな樅の木のマイカ=五月柱を引いて村中を歩き村にその柱を立てる。5月12日〜6月3日はプラハ市内各地でわが祖国で知られるチェコの作曲家スメタナの命日で、プラハの春音楽祭が行われる。7月5日はキュリロスとメトディオスの日で、東ローマ帝国の修道僧が大モラビア帝国に到着しスラヴ語によるキリスト教の布教・普及を始めたことを記念する。7月6日はヤン・フス焚刑の日で、1415年に宗教改革者でチェロの英雄のフスが処刑された日である。9月28日は聖ヴァーツラフの日で、10世紀半ばチェロの守護聖人とされた聖ヴァーツラフ一世=ボヘミア公の命日である。10月28日は1918年のチェコスロバキア独立を記念する独立記念日である。11月2日は死者の日で、死者の魂のために祈りを捧げ墓地に花を飾り蝋燭の火を灯す。11月11日は聖マルチンが白い馬に乗って雪とともにやって来ると言われる日である。冬の到来のシンボルで収穫を祝いガチョウの丸焼きを食べる風習がある。11月17日は自由と民主主義への闘争記念日で、1989年のビロード革命の記念日である。12月6日は4世紀頃の小アジア(トルコ)の司教だった聖ミクラーシュ(ニコラウス)=サンタクロースのモデルの命日である。12月24日はクリスマスイヴである。12月25日は降誕祭(クリスマス)である。

春の風景/火と水と風と土と/ヴェリコノッツェ(復活祭)/ぱにぽうとの魔女/銀河鉄道のネトリツェ/ト イェ シュコダ(ああ、残念)/本当のプルーン/秋の一日−プラハの魔法−/チ47ェルベナー・ジェパの魔法/プラハの秋−ビロード革命の記念日に−/聖ミクラーシユの日/いちごぱたけのちいさなおばあさん/クルコノシェ山地から/シュチェドリーデン(クリスマスイヴ)/マソプスト(謝肉祭)/ザビヤチカ(豚を屠る)/雪景色

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2018年04月14日

幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎

 ”幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎”2017年6月 洋泉社刊 中村 彰彦著)は、徳川脱藩と称し鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いを駆け抜け華麗なる転身をした遊撃隊隊長・人見勝太郎の生涯を紹介している。

 人見勝太郎は幕臣であったが、後年は、官僚、政治家、実業家に転じ成功を収めた。1843年に京都で生まれ、剣術砲術や儒学を学び、のち徳川義軍遊撃隊に加わり遊撃隊長にもなった。明治元年=1868年に榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国政府が成立したとき、松前奉行を務めた。1876年に七等判事として司法省に出仕し、間もなく内務省に転じた。1880年に茨城県令に任じられ、5年4カ月にわたりその地位にあって腕をふるった。退官後も、利根運河会社社長、台湾樟脳会社設立発起人などを歴任した。

 中村彰彦氏は1949年栃木市生まれ、宇都宮高等学校、東北大学文学部国文科を卒業した。在学中に第34回文學界新人賞佳作に入選し、卒業後の1973年から1991年まで文藝春秋に編集者として勤務した。同社の雑誌編集部および文藝出版部次長を歴任し、1987年に第10回エンタテインメント小説大賞を受賞し、1991年より執筆活動に専念してきた。1993年に第1回中山義秀文学賞、1994年に第111回(1994年上半期)直木賞、2005年に第24回新田次郎文学賞を受賞した。歴史小説・時代小説を中心に執筆し、日本文藝家協会評議員、憂国忌代表世話人、会津史学会会員、会津親善大使、伊那市ふるさと大使を兼ねている。

 人見勝太郎は徳川脱藩と称して、旧幕府脱走軍を統率した。徳川脱藩という言葉は、旧幕府、あるいは駿府藩となってからの徳川家を去った者、という意味合いで使用されている。14代将軍徳川家茂が1866年に病死し徳川慶喜が15代将軍に就任したが、翌年に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し勅許を受けた。この時点で江戸幕府は消滅したが、江戸城、二条城、京都守護職、京都所司代、その他の機構はなお存続していたため、幕府という言葉に代わって旧幕府という表現が使われ出した。その後、王政復古を布告済みの新政府は徳川一門の徳川家達に宗家を家督相続させることを確認し、家達に駿河府中城改め駿府城と駿河一円、遠江、陸奥のうちに70万石の土地を与えると決定した。以後、旧幕府の旗本・御家人たちは駿府藩徳川家の家中の者となり、駿府城は1871年の廃藩置県まで存続した。

 人見勝太郎は、1843年に二条城詰め鉄砲奉行組同心で、御家人10石3人扶持の人見勝之丞の長男として京都に生まれた。1867年に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたった。鳥羽・伏見の戦いにおいて、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張した。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡った。箱館戦争において、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり、五稜郭に向かうが峠下で新政府軍と遭遇し、峠下の戦いに参加した。旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任した。1869年の箱館総攻撃に際して、七重浜に出陣し、辞世の漢詩を揮毫した旗を翻し戦った。そのとき負傷して箱館病院に入院し、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩に預けられた。1870年に釈放され、5ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊した。

 維新後は、1871年に静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任した。1876年に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。1877年に群馬県官営工場所長、1879年に茨城県大書記官、翌年、茨城県令を務めた。その後実業界に転じ、1887年に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立し、初代社長に就任した。また、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与した。1897年から旧幕府主催の史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残し、1922年に享年80歳で死去した。人見勝太郎関係資料はかなり少ないが、”人見寧履歴書”と題する回想録を残した。人見は、維新後、寧=やすしと名乗った。かつて著者は、”KENZAN”という小説誌の第14号と第15号に、”幕臣人見寧の生涯”という歴史ノンフィクションを連載した。同誌は第15号で休刊となったため執筆を中断していたが、このところ時間ができたので加筆に取りかかったという。本書は、回想録やほかの史料を参看しながら、幕末維新の荒波を浴びつつ生きた、一代の風雲児の足跡をたどっている。

第1章 幕府の遊撃隊に参加して/第2章 敗退/第3章 転進/第4章 脱藩大名との出会い/第5章 箱根戊辰戦争/第6章 奥州転戦の足取り/第7章 「蝦夷島政府」の誕生/第8章 「好し五稜郭下の苔と作らん」/第9章 戊辰の敗者の彷徨/第10章 辣腕の茨城県令

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2018年04月09日

からだの進化

3 からだの進化 梅ア 昌裕先生

(目欄&ポイント)

 人類はホモ・サピエンスという一つの生物種で、およそ20万年前にアフリカ大陸で進化したと考えられています。

 その後、一部のグループはアフリカ大陸を離れ、地球の全域に拡散していきました。

 その中で、自分たちが進化したアフリカ大陸とは異なる環境条件への適応を迫られました。

 ここでは、ホモ・サピエンスが暑さや寒さなどの環境条件に対処するメカニズムと、様々な環境への適応が人類集団の生物的な多様性につながっていくメカニズムについて学びます。

1. なぜ人間のみかけは多様なのか

 地球上に暮らす人間は、全員がホモ・サピエンスという同じ種の生物でありながら、顔かたち・体つきがこれほどまでに多様になったのはなぜなのでしょうか。

 生態学的特徴の一つめは、ほとんどの哺乳類は固有の生息地域をもっているのに対し、人類は地球上のあらゆる場所に暮らしているということです。

 二つめは何でも食べることであり、この雑食性は、結果的に、人類が地球上の様々な自然環境で生きることのできる基本的な条件となっています。

 多様な顔かたち・体つきの人類が、地球上のあらゆるところに存在し、それぞれの地域で生産される植物や動物を食べながら生存しています。

2. ホモ・サピエンスの進化と出アフリカ

 最初の人類である猿人から私たち現生人類=ホモ・サピエンスまで、進化のプロセスでたくさんの新しい人類集団が生まれそして絶滅しました。

 猿人がアフリカ大陸で二足歩行を始めた700万年以上前で、その後、猿人の一つのグループであるホモ・ハビリスが原人に進化しました。

 今から20万年位前にアフリカ大陸で原人がホモ・サピエンスに進化し、10万年位前に一部がアフリカを出て中東を通り、ヨーロッパ、北東アジア、東南アジアヘ拡散しました。

 先住者のネアンデルタールなどの人類集団とは一部混血した痕跡があるものの、基本的には先住者集団とおきかわりながらその居住地を拡げたと考えられています。

3. 暑さ寒さへの適応

 人間は恒温動物ですので、脳や内臓などの温度=深部体温が37度に保たれていることが重要です。

3-1 寒さへの適応

 人間は熱帯で進化したために暑さに強く寒さに弱いという特徴をもっておりますので、ホモ・サピエンスがアフリカ大陸を出てからの寒さ対応が問題となります。

 熱帯雨林帯は降水量か多く気温が高いという特徴がありますが、温帯さらに高緯度にある寒帯など、現在、多くの人類が居住する地域は気温が低く降水量も少ないです。

 アレンの法則では恒温動物は同じ種でも寒い地域に生息するほど突出部が短くなるとされ、ベルクマンの法則では同じ種でも寒い環境に生息するものほど体重が大きいとされます。

 しかし、人類の表現型と寒さへの対応を一般的な法則で説明するのは困難で、ホモ・サピエンスは生物的適応だけでなく家や服などの文化的適応を行ってきました。

3-2 暑さへの適応

 人類は熱帯で進化したために暑さに対する耐性の高い生物で、体表には多数の汗腺が存在しし子供期の熱暴露によって活性化されます。

 気温が深部体温より高くなると体表部分の毛細血管が拡張し、心拍数をあげて体の深部にある熱を血液にのせて体表まで運び、そこで汗の気化によって熱を体から逃がします。

 このメカニズムによって、乾燥した砂漠で動かないでいる場合には気温50度まで、乾燥した日陰を歩く場合には気温47度までは、深部体温を37度に保つことができます。

 暑さへの耐性という人間の能力にはふだん暮らしている環境条件が関わっており、順化の期
間をおくことで暑さへの耐性に関わる集団間差はほとんどなくなります。

4. 人類集団ごとの生物的特徴と健康

 人類の集団には移動と隔離が起きて、新しい環境に移動し新しい場所ではもとの人類の集団から隔離され、各集団の遺伝的変化は共有されず固有の遺伝子プールが形成されてきました。

 南アメリカやポリネシアのように、アフリカから離れた場所の人類集団は、そこに到達するまで移動と隔離を多く繰り返したため、遺伝的な均一性が相対的に高いことが多い。

4・1 緯度と肌の色

 一般的に、低緯度地域の人類集団では肌の色が濃く、高緯度地域の集団では薄いという傾向があります。

 肌の色を左右するメラニン色素は細胞に有害な紫外線を吸収する性質をもっているため、紫外線の強い低緯度地域ではメラニン色素が多いことが生存に有利だと考えられます。

 一方、紫外線は体の中でのビタミンDの合成にも関わり、紫外線の弱い高緯度地域では紫外線を吸収するメラニン色素が多いことが生存にとって不利に働くと考えられます。

 重要なことは、メラニン色素の量が人類の生存に有利に働くかどうかは、居住環境の紫外線がどのくらいの強さであるかに依存するということです。

4-2 倹約遺伝子と肥満

 遠洋航海によって南太平洋に移動していった人々は優れた航海術をもっていたとはいえ、途中で食料が底をつくような状況でどう生き残ったのでしょうか。

 端的にはエネルギー効率の良い人々だったと思われ、効率的消化と余剰エネルギー貯蔵ができる身体的特徴をもち、消費エネルギーや基礎代謝量が少ない人などが考えられます。

 このような特徴をもった人が食料の豊富な環境で暮らすと、余剰エネルギーが多くなることになりそれが脂肪として体に蓄えられやすいことになります。

 この倹約遺伝子仮説は、わずかな栄養効率の違いが肥満の原因になることになり、南太平洋諸国の住民に肥満や糖尿病が多く見られることをうまく説明できます。

4・3 牧畜と乳糖不耐性

 これまでに乳糖不耐性に関連する遺伝子が特定され、乳糖不耐性の割合に関わる集団間差が遺伝子によってある程度は説明できることがわかっています。

 中国、日本、タイ、極北先住民、アメリカ大陸先住民などの殆どの大人は乳糖を消化できませんでしたが、乳を食料とする牧畜民では乳糖不耐性は20%程度と顕著に少ないです。

 近年、乳糖不耐性の割合が高かった東アジアで牛乳摂取量が急速に増加し、乳糖不耐性には遺伝的な背景だけでなく、習慣や慣れが大きく関わっていると明らかになってきました。

 人類集団の間に見られる生物的な違いは遺伝的な違いだけではなく、むしろふだんの習慣によって形成されている部分が大きく、違いは順化によってかなり消失するようです。

5. まとめ

 私たち人類=ホモ・サピエンスはアフリカ大陸を離れ、極端に異なる環境条件でそれぞれが適応しながら生存したため、人類の集団は様々な生物的特徴をもつに至りました。

 遺伝的にはサピエンスの集団間の多様性はチンパンジーに比べて遺伝的な多様性は小さいですが、生物的特徴の違いの中には遺伝的な違いに裏打ちされている部分もあります。

 遺伝的な違いを生み出した時間は長くても20万年ほどであり、集団間に見られる生物的特徴のばらつきの中には順化によって消失するようなものも多いです。

 地球上の様々な人類集団は文化的側面に着目した場合それぞれが異なるという理解が一般的ですが、生物的な側面に着目した場合はみな同じであるという理解が一般的です。

・進化とは何か?

 進化という言葉は良い方向への変化の意味で使うことがありますが、生物学では進化は様々な偶然が重なって生まれる遺伝型の変化であり、そこに良い悪いの方向性はありません。

 ダーウィンの進化論は、次の三つの原則から成り立っています。

・生物には変異がある。そしてその変異は少なくとも部分的にはその子に受け継がれる。

・生物は生き残れる以上に多くの子や卵を産む。

・平均すれば、その環境にとって好ましいとされる方向に最も強く変異している子孫が生き残って繁殖するだろう。したがって、好ましい変異は、自然淘汰によって個体群の中に蓄積されていくだろう。

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