2018年07月14日

朝倉氏と戦国一乗谷

 ”朝倉氏と戦国一乗谷”(2017年2月 吉川弘文館刊 松原 信之著)は、一乗谷を拠点に分国法を制定し和歌・連歌・古典にも精通した有力な戦国大名の越前朝倉氏を紹介している。

 朝倉氏は但馬国朝倉庄を名字の地とする武士で、南北朝時代に越前守護斯波氏に従って但馬から越前に入った。鎌倉時代の初期、朝倉氏と朝倉庄の西隣の八木庄を名字とする八木氏は、鎌倉幕府の御家人に列し、但馬国に大きな勢力を持った。両氏は同族で、但馬の名族日下部氏の一族で、八木氏は鎌倉時代を通じて八木庄の地頭として発展したが、朝倉庄は後に鎌倉幕府中枢の御家人長井氏が地頭となり、朝倉氏はそれに従属していたと言われる。越前朝倉氏は、但馬の朝倉谷に生まれ、初めて越前へ入国した朝倉広景を祖とし、以後朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家である。日下部を姓とし、氏神として赤淵大明神を崇敬し、三つ盛り木瓜を家紋とした。

 松原信之氏は1933年福井市生まれ、1957年福井大学教育学部卒業、福井県立高志高校教諭、丸岡高校教諭、福井県史編纂室課長補佐、福井県立南養護学校長、丸岡図書館長を経て現在、坂井市立丸岡図書館小葉田文庫名誉館長と務めている。

 戦国大名とその領国制の成立は、日本史上で最も興趣深く魅力多い問題の一つである。多くの地方ではこの時期を迎えて、具体的にしかもかなり詳細に歴史展開の実相が調査もでき把握も可能となっている。朝倉氏の先祖については三説がある。景行天皇説、孝徳天皇説、開化天皇説である。景行天皇の苗裔、日本将軍の後胤とする説は、賀越闘諍記や越州軍記などの記述するところである。孝徳天皇−表米親王を祖とする説は、朝倉始末記、朝倉(日下部)系図などで、現在最も一般的な説となっている。しかし、この孝徳天皇説に対して、表米親王とは用明天皇の第三皇子来目皇子のことで、また来米皇子とも書き、これを見誤まって表米親王としたもので、来目皇子には新羅征討の史伝もあるという。そして開化天皇説は、朝倉氏の祖先こそ開化天皇の皇子、彦坐命=ひといますのみことだとする。いずれにしても、朝倉氏の祖先は、但馬国に永住して、代々朝倉郡や養父郡の大領や少領・貫首などを勤めた豪族であった。

 平安時代末期に日下部宗高が但馬国養父郡朝倉に住し、はじめて朝倉氏を称したとされる。その後、朝倉氏は朝倉城を築き、代々この城に拠った。朝倉氏の先祖は日下部氏嫡流を称する但馬の古代武士団であり、当時は越前の豪族であった。越前朝倉氏の初代当主は朝倉広景で、南北朝時代を経て越前守護・斯波氏の重臣となった。室町幕府管領は、室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職で、将軍を補佐して幕政を統轄した。管領は執事から転換した制度であり、1362年にわずか13歳の斯波義将が執事に任じられ、父の斯波高経が後見した。執事は、足利尊氏が室町幕府を開いたときの中央政治の要職であった。斯波氏は足利一門ではあるものの、本家からは独立した鎌倉幕府の御家人の家格を誇っていた。形式上は足利本家と同格だったため、執事に就くのをよしとせず、再三の要請に仕方なく応じた結果である。執事から管領への制度の転換はこの頃のことである。7代目朝倉孝景の時代に応仁文明の乱を契機に、一乗谷を根拠に守護としての地歩を踏み出した。

 斯波氏の内訌に加え、足利将軍家や畠山氏の家督相続問題から、1467年に応仁の乱が勃発すると、孝景は主家の斯波義廉と協力して西軍として活躍した。御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど主要合戦に参戦し、伏見稲荷に籠もって西軍を苦しめた足軽大将・骨皮道賢を討ち取った。以後、朝倉氏景・朝倉貞景・10代目朝倉孝景と相続し、甲斐・二宮氏等の対抗勢力を漸次に駆逐した。そして、一向一揆の脅威を排除して、戦国大名として越前一国の支配を成就させた。越前は近江・若狭を隔てて京に接続し、北陸へ通ずる京の関門に当たり、京を中心とする幕政や将軍の動向も鋭敏に連動する。近江の京極・浅井氏、また多くはこれらを通して、美濃の土岐・斎藤氏、さらに若狭の武田氏等の動きも、朝倉氏に対して密接な関係がある。朝倉氏領国制の進展を見ると、人材登用制作や一乗谷への集住政策など、新しい方向として史家の注目するものも少なくない。一乗谷は一乗谷川のつくる南北に狭長な谷で、朝倉氏が1573年織田信長によって滅ぼされるまで1世紀有余、越前支配の本拠地となった。

 朝倉氏による領国統治は比較的安定しており、京都での戦乱を逃れて公家や文化人が多く訪れはなやかな文化が花開いた。日本のポンペイとも言われ、福井県教育庁朝倉氏遺跡調査研究所が発足し調査や発掘・復原が進められている。従来、一乗谷を朝倉氏の本拠としたのは7代目朝倉孝景であると言われていたが、朝倉始末記という流布本にのみ記載されているもので、他に根拠はない。親元日記などの史料により、かなり以前から朝倉氏が一乗谷に根拠を持っていたことが判明している。特に文化においては、宗淳孝景時代を頂点に、公家・僧侶・芸能人等の文化知識人の下向滞留も多かった。将軍権威の失墜とそれを取り巻く勢力の隆替がはなはだしく、尾張より起こった織田信長が入洛して天下統一の序幕が切って落された。信長は、もと斯波氏の重臣層としてほぼ朝倉氏と桔抗した家格であった織田氏の支流の出身である。越前を地盤とする朝倉氏と尾張を根拠とした信長は、戦国大名としていくつかの通有した条件を具えていた。足利義昭は信長に先んじて義景を頼んだ。そして、義景は信長との角逐に敗亡し去った。

 著者は年来朝倉氏の研究を続けて多くの成果をあげている。本書は、これらの研究をふまえて、朝倉氏の歴史を平易に述べたものといえよう。

T 斯波氏家臣時代の朝倉氏(但馬国時代の朝倉氏/朝倉広景・同高景/朝倉氏景・同貞景/朝倉教景・同家景/黒丸館と朝倉氏/足羽北庄と朝倉氏/一乗城の築城/越前国守護、斯波氏)/
U 戦国大名朝倉氏(朝倉孝景時代/朝倉氏景時代/朝倉貞景時代/朝倉孝景時代/朝倉義景時代/朝倉氏一族)/
V 朝倉氏の領国経営(一乗谷奉行/府中奉行/敦賀郡司と大野郡司/朝倉氏の兵力/朝倉孝景条々/朝倉宗滴話記)/
W 朝倉文化(文化人の越前下向/連歌と和歌/兵学・儒学・医学/絵画・猿楽/禅宗と朝倉氏)/
X 戦国村一乗谷(史蹟公園戦国村/一乗城跡/朝倉義景館跡/城戸内の居館跡と遺跡/城戸外の居館跡と遺跡/一乗谷の石仏)/朝倉氏年表/朝倉氏略系図/著者の朝倉関係著作および小論

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2018年07月13日

地球温暖化と人類社会

15 地球温暖化と人類社会  高倉 浩樹先生

(目標&ポイント)

 地球温暖化問題から見えてくるのは、高度に文明化された人類社会もまた、自然循環の一部に組み込まれ、そこから離脱して存立しえないことです。

 地球温暖化が何をもたらすのか、これに対応しつつある人類社会の仕組みを解説します。

 その上で、諸地域社会での温暖化の影響について、自然災害を含む自然と社会の相互作用という視座で理解する事を学びます。

1. 「人類世」という視点

 我々が生きる現代は約1万前から始まる完新世=Holoceneとよばれ、近年18世紀後半以降を人類世=人新世=anthropoceneと名付けるべきという主張が出されました。

 現代において地質を特徴づける最も大きな力は人間活動であり、地表の30〜50%は人間活動によって形が変わり、陸域、大気圏、海域も含み地球化学サイクルを左右しています。

 18世紀後半の蒸気機関の発明の影響は極地の氷河の地層から知ることができ、地層から二酸化炭素とメタンという温室効果ガスの大気濃縮が始まったことが分かります。

 地表のあらゆる場所に人類の存在があり、都市化が著しく、化石燃料の採掘、陸域での人工的な窒素の生産など、地球物理的な意味でも人間の活動は巨大です。

2. 気候変動と災害

 現代世界で大きな問題となっている地球温暖化の原因は、人間による活動で増える大気中の二酸化炭素などの人為起源の温室効果ガスが引き起こす影響によって生じています。

 人間の文明世界は地球という惑星の中の物質循環の中で成立しており、台風・豪雨・地震を思い出せば分かるように、ヒトの文明社会は自然の猛威を遮断することはできません。

 人類は約1万年前のドメステイケーション開始により、人間独白のローカルな物質循環とローカルな生態系を作ることに成功しました。

 しかし、ヒトの想定以上の物質循環がローカルな都市生態系をおそい不適応が起きており、例えば、近年の日本での局所的ゲリラ豪雨などはそれに当たります。

3. 地球温噺ヒと国際政治

3-1 温暖化のリスク

 気候変動に関する政府間パネル=IPCCは2013年に第5次評価報告書を刊行し、地球温暖化は人為的な原因による可能性が非常に高いと評価しました

 IPCCは国連の環境計画=UNEPと世界気象機関=WMOが1988年に設立した組織で、本部は議長団と事務局のみ、活動は世界中の科学者のボランティアという点に特徴があります。

 海面上昇、洪水、極端な気象、インフラ停止、熱波、気温上昇・旱魃、食料安全保障、水資源不足、農業生産減少、生態系損失、陸域内水面損失などのリスクが指摘されています。

 これは、従来、ヒトが享受していた生態系からの恵みである食料の獲得や生産、快適で安全な生活を送るための気象条件が損なわれうることを意味しています。

3-2 社会組織としてのIPCC

 地球環境問題で検討の契機は1992年のリオデジャネイロで開催された地球サミットで、持続可能な開発理念が提示され、気候変動枠組み条約・生物多様性条約など採択されました。

 IPCCの報告書はあくまで現状の科学的知見を整理することが目的で、政策を立案するための科学的判断材料を提供することを目指しています。

 地球温暖化の対処に関する国際政治のあり方は、科学者とその知識という存在抜きに、意思決定することが難しくなった点で、従来の政治家中心の国際関係を大きく変えました。

 IPCCは既存の国家でなく、中立・独立的な国際機関によって、科学者のイニシアティブで、社会に価値あると評価された情報が定められ、国際社会に提供される仕組みです。

4. 気候変動とヒト学

4-1 環境正義と在来知

 ヒト学の対応のあり方の一つは、社会科学的アプローチと共有される問題関心であり、研究者は世界の至るところで、調査を行ってきました。

 環境問題は政府だけでなく、企業、民間団体、個人に広がり、NGOや現地の人々が何を求めているのかを明らかにして、社会現象としての温暖化の理解を深めることができます。

 ヒトの様々な社会と文化の多様性の理解が出発点となり、災害をどう理解するのか、どのように対応するのか、何よりも歴史と文化が重要な側面になります。

 諸地域社会で災害がどのように概念化されているのか、どのような自然の外力に応答できる社会システムが歴史的に構築されてきたのかが重要です。

 災害に脆弱な社会層はどのように分布し、実態として何が問題となるかという意味で、環境正義的な理解が必要となります。

 在来地はヒトが世界各地で歴史的、経験的に発展させてきた身のまわりの環境についての知識・技能・思想であり、現地の人々の認識を理解するためには在来知が手がかりになります。

4-2 温暖化研究における「翻訳者」

 先住民・地域社会で世代をこえて伝承され研ぎすまされた在来知の重要性は、大規模なものから微細なものまでの自然の変化を、人々が自立的に認知する機会を提供することにあります。

 近年のヒト学の取り組みは、在来知の内容を記録化することと、在来知がいかなる形で更新=伝承されていくか、そのメカニズムを解明することでした。

 ヒト学は先住民と科学研究の協力体制を構築し、住民と自然科学の間の翻訳者の役割を果たしてきました。

 地球温暖化を理解するにはマクロとミクロな知見の組み合わせが必要で、過去と比べ現時点で起きている事態がいかなる性質をもつかを、正しく把握することがです。

 さらに将来的な見通しを量的データやシナリオとして提示されるため、政策決定や国家間の合意形成にも直接的・間接的に接合されやすくなります。

 しかし、その方法では、温暖化の影響や、特定の時間と場所の限定条件の中で、何が発生しいかなる影響が生態的・社会的におよぶのかの把握は困難なことに注意が必要です。

5. おわりに

 地球温暖化に取り組むことは動き続ける自然と対応する文化と社会の視座を必要とし、地球温暖化研究に取り組むことによってヒト学は自然環境の理解を変えるようになりました。

 温暖化は災害という現象となって現れ、熱波・旱魁・洪水・高潮・暴風雨・地滑り・土石流などの自然災害が想定でき、温暖化はそれらの頻度を増やし規模を大きくします。

 地球温暖化の人類学は災害の人類学の側面ももち、災害研究は平常時と異常時の二面において自然を理解し、それぞれ対応する文化の動態を捉える点に特徴があります。

 重要なのは、自然と社会の相互作用の中でヒト社会が維持可能な幅を捉える概念のレジリアンス=回復更新力・脆弱性です。

 人類世の中でヒト学の重要な課題は、現存している文化・社会の中から、動き続ける自然に対応・適応するレジリアンスを見つけ出すことです。

 在来知を手がか旧こして自然と文化の相互作用をより綿密に理解し、伝統社会での経験を踏まえ環境正義の視点を含めながら現代社会への応用を考えることが必要です。

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2018年07月07日

ひとまず、信じない

 ”ひとまず、信じない”2017年11月 中央公論新社刊 押井 守著)は、ネットからのフェイクニュースが世界を覆う時代に与えられた情報をひとまず信じず自らの頭で考えることの重要さを説いている。

 1938年10月30日にアメリカのラジオ番組で放送された”宇宙戦争”は、音楽中継の途中に突如として臨時ニュースとして火星人の侵略が報じられ、多くの聴取者を恐怖させパニックとなった。オーソン・ウェルズが、H.G.ウェルズのSF小説”宇宙戦争”をラジオ番組化したものであった。この作品は虚構と真実があいまいな状況を作り出すのに、まずは成功したと言える。虚偽の情報でつくられたニュースのことをフェイクニュースと言い、主にネット上で発信・拡散されるうその記事を指している。

 押井 守氏は1951年東京都大田区大森生まれ、父親は私立探偵を営んでいたが、収入はもっぱら後妻の母親によるものだったそうである。都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科を卒業し、就職活動で映像関係の仕事を志望したが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得た。卒業とほぼ同時に、大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚した。大学入学後は映画に熱中し、年間1000本程の映画を見るようになった。新たに映像芸術研究会を設立し、自ら実写映画を撮り始めた。1976年にラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、広告代理店の下請けCMモニター会社に転職した。1977年に竜の子プロダクションに応募し合格した。当初は事務雑用を担当していたが、すぐに、アニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂氏、真下耕一氏、うえだひでひ氏とと共に、タツノコ四天王の異名を取るようになった。1979年に私淑する鳥海永行氏に続く形で、スタジオぴえろに移籍した。

 1981年にテレビアニメ”うる星やつら”のチーフディレクターに抜擢された。1984年にキネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位を記録し、アニメ監督として頭角を現した。1984年にスタジオぴえろを退社し、以後、フリーランスの演出家となった。1995年に発表した”攻殻機動隊”は、米ビルボード誌のビデオ週間売り上げで1位を獲得した。2004年に発表した”イノセンス”は、日本のアニメーション映画としては初のカンヌ国際映画祭オフィシャル・コンペティション部門出品作品となった。2018年現在、日本のアニメーション監督で、世界三大映画祭すべてに出品したことがある唯一の監督である。2008年度から2009年度まで、東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授を務めた。2016年度第44回米アニー賞において、生涯功労賞にあたるウィンザー・マッケイ賞が授与された。現在、映画監督、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、ゲームクリエイターとして活動している。ウェルズは真実の中に虚構を織り交ぜた。著者が行っているのは、物語は明らかに絵空事かもしれないが、そこに語られる内実にいくばくかの真実が内包されているということである。

 いくばくかの真実がなければ、映画はただのほら吹きが、金をかけてついた、ただの大嘘になってしまう。”イノセンス”では、人聞という存在の意味を問うた。人間とは何か、これはいまだに問い続けられている哲学的な命題である。どうして自分がここにいるのか、という疑問を人類は絶えず抱き続けてきた。哲学者たちがそれぞれに真実にたどり着こうとしてきた一方で、科学は別のアプローチから人間を解体していく。自分たちの肉体、精神、心の動きまで、化学的な反応で説明できるようになり、いったい人間とは単なる化学的な作用に過ぎないのであって、たとえば愛という感情についても、化学的な作用で説明できるのであれば、特別に意味のあることではないのではないか。人間を科学的に説明できるのなら、精巧にできたアンドロイドと人間を区別できるものは何か。感情があるようにふるまう機械に本当に感情があるのか、それとも感情があるようにふるまっているだけなのか、それを知ることはできるだろうか。

 感情があるようにふるまうということと、本当に感情があるということに、何か違いはあるのだろうか。ひるがえって、本当に自分たちに心があると言えるのか。愛という感情についても、子孫を残すための設計かもしれない。そのように人間は作られているのであって、それは機械的に、化学的に再現できる時代が本当に来るかもしれない。そう考えていくと、いつか人間と人形の間には何の違いもなくなるのではないか、という根源的な疑問が生まれてくる。突き詰めて考えていくとすべてのものか解体し、意味が消えていく。本当に自分たちが感じているようにこの世界はあるのだろうか。いや、自分たちは本当に存在しているのだろうか。そもそも虚構と真実には違いがあるのか。幸福とは何か、不幸とは何か、どうして仕事をしなければならないのか、仲間は必要なのか。そして、真に映画で描かれるべきものとは、いったい何なのか。これらのことについて考察したのが本書である。

 インターネットの登場は、社会のありようを大きく変えてしまった。ネットは物流の仕組みを変え、情報の流れ方を変えた。そして、この後はAIが暮らしに大きくかかわってくる。ネットの中には真実も虚偽もある、と言われる。だからこそ、ネットの情報は信用できない。すべてが虚偽ではなく、どこかに嘘が紛れている。だが、それは一見、真実のような顔をして微笑みかけてくる。どれが本当で、どれが嘘なのか、見分けがつかない。本書の内容はタイトルとはあまりなく、幸福論、仕事論、ニセモノ論、政治論、人間論、映画論について押井人生論と押井哲学が述べられている。幸福論ではハッキリとした具体的な形の幸福があるのか、仕事論では自分に合った理想の仕事があるのか、ニセモノ論ではネット・メディアの情報は所詮嘘なのではないか、政治論では政治家が万能・清廉潔白なのか、などについて書かれている。

序 論−虚構の中に真実を宿らせる/第1章 幸福論−幻想は人を不幸にする/第2章 仕事論−説得する努力を怠ってはいけない/第3章 ニセモノ論−つまり、初めからフェイクなのだ/第4章 政治論−覚悟を決めない政治家たち/第5章 人間論−人間以上に面白いものがあるはずがない/第6章 映画論−「良い夢を見た」でもいいじゃないか

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2018年07月06日

グローバリゼーションとローカル社会

14 グローバリゼーションとローカル社会  深山 直子先生

(目標&ポイント)

 グローバリゼーションという現象を、近代以前と以降に分けて捉えます。

 その上で、近代以降のグローバリゼーションに注目し、ローカル社会との間に見出せる均質化と異質化の力学について論じます。

 さらに、オセアニアの島嶼国ツバルを対象とした、ローカル社会に立脚した人類学的調査研究の事例から、グローバリゼーションの諸相を考えます。

1. グローバリゼーションとは何か

 グローバリゼーションは1960年代初頭に初めて英語辞書に登場した新しい言葉で、地球あるいは球形を意味するグローブに、動きを表す接尾辞が加えられてできた言葉です。

 日本語ではグローバル化や地球規模化と訳されることもあり、ここではあらゆるヒト・もの・ことが村や町、地域や国家を越えて地球規模で移動すること、と捉えておきます。

 1980年代以降に、諸問題について地球を単位として捉えるべきだという指摘が頻繁になされるようになって、グローバリゼーションという概念は注目を集めるようになりました。

2. 近代以前のグローバリゼーション

 私たちは一般的にグローバリゼーションというと最近の現象と捉えがちですが、ヒト・もの・ことの地球規模の移動は、はるか昔からありました。

 アメリカの社会学者アブー=ルゴドは、13世紀にはヨーロッパから中国までを繋ぐ交易が発達していたことを指摘しました。

 言語、宗教、帝国によって重なりつつもずれる8つの地域的サブシステムには、それらをまとめる3つの回路、ヨーロッパ、中東、アジアが、13世紀世界システムを構成していました。

 アフリカ大陸で誕生した人類が数10万年かけてユーラシア、アジア、南北アメリカ、オセアニアヘ拡散し、ヒトやヒトによって運ばれたもの・ことは地球規模で移動しました。

3. 近代以降のグローバリゼーション

 近代以降のグローバリゼーションは、以前のグローバリゼーションが多様な地域を中心としていたのに対して、一貫してヨーロッパ世界を中心にしていることに特徴があります。

 文化人類学者の川田順造による時系的整理:

 第一に、15世紀末に始まるカトリック=地中海ヨーロッパ世界のそれまでにない海洋を越えた世界進出。

 第二に、16世紀末に始まるプロテスタント=太平洋ヨーロッパ世界の世界進出。

 第三に、19世紀後半におけるヨーロッパ世界による非ヨーロッパ世界の植民地化。

 第四に、連合国と枢軸国の対立を軸に世界規模化した第二次世界大戦に始まる流れ。

 最後は、現在進行形の状態にあるグローバリゼーション。

 グローバリゼーションは一般に物質の移動や知識の伝達などを思い浮かべますが、私たちの想像を超えて身体動作や病までを含むあらゆるヒト・もの・ことが地球を駆け巡る現象です。

 もはや欧米化の次の段階として隅々まで世界があふれるような日常生活の中で、それはしばしばヒトの意思や思惑とは関係なしに起きることに留意する必要があります。

4. グローバリゼーションとローカル社会

 グローバリゼーションによってローカル社会の多様性は大きな影響を受けてきましたが、両者の関係性は複雑で、世界は均質化の方向に向かっているとは言い難いです。

 たとえば、ファストフード・チェーン店マクドナルドの世界展開によるマクドナルド化は限定的で、イタリアの首都ローマではスローフードという抗議運動が起きました。

 また、マクドナルドがローカル社会に受け入れられても、しばしばローカル社会による変容が伴い、インドでは野菜や鶏肉を食材にしたパテのハンバーガーに置き換えられています。

 ローカル社会がグローバリゼーションにただ翻弄されるのではなく、グローバリゼーションに対抗してむしろローカルな文化を改めて発見・評価する姿が見て取れます。

5. グローバリゼーションの諸相−ツバルのフィールドワークから

 人類学はグローバリゼーションという地球規模の現象の全体像を捉えることには向いていませんが、ローカル社会を切り□にグローバリゼーションの諸相を描くことは可能です。

 1980年代に、ヒトの活動に起因する温室効果ガスの排出量の増加によって地球温暖化が指摘され、それによる海面上昇という現象が徐々に注目を集めるようになりました。

 近代世界システムの中心に位置する大国が海面上昇の主たる原因をつくっているにもかかわらず、ツバルのような周辺に位置する極小国がその結果を引き受けざるを得ません。

 環境問題ではツバルにおける浸水などの災害やそのリスクについては、マス・メディアは隔絶された前近代的、非歴史的な弱小の島のなす術のない被害者として描き広めました。

 ところが、第一に近年になって居住地が浸水リスクの高い低地に拡張したことが明らかとなり、第二に市街地に住む住民たちが長距離の移動を繰り返してきたことが指摘できました。
 
 総合すると、グローバルに共有されたツバル人に対する負のイメージとは裏腹に、住民は能動的に島にきて、環境問題に柔軟に対応しながらリスクの高い居住地に暮らしているのです。

 彼らの高い移動性は、もしもこの島で海面上昇による被害が悪化した場合に、彼らには新たな居住地を求めて再び移動するという選択肢があることを示唆しています。

 はるか昔より、祖先たちが海を読み船を操って長距離航海を繰り返してきたこと、すなわち近代以前のグローバリゼーションの伝統が、その世界観の根底にあるように感じられます。

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2018年07月01日

近代世界の成立と国民国家の形成

13 近代世界の成立と国民国家の形成  赤堀 雅幸先生

(目標&ポイント)

 日本人が一つの民族であるという説明を、私たちはともすると当たり前のように受け入れてしまいます。

 しかし、一国の国民が一個の民族だという考え方が主流になったのは、19世紀から20世紀にかけて全地球的な政治経済秩序が確立されてからのことにすぎません。

 近代化の過程について、ナショナリズムの広まり、近代がもたらした状況の特殊性、ナショナリズムがはらむ矛盾、近代化に対する人々の多様な対応のあり方にも触れます。

1. 古代、中世から近代へ

 一般に、ヒトの歴史は古代、中世、近代に区分され、私たちはおおまかな区分として近代に生きていて、中には、数百年の時を経て形成され私たち自身が生きている現代も含まれます。

 ヒトが生きてきた期間の大半は文字がなかったために歴史学の射程の外にあり、現生人類が歩んできた20万年のうち、1万年におよばない期間のうちの600年ほどが近代です。

 人類史はあたかも加速するかのように展開していて、近代がヒトの生き方にもたらした変化は大きく、古代と中世に対して近代には著しく異なる特徴があります。

 古代と中世はそれぞれの地域で別個に展開するのに対して、近代は世界の全体がヨーロッパに発した一つの近代に巻き込まれていく過程として論じなくてはなりません。

 近代における世界の結びつきは圧倒的に密で速やかで、近代は拡張し世界を巻き込んでいくことを特徴とし、人類が経験する初めての全地球的な歴史の時代です。

 結果としてヨーロッパ近代が世界を席巻したために、近代の体験はヨーロッパとそれ以外の地域ではかなり異なることとなりました。

 ヨーロッパ近代の幕開けを学芸の分野で告げるルネサンスは14世紀のイタリアに始まり、続いて大航海時代が15世紀に、宗教改革が16世紀に起きました。

 さらに、産業革命と資本主義、政治面でのナショナリズムと植民地主義=帝国主義が18世紀に興り、19世紀をもってヨーロッパ近代はいったんの完成をみました。

2. イノベーションの時代

 この2000年ほどの世界人口は11世紀からゆるやかな増加とときおりの減少を経験し、15世紀以降増加率を高め、18世紀にさらに加速しました。

 ヒトの数がふえ、その一人一人がより多くのエネルギーを使い、近代は圧倒的に莫大なエネルギーを消費する時代となりました。

 エネルギーの大量消費が可能になった前提には、数々の技術革新=イノベーションがあり、産業革命に始まる技術革新によって、新たな諸々の産業が興って資本主義が発達しました。

 ヒトの経済活動はより多くの資源とより広大な市場を求めて外へ外へと拡大し、やがて世界の全域におよんでいきました。

 同時に、交通通信の発達、家族から国家まの様々な組織の変容、合理主義や効率性の追求など、人間観、社会観、世界観を含むヒトの意識の変化も求められました。

 本来の意味でのイノベーションには技術に限らず組織や方法の革新も含まれ、近代はヒトの生存の様々な面での革新が連動していったイノベーションの時代とよぶことができます。

 ヒトは農耕牧畜の開始以降より大きな集団をつくり統御してきましたが、近代の動きも、より広く繋がりを求め、土地や水、人といった資源のより大規模で効率的な動員の努力です。

 ヒトは生物学的には大きくは変化せず、小さな体で道具や技術を発達させてきて、生身の身体と相対する世界の大きさの不釣り合いは、次第に拡大しながら今日に至っています。

3. ナショナリズムの広まり

 近代がヒトにとって初めての地球大の歴史の経験ですが、21世紀になってネイションが世界を構成する特別な単位ではなくなり、”国際”の替わりに”グローバル”を使い始めました。

 ”国際”というときの”ネイション”は、ラテン語の”生まれ”を語源として”国民”を指しますが、”民族”と訳されることも多いものの、二つの意味があるわけではありません。

 一個の”民族”が一個の”国民”として一個の”国家”を形成するという考え方が、近代の”ネイション”の使い方の根底にあり、その考え方が”ナショナリズム”です。

 ナショナリズムの起源は17世紀英国の清教徒革命や18世紀のフランス革命に求められますが、1861年のイタリア統一や1871年のドイツ統一などに注目する方がわかりやすいです。

 複数の国家に別れて暮らしていた人々が一個の民族であるという主張の下に、明確な領土と主権を有する一個の国家を構想し、それによって一個の国民たらんとしました。

 このような国民国家=ネイション・ステイトの考え方は、第一次世界大戦後に民族自決の名の下に北欧と東欧、南欧に新たな国家をいくつも生み出しました。

 さらに第二次世界大戦後に国際連合憲章にも謳われ、アジア、アフリカに多くの独立国家が成
立して、ナショナリズムは国際社会の原則となりました。

 民族自決の原則が植民地からの解放を進める強力な論理となり、植民地化された多くの地域が独立を達成し、独立した国家は必ずといってよいほど国民国家の体裁をとりました。

4. 国民統合

 近代にとって国民国家は機能的な仕組みであり、政治経済活動単位として効率性が高く、国民は数多くの権利を保障され、豊かさの恩恵に浴することができました。

 しかし、一民族が一国家をなすことは現実にはほとんどなく、現在でも、たいていの国家が国内に少数民族や移民の集団を抱えています。

 民族が何をもって一個の集団とするかはあいまいであり、多くの民族は起源をはるかな過去に求めますが、一個の民族たらんとする意志を過去に投影して正当化することが多いです。

 米国の政治学者アンダーソンが強調した印刷産業の発達の他、近代に初めて実現した識字の一般化と学校教育の普及が、国家への帰属を実感させるのに大きな役割を果たしました。

 国民国家はナショナリズムの枠組みの中で自民族と他民族を対比させつつ、歴史的な運動を経てそれぞれに成立していきました。

 結果として、ほとんどの場合、国民国家は国民が共通の国民意識をもつよう国民統合に力を入れなくてはなたず、少数民族がいることを頑として認めない国もあります。

 集団の成員でない者を排除し、集団の成員に均質性を要求するのは、程度の差はあれヒトの集団に普遍的な傾向であり、国民国家ではそれ徹底されることがあります。

 国民国家に潜む均質化論理に抵抗を覚える人々との間には様々な対立と妥協がなされ、国家への帰属を受け入れながら、一定の自治権などを獲得する妥協もしばしば見られます。

5. ヨーロッパ近代の受容、克服、限界

 ヨーロッパ以外の地域の人々が、それまで育んできた自分たちの文化や伝統をどのように扱うかも、国民国家を形成し近代化を推し進めるときにきわめて重要な問題となります。

 人々は植民地化の脅威と共にヨーロッパ近代に遭遇し、植民地支配か近代の受容かに直面しましたが、徹底して伝統文化を否定し捨て去る動きが有力となったことは殆どありません。

 たいていの国はヨーロッパ近代をモデルに、しかし、伝統の中に活かすべきものと除くべきものを見極め、独自の近代を確立しようとしました。

 ヨーロッパ近代は望むと望まざるとにかかわらず世界を近代化へ向かわせましたが、同時にヨーロッパ近代を現地化する試みを世界中に生み出していきました。

 その際、植民地化を経験した多くの国々では、19世紀来の植民地主義の残存といえる収奪の構造からどのように脱却するかが、大きな課題となりました。

 構造化した収奪によって周縁化された状況に、今なお苦しむ多くの人々が苦境を脱するには、全地球的な政治統合か、世界システム自体の再編が必要ということになります。

 当初から近代が抱えていた問題に加え、時代を経るにつれ露わになってきた問題も数多く、1970年代になるとヨーロッパ近代の限界もささやかれるようになりました。

 世界はまだ驚くほどに多様であり、ヒトが長い歴史の中で培ってきた多様な文化や社会のありようこそが、今やヒトにとって大切な資源です。

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2018年06月30日

上杉憲顕−中世武士選書13

 ”上杉憲顕−中世武士選書13”(2012年11月 戎光祥出版刊 久保田 順一著)は、足利直義の忠臣として南北朝の動乱を生き抜き足利基氏の近臣として初期鎌倉府を牽引して関東管領上杉氏の礎を築いた名将の生涯を紹介している。

 上杉憲顕=のりあきは南北朝時代の武将で、建武政権崩壊後、足利尊氏・直義に従って各地を転戦した。1336年に上野国守護となり、暦応年間以後、高師冬とともに鎌倉府の足利義詮、基氏を補佐し、越後国守護も兼ねた。観応の擾乱で直義方として尊氏方の高師冬を鎌倉から追い、甲斐に滅ぼした。その後、直義は尊氏に殺害され、憲顕も両国守護職を没収された。1362年に基氏によって再び両国守護となり、翌年に関東管領に任じられた。

 久保田順一氏は1947年前橋市生まれ、1970年東北大学文学部史学科国史専攻卒業、群馬県立高校教諭を務めた。退職後、現在、群馬県地域文化研究協議会副会長、榛名町誌編纂委員会専門委員を歴任した。これまで上野の中世在地社会の研究を行ってきたが、その中で上杉氏について触れることはしばしばあったものの、まとまった形で論じることはなかったそうである。様々な史料に当たって検討する中で、いくつかの新たな発見や再確認もあり、それらを論述しながら改めて南北朝の内乱を考えるという有意義な時を過ごせたという。

 上杉氏は勧修寺流藤原氏の一族で、上杉重房が宗尊親王に供奉して関東に下り、有力御家人足利氏と結びつき、その家政機関の一員となり、一族の女性が足利氏当主の家時・高氏の母となったことなどから頭角を現した。重房の孫の憲房は尊氏に謀反を勧め、鎌倉幕府滅亡に功をあげた。憲顕は1306年に憲房の子として誕生し、鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政において、関東では足利尊氏の弟・直義が後醍醐天皇の皇子・成良親王を報じて鎌倉に鎌倉将軍府を成立させ、1334年1月に成良の護衛として関東廂番が置かれ、六番39名のうち二番番衆の一人として名前が見られる。1335年に尊氏が後醍醐天皇に叛くと、直義の部隊に属した。1336年1月に憲房は尊氏を京都から西へ逃がすため、京都四条河原で南朝方の北畠顕家・新田義貞と戦って戦死した。

 弟・憲藤も1338年に摂津国で顕家と戦って戦死したため、憲顕が父の跡を継ぐところとなった。同年に尊氏の命により、戦死した斯波家長の後任として、足利義詮が首長の鎌倉府の執事に任じられた。 しかし、その年のうちに突如高師冬への交替を命じられて上洛、2年後に復帰したものの、師冬と2人制を取る事になった。同僚である師冬が常陸国の南朝勢と戦ったのに対し、1341年に守護国となった越後国には、憲顕配下で守護代の長尾景忠が入国し、その平定に尽力した。1349年観応の擾乱が起きると、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から京都に呼ばれ、義詮に代わって足利基氏が鎌倉公方となって、京都から鎌倉に下向した。

 憲顕は師冬と共に基氏を補佐したが、直義方の上杉重能が高師直の配下に暗殺されると、直義方の憲顕は師冬と拮抗するところとなり、子・能憲と共に尊氏に敵対した。1351年に鎌倉を出て上野に入り、常陸で挙兵した能憲と呼応して鎌倉を脅かし、師冬を鎌倉から追い落として基氏を奪取した。次いで甲斐国に落ちた師冬を諏訪氏に攻めさせ、自害に追い込んだ。さらに直義を鎌倉に招こうとしたため尊氏の怒りを買い、上野・越後守護職を剥奪された。1352年に直義が死去して観応の擾乱は終結したが、国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は信濃国に追放された。しかし、尊氏が没し2代将軍となった義詮と鎌倉公方となった基氏兄弟は、幼少時に執事として補佐した憲顕を、密かに越後守護に再任した。

 1362年に関東管領・畠山国清を罷免し、これに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を討伐し、翌年、憲顕を国清の後釜として鎌倉に召還しようとした。この動きを知った上野・越後守護代で宇都宮氏綱の重臣・芳賀禅可は鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとしたが、武蔵苦林野で基氏の軍勢に敗退した。これに口実を得た基氏軍は討伐軍を宇都宮城に差し向けたが、途中の小山で小山義政の仲介の下、宇都宮氏綱の弁明を入れて討伐は中止された。こうして、尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって、代々の東国武家の畠山国清と宇都宮氏綱が務めていた、関東管領職と越後・上野守護職は公式に剥奪され、新興勢力の憲顕がその後釜に座り、上杉氏は代々その職に就くこととなった。1367年に基氏が死去し、翌年、憲顕が上洛した隙に蜂起した河越直重らの武蔵平一揆の乱に対して政治工作で対抗し、関東管領を継いだ甥で婿の上杉朝房が幼少の足利氏満を擁して、河越に出陣し鎮圧するのを助けた。

 これにより、武蔵など鎌倉公方の直轄領をも、上杉氏が代々守護職を世襲することとなった。引き続き新田義宗や脇屋義治などの南朝勢力の鎮圧に後陣で当たったが、老齢のために足利の陣中にて死去した。墓所は高幡不動尊の境内に置かれ、上杉堂、上杉憲顕の墳などと称されている。憲顕は足利氏に従って東奔西走し、南北朝の動乱を生き抜いて上杉氏発展の基盤を造った。最後は幼主を盛り立てて権力を握り、成功裏に終わった人生のようにみえるが、動乱の中でその人生は失意と嵯鉄に満ちたものであった。1336年1月の京都合戦での敗北、1337年12月の北畠顕家との富根河合戦での敗北、1352年の薩壕山合戦での敗北、父憲房や兄憲藤らの討ち死に、主と仰ぐ直義の死など、多くの悲痛な体験があった。成功ばかりではなく、多くの失敗から立ち直って築いた人生であり、憲顕の生き方は今の我々にも通じる所があるのではないかという。

第1部 上杉一族の鎌倉進出 第一章 勧修寺流藤原氏/第二章 上杉氏の成立
第2部 関東掌握への道 第一章 鎌倉幕府の滅亡と憲顕/第二章 越後・上野の支配/第三章 観応の擾乱と憲顕
第3部 没落から、再び栄光の座へ 第一章 薩堆山合戦と憲顕の失脚/第二章 雌伏の時代/第三章 再び関東管領に/第四章 憲顕の妻子とその後の山内上杉氏
参考文献/上杉憲顕関係年表/あとがき

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2018年06月23日

「東北のハワイ」はなぜV字回復したのか−スパリゾートハワイアンズの奇跡

 ”「東北のハワイ」はなぜV字回復したのか−スパリゾートハワイアンズの奇跡”(2018年3月 集英社刊 清水 一利著)は、東日本大震災の影響で利用客が2011年度は38万人に激減したものの翌年度140万人2013年度150万人とV字回復した福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズの秘密を解き明かそうとしている。

 “東北のハワイ"をコンセプトにするスパリゾートハワイアンズは、常磐興産株式会社が経営する大型温水プール・温泉・ホテル・ゴルフ場からなる大型レジャー施設であり、温泉を利用した5つのテーマパークがある。スプリングタウンは水着を着用して楽しめ、打たせ湯、オンドル、ミストサウナ、ボディシャワーなどがある。温泉浴場パレスは裸で入浴する大浴場で、960平米の大浴場で12種24浴槽の温泉施設である。スプリングプラザは幅20米、高さ3米の滝が印象的な広場である。江戸情話・与市は浴場面積1,000平米、江戸時代の雰囲気がある世界最大の大露天風呂で、ギネス・ワールド・レコーズに認定された。宿泊施設は、ホテルハワイアンズ、モノリスタワー、ウイルポート、クレスト館である。ゴルフ場はスパリゾートハワイアンズゴルフコースで、3コース・27ホールである。

 清水一利氏は1955年生まれのフリーライターで、PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰し、2011年3月11日、新聞社の企画でスパリゾートハワイアンズを取材中に東日本大震災に遭遇し、スタッフや利用客らとともに数日間の被災生活を強いられた経験がある。

 スパリソートハワイアンズは、東京から約200キロ離れた福島県いわき市にあり、前身は、まだテーマパークという概念がなかった1966年にハワイをテーマに誕生した、その名も懐かしい常磐ハワイアンセンターである。もともといわき市には大きな探鉱があったが、1950年代後半に炭鉱産業の斜陽化が表面化した。そして、1964年に常磐湯本温泉観光株式会社設立、1965年に常磐音楽舞踊学院設立、1966年に常磐ハワイアンセンターがオープンした。高度経済成長を遂げる日本に於いて、1964年に海外旅行が自由化されたものの、庶民には高嶺の花という時代に、東京方面から多くの観光客を集め、大型温水プールを中心にした高級レジャー施設として年間120万人強の入場者を集めた。年間入場人員は1968年には140万人を突破し、1970年には155万3千人となりピークに達した。しかし以降は、入場人員は日本の経済状況に合わせて減小し、1975年には年間110万人にまで落ち込んだ。1976年はやや入場人員が増加したものの、1977年以降は年間100万人から多くても年間110万人程度で横ばい状態が続いた。

 1984年には初めて営業赤字を計上したが、1988年に常磐自動車道がいわき中央ICまで全線開通すると、バブル景気に沸く首都圏から一気に来場者が増え、年間140万人超まで増加した。これを機に総事業費50億円をかけてリニューアルを始め、1990年のオープン25周年を機にスパリゾートハワイアンズに改名して、スプリングパークをオープンした。同年および翌1991年は年間140万人超の入場人員があったが、バブル崩壊で1992年には年間120万人台にまで減少した。1994年には年間110万人前後となり再び営業赤字を計上したが、1997年に日本一の大露天風呂をオープンして年間120万人を回復した。これまでの、ハワイ、南国というコンセプトに加え、屋内プールや温泉を備えた施設が美白を求める女性の需要に合致した。さらに、東京や仙台などからの無料バスによる送迎サービスを行うなど、集客努力が功を奏したものと考えられている。2000年にアクアマリンふくしまが開館して人気施設となり、いわき市内で回遊性が生まれた。

 2005年には、常磐ハワイアンセンター時代の1970年以来の年間利用者数150万人を達成した。2006年には映画”フラガール”が全国公開され、翌2007年には過去最高の年間161万人の入場を記録した。そしてあの東日本大震災が起きた2011年3月11日に、著者はある新聞社の仕事で生まれて初めてハワイアンズを訪れていた、という。東京に帰れなくなった被災者の一人だったのである。あの日を境に、東北の状況は至るところで大きく変わった。それは、スパリソートハワイアンズももちろん例外ではなかった。入場者数、当期利益とも激減して、会社始まって以来の危機といってもいい事態に陥った。当時、このままでは施設も会社も存続できないかもしれないという不安にとらわれたが、ハワイアンズは不死鳥のように蘇ったのである。映画でも有名なフラガールは、スパリゾートハワイアンズ・ダンシングチームである。ウォーターパーク内常設会場ビーチシアターにおいて、ほぼ毎日、公演が昼夜1回ずつ行われている。

 このフラガールによる全国きずなキャラバンは、震災の1か月半後かいわき市内の避難所からスタートした。かつてまだ風当たりが強かった50年前、初代のフラガールたちは、崩れゆく炭鉱社会と家族の生活を、自分たちの手で何とかしなくてはいけないと頑張った。同じように、平成のフラガールたちも、未曽有の大地震と原発事故で危機に直面した故郷を目の当たりにして、今こそ自分たちか立ち上がらなくてはならないと思ったのであろう。全国きずなキャラバンの成功を受け、震災後もフラガールは地元いわきや福島のみならず、東北復興のシンボルとして全国区の人気を集めた。開業以来、50年を超えた今もなお、同施設は各種の温泉や温水プール、フラガールのショーなどが楽しめる人気のリゾート施設である。ハワイアンセンターがオープンし、初年度から予想を上回る大成功をおさめるとすぐ、全国には類似の施設がいくつもできたが、それらはすべて2、3年のうちに経営が行き詰まり、まもなく消えていった。

 そんな中、ハワイアンズだけが今日まで変わらず生き延びることができたのは、いったいなぜなのだろうか。この施設の何が人々をこれほどまでに惹きつけ今も人気になっているのか、そして、常磐興産は、その人気を維持するためにどんな努力をしてきたのか。幾多の危機や試練を乗り越えることができたのには、二つの大きな要因がある。一つは、常磐炭礦時代の一山一家の精神が社員の中に息づき、探鉱代を超えて辛苦に打ち克つ力になっていたことである。ハワイアンズに関わってきた人間たちが、誰一人ぶれることなく一山一家の考えを貫いてきた。もう一つ、絶対に忘れてはいけないのは、会社を率いるトップの決断力である。経営が安定している企業、危機に見舞われても立ち直ることのできる企業は例外なく、強い統率力で社員を引っ張るトップの存在がある。

第1章 3・11からのV字回復/第2章 創業者の経営哲学/第3章 追い風と逆風/第4章 東北復興の未来戦略/第5章 「生き延びる企業」とは?/終章 「進化した一山一家」を目指して

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2018年06月21日

支配の仕組み

12 支配の仕組み 赤堀 雅幸先生

(目標&ボイント)

 狩猟採集の時代はヒトの集団は小規模でたがいの関係はきわめて平等でしたが、農耕と牧畜が開始されると、集団は大規模になり統御する支配の仕組みは段階を踏んで発展しました。

 支配の仕組みはやがて国家を生み出し、国家に属して生きることはいつの間にか私たちにとって当たり前のこととなっています。

 国家の成立にいたる道筋をたどりながら、支配を権力の一方的な行使とみるだけでは不充分で、支配が社会的な容認に基づくことに目を向けましょう。

1. 群れを超えて生きる

 ヒトはこれまでの歴史の中に数多くの支配者を生み出し支配の仕組みを練り上げてきましたが、ヒトが最初からたがいを支配しようと争ってきたかははっきりしません。

 狩猟採集の時代にはヒトはバンド=群れとよぱれる自律的な小集団をつくって暮らしてきましたが、おたがいに対等で特定の指導者がいなかったとされています。

 この時代は集団の規模に制約があり、大きくなりすぎたバンドは支えるための支配の仕組みより、複数のバンドに別れてそれぞれ別々に暮らす選択をせざるをえませんでした。

 しかし、1万年ほど前に栽培化家畜化が始まり、多くの恵みを安定して得る農耕牧畜は土地や水を資源として支配し、必要な人力も労働力という資源と位置づけるようになりました。

 ここから、ヒトはより大規模でより複雑に構造化された社会の形成へと一歩を踏み出し、その社会を維持するための支配の仕組みを整えていきました。

 バンドの内部で大切にされていた血の繋がりに基づく親子関係と、血の繋がりのない者の結びつきの夫婦関係がまず新しい時代に適応するため応用されることとなりました。

 ヒトは家族を維持するのに家族外から妻を迎え、家族を支える親子と夫婦という二つの関係のあり方を論理的に拡張することで、部族のような大きな組織を形成するのに成功しました。

 この段階ではまだ特定の個人や集団が他に優越し支配する構図は見られず、単系出自に基づいて構成された部族では、多く個人や小集団の間の対等性や自律性が強調されます。

2. 有力者から支配者へ、部族から首長制と国家ヘ

 バンドや部族には様々な作業を一時的に指揮する者はいても決まった支配者は存在せず、支配権力が機能するには何らかの制度的保証が必要となります。

 この条件を満たし特定の小集団が優越しその小集団を代表する個人が首長として大集団の全体を束ねるような組織形態を首長制とよびます。

 出自だけで特定の首長家が優越することは殆どなく、小集団が他の小集団を統御する利益があって、同盟や対立をはらむ競争が行われた結果、首長位が社会的に受け入れられました。

 首長たちの多層的階層は、社会全体の余剰生産物を利用することで、直接の生産活動から解放され、祭祀を含んだ政治=まつりごとという新しい生業を見出すこととなりました。

 首長制では、首長という焦点が存在して財物の交換がさらに体系化され、小集団の生産物の一部を首長が集め、これを他の小集団に分配する再分配経済がしばしば行われまた。

 集団への帰属が首長との関係によって規定されうるものとなり、異質な集団がそのままより大きな集団に組み込まれ、構成単位が多様化することも見られました。

 首長制の次の段階が国家であり、最初の都市国家は5000年ほど前に成立し、社会統御機関としての政府、支配拠点としての都市、職能細分化、階層多元化、構成員多様化が見られます。

 ただし、これらの諸特徴のいくつかは首長制の社会にもその萌芽が見られるので、首長制と国家の間に絶対的な差異はないという考え方もあります。

3. 支配の正当性

 平等主義的社会でもビックマンは様々な能力に傑出しそれで支持者たちに庇護を与え、支持者たちから余剰生産物を集め、他の人々に分け与えることでさらに支持者をふやします。

 しかし、ビックマンの影響力は支持者をふやすほど多くの負担を支持者に求めざるをえないため、いつかは離反を招き必然的に破綻します。

 他者に意志を強制する直截な力である暴力には個人の発揮しうる限界があり、軍事力以外に支配を正当化する要素として、経済面で支配者が効果的な役割を果たすことが重要です。

 支配者の地位の正当化と人々の容認として、血筋による王統の一貫性がしばしば強調され、また首長や王たちは人々にとって親として、建国の父や国父と位置づけられました。

 首長や王が超自然的に支配を容認されるという王権神授説が唱えられ、また劇場国家概念から神々の世界を王たちが体現し人々があるべき姿を見てそれに従うと唱えられました。

 さらに、首長位や王位の超自然的正当性の確保を進めて、首長や王が彼らを戴く制度そのものとー体であると考える、シルック王国の神聖王レスのような例もあります。

 ヒトが発達させてきた支配の仕組みは、単に自己や自己の所属する小集団の利益を増進するために他者や他の小集団にその意志を強要するというには留まらない営みです。

 支配は自他を含むより大きな集団の存続に有効であり、また支配される側の許容と了承を得られるよう自らを規制しつつ機能する行為です。

4. 支配の仕組みの複雑化と多元化

 歴史的な流れに沿って、バンドから部族、首長制、国家へと支配の仕組みが複雑化していく過程を進ってきました。

 新しくより複雑な支配の仕組みが出現したからといって、それ以前の仕組みが時代遅れの不要なものになったわけではありません。

 最新、狩猟採集の人々が生業形式を捨て去って国家へ組み込まれる例がある一方、なかには狩猟採集の暮らしに留まり続けるという選択をする人々もいることが報告されています。

 南米のグラヤキやグアラニの人々は、国家について充分な理解を有しながら、積極的に支配の機構の出現を阻止しようとしています。

 バンドや部族、あるいは素朴な首長制の下に生きる人々がときとして国家の支配を要さない、もしくは過剰な支配として忌避するという生き方があることを示しています。

 部族には部族に、首長制には首長制に、国家には国家に適した政治状況があって、しかもそれらが複合することでより有効に機能することも可能です。

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2018年06月16日

醤油・味噌・酢はすごい−三大発酵調味料と日本人

 ”醤油・味噌・酢はすごい−三大発酵調味料と日本人”(2016年11月 中央公論新刊 小泉 武夫著)は、日本の代表的な発酵調味料である醤油・味噌・酢の生成過程、興味深い歴史と文化、驚くべき機能などを詳しく紹介している。

 調味料は、料理の素材を引き立て、味付けの決め手となり、古くから用いられてきた。世界で最も広く使われている調味料は、塩、酢、砂糖である。東アジア、とくに日本では、みそ、しょうゆといった、ダイズ原料の発酵調味料がきわめて広範囲に利用されている。ダイズの原産地が東アジアであったからである。しかし、ヨーロッパではダイズの栽培利用が行われていなかったため、そうしたものはなかった。

 小泉武夫氏は1943年福島県生まれ、実家は小野町の酒造家で、田村高等学校、東京農業大学農学部醸造学科を卒業後、東京農業大学より農学博士号を取得した。1982年に東京農業大学応用生物科学部醸造科学科教授、1994年に財団法人日本発酵機構余呉研究所所長に就任した。2009年に東京農業大学を定年退職、同大学名誉教授、この間、鹿児島大学客員教授、別府大学客員教授を歴任した。現在、広島大学、鹿児島大学、琉球大学、石川県立大学等の客員教授を務めている。専門は、発酵学、食品文化論、醸造学である。

 発酵調味料の醤油・味噌・酢は、日本の食卓に欠かせないばかりか、海外での需要も年々高まっている。日本人は昔から、美味な食べものや美味しい料理、体にとって大切な食べものなどを、知恵と工夫によって編み出してきた。その中には、目にも見ることのできない微細な生きものである、微生物を使って造り出したいくつかの発酵食品もある。中でも、味付けの基本となる発酵調味料の醤油、味噌、酢を、すでに奈良時代から食卓へ登場させていた。これは、地球上の多くの民族の中でも、特筆すべきことであると言えよう。もしも日本に、この素晴らしい調味料が生まれていなかったら、日本人の食文化はとてもみすぼらしいものになっていたであろう。この三つの発酵調味料にはそれぞれに関連性があって、醸造学的視野から造り方を見たり、発酵学的視野から発酵徽生物を見ると、互いに共通した幾本かの線によって結ばれている。それは、日本人の大昔からの稲作あるいは米食の文化と密接につながっているのである。

 昔から日本人は水田で稲を育て、その田圃を囲む畔に大豆を植えて同時期に収穫してきたが、これを食事学的に考えてみると、水田は耐であり畔は醤油あるいは味噌汁であって、ここに日本人の食の原風景が読める。日本には特有の気候風土があるため、我が国の国菌である麹菌が、地球上最も旺盛かつ強健に分布棲息している。この菌が米や大豆、麦に繁殖して麹をつくり、醤油、味噌、米酢が得られるのである。初見は奈良時代の播磨国風土記にあり、神様に捧げた蒸米にカビが生え、それをカビタチと言った。さらに、カムタチ、カムチ、カウジ、コウジに語源変化して、今日の麹に至っている。醤油、味噌、米酢を造るのには、共通した麹菌の応用が大昔から続けられてきた。この三大調味料はまた、日本人の食生活においても共通した役創を担ってきた。それはまず、味噌と醤油の美味しさと、酢の酸っぱさといった味の演出である。味噌汁がなければ一汁三菜を基本とする和食は成り立たず、醤油がなければ日本食文化ならではの魚介の生食である刺身も食べられず、酢がなければ酢知えや酢〆はできないし鮨もできない。

 これらの三つの調味料をさらに調理学的視野から見てみると、そこには食の保存という共通のキーワードか宿っている。近年まで冷蔵庫などなかった時代には、味噌漬けや醤油あるいは溜漬け、酢漬けにしておくことにより、食べものは腐敗から逃れることかでき、美味しく永く貯蔵することができた。さらにこれら三種の発酵調味料は、生臭みを消すのには魔法のような力を持ち、とりわけ地球上最も大量に魚を食べる日本人にとって、最も理想的調味料なのである。また、醤油、味噌、酢は日本人の食事の基本である粒食と実によく調和している。おむすびに味噌あるいは醤油を塗ってそのままでも、それを焼いても粒の飯と実によく合って美味しい。さらに日本人のみの食法である握り鮨では、飯粒に酢を加え、それを握った酢と飯の相性は、生の魚介まで巻き込んで絶妙の美味しさになる。また、この三つの発酵調味料は、いずれも神格化され祀られているという点も誠に日本的である。日本の各地には、味噌神社や味噌天神があったり、醤油や酢を祀る神社がある。

 発酵調味料は、日本の各地においては地域性の違いによって醸され方や風味の強弱、好み、さらには使い方などに差異かあり、それが地域の食文化として残ってきた。これらのことは、日本人がいかにこれらの調味料を大切にしてきたかを物語る。このように、醤油、味噌、酢は、日本人にとって切っても切れない重要な嗜好品である。また、味噌や酢には健康を維持し、老化を防ぐ保健的機能性がしっかりと宿っている。近年の科学的知見をふまえ、血圧上昇や肥満の抑制、発ガン予防などの驚くべき効能も紹介されている。発酵調味料の歴史や周辺の食文化、さらには現状と今後を理解することは、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された今こそ時宜を得たものである。発酵興味料が日本に誕生していなかったら、今日のこの民族の繊細で大胆、粋にして大らかな味覚の生理的感覚は育っていなかったであろう。日本料理の何もかも、醤油、味噌、酢がなかったら何も語れない。まさに天下無敵の調味料なのである。

第1章 醤油の話−塩のこと/醤油の歴史/醤油ができるまで/日本の魚醤/日本人の醤油観/醤油の現状とこれから 
第2章 味噌の話−味噌の歴史/味噌の造り方と種類/味噌の成分/豆味噌のこと/郷土にみる味噌の名産地/味噌の料理と調理特性/味噌の神技、諺と民話/味噌の保健的機能/味噌の現状とこれから 
第3章 酢の話−「酢」とは/日本の酢の歴史/酢の造り方と種類/酢と日本人の料理/酢と鮨/酢の保健的機能/酢の現状とこれから

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2018年06月09日

人はなぜ星を見上げるのか 星と人をつなぐ仕事

 ”人はなぜ星を見上げるのか 星と人をつなぐ仕事”2016年8月 新日本出版社刊 橋 真理子著)は、つなぐ、つくる、つたえるをキーワードに星を介して様々な分野と人をつないでいる宙先案内人による20年間の仕事の記録である。

 プラネタリウムや星・宇宙を仕事のパートナーにするようになって、まもなく20年になるという。高校生のときに出逢ったぞオーロラを追いかけ、大学卒業後の大学院では5年間研究生活を送っていた。自分が取り組みたいテーマを見出すことができずに行き詰まったとき、人生に最も大きな影響を与えた一人で、オーロラやアラスカに駆り立てた写真家の星野道夫氏の突然の訃報に接した。

 星野道夫氏は1952年千葉県生まれ、慶應義塾高校を経て慶應義塾大学経済学部卒業の、写真家、探検家、詩人であった。1978年にアラスカ大学野生動物管理学部に入学し、アラスカの大自然の中で、自然と人の関係性をテーマに、多くの写真と文章を残した。1996年にテレビ番組の取材のため滞在していたロシアのクリル湖畔に設営したテントでヒグマの襲撃に遭い、43歳で死去した。

 橋真理子氏は1970年埼玉県生まれ、北海道大学理学部を経て名古屋大学大学院でオーロラ研究を行った。星野道夫氏の訃報に際し、いつかミュージアムをつくるという夢を思い出し、科学館で修行を積むことを決心した。1997年から山梨県立科学館天文担当として、全国のプラネタリウムで類をみない斬新な番組制作や企画を行った。2013年に独立し、宇宙と音楽を融合させた公演や出張プラネタリウムを届ける仕事を行っている。最新スペースエンジンUNIVIEWの描く壮大な宇宙映像と、音楽と語りが融合したSpace Fantasy Liveを学校や企業ホールで行なう他、移動プラネタリウム、キャリア教育に関する講演、星・宇宙に関するイベント企画、番組制作、運営に関するコンサルタント、プラネタリウム職員研修などを行った。2014年からは、病院や施設に星を届ける病院がプラネタリウムを重点的に行っている。作曲家・ピアニストの小林真人氏、作詞家・詩人の覚和歌子氏、音楽家の丸尾めぐみ氏などとともに、多面的な宇宙を見せている。2008年人間力大賞・文部科学大臣賞を、2013年日本博物館協会活動奨励賞を受賞した。現在、星空工房アルリシャ代表、星つむぎの村共同代表、日本大学芸術学部・山梨県立大学・帝京科学大学非常勤講師を務めている。

 青春の日々に、研究で落ちこぼれ、自分は何を目指していたのか、ほんとうは何をやりたかったのかと自問自答したことがあった。やがて、自分とは何かという答えのない深みへと発展し、その井戸に降りたまま、しばらく抜け出られない日々が続いた。どうにも答えが出ずアラスカに出向いたことが一つの光となり、見失った自分を取り戻すことができたという。北海道の自然に魅了され、多くの人々に出会った多感な大学時代を経て、大学院で自然科学の研究の現場に触れてきた。今の目標は、サイエンスと社会の接点をつくりだすことにある。サイエンスそのものより、人間と自然そのものに対する思い入れのほうが強い。ただ、人がやるからサイエンスが面白いのであり、自然があるからサイエンスがある。その視点から、なるべくたくさんの人にとってサイエンスが文化になれば素晴らしいなと想っている。自然に対する愛情や、好奇心がサイエンスをつくりだすということを、研究の現場と一般の人々をつなげられる場所を提供することによって伝えたい。サイエンスを知ることで、得られる新たな驚き、発見がどこかで人間や自然を愛することにもつながるのではないか。

 ほんとうにつながるかどうかはわからない。けれど、人と人をつなげ、多くの人生を知り、多くの考えに出会う。そうした営みの中にサイエンスがあるということ、驚きは自然が与えてくれるものだということは確信をもっていえる。星野道夫氏にオーロラに憧れた高校生は、研究者から星と人々をつなぐ仕事にふみだした。星空と対峙することの意味を考え、多くの人々に出会い、心から幸せと思える仕事をやってきた。さまざまな実践の中で気づかされてきた星の力を、必要とするであろう人のところに届けるべく、2013年から宙先案内人として活動を始めた。そして2016年に科学館を退職し、星つむぎの村という団体を立ち上げ、あらたなスタートラインに立った。本書は、その仕事に至った背景と、多くのかけがえのない出逢いを語り、星と人とをつなぐ仕事を通して見えた人の思いを述べている。星は、いつもみんなの上で輝いていて、なぜか夢や希望を与えてくれるものである。ぜひ、空を見上げて、自分のこと、将来のこと、家族のこと、友達のこと、いろいろ考えてもらえるといいな、という。

プロローグ−20年前の手紙から/1 そうだミュージアムをつくろう/2 子どもたちの宇宙を原点に/3 「オーロラストーリー」が生み出したもの/4 心の中の星空をドームに―プラネタリウム・ワークショップ/5 星空が教えるめぐる時/6 星を頼りに―ぼくとクジラのものがたり/7 星で心をつむぐ−星つむぎの歌/8 見えない宇宙を共有する/9 星から生まれる私たち/10 遠くを見ること、自分を見ること/11 戦争と星空―戦場に輝くベガ/12 星がむすぶ友情―宮沢賢治と保阪嘉内/13 ほしにむすばれて―人と宇宙のドラマ/14 震災の日の星空/15 手紙を書くこと、見上げること/16 音楽とともに/17 宙をみていのちを想う―医療・福祉と宇宙をつなぐ
/18 星を「とどける」仕事へ/エピローグ−星つむぎの村へ

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2018年06月04日

遊ぶことと祈ること

10 遊ぶことと祈ること 今村 薫先生

(目標&ポイント)

 ヒトの特徴は大人になっても遊ぶことだといわれます。

 生物学的な生存維持以上の意味をもつ遊戯の意味に触れながら、現実世界を越えた想像力に基づく歌と踊りの体験について考え、さらに信仰や宗教の意義について解説します。

1. 遊びと模倣

 ヒトの特徴は大人になっても遊ぶことであるといわれており、オランダの歴史家ホイジンガは人間をホモ・ルーデンス=遊ぶヒトと名づけました。

 遊びと物まねは同じものではありませんが、重なる部分が多く、また、技術の学習と習得という実用的な面や、想像力の源として、純粋な喜びや楽しみへ繋がる側面をもっています。

1-1 模倣の進化的青景

 ヒトは自分たちが思っている以上に物まねが得意で、模倣を可能にする裏付けとして、他の個体の行動を見て同じ行動を反応する、ミラーニューロン神経細胞の存在が挙げられます。

 模倣について、認知心理学者トマセロは、真の模倣と、行動の目的を理解し目的へたどり着く独自の試行錯誤であるエミュレーションを、分けて分析する必要性を主張しています。

 まるごと他個体の行動をまねる真の模倣はヒトは行いますがチンパンジーは行わず、チンパンジーが行うのはエミュレーションだと言います。

 ヒトの模倣の特徴は身振りだけの行為を模倣できることで、他人の動きそのものを注目し他人の動きをなぞるようにまねて、自分の心を他人の心と重ね合わせることができます。

1-2 模倣の二つの側面

 物まねや模倣は新しい技術を獲得するときの有益な方法であるだけでなく、人と人を繋ぐコミュニケーションにとっても重要です。

 しかし、この二つは明確に分けられるものではなく、日本の伝統技能においてまねることが重要視されるものが多いですが、最終的には一種のコミュニケーションを目指しています。

 臨書は、手本を忠実に真似る形臨から始まり、段階がすすむと作者の生き方や精神性を模倣する意臨を行い、最終的に手本を見ずに書く背臨の境地に至ること目指しています。

 一見、技能の習得を目的とするための模倣に見えても、人間は、模倣して手本の作り手の行動をなぞり、さらに、手本の示す世界観を変容させ、手本とは別の世界を創造するのです。

1-3 サンにおける物まね

 サンは子どもだけでなく大人もさかんに物まねを行い、人物描写のための物まね、自分の体験の再現、動物の動作や鳴き声の物まねなどを行います。

 サンは娯楽的な物まねのほか狩猟現場で狩猟技術の一端として物まねを行っており、物まねは娯楽であると同時に、生業活動の狩猟に結びつく行為でもあります。

2. サンの子どもの遊び

2-1 「遊び」と「実用」の境界があいまい

 サンの子どもの遊びは日本の子どもの遊びと比べ、道具を使った遊びが少ない、鬼ごっこや隠れんぼやかけっこが見られない、遊びと実用の境界があいまい、という特徴があります。

 3歳前後のままごと遊びを経て、4〜5歳では12〜13歳くらいまでの年齢の子どもたちと混じって遊ぶようになり、少年少女が一緒になって大人の日常生活のまねをすることもあります。

 定住キャンプから数10m離れたところに自分たち用の小さな小屋を建て、その前で煮炊きをしたり、食べ物を分配したり、歌を歌ったり、大人の男女の恋愛の様子をまねたりします。

 大人の日常生活のまねごとは、手本である大人の世界をできるだけ正確に模倣しようとしつつ、しかし、模倣すること自体を楽しんで役柄を演じているのです。

2-2 「狩猟遊び」と「騎馬猟ごっこ」

 サンの少年たちは小さな弓矢やパチンコで鳥や小動物を捕まえて狩猟遊びをしますが、大人の狩猟と同じことをして狩猟の訓練をしているとは限りません。

 狩猟遊びとは別に演劇的要素の強い騎馬猟ごっこをして遊ぶことがありますが、ごっこ遊びにはあらすじが子どもたちの間で共有されていることが指摘されています。

 あらすじは@木の枝でおもちゃの棚と馬をつくるA全員がハンターになり槍をもち馬にまたがって全力疾走するB獲物役の少年は倒れ獲物をハンターが解体する、という3つからなります。

 騎馬猟ごっこは全体で1時間足らずの遊びで、身体活動も楽しさの一因ですが、それ以上に共有された想像上の世界を参加者全員でつくり上げることに楽しさと喜びがあります。

3. ダンスと祈り

 ヒトの模倣の特徴は対象の動きを正確になぞることであり、なぞることで対象の心理に近づき、さらに対象を越えて別の世界をつくり出すこともできます。

 歌やダンスも遊びの一種であり、サンの場合、動物の模倣をモチーフにしたダンスを踊ることで、自然界への祈りを表現させています。

3-1 初潮儀礼

 サンの少女は15〜16歳になって初潮を迎えた瞬間から、その後の数年間、様々な儀礼行為や禁忌事項を守らなければならない初潮儀礼があります。

 人生の節目に行う通過儀礼ーつであり、少女は約2週間別の小屋に隔離され、年長の女性から教訓を受け、女性たちが集まってダンスを踊って祝福されます。

 初潮儀礼で最も華やかなのは祝福のダンスで、同じキャンプや他のキャンプの女性たちも集まって少女を祝福し、半数は歌い手にまわり手を叩きながら甲高い声で歌います。

 野生動物のエランドの群れをモチーフにしたダンスは、雨が降り、植物が実り、動物が肥え太って大地を駆けまわる世界を再現しています。

3-2 ヒーリング・ダンス

 サンでは薬を飲んでも治らない重い病気には、伝統医が踊りを踊って治療することがあり、これをヒーリン・ダンスといいます。

(1)ダンスの始まり

 ヒーリング・ダンスは日が暮れてから始まり、焚き火の周りに10人あまりの女性たちが集まり輪になって座り、病人を連れてきてこの輪に加わらせます。

 まず、一人の女性が手を打ち鳴らしながら甲高い声で一っの旋律を歌い、即座に数人が合いの手を入れ、旋律を重ねてポリフォニーが始まります。

 さらに、次々と女性たちが唱和し、複雑なリズムを拍手で刻み、歌声の厚みが増し、男性の踊り手たちが一列になって、ステップを踏みしめながら女性たちの背後を回り始めます。

 4〜5人の踊り手たちの中で一人のヒーラーが治療の中心になり、病人の病を自分の身体にのり移らせ、さらに超自然的存在であるカミを説得して病気を治せると信じられています。

(2)治療すること

 ヒーラーは病人と呼吸を合わせ意識を病人に集中させ、病人の身体に取りついた邪悪なものを自分の身体にのり移らせ、ヒーラー自身も他の踊り手たちも次々と意識を失い倒れこみます。

 このときヒーラーの意識はカミのところへ行きカミと激しく口論し、カミが病人の治癒に同意するとヒーラーの痛みは解放されます。

 砂の上で痙拳するたびに身体の痛みは振り落とされて消えていくという、トランス状態になりサン語では”ダンスにおいて死ぬ”と言い表されます。

 女性たちの歌声のポリフォニーと手拍子のリズム、ヒーラー自身の激しいステップとダンスは一種の文化的装置で、ヒーラーはこの中でトランス状態に入れるように経験を積みます。

(3)聖なる体験

 サンの治療方法は超自然的存在との直接接触または直接交流によって諸問題を解決するという点で、シャーマニズムの一種です。

 基本特徴として、シャーマン=治療者と神霊との間にシャーマン側の意志による直接の交流があり、神霊の人間への憑依や、神が人間に啓示を与えるなどがあるとされます。

 これに対して、宗教学者のエリアーデは、シャーマニズムは人間であるシャーマンの魂が身体から離れて天空を飛翔して神霊と交流するという、聖俗二元論を唱えました。

 しかし、聖と俗は二者択一ではなく緊張関係を保ちつつ共存・両立するもので、人間社会はたえず聖なる世界に立ち戻り、俗なる世界の更新をはかるべきだと結論づけました。

(4)カミの存在

 サンはガマという超越者の存在を信じており、ガマはこの世界を造った創造主であり、人間に悪も善ももたらすといいます。

 ガマはもっぱら悪の部分が強調されていて、悪いことはガマの仕業とされ、また、善悪かかわらず、人智を超えたこと、自分の責任にできないことはすべてガマのせいにされます。

 ガマは昔話や物語ではピーシツォワゴと呼ばれ、創造神的な性格をもち、同時に民話の世界でトリックスターといわれ、いたずら者の地位を与えられ動物のようでもあります。

 物語の中の動物たちはいずれも動物としての特徴をもちながら常に人間の姿で登場し、人間と動物は不可分として描かれますが、自然を支配するカミは最高神ではありません。

(5)女性たちによる歌

 踊り手たちがトランスに陥っている間も、女性たちは途切れることなく歌を歌い続け、声を重ね合わせ、間髪容れずに手拍子を入れ意識を集中させています。

 中の数人の女性は意識を失った踊り手たちが焚火に突っ伏して火傷をおわないように、踊り手の体を支えたりしています。

 ダンスがクライマックスに達すると突然女性たちは歌声をとざし、手拍子だけの掛け合いが数小節続き、やがて、それもピタリと終わり静寂だけが残ります。
 一曲およそ一時間のダンスが何度も繰り返され、夜が白々と明けるまで延々と続き、女性たちの歌声によって、ヒーラーはエネルギーをもらいます。

(6)キャンプ全体の浄化

 サンでヒーリング・ダンスは特定の病人の治療を目的にしていますが、病人だけでなくダンスに参加した人全員が癒されます。

 さらに、踊り手たちが邪悪なものを追い払うことで、キャンプ中から悪いものがすべてとりはらわれて浄化されると言われます。

 ヒーラーはキャンプにとって重要な存在ですが、特別視されることはなく、他の男性と同じように日常生活を送り、専業化はされていません。

 日常生活とヒーリング・ダンスは連続し、人を癒す能力は誰にでもあり、人を癒すことが本当の人間、普通の人間として生きることを可能にすると言うサンもいます。

4. 祈りの世界の創造

 サンは動物の形跡を読み取ってなぞり、動物の行動をまね、ブッシュの中を歩き回り、植物と地形で作られた景観をなぞことで、カミの存在を感じカミを想像することに繋がります。

 動物をまねること自然をなぞることを様式化し、想像上の世界を皆で共有する場がサンの歌とダンスです。

 幾重にも重なった歌声と激しいリズムに合わせて、声を出し、呼吸し、手を打ち、踊るといった総合的な身体活動が意識の変性を引き起こし、カミとの直接対話を可能にします。

 この宗教体験において人々は癒され、さらに豊饒や平安を祈ることができ、感情の表現であるダンスと、治療を目的としたダンスは、一見異なっていても実は同根です。

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2018年06月02日

蒲生氏郷物語−乱世を駆けぬけた文武の名将

 ”蒲生氏郷物語−乱世を駆けぬけた文武の名将”(2011年6月 創元社刊 横山 高治著)は、織田信長の寵臣で信長の娘・冬姫と結婚し現在の会津若松の基礎を築きわずか40才でこの世を去った蒲生氏郷の生涯を紹介している。

 蒲生氏郷は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主を務め、文武両道にすぐれた武将として戦国乱世を駆け抜けた。大将ながら戦場で抜群の槍働きをなし、平時は城下の整備発展に尽くしたという稀有の名将として知られている。

 横山高治氏は1932年三重県津市生まれ、明治大学政治経済学部卒業。元読売新聞社会部記者で、読売新聞大阪本社にて河内支局長、連絡部次長などを歴任した。三重県平成文化賞、大阪府知事賞を受賞し、大阪歴史懇談会会長を務めた。

 蒲生氏郷は1556年に、近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれた。蒲生家は、日本の貴族の元祖、大職冠・藤原鎌足の流れを汲む名門藤原氏の一族である。母は近江の国守、近江源氏・佐々木六角家の重臣・後藤播磨守の娘で、ともに名門の家系である。幼名は鶴千代、初名は賦秀=やすひで、または教秀=のりひでと言った。1568年に観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した。鶴千代と会った信長は、”蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん”と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという。鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し、儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨いた。岐阜城での元服の際には信長自らが烏帽子親となった、弾正忠信長の一文字を与えられ、忠三郎賦秀と名乗った。

 1569年の南伊勢大河内城の戦いにて、14歳で初陣を飾った。戦後、信長の次女を娶って日野に帰国した。1570年4月に氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり、一千余騎で参陣し朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され5,510石の領地が加増された。その後、同年7月の姉川の戦い、1571年の第一次伊勢長島攻め、1573年4月の鯰江城攻め、8月の朝倉攻めと小谷城攻め、1574年の第二次伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦い、1578年からの有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。1582年に信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城へ走って、明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は山崎の戦いで敗死し、その後は清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従った。1583年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。

 戦後、亀山城を与えられたが、自身は入城せず家臣の関盛信を置いた。1584年の小牧・長久手の戦いでは、3月に滝川一益・浅野長吉・甲賀衆等と共に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めた。1585年の紀州征伐や富山の役にも参戦し、この頃に賦秀から氏郷と名乗りを改めている。秀吉の諱の一字を下に置く賦秀という名が不遜であろう、という気配りからであった。1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐でも活躍を見せた。一連の統一事業に関わった功により、1590年の奥州仕置において、伊勢より陸奥国会津に移封され42万石の大領を与えられた。これは、奥州の伊達政宗を抑えるための配置であったと言われている。会津において、氏郷は重臣達を領内の支城に城代として配置した。そして、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築した。築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から若松へと改めた。氏郷はキリシタン大名で洗礼名をレオンと言い、会津の領民にも改宗を勧めた。

 氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。1592年の文禄の役で肥前名護屋城へと参陣し、陣中にて体調を崩した氏郷は翌年11月に会津に帰国した、1594年春に養生のために上洛したが、この頃には病状がかなり悪化し、1595年2月7日、伏見の蒲生屋敷において享年40歳で病死した。蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された。未完の天下人、文武両道の達人、蒲生氏郷は戦国の名将であり、申し子であった。

 戦国史上、ひときわ輝く名将である。大変な戦略家にして文化人大名であり、もし氏郷が長生きをしていれば、大坂夏の陣も関ヶ原合戦も勃発せず、日本の歴史は少しは変わっていたかもしれない。茶聖・千利休の言として、氏郷を”文武二道の御大将にて、日本に於いて一人二人の御大名”と讃美した言葉が伝わっている。利休七哲の中でも氏郷は筆頭とされ、細川忠興と高山右近とは特に親しかった。戦国武将としては珍しく側室を置かず二人の実子が早世したため、蒲生家の血が絶える遠因となった。不幸にして働き盛りの40歳で世を去り、蒲生家も四代で滅んだが、氏郷は不朽の名将であり、今日の町づくりの先駆者であった。

第一章 湖国に華やぐ日野・蒲生家
 「荒城の月」ゆかりの会津鶴ヶ城/戦国風雲の申し子/蒲生の系譜/栴檀は双葉より芳し/近江源氏佐々木氏/痛恨の後藤騒動
第二章 鶴千代、晴れの松坂初陣
 織田信長、近江に侵攻/信長、鶴千代にひと目惚れ/伊勢大河内城に初陣/信長に従い各地に出陣/戦国乱世の先鋒/伊勢の関と神戸の両家/伊賀天正の乱
第三章 信長、秀吉の天下布武
 本能寺の変/日野篭城、秀吉に従う/清洲会議/伊勢路燃ゆ
第四章 松坂少将、戦雲・金鼓の夢
 松ヶ島城血戦と遷都/松ヶ島懐古/松坂開府/松阪を愛した文化人/氏郷はキリシタンか
第五章 みちのく鶴ヶ城の会津宰相
 会津転封/みちのく転戦/苦難の奥州平定/鶴ヶ城築城/会津の城下町づくり/氏郷名残りの茶道文化/会津の隠れキリシタン/氏郷と政宗、宿命の闘い/春の山風
第六章 悲愁、春の山風
 蒲生家残照/秀吉による毒殺説/晩歌

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2018年05月31日

時間と空間を区切る

9 時間と空間を区切る 赤堀 雅幸先生

(目標&ポイント)

 言語というヒトに特異な能力を使って、私たちは時間と空間を区切り、切り離してから組み立て直し、ついには世界を分解し、再構成します。

 ですが同時に、言葉にならないものの存在も、区切られた時間や空間の不自由さも私たちは知っています。

 言葉を使うヒトの特性を踏まえ、言葉がヒトに齎したものと言葉が課した制約を明らかにし、言葉の限界を乗り越える試みを、儀礼や信仰といった論点を交えて見ていきます。

1. 鳴くこととしゃべること

 人間がしゃべることができるのは鳴くことができるという能力の延長上にありますが、いつからヒトがしゃべるようになったのかははっきりしません。

 ヒトの前頭葉にあって発話を司るブローカ野は猿人には見られず、ヒトが聞いた言葉を理解することは聴覚野のそばのウェルニッケ野が主な役割を果たしています。

 哺乳類は元来、聴覚が発達した夜行性の動物ですが、ヒトとサルは昼行性に移行して視覚を発達させ、ヒトは常時直立二足歩行してからヒトになりました。

 話し聞くと別に読み書きもヒトの歴史に重要な役割を果たし、エジプトで約5000年前の表語文字がフェニキア文字をさらにギリシア文字を生み、その後のラテン文字につながりました。

2. 世界の切り分けと再統合

 言葉を使って効率よく情報を伝えることができ、一人で考え事をするときも言語を使用し、自分自身やまわりの物事を把握する、唯一ではありませんが強力な道具になっています。

 どのような言語も物事を区分し再結合して多様な意味をつくりますが、その多様性は言語の二重分節性と個々の言語による具体化の自由さに拠っています。

 世界中に非常にたくさんの言語があることは、構造主義言語学によれば、ランガージュ、ラング、パロールの関係として説明され、言語のあり方は文化全体のあり方にも重なります。

 ランガージュ=言語能力はヒトに共通に備わった言語を操る能力、ラング=言語はランガージュの具体的な個別の言語、ラックの枠中の実際の具体的な発言がパロール=発話です。

3. 二項対立と料理の三角形

 男と女のように単語と別単語の対比による二項対立がありますが、多数の二項対立が結びつき世界は二つ対抗関係として理解され、これを象徴的二元論、象徴的二分法などとよびます。

 構造主義人類学の生みの親のレヴイ=ストロースは、二項対立とは別に広く見られる思考の様式として、三項が互いに対立するあり方を三角形として論じました。

 英国の人類学者リーチはこれをより一般化して、プラス・マイナスは明確な二項対立、ゼロはそのどちらでもなく両者に対立、これをプラス・マイナス・ゼロの関係と説明しました。

 この図式はさらに日常と非日常と言い換えることができ、日常と恵みの非日常と災いの非日常という三角形が形成され、一義的な日常と両義的な非日常の対比が見られます。

4. 境界と通過儀礼

 フランスの人類学者ファン・ヘネップは、ヒトが人生の途上で行う様々な儀礼=人生儀礼や、何らかの集団に加わる際に行う儀礼=加入儀礼を一括して、通過儀礼とよびました。

 儀礼とは日常の中に人為的に境界を作り出す仕組みで、ヒトは徐々に成長し老いる中で、壮年から老年へ、現実の人生が言語が表すような段階的になるように儀礼を積み重ねます。

 通過儀礼はたいてい分離、移行、統合の三つの段階を踏んで行われ、参加者は古い日常から引き離され、非日常の移行のときを過ごし、新しい日常に帰還するという手順を踏みます。

 儀礼における非日常は日常に戻る前提ですが、干魃、飢饉、疫病、戦乱などは制御されない非日常であり、収めるための状況儀礼は状況自体が非日常であるため分離の段階を欠きます。

5. 世界観と宗教

 世界観は世界のありようと自分の立ち位置を言語や図解によって表したもので、世界に一定の秩序があるという前提に立ち、たいてい世界と自分を調和的に肯定します。

 宗教は日常を超える領域を想定した世界観を提示し、通常には知覚できない存在を前提とし、日常の領城との関係を価値付けられた全体として世界のあり方を語ります。

 宗教は近代化の進行と共に衰えるという考え方がありますが、これはどうやら誤った予測だったらしく、1970年代から人々が宗教に回帰する神の復讐が起きています。

 ギアーツは近代化がもたらした大きな社会の変化が既存の宗教と人々の日々の暮らしとの接点を見失わせ、そこから生じた危機意識が宗教に新しい方向付けを促すといいます。

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2018年05月26日

イースター島を行く−モアイの謎と未踏の聖地

 ”イースター島を行く−モアイの謎と未踏の聖地”(2015年6月 中央公論新社刊 野村 哲也著)は、絶海の孤島で失われた文明の謎を追い隠された聖地を求めイースター島に立つ1000体ものモアイをカラーで紹介している。

 イースター島は、南太平洋ポリネシアの東端に位置する、チリ領の火山島である。総面積はわずか163.6?で、瀬戸内海に浮かぶ小豆島ほどの大きさしかない。島を領有する南米チリとは東に3700km、人の住む最も近い陸地ピトケアソ諸島ですら西に2000kmも離れており、まさに絶海の孤島という表現がふさわしい。現地語名はラパ・ヌイで、正式名はパスクア島である。ラパ・ヌイとは、ポリネシア系の先住民の言葉で広い大地を意味する。そして、パスクアはスペイン語で復活祭=イースターを意味する。1722年4月5日にオランダ人の提督ヤコブ・ロッフェーヘンかヨーロッパ人として初めて渡来したが、その日はちょうどキリスト教の復活祭の日であったことに由来する。日本では英称由来のイースター島と呼ばれることが多い。

 野村哲也氏は1974年岐阜県生まれ、高校時代から山岳地帯や野生動物を撮りはじめ、アラスカ、アンデス、南極などの辺境地に被写体を求めた。2007年より2年ごとに住処を変えるライフスタイルを続け、現在までに南米チリのパタゴニア、南アフリカ、イースター島などに移住した。今までの渡航先は102ヵ国に及び、秘境のツアーガイドやテレビ番組制作にも携わっている。スライショーなど講演活動で国内外を飛び回っている。

 イースター島はモアイの建つ島として有名である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。この海底火山の噴火によって形成された島に、最初の移民が辿り着いた時期については諸説がある。文字記録が無いため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀〜5世紀頃とする説や西暦800年頃とする説が有力だった。近年の研究では西暦1200年頃ともいわれる。移民は遥か昔に中国大陸からの人類集団の南下に伴って、台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派で、いわゆるポリネシア人である。ポリネシア人の社会は酋長を中心とする部族社会で、酋長の権力は絶対で厳然たる階級制度によって成り立っていた。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者達の霊を部族の守り神として祀る習慣があった。初期のヨーロッパ人来航者は、ホトゥ・マトゥアという首長が一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。上陸したポリネシア人は鶏とネズミを共に持ち込んで食用とした。

 イースター島といえば、誰しも思い浮かべるのは、かの有名なモアイ像だろう。虚空を見つめ、海を背にして立ち並ぶ、謎めいた三頭身の石造彫刻である。ミステリアスでいながら、どこかユーモラスでもあるこの石像群は、10世紀から17世紀にかけて、各部族の守り神や墓標として作られたものとされている。アフというプラットホーム状に作られた石の祭壇作りは7世紀?8世紀頃に始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになった。加工し易い軟らかな凝灰岩が大量に存在し、採石の中心はラノ・ララクと呼ばれる直径約550mの噴火口跡であった。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフもモアイも作られていった。モアイの語源には諸説あるが、島民たちに聞けば、誰しも”生きている顔”のことだという。その名の通り、一見同じように見えるモアイの顔はどれも個性的で、島に約1000体ある石像のなかには、赤いモアイ、正座するモアイ、四本の手を持つモアイなどの変わり種も多い。

 モアイは比較的加工し易い素材である凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられており、デザインも時代につれ変化していった。モアイは”海を背に立っている”と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。現在、アフに立っている全ての像は、近年になって倒れていたものを立て直したものである。だが、この島の本当の魅力は、モアイだけでは語り尽くせない。断崖絶壁に隠された処女の洞窟アナ・オケケ、水の洞窟アナ・テ・パフ、夏至の日にだけ壁画を照らすアナ・カイ・タンガタなど、洞窟群は200以上ある。また、瑠璃色の宇宙のような火口を持つラノ・カウ火山、絶景を見渡す最高峰テレバカ火山、モアイの大製造工場ラノ・ララク火山など、火山群が70以上ある。さらに、生涯の幸福をもたらす幻の緑閃光、グリーンフラッシュ、全土か熱狂の渦に包まれる島のオリンピックのタパティ祭り、どんなガイドブックにも載っていない、ごく一部の島民だけが知る未開の聖地などもある。

 イースター島はかつては緑溢れる豊かな島だったが、モアイ倒し戦争や西洋人の来航によって、1万人以上いた島民は約100人にまで激減し、文明は失われてしまった。島民の入植から17世紀までの間モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息した。著者はこれまで、取材で計15回イースター島に足を運び、現地でしばらく生活してみたそうである。この島を観光で訪れる人たちの多くかモアイだけ、それもかなり表層的な部分だけを見て満足していることに、少し残念な思いを抱いていたという。そこで本書の前半では、独自に考えたルートに沿ってモアイの歴史的・文化的背景を、できるだけ掘り下げて紹介することに取り組んだ。後半では、滅多に立ち入ることかできない最深部への旅を通して、未だ知られざる、隠された島の素顔を描くことに挑戦したそうである。前半がイースター島の表の顔を紹介したものだとすれば、後半は隠された秘密の素顔を、初めて白日のもとにさらしたものといえるかもしれない。ガイドブックはもちろん、ネットで探してもまず見つけることかできない、特別なガイドが導く特別なイースター島が紹介されている。

第一章 モアイの島
 ラパーヌイ ハンガロア村 モアイルート @アナーケナ アフ・ナウナウ アフーアトウレーフキ Aテーピトークラ Bアフートンガリキ Cラノーララク モアイの制作ステップ 個性的なモアイたち モアイの運搬について Dアフーアカハンガとアフーハンガーテエ(バイ
フー) アフーアカハンガ アフーハンガニアエ(バイフー) Eビナプー アフータヒラ アフービナプー Fオロンゴ 鳥人儀礼
第二章 歴史の島
 モアイの眼 ロンゴ・ロンゴの木板島の形成−300万年前〜75万年前 最初の居住者−600〜900年 モアイの誕生−900〜1680年 島の環境問題 モアイ文化の終焉−1680〜1722年 部族闘争激化−1722〜86年 奴隷狩り−1805〜79年 チリによる支配−1879〜1903年 ウィリアムソン・バルフォア株式会社−1903〜53年 今日の島−1953〜2014年
第三章 内なる島
 洞窟ルート @タハイ儀式村 Aアフ・フリ・ア・ウレンガ Bプナ・パウ Cアフ・アキビ Dアナ・テ・パフ Eアフ・テベウ Fアナ・カケンガ(ドス・ペンターナス) Gアフ・ハンガ・キオエ Hアナ・カイ・タンガタ
第四章 祭りの島
 島の日常 タパティ祭り タパティ開催 トライアスロン 競馬ハカペイ 布作り 歌合戦 カイカイコンテスト(あやとリ) 昔話合戦 ハーモニカコンテスト 飾りものコンテスト ファッションショー グループダンス 巨大なモアイ像と山車のパレード 最終日
第五章 聖なる島
 パトとの出会い @ポイケ半島 Aテレバカ火山とグリーンフラッシュ Bピンクの浜と珊瑚のプール Cモアイと皆既日食 D北部の特別な道(グレートートレック) E生命の樹
終章 祈りの島々

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2018年05月21日

ヒトの繋がりと社会集団

8 ヒトの繋がりと社会集団 深山 直子先生

(目欄&ポイント)

 ヒトの繋がりの特徴について、普遍的側面と時代的変化に留意しながら考えます。

 まず、親子と婚姻という二つの関係に基づいた親族という繋がりを解きほぐします。

 その過程では、出自を原理とする集団形成についても触れます。

 次に近代以降に重要性を増してきた繋がりとして、地縁、社縁、情報縁について、それらの差異に留意しながら見ていきます。

1. 社会的動物としてのヒト

 ニュージーランドの先住民マオリは、挨拶する際には決まった型の自己紹介で始め、自然環境や社会環境の中に位置付け、人との関係性や集団の成員権を通じて理解します。

 多様な繋がりの存在はマオリ社会に限らず現代日本も同様で、家族、親戚、学校、会社、バイト先、居住場所、サークル、インターネット空間などにおいて、他者と繋がっています。

 ヒトはこのような繋がりに生きる動物でありしばしば社会的動物といわれますが、社会性は身近な動物や昆虫にもあり、人間だけに認められるとは限りません。

 ヒト以外にも社会性は認められますが、他者との繋がりの複雑さ、形成する集団の多様さ、死者や会ったことがない人々まで含む点で、ヒトとその他の生物は一線を画しています。

2. 親族という繋がり               ・

2-1 親子関係と婚姻関係

 ヒトの繋がりの中でも、時代や地域、文化を超えて普遍的に指摘できるのは、世代をまたぐという意味でタテ繋がりの親子関係と、同世代間のヨコ繋がりの婚姻関係です。

 母子関係は最も基本的なヒトの繋がりであり、母は子が生まれた直後から、長期間にわたり授乳・養育し様々なリスクから守り、特別に強い繋がりを必然的にもっています。

 父と子の繋がりには曖昧な部分がありますが、人類社会の父はきわめて文化的な存在となり、父と子の繋がり、ひいては家族を含む親族集団の多様性を生み出したと考えられます。

 親族は親子関係と婚姻関係に加え血縁があり、同世代である兄弟姉妹の関係が重要な意味をもっており、婚姻関係にある2人の男女とその未婚の子を核家族と称しています。

2-2 出自と出自集団

 家族はより広い親族という関係に埋め込まれていて、理念的にはタテ方向にもヨコ方向にも無限に広がるカテゴリーですが、その範囲を定めるための原理が出自です。

 出自とはある個人が祖先との間にもつ繋がりを意味し、個人には無数の祖先がいて出自にも無数の辿り方があり、父子関係からは父系出自が、母子関係から母系出自があります。

 父系か母系どちらか一つの出自=単系出自を原理としますと、特定の祖先を始点に定めた場合、始祖からその出自をもつ子孫全てが出自集団の成員になります。

 一方で、祖先の性別にこだわらない出自の辿り方をしたり、状況に応じて父系と母系どちらか一方を選択したりする社会もあり、その場合は成員権の基準が曖昧です。

2-3 父系社会と母系社会

 父系出自集団では集団形成の軸は男性の連なりですが、姉妹たちもまたこの集団の成員として位置付けられ、男性たちは母との繋がりを通じて姉妹たちと同様に母系出自を辿れます。

 中国の漢族では子が誕生すると男性も女性も父の姓を名乗り父系出自集団の成員になり、オセアニアのミクロネシアの島々の多くで母系出自の原理が発達しています。

 母系出自集団は多くの場合、固有名と位階を表す称号をもち土地や財産を所有し、婚姻の相手は他の母系出自集団の成員でなくてはいけないという規則が見られます。

 父系社会と母系社会は対称的とはいえず、父系社会では大抵男性が女性に比べて優位に立ちますが、母系社会は必ずしも女性が優位に立たないことに留意する必要があります。

3. いろいろな繋がり

3-1 地縁

 常に移動をともなう生活では血縁の連鎖による親族集団が最も重要な社会集団でしたが、約1万年前に農耕という生業形態が発明され特定の場所に定住化する人々が登場しました。

 これ以降、親族に加え地縁が意味をもつようになり、ある領域に根差した政治的結合や経済活動が強まったりすると、血縁よりむしろ地縁が重要視される場合があります。

 現代日本の自治会や町内会といわれる集団は地域共同体の事例であり、住民への情報伝達、清掃や防犯の取り組み、伝統行事など年間を通して多様な活動を行っています。

 NZマオリ社会は出自集団の部族集団で構成されていましたが、20世紀半ば以降、都市化にともない、帰属する部族集団とその領域、さらにマラエから遠ざかりました。

3-2 社縁

 現代社会では親族集団や地域共同体以外にも、定の目的を達成したり関心を満たしたりするために結成された結社=アソシエーションが存在します。

 結社の線を社緑と呼び、工業化と都市化にともなって血縁および地縁に措抗するようになり、現代ではより一層重要性か増しています。

 血縁や地縁は生まれや住まうところによって決まってしまう部分か大きいですが、社縁は私たちが自発的につくったり断ったりすることができる繋がりです。

 血縁や地縁の活動は幅広く個人は多様で包括的な存在ですが、社縁の活動は限定的で個人は断片的ですので、社縁は、血縁、地縁に此べて広く浅い繋がりを可能にします。

3-3 情報縁

 1990年代以降、インターネット利用者数は爆発的に増加し、パソコン、携帯電話、タブレットから情報を、受信・発信、交換することは、世界各地において日常の光景となりました。

 個人間の繋がりの促進を支援するSNSの発達もあって、現実社会で繋がらないような多様な人々が、特定の目的や関心だけを共通点に情報禄をつくっています。

 特定の掲示板サイトやメーリング・リスト、グループ・チャットなどに集い交流している場合、結社に似たインターネット・コミュニティが出現します。

 個人は社縁異常に簡単に無数の情報禄を作ることができ、情報縁が従来の現実社会の繋がりを強化する事例も多くなり、情報縁は、血縁、地縁、社縁と補強関係にあります。

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2018年05月19日

凜とした小国

 ”凜とした小国”(2017年5月 新日本出版社刊 伊藤 千尋著)は、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーといういま輝いている4つの国の現状を紹介している。

 凜としたというのは、態度や姿などがりりしくひきしまっているさまを指している。ここで紹介しているのは、世界に通じる価値観を持ち胸を張って独自の国づくりをする凛とした4つの小さな国々である。それは、中米のコスタリカ、民主化したばかりのミャンマー、米国と国交を回復したキューバ、シルクロードの中心地のウズベキスタンである。

 伊藤千尋氏は1949年山口県生まれ、下関西高等学校を経て、1973年に東京大学法学部を卒業した。大学4年の夏休みに朝日新聞社から内定を得たが、産経新聞社が進めていた冒険企画に応募し、調査探検隊を結成して東欧に飛んだ。東欧では現地のジプシーと交わって暮らし、日本初のジプシー語辞書を作り、帰国後は新聞にルポを連載した。ジプシー調査でジャーナリズムの醍醐味を知り、1974年に再度入社試験を受けて朝日新聞社に入社した。長崎支局、筑紫支局、西部本社社会部、東京本社外報部を経て1984年から1987年までサンパウロ支局長、1991年から1993年までバルセロナ支局長、2001年ロサンゼルス支局長となった。その後、雑誌編集部員を経て、2009年に定年を迎えるが再雇用で雑誌編集部に勤務し続けている。

 あなたは、旅に出たいと思ったことはないだろうか、逃げるためではなく、向かう旅である。権力におもねて卑屈に生きるのは貧しい人生である、小粒でも自由で凛とした生き方を貫きたい。就職の内定を断ってルーマニアに飛び、人生を旅で過ごすジプシーことロマ民族を追う流浪の旅で、想像もしなかった生き方に接し、うかがい知れない世界があることを肌で感じ取った。新聞記者になってからも世界を旅し、中南米、欧州、米国の特派員をし、週刊記者としてアジアを回った。退職後はフリーのジャーナリストとして、これまで世界78の国を現地で取材した。記者の目で現地を探り各地を見比べると、大国と呼ばれる国よりも独自の価値観を持ち自立する小国の方が、人間も国も輝いていることを知った。

 日本は明治以来、ひたすら大国を夢見てまず軍事大国となり、無謀な戦争で挫折したあとは超大国にすり寄り、経済大国になると図に乗って過去の軍事大国に戻ろうと画策する。しかし、気がつけば経済で中国に追い抜かれ不況は長引き、経済大国は有名無実である。正社員を保つことすらできず、年金さえ保障されない。幸福度の世界ランキングは先進国で最下位で、開発途上国よりも下にある。本来の豊かさにおいて、日本は途上国に後退している。本書は、2016年から17年にかけて訪れた、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミヤンマーの旅で目にした記録である。 ウズベキスタンとミヤンマーは初めての訪問で新鮮だったし、コスタリカやキューバはそれまでの訪問で得た知識の蓄積を内容に込めた。

 コスタリカは人口4857万人(2016年)中央アメリカ南部に位置する共和制国家で、北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。この国は1949年、日本に次いで世界で2番目に平和憲法を持った。これにより常備軍を持たない国となったが、非常時徴兵は規定されている。日本と違って完全に自ら創り、しかも本当に軍隊をなくした。周囲の中南米の国々が内戦で明け暮れた時代も、この国だけは平和を維持した。かつてコスタリカの大統領は内戦をしていた周囲の3つの国を回って戦争を終わらせ、1987年度のノーベル平和賞を受賞した。大統領が行ったのは平和の輸出である。自らの平和と中立を保ち世界に平和を広め平和国家としての地位を確立することが、この国の平和外交である。米国のトランプ政権が国境に壁を築き、欧州では難民を閉めだそうとする時代に、コスタリカはだれも排除しないことを掲げた。さらに環境問題では世界の先進国で、エコツアーの発祥の地である。

 キューバは人口1123万人(2016年)、カリブ海の大アンティル諸島に位置した、ラテンアメリカの共和制国家である。2014年12月に、米国のオバマ大統がキューバとの国交回復を発表し、2015年7月に国交が回復された。その効果は絶大で、それまでキューバを訪れる観光客は年間に300万人ほどだったが、2015年は350万人を超えた。2016年2月には米国とキューバの間の航空協定が結ばれ、2016年にキューバを訪れた観光客は400万人を超えた。米国と国交を回復したキューバでは、個人崇拝をさせない姿勢がカストロの死後も貫かれている。かつて軍服姿の警官が街のあちこちにいたが、今では治安が良くなりあまり見かけなくなった。

 ウズベキスタンは人口3212万人(2017年)、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和国で、北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接している。国土の西部はカラカルパクスタン共和国として自治を行っており、東部のフェルガナ盆地はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいる。かつてソ違という超大国の傘下にあったこの国は、他の国々とは違って自立に成功した。シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、青の街サマルカンドや茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名である。ソ連からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。

 ミャンマーは人口 5288万人(2016年)、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家で、独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦であった。南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。1948年に英国から独立したあと、穏健な社会主義政権が生まれた。しかし、共産党の武装蜂起、少数民族の反乱、さらには中国の国民党軍が侵入して内戦状態になった。ひどい混乱の中、1962年にクーデターが起き、議会制民主主義を否定し、ビルマ式社会主義という特異な政治体制が敷かれ、社会主義を看板に掲げた軍事独裁政権になった。つい最近まで閉ざされた国だったが、1988年に民主化を求めて人々がゼネストをしき、彗星のように躍り出たのがスーチーさんである。2015年の総選挙でスーチーさんが率いる党が圧勝し、2016年にスーチーさんの側近が大統領に就任し、ようやく民主主義の新政権が発足した。いずれも発展途上であり歴史的、経済的な事情から困難も多いが、懸命に生きようとする姿勢には見習うべきものが多い。

 世界がグローバリズムの風潮に追いまくられて人間性を失う時代に、経済的には貧しくとも人間としての心の豊かさを求め、自立した独自の価値観を堅持している社会がそこに見えた。凛として主張する姿は、こちらの方が本来の大国のようにも思えたという。

第1章 平和憲法を活用するコスタリカ/第2章 キューバは今―米国との国交を回復して/第3章 シルクロードの中心、ウズベキスタン ソ連後の中央アジアを探る/第4章 闘うクジャク―ミャンマ

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2018年05月13日

ヒトの家族の起源

7 ヒトの家族の起源 今村 薫先生

(目標&ポイント)

 動物の中でヒトだけが様々なかたちの家族をもち、そのうえに親族、地域集団などの重層的な社会組織とネットワークを形成しています。

 人類の家族は、インセスト・タブー、外婚、コミュニティーの存在、性別分業などの重要な特徴をもっています。

 このような家族の類型と進化を、霊長類学の知見も踏まえて議論します。

1. 家族とは何か

 動物の中でヒトだけが様々なかたちの家族をもち、社会全体として新たな家族が形成され、文化や社会が次の世代に継承されていきます。

 家族は居住空間をともにしており、生産活動と消費をともに行い、夫婦の性的関係で結ぱれ、子どもを産み育てるという生殖と教育の場でもあります。

 ジョージ・マードックは2001年に、家族の基本的な単位は夫婦と未婚の子の核家族と提唱しましたが、欧米以外の社会の民族誌から核家族論が批判されるようになりました。

 現在の人間社会において家族はこのように多様であり、核家族とは真逆に見える社会、経済と教育も親族集団、地域集団において機能しているような社会も多いのです。

2. 霊長類の社会構造

 霊長類の社会構造の進化は、より多くの個体と交渉を保とうという傾向と、特定の雌雄の安定した結びつきを達成しようという背反する二本の糸に操られてきました。

 類人猿の社会では、オランウータンは単独・集団非継承、テナガザルは単雄単雌・集団非継承、ゴリラは単雄複雌・集団承継&非承継、チンパンジーは複雄複雌・集団承継です。

 これらの類人猿はヒトに近い動物としてヒト上科にまとめられ、5種類の類人猿はすべてメスの子が単位集団を出ていく共通点をもっており、非母系でまとめられます。

 霊長類には母系の社会が多いですが、類人猿のように非母系の社会もあり、順位が世代を超えて固定することはなく、個体の関係がより柔軟で多様になる特徴があります。

3. インセスト・タブー,そして外婚        1

 今西錦司は、インセストタブー、外婚、地域社会、労働の性別分業の4つが存在すれば人間家族と呼んでよく、分業を除く3条件はすでに類人猿社会に備わっていたと考えました。

 インセストの回避とは近親相姦の回避であり、どの関係をインセストと見るかは社会により異なりますが、世界中例外なく、最も血縁度の高い関係では回避すべきとされています。

 インセストの回避はヒト以外の動物も、群れで生まれた子が性成熟に達すると、オスまたはメスが集団を出ていくことで、集団の構造としてインセストが回避されています。

 人間の伝統的社会で見られるインセスト・タブーは結果として外婚を導き出し、ヒト以外の動物の単位集団はヒトの外婚集団と類似した機能を果たしました。

4. 重層的社会                  !

4-1 地域社会                       ]

 ヒトの社会は家族の上に何層にもわたる上位集団を重ねたり組み合わせたりしながら、複雑な経済活動や政治を可能にしてきました。

 ヒトの重層的な社会の原型は、ゴリラのような単雄複雌型と、チンパンジーやボノボのような複雄複雌型の2種類のいずれかは、現在のところ決着はついていません。

 ゴリラ型が原型であった場合、初期の人類家族は一夫多妻であり、父親がはっきりしている点でヒトの社会に類似し、家族が複数集まって友好的な関係の地域集団が形成されます。

 チンパンジー・ボノボ型が原型であった場合、オスもメスも複数の乱婚的な単位集団から、特定のオスとメスが安定的な配偶関係を結んだ家族が析出してきました。

4-2 繁殖戦略と社会

 豊かな熱帯雨林は食べ物が豊富にあり、母親が手をかければ子どもが確実に育つので、ヒト科の動物は少数の子どもを手間暇かけて育てる少産多保護をとってきました。

 ヒトは授乳期間が概ね半年〜数年で年子を生むことも可能であり多産多保護の傾向がありますが、ヒトの場合、離乳後の子どもの世話が他の類人猿よりも格段に必要です。

 ヒトが短い出産間隔でたくさん産めるのはオスの育児参加のためとも考えられ、ヒトは進化の早い段階から雌雄の安定した配偶関係を結び、オスが母子を助けたと言われます。

 オスの育児参加は人類進化にとって決定的に重要な事柄ですが、オスは必ずしも遺伝的な父親であるとは限らず、血のつながりはなくても父親の役割を果たす男性が必要でした。

4-3 性と個体関関係

 類人猿は季節的な繁殖期がなく一年中繁殖が可能ですが、メスには性周期があり発情期には普段はしぼんでいる性皮とよぱれる部分があります。

 チンパンジー・ボノボの性皮は大きな果実のように腫れ上がりますが、ゴリラでは性皮の腫脹はほとんど見られません。

 性皮の腫脹があるチンパンジー・ボノボは配偶関係が不安定な乱婚型で、腫脹が見られないゴリラは配偶関係が安定した一夫多妻型です。

 チッパンジーは極端な少産多保護でメスはほとんど発情せずメスの奪い合いによる仲間同士の緊張関係がありますが、ボノボはニセの発情をして仲間同士の緊張関係を解決しています。

 ゴリラは一夫多妻型でメスの性皮はほとんど腫脹せず、リーダーオス中心の群れは一定地域を遊動しますが、排他的なテリトリーをもたずリーダーオスどうしの関係は対等に近いです。

 現在のヒトは性皮が腫脹するなどの発情行動はまったく見られず、人類の女性は進化の過程で性皮の腫脹という特徴を失ったのではなく、もともともっていなかったと推測しています。

 雌雄の体格差と社会のタイプは相関があり、性的二型の大きい動物は一夫多妻型になり、性的二型の小さい動物は一夫一妻型になるか、あるいは乱婚型になる傾向があります。

 初期人類の社会は雌雄はある程度安定した配偶関係をもち、かつ、雌雄が複数いる群れ生活をおくるという重層的な社会だったようです。

5. 分配と性別分業

 初期人類の女性は面倒見のよい男性を配偶者に選び、性関係を強固にして食料供給を安定的にし、男性は自分の遺伝子を受け継ぐ子どもだけに食物を分け与えようとしたと考えられます。

 家族は核家族で夫婦が収穫物の肉と採集物を交換したと想定しがちですが、現代の狩猟採集民では、肉はキャンプやバンドの共同体全体に最終的に行き渡るように分配されています。

 肉と採集物は男性にも女性にも分配の末に行き渡りますが、これは共同体での共有であって男性と女性の一対一の交換ではなく、核家族は独立した経済単位ではありません。

 人間は家族と共同体の二つの集団に所属しますが、人類は共同での子育ての必要性と食の分かち合いの精神によって、家族と共同体の二つの集団の両立を成功させたのです。

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2018年05月12日

藤原秀衡 − 義経を大将軍として国務せしむべし

 ”藤原秀衡 − 義経を大将軍として国務せしむべし”2016年1月 ミネルヴァ書房刊 入間田 宣夫著)は、豊富な財力をもって中央政界とのつながりを強めながら仏教文化の大輪を花開かせた平安時代末期の豪族の藤原秀衡を紹介している。

 藤原三大の栄華と言われ、初代の藤原清衡が中尊寺金色堂で死去したのは、1218年秋の7月16日のことであった。御曹司と呼ばれた次男の基衡が、兄の小館惟常との二子合戦に勝ち抜いて、清衡の後継者としての地位を確立したのはその翌々年のことであった。そのとき、基衡は27歳で、その子の秀衡は9歳であった。清衡によって始められた仏教立国の事業は、二代目の当主たるべき基衡によって継承され、さらなるレベルアップが目指された。そして、治承から文治年間の争乱期には、軍事優先路線への転換を図って、広域軍政府樹立を目指したが、志なかばで斃れた。

 入間田宣夫氏は1942年宮城県涌谷町生まれ、1964年東北大学文学部国史学専攻史学科卒業、1968年東北大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程中退で、同年東北大学文学部助手となった。その後、山形大学助教授、東北大学助教授、東北大学東北アジア研究センター教授などを歴任し、2005年に東北大学名誉教授となった。東北芸術工科大学教授を経て2013年4月に一関市博物館長に就任した。専門は日本中世史で、2004年から2006年まで平泉の文化遺産世界遺産登録推薦書作成委員会委員となり、NHK大河ドラマ”炎立つ”の監修を務めた。

 藤原秀衡は平安末期の1122年に父は藤原基衡、母は安倍宗任の娘で、奥州藤原氏の三代として生まれた。1157年に基衡の死去を受けて家督を相続し、奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となった。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職で、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率した。この頃、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えたが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として、下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。秀衡は、源 頼朝のライバルとして、日本史の表舞台に登場することになった。1180年に頼朝が関東に挙兵したことによって、その背後を脅かす存在として、奥州の秀衡に対する期待が、京都方面で一挙に高まることになった。一躍、時の人になった秀衡であるが、その人となりについては具体的な情報が決定的に不足している。それもあってか、京都方面では、さまざまな人物像がかたちづくられ、流布されることになった。保守的な公家の間には、秀衡を含めて平泉藤原氏歴代の当主を蝦夷の王=野蛮人の王とみなす伝統的なイメージが消えやらず、強固な存在感を保ち続けていた。それに対して、高野山や東大寺など、仏教界においては、秀衡の評判は上々であった。

 秀衡は、武家の名門に生まれ、勢徳希世の人にして信心が厚く、仏教の興隆に尽くした理想的な人物であったとされている。公家側にあっても、後白河法皇の周辺では、それに共通するような人物像がかたちづくられていたらしい。通常一般の人びとの間でも、さまざまな人物像がかたちづくられていたのに違いない。けれども、それらの人物像のいちいちについて、それぞれの背景にまで遡って、具体的に検証するという作業が、きちんと行われてきたのかといえば、かならずしもそうとは言い切れない。ましてや、それらの人物像の相互関係などに踏み込んで考えられてきたとは、とても言い切れない。源 義経の保護者として有名で、治承・寿永内乱の中で、源 頼朝の背後をつくことを期待され、地方豪族としては異例の国守に任ぜられたが、結局、兵をあげなかった。しかし、頼朝追討の請文を提出したのは事実で、平家追討中の木曾義仲に呼応して頼朝を討とうと呼び掛けたともいわれている。平泉に宇治平等院の鳳凰堂を模して無量光院を建て、その東門のところに加羅御所をつくって常の居所とした。またその北に平泉館という宿館を構えていたが、それは奥羽支配の政庁というべきもので、いま柳之御所跡と称している場所がそれである。臨終の床において、源 義経を総大将として、鎌倉殿源頼朝に立ち向かうべきことを息子らに遺言した。しかし、平泉存続のためのこの方策は実らず悲劇の結末に向かうことになった。

 秀衡は、蝦夷の王でもなければ、北方世界の王でもない。そうではなくて、兵とよばれる家から台頭してきた地方豪族の一人だったのである。すなわち、時代の流れに向きあうなかで、さまざまな試行錯誤を経ながら、ないしは路線の転換を余儀なくされるなかで、地域的軍政府樹立のとぼくちまで辿りつくことができた人物だったのである。北方世界に向きあう辺境のなかの辺境ともいうべき地政学的な条件を最大限に生かすことによって、あわせて中央政権との対話と交渉を最大限に生かすことによって、人生を切り開くことができた稀有の人物だった。これまで、学界では、秀衡をもって、始めから、蝦夷の王だったとか、北方世界の王だったとかするような伝統的な志向性がもてはやされてきた。それにともなって、秀衡の政権を、長城の外側に根差した北方異民族の国家たるべき遼や金に、さもなければ渤海や西夏になぞらえるような指摘がくりかえされてきた。これに対し、本書では、日本国の内側における歴史の文脈のなかで、中央と地方のないし首都と農村の対話・交流のなかで、秀衡の人生を見すえる。あわせて、内乱のどさくさのなかで、想定外の事態に向きあうことによって、軍事優先路線への大胆な転換をよぎなくされるという秀衡晩年における決断のありかたについて、石母田史学の基本に則りつつ、それを浮き彫りにする。

序 章 さまざまな人物像/第一章 立ちはだかる大きな壁/第二章 偉大な祖父、清衡の国づくりを振り返って/第三章 平泉三代の御館、秀衡の登場/第四章 秀衡を支える人びと/第五章 都市平泉の全盛期/第六章 鎮守府将軍秀衡の登場/第七章 秀衡の平泉幕府構想/第八章 義経を金看板とする広域軍政府の誕生/第九章 文治五年奥州合戦/終 章 平泉の置きみやげ/引用・参考文献/藤原秀衡略年譜

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2018年05月11日

5月9日〜10日に磯部温泉へ

5月9日〜10日に磯部温泉に行ってきました。

○磯部温泉

 群馬県安中市にある温泉で、温泉記号の発祥の地として知られています。

 碓氷川に架かる愛妻橋・鉱泉橋からは妙義山を展望できます。

碓氷川.jpg

 鉱泉橋近くには足湯があり、愛妻橋のJR磯部駅側に市営の日帰り入浴施設があります。

 明治の児童文学者・巌谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話を書き上げました。

 おとぎ話自体は各地に昔からありますが、巌谷小波の関係で磯部温泉が舌切雀伝説発祥の地とされています。

 竹の春 雀千代ふる お宿かな

磯部旅館.jpg

 名物は磯部せんべいとふわとろ豆腐です。

 磯部せんべいは温泉水を利用し、薄く焼いたせんべいです。

 ふわとろ豆腐は磯部温泉の温泉水を使用した湯豆腐です。

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posted by kpie44 at 12:40 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月06日

食べ物を作り出す技と場

6 食べ物を作り出す技と場  梅ア 昌裕先生

(目標&ポイント)

 現代農業の特徴は、植え付けや収穫などだけでなく、作物の生長のための物質循環、水の供給、温度管理などにも人間が関与することです。

 それに対して、在来農耕は植え付けや収穫は人間が管理するものの、作物の生長に関わる部分は自然生態系のサービスに依存するという特徴があります。

 本章では、焼畑農耕、水田耕作、サツマイモ耕作などを事例に、在来農耕の特徴を学びます。

1. はじめに

 いかなる農耕においても、栽培化された植物の植え付けや収穫は人間によって管理されるのが原則です。

 一方、植物や動物の成長そのものには、大気の管理、物質循環、水の供給など自然生態系のサービスが大きな役割を果たしています。

 自然生態系のサービスを利用する度合いは農在来農耕ではその度合いが大きく、実践には自然についての広範な知識が必要とされます。

 また、在来農耕は、狩猟採集や家畜飼養、漁掃など、ほかの食料獲得行動と一緒に複合的なシステムを構成していることが多いです。

2. 焼畑農耕

2-1 耕作の手順

 焼畑農耕は、二次林または自然林を伐採し、そこに火入れをすることによって作物を栽培する空間をつくりだす農耕の一つの形態です。

 伐採した樹木や下生えの草本を燃やすことによって肥沃な畑をつくりだし、休耕期間をとることで生態系サービスを利用した地力の回復が可能となる点に特徴があります。

 焼畑とブルドーザでつくった畑を比較すると、陸稲、キャッサバ、大豆を植えた場合、いずれの作物も焼畑の方が生産性が高く、特に3年目の陸稲と大豆の生産性では顕著です。

 樹木や下生えが燃えた灰が肥料になり、整地した場合に比較して、土壌が踏み固められず水分を含みやすく、肥沃な表土が維持されることなどがその理由です。

2-2 焼畑のバリエーション

 一つは根菜型焼畑農耕であり、東南アジアの熱帯降雨林を起源地とし、タロイモ・ヤムイモ・バナナ・サトウキビなどの栄養繁殖をする作物を中心にした耕作が行われます。

 もう一つは雑穀栽培型の焼畑農耕であり、シコクビエ、モロコシ、アワ、キビなどを中心とした種子作物が栽培され、ゴマなどの油脂作物が随伴するという特徴をもっています。

 焼畑にはそれぞれの地域環境に応じて様々なバリエーションがあり、上記二つの類型が混合したような焼畑、根葉型焼畑農耕に陸稲が加わるものなども見られます。

2-3 ほかの生業との複合

 攪乱とは、台風などの自然の力あるいは人間の活動による生態系の構造の変化を指し、効果が大きすぎると生物種やバイオマス(生物量)が減少し、いわゆる環境破壊に繋がります。

 焼畑農耕で自然林や二次林が伐採されることは自然生態系にとっては攬乱ですが、適度な攬乱は生物多様性の維持によい効果をもつことが知られています。

 長い休耕期間を経た二次林には地表に太陽光線がほとんど届かず、地表部ではほとんど植物が成育せず,またそれを餌とする野生動物も少ないです。

 しかし、焼畑のための伐採によって人為的に擾乱されると地表に太陽光線が届き、そこには栽培化植物以外にも様々な植物が生育し、それを餌とする小動物が生息するようになります。

2-4 狩猟・採集の場としての焼畑

 パプアニューギニア低地社会では、焼畑として使った後の二次林が,家畜であるプタの飼養にとって重要な空間になっています。

 そこには、人間が放棄してから自然に育ったイモ類などを見つけることができ野生のブタも現れ、飼養されるメスブタは交配して森の中で子どもを産みます。

 中国の海南島に暮らすりー族は、在来の陸稲、トウモロコシ、タロイモ、ヤムイモ、キャッ
サバ、カボチャなどを混植する焼畑農耕を行っていました。

 リー族にとっての焼畑は、作物の栽培だけでなく、野生動植物の採集・狩猟の場としても機能する複合的な生業の場となっていました。

3. 水田耕作

 水田で耕作されるイネにはジャポニカ品種とインディカ品種があり、前者は長江の中下流域が原産地ですが、インディ力種は現在まで原産地についてははっきりしていません。

 現代的な水利システム導入前の水田耕作は、雨の少ない時期、水は競合資源であり、用水路はそこを流れる水を利用する人の共有財産で、その管理は共同作業で行われました。

 水田は稲を栽培する場であると同時に、漁撈、養殖、採集、そして稲以外の作物の栽培が行われる場であり、漁撈では稲作のパタンにあわせて様々な漁法が存在しました。

 水田は人間が新しく作りだしたニッチであり、水田およびその周辺には様々な野草が生え、一部は食用や薬用に供されたり、飼料として使われることも多かったようです。

4. 在来知のあり方

 ここまで説明してきた焼畑農耕と水田耕作では、それを行う人々のもつ在来知が大きな意味をもっています。

 農耕に関わる在来知はその社会の人々の頭の中にあって人から人へと伝えられ、農耕を行う中で新しい経験が積み重ねられて在来知は上書きされていきます。

 在来知のあり方は、住民によって長い間かわることなく守りつがれてきた民俗知識という、ステレオタイプ化されたイメージとは大きく異なっています。

 たとえば、サッマイモ耕作のための植樹と除草に関わる知識体系の中に、集団でそれなりに共有され、そのまわりに、個人レベルの経験によって新しく生まれ続ける領域が存在します。

5. 農耕の現代化で人類が失ったもの

 一つは、在来知によって行われる農耕は複合的であり、焼畑農耕は狩猟や家畜飼養の空間を創出し、水田耕作は米の生産に加え、魚や小動物、可食野草の採集を可能にしていました。

 現代農業は農作物の生産が最優先で生業の複合性は殆ど失われ、農薬により水田の可食雑草や水田漁携の魚類も大きく減少し,また、漁獲されることもなくなりました。

 二つは、在来農耕にはそれを裏打ちする在来の知識体系が存在し、農耕を実践する人々の個人的な経験の中で生まれ、社会の中でゆるく統合された状態で存在するものでした。

 在来の知識は、書籍などに記録されることのなく人々の頭の中に存在するものですので、在来農耕が消滅すると、それとともに消滅するものです。

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posted by kpie44 at 08:36 | Comment(0) | ヒト学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする