2018年05月21日

ヒトの繋がりと社会集団

8 ヒトの繋がりと社会集団 深山 直子先生

(目欄&ポイント)

 ヒトの繋がりの特徴について、普遍的側面と時代的変化に留意しながら考えます。

 まず、親子と婚姻という二つの関係に基づいた親族という繋がりを解きほぐします。

 その過程では、出自を原理とする集団形成についても触れます。

 次に近代以降に重要性を増してきた繋がりとして、地縁、社縁、情報縁について、それらの差異に留意しながら見ていきます。

1. 社会的動物としてのヒト

 ニュージーランドの先住民マオリは、挨拶する際には決まった型の自己紹介で始め、自然環境や社会環境の中に位置付け、人との関係性や集団の成員権を通じて理解します。

 多様な繋がりの存在はマオリ社会に限らず現代日本も同様で、家族、親戚、学校、会社、バイト先、居住場所、サークル、インターネット空間などにおいて、他者と繋がっています。

 ヒトはこのような繋がりに生きる動物でありしばしば社会的動物といわれますが、社会性は身近な動物や昆虫にもあり、人間だけに認められるとは限りません。

 ヒト以外にも社会性は認められますが、他者との繋がりの複雑さ、形成する集団の多様さ、死者や会ったことがない人々まで含む点で、ヒトとその他の生物は一線を画しています。

2. 親族という繋がり               ・

2-1 親子関係と婚姻関係

 ヒトの繋がりの中でも、時代や地域、文化を超えて普遍的に指摘できるのは、世代をまたぐという意味でタテ繋がりの親子関係と、同世代間のヨコ繋がりの婚姻関係です。

 母子関係は最も基本的なヒトの繋がりであり、母は子が生まれた直後から、長期間にわたり授乳・養育し様々なリスクから守り、特別に強い繋がりを必然的にもっています。

 父と子の繋がりには曖昧な部分がありますが、人類社会の父はきわめて文化的な存在となり、父と子の繋がり、ひいては家族を含む親族集団の多様性を生み出したと考えられます。

 親族は親子関係と婚姻関係に加え血縁があり、同世代である兄弟姉妹の関係が重要な意味をもっており、婚姻関係にある2人の男女とその未婚の子を核家族と称しています。

2-2 出自と出自集団

 家族はより広い親族という関係に埋め込まれていて、理念的にはタテ方向にもヨコ方向にも無限に広がるカテゴリーですが、その範囲を定めるための原理が出自です。

 出自とはある個人が祖先との間にもつ繋がりを意味し、個人には無数の祖先がいて出自にも無数の辿り方があり、父子関係からは父系出自が、母子関係から母系出自があります。

 父系か母系どちらか一つの出自=単系出自を原理としますと、特定の祖先を始点に定めた場合、始祖からその出自をもつ子孫全てが出自集団の成員になります。

 一方で、祖先の性別にこだわらない出自の辿り方をしたり、状況に応じて父系と母系どちらか一方を選択したりする社会もあり、その場合は成員権の基準が曖昧です。

2-3 父系社会と母系社会

 父系出自集団では集団形成の軸は男性の連なりですが、姉妹たちもまたこの集団の成員として位置付けられ、男性たちは母との繋がりを通じて姉妹たちと同様に母系出自を辿れます。

 中国の漢族では子が誕生すると男性も女性も父の姓を名乗り父系出自集団の成員になり、オセアニアのミクロネシアの島々の多くで母系出自の原理が発達しています。

 母系出自集団は多くの場合、固有名と位階を表す称号をもち土地や財産を所有し、婚姻の相手は他の母系出自集団の成員でなくてはいけないという規則が見られます。

 父系社会と母系社会は対称的とはいえず、父系社会では大抵男性が女性に比べて優位に立ちますが、母系社会は必ずしも女性が優位に立たないことに留意する必要があります。

3. いろいろな繋がり

3-1 地縁

 常に移動をともなう生活では血縁の連鎖による親族集団が最も重要な社会集団でしたが、約1万年前に農耕という生業形態が発明され特定の場所に定住化する人々が登場しました。

 これ以降、親族に加え地縁が意味をもつようになり、ある領域に根差した政治的結合や経済活動が強まったりすると、血縁よりむしろ地縁が重要視される場合があります。

 現代日本の自治会や町内会といわれる集団は地域共同体の事例であり、住民への情報伝達、清掃や防犯の取り組み、伝統行事など年間を通して多様な活動を行っています。

 NZマオリ社会は出自集団の部族集団で構成されていましたが、20世紀半ば以降、都市化にともない、帰属する部族集団とその領域、さらにマラエから遠ざかりました。

3-2 社縁

 現代社会では親族集団や地域共同体以外にも、定の目的を達成したり関心を満たしたりするために結成された結社=アソシエーションが存在します。

 結社の線を社緑と呼び、工業化と都市化にともなって血縁および地縁に措抗するようになり、現代ではより一層重要性か増しています。

 血縁や地縁は生まれや住まうところによって決まってしまう部分か大きいですが、社縁は私たちが自発的につくったり断ったりすることができる繋がりです。

 血縁や地縁の活動は幅広く個人は多様で包括的な存在ですが、社縁の活動は限定的で個人は断片的ですので、社縁は、血縁、地縁に此べて広く浅い繋がりを可能にします。

3-3 情報縁

 1990年代以降、インターネット利用者数は爆発的に増加し、パソコン、携帯電話、タブレットから情報を、受信・発信、交換することは、世界各地において日常の光景となりました。

 個人間の繋がりの促進を支援するSNSの発達もあって、現実社会で繋がらないような多様な人々が、特定の目的や関心だけを共通点に情報禄をつくっています。

 特定の掲示板サイトやメーリング・リスト、グループ・チャットなどに集い交流している場合、結社に似たインターネット・コミュニティが出現します。

 個人は社縁異常に簡単に無数の情報禄を作ることができ、情報縁が従来の現実社会の繋がりを強化する事例も多くなり、情報縁は、血縁、地縁、社縁と補強関係にあります。

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2018年05月19日

凜とした小国

 ”凜とした小国”(2017年5月 新日本出版社刊 伊藤 千尋著)は、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーといういま輝いている4つの国の現状を紹介している。

 凜としたというのは、態度や姿などがりりしくひきしまっているさまを指している。ここで紹介しているのは、世界に通じる価値観を持ち胸を張って独自の国づくりをする凛とした4つの小さな国々である。それは、中米のコスタリカ、民主化したばかりのミャンマー、米国と国交を回復したキューバ、シルクロードの中心地のウズベキスタンである。

 伊藤千尋氏は1949年山口県生まれ、下関西高等学校を経て、1973年に東京大学法学部を卒業した。大学4年の夏休みに朝日新聞社から内定を得たが、産経新聞社が進めていた冒険企画に応募し、調査探検隊を結成して東欧に飛んだ。東欧では現地のジプシーと交わって暮らし、日本初のジプシー語辞書を作り、帰国後は新聞にルポを連載した。ジプシー調査でジャーナリズムの醍醐味を知り、1974年に再度入社試験を受けて朝日新聞社に入社した。長崎支局、筑紫支局、西部本社社会部、東京本社外報部を経て1984年から1987年までサンパウロ支局長、1991年から1993年までバルセロナ支局長、2001年ロサンゼルス支局長となった。その後、雑誌編集部員を経て、2009年に定年を迎えるが再雇用で雑誌編集部に勤務し続けている。

 あなたは、旅に出たいと思ったことはないだろうか、逃げるためではなく、向かう旅である。権力におもねて卑屈に生きるのは貧しい人生である、小粒でも自由で凛とした生き方を貫きたい。就職の内定を断ってルーマニアに飛び、人生を旅で過ごすジプシーことロマ民族を追う流浪の旅で、想像もしなかった生き方に接し、うかがい知れない世界があることを肌で感じ取った。新聞記者になってからも世界を旅し、中南米、欧州、米国の特派員をし、週刊記者としてアジアを回った。退職後はフリーのジャーナリストとして、これまで世界78の国を現地で取材した。記者の目で現地を探り各地を見比べると、大国と呼ばれる国よりも独自の価値観を持ち自立する小国の方が、人間も国も輝いていることを知った。

 日本は明治以来、ひたすら大国を夢見てまず軍事大国となり、無謀な戦争で挫折したあとは超大国にすり寄り、経済大国になると図に乗って過去の軍事大国に戻ろうと画策する。しかし、気がつけば経済で中国に追い抜かれ不況は長引き、経済大国は有名無実である。正社員を保つことすらできず、年金さえ保障されない。幸福度の世界ランキングは先進国で最下位で、開発途上国よりも下にある。本来の豊かさにおいて、日本は途上国に後退している。本書は、2016年から17年にかけて訪れた、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミヤンマーの旅で目にした記録である。 ウズベキスタンとミヤンマーは初めての訪問で新鮮だったし、コスタリカやキューバはそれまでの訪問で得た知識の蓄積を内容に込めた。

 コスタリカは人口4857万人(2016年)中央アメリカ南部に位置する共和制国家で、北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。この国は1949年、日本に次いで世界で2番目に平和憲法を持った。これにより常備軍を持たない国となったが、非常時徴兵は規定されている。日本と違って完全に自ら創り、しかも本当に軍隊をなくした。周囲の中南米の国々が内戦で明け暮れた時代も、この国だけは平和を維持した。かつてコスタリカの大統領は内戦をしていた周囲の3つの国を回って戦争を終わらせ、1987年度のノーベル平和賞を受賞した。大統領が行ったのは平和の輸出である。自らの平和と中立を保ち世界に平和を広め平和国家としての地位を確立することが、この国の平和外交である。米国のトランプ政権が国境に壁を築き、欧州では難民を閉めだそうとする時代に、コスタリカはだれも排除しないことを掲げた。さらに環境問題では世界の先進国で、エコツアーの発祥の地である。

 キューバは人口1123万人(2016年)、カリブ海の大アンティル諸島に位置した、ラテンアメリカの共和制国家である。2014年12月に、米国のオバマ大統がキューバとの国交回復を発表し、2015年7月に国交が回復された。その効果は絶大で、それまでキューバを訪れる観光客は年間に300万人ほどだったが、2015年は350万人を超えた。2016年2月には米国とキューバの間の航空協定が結ばれ、2016年にキューバを訪れた観光客は400万人を超えた。米国と国交を回復したキューバでは、個人崇拝をさせない姿勢がカストロの死後も貫かれている。かつて軍服姿の警官が街のあちこちにいたが、今では治安が良くなりあまり見かけなくなった。

 ウズベキスタンは人口3212万人(2017年)、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦の共和国で、北と西にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接している。国土の西部はカラカルパクスタン共和国として自治を行っており、東部のフェルガナ盆地はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいる。かつてソ違という超大国の傘下にあったこの国は、他の国々とは違って自立に成功した。シルクロードの中心地や、ユネスコの世界遺産の宝庫として、青の街サマルカンドや茶色の町ブハラ、ヒヴァ、シャフリサブス、仏教文化のテルメズなどが世界的に有名である。ソ連からの独立後には歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増し、それに伴い観光が外貨獲得源の1つとなった。

 ミャンマーは人口 5288万人(2016年)、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家で、独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦であった。南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。1948年に英国から独立したあと、穏健な社会主義政権が生まれた。しかし、共産党の武装蜂起、少数民族の反乱、さらには中国の国民党軍が侵入して内戦状態になった。ひどい混乱の中、1962年にクーデターが起き、議会制民主主義を否定し、ビルマ式社会主義という特異な政治体制が敷かれ、社会主義を看板に掲げた軍事独裁政権になった。つい最近まで閉ざされた国だったが、1988年に民主化を求めて人々がゼネストをしき、彗星のように躍り出たのがスーチーさんである。2015年の総選挙でスーチーさんが率いる党が圧勝し、2016年にスーチーさんの側近が大統領に就任し、ようやく民主主義の新政権が発足した。いずれも発展途上であり歴史的、経済的な事情から困難も多いが、懸命に生きようとする姿勢には見習うべきものが多い。

 世界がグローバリズムの風潮に追いまくられて人間性を失う時代に、経済的には貧しくとも人間としての心の豊かさを求め、自立した独自の価値観を堅持している社会がそこに見えた。凛として主張する姿は、こちらの方が本来の大国のようにも思えたという。

第1章 平和憲法を活用するコスタリカ/第2章 キューバは今―米国との国交を回復して/第3章 シルクロードの中心、ウズベキスタン ソ連後の中央アジアを探る/第4章 闘うクジャク―ミャンマ

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2018年05月13日

ヒトの家族の起源

7 ヒトの家族の起源 今村 薫先生

(目標&ポイント)

 動物の中でヒトだけが様々なかたちの家族をもち、そのうえに親族、地域集団などの重層的な社会組織とネットワークを形成しています。

 人類の家族は、インセスト・タブー、外婚、コミュニティーの存在、性別分業などの重要な特徴をもっています。

 このような家族の類型と進化を、霊長類学の知見も踏まえて議論します。

1. 家族とは何か

 動物の中でヒトだけが様々なかたちの家族をもち、社会全体として新たな家族が形成され、文化や社会が次の世代に継承されていきます。

 家族は居住空間をともにしており、生産活動と消費をともに行い、夫婦の性的関係で結ぱれ、子どもを産み育てるという生殖と教育の場でもあります。

 ジョージ・マードックは2001年に、家族の基本的な単位は夫婦と未婚の子の核家族と提唱しましたが、欧米以外の社会の民族誌から核家族論が批判されるようになりました。

 現在の人間社会において家族はこのように多様であり、核家族とは真逆に見える社会、経済と教育も親族集団、地域集団において機能しているような社会も多いのです。

2. 霊長類の社会構造

 霊長類の社会構造の進化は、より多くの個体と交渉を保とうという傾向と、特定の雌雄の安定した結びつきを達成しようという背反する二本の糸に操られてきました。

 類人猿の社会では、オランウータンは単独・集団非継承、テナガザルは単雄単雌・集団非継承、ゴリラは単雄複雌・集団承継&非承継、チンパンジーは複雄複雌・集団承継です。

 これらの類人猿はヒトに近い動物としてヒト上科にまとめられ、5種類の類人猿はすべてメスの子が単位集団を出ていく共通点をもっており、非母系でまとめられます。

 霊長類には母系の社会が多いですが、類人猿のように非母系の社会もあり、順位が世代を超えて固定することはなく、個体の関係がより柔軟で多様になる特徴があります。

3. インセスト・タブー,そして外婚        1

 今西錦司は、インセストタブー、外婚、地域社会、労働の性別分業の4つが存在すれば人間家族と呼んでよく、分業を除く3条件はすでに類人猿社会に備わっていたと考えました。

 インセストの回避とは近親相姦の回避であり、どの関係をインセストと見るかは社会により異なりますが、世界中例外なく、最も血縁度の高い関係では回避すべきとされています。

 インセストの回避はヒト以外の動物も、群れで生まれた子が性成熟に達すると、オスまたはメスが集団を出ていくことで、集団の構造としてインセストが回避されています。

 人間の伝統的社会で見られるインセスト・タブーは結果として外婚を導き出し、ヒト以外の動物の単位集団はヒトの外婚集団と類似した機能を果たしました。

4. 重層的社会                  !

4-1 地域社会                       ]

 ヒトの社会は家族の上に何層にもわたる上位集団を重ねたり組み合わせたりしながら、複雑な経済活動や政治を可能にしてきました。

 ヒトの重層的な社会の原型は、ゴリラのような単雄複雌型と、チンパンジーやボノボのような複雄複雌型の2種類のいずれかは、現在のところ決着はついていません。

 ゴリラ型が原型であった場合、初期の人類家族は一夫多妻であり、父親がはっきりしている点でヒトの社会に類似し、家族が複数集まって友好的な関係の地域集団が形成されます。

 チンパンジー・ボノボ型が原型であった場合、オスもメスも複数の乱婚的な単位集団から、特定のオスとメスが安定的な配偶関係を結んだ家族が析出してきました。

4-2 繁殖戦略と社会

 豊かな熱帯雨林は食べ物が豊富にあり、母親が手をかければ子どもが確実に育つので、ヒト科の動物は少数の子どもを手間暇かけて育てる少産多保護をとってきました。

 ヒトは授乳期間が概ね半年〜数年で年子を生むことも可能であり多産多保護の傾向がありますが、ヒトの場合、離乳後の子どもの世話が他の類人猿よりも格段に必要です。

 ヒトが短い出産間隔でたくさん産めるのはオスの育児参加のためとも考えられ、ヒトは進化の早い段階から雌雄の安定した配偶関係を結び、オスが母子を助けたと言われます。

 オスの育児参加は人類進化にとって決定的に重要な事柄ですが、オスは必ずしも遺伝的な父親であるとは限らず、血のつながりはなくても父親の役割を果たす男性が必要でした。

4-3 性と個体関関係

 類人猿は季節的な繁殖期がなく一年中繁殖が可能ですが、メスには性周期があり発情期には普段はしぼんでいる性皮とよぱれる部分があります。

 チンパンジー・ボノボの性皮は大きな果実のように腫れ上がりますが、ゴリラでは性皮の腫脹はほとんど見られません。

 性皮の腫脹があるチンパンジー・ボノボは配偶関係が不安定な乱婚型で、腫脹が見られないゴリラは配偶関係が安定した一夫多妻型です。

 チッパンジーは極端な少産多保護でメスはほとんど発情せずメスの奪い合いによる仲間同士の緊張関係がありますが、ボノボはニセの発情をして仲間同士の緊張関係を解決しています。

 ゴリラは一夫多妻型でメスの性皮はほとんど腫脹せず、リーダーオス中心の群れは一定地域を遊動しますが、排他的なテリトリーをもたずリーダーオスどうしの関係は対等に近いです。

 現在のヒトは性皮が腫脹するなどの発情行動はまったく見られず、人類の女性は進化の過程で性皮の腫脹という特徴を失ったのではなく、もともともっていなかったと推測しています。

 雌雄の体格差と社会のタイプは相関があり、性的二型の大きい動物は一夫多妻型になり、性的二型の小さい動物は一夫一妻型になるか、あるいは乱婚型になる傾向があります。

 初期人類の社会は雌雄はある程度安定した配偶関係をもち、かつ、雌雄が複数いる群れ生活をおくるという重層的な社会だったようです。

5. 分配と性別分業

 初期人類の女性は面倒見のよい男性を配偶者に選び、性関係を強固にして食料供給を安定的にし、男性は自分の遺伝子を受け継ぐ子どもだけに食物を分け与えようとしたと考えられます。

 家族は核家族で夫婦が収穫物の肉と採集物を交換したと想定しがちですが、現代の狩猟採集民では、肉はキャンプやバンドの共同体全体に最終的に行き渡るように分配されています。

 肉と採集物は男性にも女性にも分配の末に行き渡りますが、これは共同体での共有であって男性と女性の一対一の交換ではなく、核家族は独立した経済単位ではありません。

 人間は家族と共同体の二つの集団に所属しますが、人類は共同での子育ての必要性と食の分かち合いの精神によって、家族と共同体の二つの集団の両立を成功させたのです。

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2018年05月12日

藤原秀衡 − 義経を大将軍として国務せしむべし

 ”藤原秀衡 − 義経を大将軍として国務せしむべし”2016年1月 ミネルヴァ書房刊 入間田 宣夫著)は、豊富な財力をもって中央政界とのつながりを強めながら仏教文化の大輪を花開かせた平安時代末期の豪族の藤原秀衡を紹介している。

 藤原三大の栄華と言われ、初代の藤原清衡が中尊寺金色堂で死去したのは、1218年秋の7月16日のことであった。御曹司と呼ばれた次男の基衡が、兄の小館惟常との二子合戦に勝ち抜いて、清衡の後継者としての地位を確立したのはその翌々年のことであった。そのとき、基衡は27歳で、その子の秀衡は9歳であった。清衡によって始められた仏教立国の事業は、二代目の当主たるべき基衡によって継承され、さらなるレベルアップが目指された。そして、治承から文治年間の争乱期には、軍事優先路線への転換を図って、広域軍政府樹立を目指したが、志なかばで斃れた。

 入間田宣夫氏は1942年宮城県涌谷町生まれ、1964年東北大学文学部国史学専攻史学科卒業、1968年東北大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程中退で、同年東北大学文学部助手となった。その後、山形大学助教授、東北大学助教授、東北大学東北アジア研究センター教授などを歴任し、2005年に東北大学名誉教授となった。東北芸術工科大学教授を経て2013年4月に一関市博物館長に就任した。専門は日本中世史で、2004年から2006年まで平泉の文化遺産世界遺産登録推薦書作成委員会委員となり、NHK大河ドラマ”炎立つ”の監修を務めた。

 藤原秀衡は平安末期の1122年に父は藤原基衡、母は安倍宗任の娘で、奥州藤原氏の三代として生まれた。1157年に基衡の死去を受けて家督を相続し、奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となった。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職で、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率した。この頃、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えたが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として、下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。秀衡は、源 頼朝のライバルとして、日本史の表舞台に登場することになった。1180年に頼朝が関東に挙兵したことによって、その背後を脅かす存在として、奥州の秀衡に対する期待が、京都方面で一挙に高まることになった。一躍、時の人になった秀衡であるが、その人となりについては具体的な情報が決定的に不足している。それもあってか、京都方面では、さまざまな人物像がかたちづくられ、流布されることになった。保守的な公家の間には、秀衡を含めて平泉藤原氏歴代の当主を蝦夷の王=野蛮人の王とみなす伝統的なイメージが消えやらず、強固な存在感を保ち続けていた。それに対して、高野山や東大寺など、仏教界においては、秀衡の評判は上々であった。

 秀衡は、武家の名門に生まれ、勢徳希世の人にして信心が厚く、仏教の興隆に尽くした理想的な人物であったとされている。公家側にあっても、後白河法皇の周辺では、それに共通するような人物像がかたちづくられていたらしい。通常一般の人びとの間でも、さまざまな人物像がかたちづくられていたのに違いない。けれども、それらの人物像のいちいちについて、それぞれの背景にまで遡って、具体的に検証するという作業が、きちんと行われてきたのかといえば、かならずしもそうとは言い切れない。ましてや、それらの人物像の相互関係などに踏み込んで考えられてきたとは、とても言い切れない。源 義経の保護者として有名で、治承・寿永内乱の中で、源 頼朝の背後をつくことを期待され、地方豪族としては異例の国守に任ぜられたが、結局、兵をあげなかった。しかし、頼朝追討の請文を提出したのは事実で、平家追討中の木曾義仲に呼応して頼朝を討とうと呼び掛けたともいわれている。平泉に宇治平等院の鳳凰堂を模して無量光院を建て、その東門のところに加羅御所をつくって常の居所とした。またその北に平泉館という宿館を構えていたが、それは奥羽支配の政庁というべきもので、いま柳之御所跡と称している場所がそれである。臨終の床において、源 義経を総大将として、鎌倉殿源頼朝に立ち向かうべきことを息子らに遺言した。しかし、平泉存続のためのこの方策は実らず悲劇の結末に向かうことになった。

 秀衡は、蝦夷の王でもなければ、北方世界の王でもない。そうではなくて、兵とよばれる家から台頭してきた地方豪族の一人だったのである。すなわち、時代の流れに向きあうなかで、さまざまな試行錯誤を経ながら、ないしは路線の転換を余儀なくされるなかで、地域的軍政府樹立のとぼくちまで辿りつくことができた人物だったのである。北方世界に向きあう辺境のなかの辺境ともいうべき地政学的な条件を最大限に生かすことによって、あわせて中央政権との対話と交渉を最大限に生かすことによって、人生を切り開くことができた稀有の人物だった。これまで、学界では、秀衡をもって、始めから、蝦夷の王だったとか、北方世界の王だったとかするような伝統的な志向性がもてはやされてきた。それにともなって、秀衡の政権を、長城の外側に根差した北方異民族の国家たるべき遼や金に、さもなければ渤海や西夏になぞらえるような指摘がくりかえされてきた。これに対し、本書では、日本国の内側における歴史の文脈のなかで、中央と地方のないし首都と農村の対話・交流のなかで、秀衡の人生を見すえる。あわせて、内乱のどさくさのなかで、想定外の事態に向きあうことによって、軍事優先路線への大胆な転換をよぎなくされるという秀衡晩年における決断のありかたについて、石母田史学の基本に則りつつ、それを浮き彫りにする。

序 章 さまざまな人物像/第一章 立ちはだかる大きな壁/第二章 偉大な祖父、清衡の国づくりを振り返って/第三章 平泉三代の御館、秀衡の登場/第四章 秀衡を支える人びと/第五章 都市平泉の全盛期/第六章 鎮守府将軍秀衡の登場/第七章 秀衡の平泉幕府構想/第八章 義経を金看板とする広域軍政府の誕生/第九章 文治五年奥州合戦/終 章 平泉の置きみやげ/引用・参考文献/藤原秀衡略年譜

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2018年05月11日

5月9日〜10日に磯部温泉へ

5月9日〜10日に磯部温泉に行ってきました。

○磯部温泉

 群馬県安中市にある温泉で、温泉記号の発祥の地として知られています。

 碓氷川に架かる愛妻橋・鉱泉橋からは妙義山を展望できます。

碓氷川.jpg

 鉱泉橋近くには足湯があり、愛妻橋のJR磯部駅側に市営の日帰り入浴施設があります。

 明治の児童文学者・巌谷小波は舌切り雀の伝説が伝わるという磯部を訪れ、舌切り雀の昔話を書き上げました。

 おとぎ話自体は各地に昔からありますが、巌谷小波の関係で磯部温泉が舌切雀伝説発祥の地とされています。

 竹の春 雀千代ふる お宿かな

磯部旅館.jpg

 名物は磯部せんべいとふわとろ豆腐です。

 磯部せんべいは温泉水を利用し、薄く焼いたせんべいです。

 ふわとろ豆腐は磯部温泉の温泉水を使用した湯豆腐です。

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2018年05月06日

食べ物を作り出す技と場

6 食べ物を作り出す技と場  梅ア 昌裕先生

(目標&ポイント)

 現代農業の特徴は、植え付けや収穫などだけでなく、作物の生長のための物質循環、水の供給、温度管理などにも人間が関与することです。

 それに対して、在来農耕は植え付けや収穫は人間が管理するものの、作物の生長に関わる部分は自然生態系のサービスに依存するという特徴があります。

 本章では、焼畑農耕、水田耕作、サツマイモ耕作などを事例に、在来農耕の特徴を学びます。

1. はじめに

 いかなる農耕においても、栽培化された植物の植え付けや収穫は人間によって管理されるのが原則です。

 一方、植物や動物の成長そのものには、大気の管理、物質循環、水の供給など自然生態系のサービスが大きな役割を果たしています。

 自然生態系のサービスを利用する度合いは農在来農耕ではその度合いが大きく、実践には自然についての広範な知識が必要とされます。

 また、在来農耕は、狩猟採集や家畜飼養、漁掃など、ほかの食料獲得行動と一緒に複合的なシステムを構成していることが多いです。

2. 焼畑農耕

2-1 耕作の手順

 焼畑農耕は、二次林または自然林を伐採し、そこに火入れをすることによって作物を栽培する空間をつくりだす農耕の一つの形態です。

 伐採した樹木や下生えの草本を燃やすことによって肥沃な畑をつくりだし、休耕期間をとることで生態系サービスを利用した地力の回復が可能となる点に特徴があります。

 焼畑とブルドーザでつくった畑を比較すると、陸稲、キャッサバ、大豆を植えた場合、いずれの作物も焼畑の方が生産性が高く、特に3年目の陸稲と大豆の生産性では顕著です。

 樹木や下生えが燃えた灰が肥料になり、整地した場合に比較して、土壌が踏み固められず水分を含みやすく、肥沃な表土が維持されることなどがその理由です。

2-2 焼畑のバリエーション

 一つは根菜型焼畑農耕であり、東南アジアの熱帯降雨林を起源地とし、タロイモ・ヤムイモ・バナナ・サトウキビなどの栄養繁殖をする作物を中心にした耕作が行われます。

 もう一つは雑穀栽培型の焼畑農耕であり、シコクビエ、モロコシ、アワ、キビなどを中心とした種子作物が栽培され、ゴマなどの油脂作物が随伴するという特徴をもっています。

 焼畑にはそれぞれの地域環境に応じて様々なバリエーションがあり、上記二つの類型が混合したような焼畑、根葉型焼畑農耕に陸稲が加わるものなども見られます。

2-3 ほかの生業との複合

 攪乱とは、台風などの自然の力あるいは人間の活動による生態系の構造の変化を指し、効果が大きすぎると生物種やバイオマス(生物量)が減少し、いわゆる環境破壊に繋がります。

 焼畑農耕で自然林や二次林が伐採されることは自然生態系にとっては攬乱ですが、適度な攬乱は生物多様性の維持によい効果をもつことが知られています。

 長い休耕期間を経た二次林には地表に太陽光線がほとんど届かず、地表部ではほとんど植物が成育せず,またそれを餌とする野生動物も少ないです。

 しかし、焼畑のための伐採によって人為的に擾乱されると地表に太陽光線が届き、そこには栽培化植物以外にも様々な植物が生育し、それを餌とする小動物が生息するようになります。

2-4 狩猟・採集の場としての焼畑

 パプアニューギニア低地社会では、焼畑として使った後の二次林が,家畜であるプタの飼養にとって重要な空間になっています。

 そこには、人間が放棄してから自然に育ったイモ類などを見つけることができ野生のブタも現れ、飼養されるメスブタは交配して森の中で子どもを産みます。

 中国の海南島に暮らすりー族は、在来の陸稲、トウモロコシ、タロイモ、ヤムイモ、キャッ
サバ、カボチャなどを混植する焼畑農耕を行っていました。

 リー族にとっての焼畑は、作物の栽培だけでなく、野生動植物の採集・狩猟の場としても機能する複合的な生業の場となっていました。

3. 水田耕作

 水田で耕作されるイネにはジャポニカ品種とインディカ品種があり、前者は長江の中下流域が原産地ですが、インディ力種は現在まで原産地についてははっきりしていません。

 現代的な水利システム導入前の水田耕作は、雨の少ない時期、水は競合資源であり、用水路はそこを流れる水を利用する人の共有財産で、その管理は共同作業で行われました。

 水田は稲を栽培する場であると同時に、漁撈、養殖、採集、そして稲以外の作物の栽培が行われる場であり、漁撈では稲作のパタンにあわせて様々な漁法が存在しました。

 水田は人間が新しく作りだしたニッチであり、水田およびその周辺には様々な野草が生え、一部は食用や薬用に供されたり、飼料として使われることも多かったようです。

4. 在来知のあり方

 ここまで説明してきた焼畑農耕と水田耕作では、それを行う人々のもつ在来知が大きな意味をもっています。

 農耕に関わる在来知はその社会の人々の頭の中にあって人から人へと伝えられ、農耕を行う中で新しい経験が積み重ねられて在来知は上書きされていきます。

 在来知のあり方は、住民によって長い間かわることなく守りつがれてきた民俗知識という、ステレオタイプ化されたイメージとは大きく異なっています。

 たとえば、サッマイモ耕作のための植樹と除草に関わる知識体系の中に、集団でそれなりに共有され、そのまわりに、個人レベルの経験によって新しく生まれ続ける領域が存在します。

5. 農耕の現代化で人類が失ったもの

 一つは、在来知によって行われる農耕は複合的であり、焼畑農耕は狩猟や家畜飼養の空間を創出し、水田耕作は米の生産に加え、魚や小動物、可食野草の採集を可能にしていました。

 現代農業は農作物の生産が最優先で生業の複合性は殆ど失われ、農薬により水田の可食雑草や水田漁携の魚類も大きく減少し,また、漁獲されることもなくなりました。

 二つは、在来農耕にはそれを裏打ちする在来の知識体系が存在し、農耕を実践する人々の個人的な経験の中で生まれ、社会の中でゆるく統合された状態で存在するものでした。

 在来の知識は、書籍などに記録されることのなく人々の頭の中に存在するものですので、在来農耕が消滅すると、それとともに消滅するものです。

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2018年05月05日

拝啓、本が売れません

 ”拝啓、本が売れません”(2018年3月 KKベストセラーズ刊 額賀 澪著)は、平成生まれのゆとり作家が直面した出版不況の現実の中でいかに自分の本を売っていくかについて探ろうとしている。

 書店員、ライトノベル編集者、ブックデザイナー、Webコンサルタント、映像プロデューサーなど、出版業界だけでなくさまざまな業界で活躍するキーパーソンを取材している。額賀 澪氏は1990年茨城県行方市生まれ、私立清真学園高等学校、日本大学芸術学部文芸学科を卒業した。高校時代に第22回全国高等学校文芸コンクール小説部門で優秀賞を受賞、日本大学芸術学部在学中に第24回舟橋聖一顕彰青年文学賞を受賞した。大学卒業後、広告代理店に勤務し、会社員として働くかたわら、2015年に第22回松本清張賞、第16回小学館文庫小説賞を受賞した。2016年末に広告代理店を退社し、現在、作家業のほか、フリーライターとしても活動している。

 書籍や雑誌等、紙の出版物の販売額は、再販制度や委託制度に支えられ、出版業界は1900年代後半まで順調に発展を遂げてきた。しかし、ピークの1996年を過ぎると紙の出版物の売上は減少し続け、特に雑誌の売上の落ち込みは業界の大きな課題となっている。過去5年以上、書籍の市場規模は減少傾向をたどっている一方、出版点数は伸びつづけていて、1点当たりの売上高が急激に減少している。市場の縮小に伴い、出版社や書店の数も年々減少している。本が売れなくなった原因については、さまざまな説がとなえられている。たとえば、若者が携帯に小遣いを使い果たして本を買えなくなったこと、若者の活字離れの傾向、新古書店が増えていること、公共図書館の無料貸し出しなどが挙げられている。しかし、流通経路にも大きな変化が見られる。高度経済成長期までは本は主に町の小さな書店で売られ、本の流通は小さな書店の店頭と御用聞きの二本の柱で支えられていた。高度経済成長で人件費が上昇すると、本の流通は書店の店頭での販売だけに頼るようになり、大規模な書店が増えるようになった。さらに、近年、読書好きが書店に集まるのは当然だとはいえない状況が生まれてきている。書店の規模が大きくなりすぎなかなか本を探し出せなくなり、出版点数が多すぎて店頭での回転が早くなり読みがいのある本もあまり出てこなくなった。また、インターネット書店や電子書籍など、本を取り巻く環境の大きな変化があげられる。インターネット書店は時間と場所を選ばすに商品が購入でき、ライフスタイルの多様化に合わせ年々拡大している。出版物についても、書店やコンビニエンスストアでなく、ネット書店で購入する読者が増えてきた。電子書籍は、21世紀に入り日本での市場は拡大し続けている。

 では、これからどうすべきなのかについては、今後、いろいろな試行錯誤が続いていくと思われる。本書は、そのような試行錯誤の一つであろう。この本が、”面白そうじゃん、買おう”と思った方はどうぞこのままレジへといい、”興味ない、買わない”と思った方はこの本を棚に戻し他の本を手に取ってください、という。そのまま書店を出ていかないでください。本屋さんには、たくさんの面白い本があります。この本はその中のたった一冊です。世界は”面白い本”であふれています、と続く。これは、読書の楽しみ、読書の素晴らしさを思い出して、周囲にそれを伝えていく努力をしていこうというのであろう。登場人物は、平成生まれのゆとり作家・額賀 澪、へっぽこ痛風編集者・ワタナベ氏、作家になりたい額賀の同居人・黒子ちゃんである。ワタナベ氏と、額賀の本をベストセラーにする方法を探して、本を作ることになった。ゆとり世代はお先真っ暗で、老後が不安で死にそうだという。黒子ちゃんはまだ作家デビューはしていないけれど、大手出版社が主催するライトノベルの新人賞で結構いいところまで行ったことがある。二人は都内のワンルームのアパートでルームシェアをして暮らし、六万円の家賃を折半して暮らしている。毎年100人を超える新人が生まれ5年後はほとんどが行方不明という厳しさの中で、二人は日々原稿と戦っている。本書の執筆に関連して取材した相手は、元電撃文庫編集長でストレートエッジ代表取締役社長の三木一馬氏、さわや書店フェザン店・店長の松本大介氏、株式会社ライトアップ・Webコンサルタントの大廣直也氏、カルチュア・エンタテインメント株式会社・映像プロデューサーの浅野由香氏、ブックデザイナーの川谷康久氏である。これらの方々との出会い、本のプロット、執筆、改稿、ゲラ、装幀、本が本屋に並ぶという過程が紹介されている。はたして、本書はどれくらい売れるであろうか。

序章、ゆとり世代の新人作家として/第一章 平成生まれのゆとり作家と、編集者の関係/第二章 とある敏腕編集者と、電車の行き先表示/第三章 スーパー書店員と、勝ち目のある喧嘩/第四章 Webコンサルタントと、ファンの育て方/第五章 映像プロデューサーと、野望へのボーダーライン/第六章 「恋するブックカバーのつくり手」と、楽しい仕事/終章、平成生まれのゆとり作家の行き着く先/巻末特別付録 小説『風に恋う』(仮)

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2018年04月30日

家畜とともに暮らす

5 家畜とともに暮らす 高倉 浩樹先生

(目標&ポイント)

 家畜群とともに移動する遊牧民の生活に象徴されるような牧畜社会について理解を深めるのが目的です。

 約1万年前に始まる栽培化と飼育化は、社会が植物・動物の再生産に関与・管理する働きかけであり、国家と文明の起源に寄与するといわれています。

 農業開始後に現れた飼育化(家畜化)によって、農耕・狩猟採集・漁撈を補完させた牧畜社会という独自の仕組みを人類は編み出しました。

 人類史からは三タイプの牧畜社会が存在し、これを解説しながら環境への文化的適応の可能性について考えます。

1. 遊牧の風景

 モンゴルの樹木や建物がまったくない広大な草原が広がる大地に、ウシやヒツジ、ウマなどが群をなし、人々はそれらの家畜をともないながら生活しています。

 この章では、家畜群をともなって移動しながら暮らす牧畜社会の特徴について、どのような起源で始まり、人類の歴史にとっての意味などを考えてみます。

2. 牧畜社会の特徴

2-1 ドメスティケーションと社会

 多くの牧畜社会が存在しているのは、乾燥地帯や寒冷地帯、さらに高地などの厳しい生態環境であり、その多くは農耕、狩猟、採集が難しい場合です。

 人類は家畜群をともなうことで、ヒトが食料として利用できない草などの植物を家畜か摂取し、家畜という動物を通してヒトがエネルギーを摂取し生存することができました。

 栽培化あるいは飼育化・家畜化=ドメスティケーションによって、ヒトと動植物の関係は変わりましたが、必ずしも栽培化=農耕社会、飼育化=牧畜社会ではありません。

 動物の場合、イヌは13000〜8000年前にアジアやアメリカの各地で地域独自に飼育化され、家畜プタは東アジアが起源のようで、おおよそ6000年前に遡るらしい。

2-2 牧畜的家畜

 ヒツジやヤギ、ウシ、ウマ、ラクダ、トナカイ、リャマ、アルパカなどの有蹄類で群居性の牧畜的家畜は、囲いや柵などなくてもヒトとともに移動します。

 野生段階では動物はホームレンジ=独自の生息域をもちますが、牧畜社会では去勢によりヒトが好ましい種オスを選び出し、家畜群と人はホームレンジを共有します。

 家畜のみでの自給自足は難しく、ほとんどの場合、周囲の農耕民や狩猟採集民と交易したり、自身で補足的に農耕や狩猟・漁搭・採集をしたりするのが特徴です。

 牧畜社会は、乾燥地牧畜、寒冷地牧畜、高地牧畜と大きく三つに分けることができ、乾燥地はアジア、地中海、アフリカ、寒冷地はユーラシア、高地は南米などに存在します。

3. 乾燥地牧畜

3-1 西アジアにおける起源

 牧畜社会が最初に成立したのは乾燥地であり、最初の飼育化はヤギで紀元前7000年頃イランで、ヒツジは少し離れた地城で数100年遅れて、その後、ウシも飼育化されました。

 飼育化の起源地は、植物栽培の起源地の紀元前9000〜8300年前の西アジア・レヴァント回廊からかなり西の場所で発生し、双方の起源地は必ずしも一致していません。

 当初の家畜は農耕社会の生産手段で、牧畜社会はまだ後のことであり、特に搾乳はさらに時代がさがり、紀元前6000年紀後半になって初めて行われるようになりました。

 最初の飼育化が行われてから1000年以上は肉確保のためでしたが、乳利用以降は家畜を殺さずに食料を確保できるようになり、遊牧生活による家畜飼養の意味は大きく変わりました。

3-2 乳製品の意味と生態的意義

 乳は栄養学的に完全食に近くヒトは乳さえあれば生存可能ですが、西アジアで乾燥地牧畜社会が確立された頃は、現代のように年中牛乳を生産することはできませんでした。

 ヒツジやヤギは主に1−2月に出産し、1月中旬位から授乳と平行して搾乳が行われ、約1ヵ月後に草も生えて搾乳量も増え、6月下旬が最も多く9月下旬まで続きました。

 搾乳できない期間に備えるため、牧畜民はこの間に乳を長期間保存できるような食品に加工して、ヨーグルトなど簡単な乳製品を作りました。

 これを元にしてバターやチーズなどがさらに加工され、搾乳ができなくなった季節も保存食として利用されました。

3-3 ミルクの分解酵素と進化

 乳製品を食料として獲得できたのは、人類史における画期的な文化技術の開発でしたが、哺乳類は成人になるにつれ、乳糖を分解するラクターゼ酵素が発現しなくなります。

 それは哺乳類の自然淘汰による生物進化の結果であり、乳製品の中でもチーズなどの加工品は乳糖が減少していて消化しやすくなっています。

 搾乳が始まったのは紀元前6000年紀後半以降であり、搾乳は乾燥地型の牧畜社会を可能にし、また、ヨーロッパや中東の定住農耕民のエネルギー摂取においても重要でした。

 我々が日常食べているチーズやバターは、西アジアの牧畜社会の出現を可能にし、乳加工製品は家畜の季節的リズムを前提とした保存食として発達しました。

4. 多様な牧畜社会

4-1 交易と遊牧国家

 牧畜社会は牧畜生産だけで食べていくことは難しく、乳加工製品が隣接する農耕民と交易され穀類と交換されて入手されるのが一般的でした。

 農耕社会も農耕の生産物の穀類や野菜・果物だけに依存することは珍しく、農耕社会の住民も肉や魚は、狩猟や漁掃、家畜飼育を自集団内や他集団と分業して得ています。

 季節移動を行う遊牧の場合、社会内部での分業は難しく、交易・戦争などによって生産物を入手するか、内部で農耕・狩猟・漁持・採集を組み合わせることが行われてきました。

 たとえば、中国の漢族と北方民族との対立は農耕社会と牧畜社会の対立であり、モンゴルや中央アジアの牧畜社会は、農耕社会との歴史的関係の中で巨大な遊牧国家をつくりました。

4-2 寒冷地牧畜

 乳利用を行わない寒冷地牧畜と高地牧畜も多様な社会をつくっていて、ヨーロッパ北部からシベリアにかけて見られるのはトナカイ牧畜社会です。

 当初は運搬利用の50〜100頭の小規模家畜群でしたが、19世紀になるとシベリアのツンドラ地帯で1000〜2000頭に拡大し、食料の多くを家畜トナカイに依存するようになりました。

 興味深いのはタイガのトナカイ牧畜民はトナカイから搾乳を行うことで、量は限られ加工食品にすることはなく、自家消費として用いるだけでした。

 20世紀末のソ連崩壊期に国営農場システムが崩壊する中でシベリア先住民の中には、定住村から離れトナカイの群を追いながらの遊牧生活に戻る人々が出現しました。

4-3 高地牧畜

 南アメリカの高地牧畜ではモルモット、アルパカ、リャマなどが6000年前に飼育化され、スペイン人の到来以降、ウマ、ヒツジ、ウシなども飼われるようになりました。

 3400〜3800mでは牧畜に加えてトウモロコシや豆類などが栽培され、それ以上ではジャガイモだけが栽培され、さらに4100m以上になると農耕は不可能で牧畜だけが行われました。

 リャマやアルパカの乳は量が少なく乳製品としては利用できず、寒冷地牧畜のように肉畜ではないため、輸送力と毛皮の経済的家畜でした。

 低地に暮らす農民との交易活動による専業牧畜社会であり、高地という地域生態系の組み合わせによって支えられ、低地社会との経済関係によって成り立っていました。

5. 共生的牧畜

 ヒトは万物の霊長として知られていますが、すべての植物や動物を栽培化・飼育化できたわけではありません。

 栽培化できた植物の数は何百何千種もありますが、ヒトの食料生産に直結する穀類は15種類ほどで、中でもトウモロコシ、イネ、コムギが栽培面積、生産面で他を圧倒しています。

 動物になると飼育化できたのはわずか14種しかおらず、このうち群を作る動物として牧畜社会をつくりだすのに貢献したものは9種しかいません。

 家畜としてのある生物集団が世代を超えて存続するには動物側にもメリットが必要で、生態学的にはヒトと家畜の共生関係が必要です。

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2018年04月28日

横山大観−近代と対峙した日本画の巨人

 ”横山大観−近代と対峙した日本画の巨人”(2018年3月 中央公論新社刊 古田 亮著)は、日本美術院の創立に参加し日本画の近代化に大きな足跡を残した横山大観の生涯を多くのカラー図版とともに紹介している。

 今年の4月13日から7月22日にかけて、東京と京都の近代的美術館で生誕150年横山大観展が開催される。40メートル超で日本一長い画巻《生々流転》(重要文化財)や《夜桜》《紅葉》をはじめとする代表作に、数々の新出作品や習作などの資料をあわせて展示されるようである。大観を語ること、それは近代日本画を語ることであり、日本の近代そのものを語ることであるという。大観は明治日本が推し進めた近代化や、日清・日露戦争の勝利、太平洋戦争への邁進と敗北を目の当たりにした。天心没後は再興日本美術院を主宰し、朦朧体とよばれる画風を試みるなど、日本画の近代化に大きな足跡を残した。また、水墨画でも新境地を開拓した。

 古田 亮氏は1964年東京都生まれ、1989年東京芸大美術学部美術学科卒、1993年同大学院博士課程中退、東京国立博物館美術課絵画室研究員、1998年東京国立近代美術館勤務、2001年同主任研究官となり、2006年から東京藝大大学美術館助教授、2007年から准教授を務めている。美術史学者で、専門は近代日本美術史である。

 横山大観は1868年に水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。府立一中、私立東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学んだ。1888年に母方の縁戚である横山家の養子となった。東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受けた。1889年に東京美術学校に第1期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らに学んだ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。美術学校卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。この頃より。雅号として大観を使い始めるようになった。1896年に母校・東京美術学校の助教授に就任したが、2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり天心が失脚した。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表した。しかし、保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始め、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受けた。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。

 1907年に文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任した。また、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を1913年にに再興した。以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年に朝日文化賞を受賞、1935年に帝国美術院会員となった。1937年に第1回文化勲章を受章し、帝国芸術院会員となった。同時代を生き、そして若くして亡くなった菱田春草、今村紫紅、速水御舟が、どちらかといえば天才と呼ばれるのと対照的である。大観は、20代でデビューした後、30代は春草とともにはじめた無線描法か膠朧体との非難を浴びた。華やかな活躍は40代からである。50代になると新聞雑誌等では実際に巨匠と呼ばれるようになり、多くの話題作、力作を発表した。戦争中は彩管報国を実践し、太平洋戦争を生き抜いたが、戦後は戦争責任を問う声も上がった。大観という画家はそうした様々な評価の変遷を経験している。波乱万丈というにふさわしい人生だが、毀誉褒貶が相半ばする評価のなかで、生前から国民画家としての揺るぎない地位も築いていた。大観の人気は、歿後60年を迎え、歴史上の画家となっても衰えを知らない。

 回顧展が開かれる度に驚異的な観客数を集める、数少ない近代画家のひとりである。その意味で、巨匠大観は今日もっとも信用されている画家のひとりと言うべきかもしれない。大観作品の魅力のひとつは、強い意志と信念とをもって日本人の心を表現しようとした、その気魄とでもいうべきものだろうか。伝えたい何かかある絵は、かならず人々の目に触れる機会を待つものである。ただし、大観の絵はかならずしもすべての人々の心を虜にするわけではない。むしろ、アンチ大観の感情を招いてきたことも事実である。性急な西洋化と帝国主義、そして敗戦後の民主主義への転換という、近代日本の歩みそのものに存する矛盾が、時代とともに生きたひとりの人間に、そして大観作品に、そのまま映し出されている。ひとりの画家が成したことの意味を問うことは難しい。本書の場合、近代日本で日本画という新たな伝統を背負って生きた画家に対して、体制、社会、経済、思想といったことについての時代ごとの変化にも配慮しつつ、やや離れたところから大観像を結ぼうと試みたという。画家の成した仕事はその作品とその表現がすべてである。本書はカラー版として企画され、多くの作品を掲載することかできたため、図版頁だけを追えば、大観の作品史が眼で理解できるようになっている。

第1章 誕生−明治前半期/第2章 苦闘−明治後半期/第3章 躍動−大正期/第4章 大成−昭和初期/第5章 不偏−戦後・歿後

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2018年04月23日

食べものをとる

4 食べものをとる 今村 薫先生

(目標&ポイント)

 人類社会の基礎は長期間にわたる狩猟採集時代に築かれました。

 化石人類の発見と古環境の復元、および考古学的な文化の証拠から人類の進化と食物獲得行

動について議論します。

 さらに、現代に生きる狩猟採集民の生活から自然利用、分配行動、平等主義的な社会を解説

します。

1. 初期人類の生活

 生物すべてを客観的に分類して、それぞれにつけた名前のことを学名といい、ヒトにはホモ

・サピエンスという学名がつけられています。

 ホモ・サピエンスは、約20万年前に地球上に登場し、遺伝的、身体的な基本設計は現在の現

代人に至るまで変わっていません。

 人類と類人猿の形態上の違いは、大きく分けて直立二足歩行と大きな脳の二つで、この二つ

が出現する時期はずれいました。

1-1 直立二足歩行のきっかけ

(1) サバンナ説

 1960年代後半から1970年代にかけて発見され、当時としては最古の人類と考えられていた数

種類のアウストラロピテクスの生息環境は乾燥地のサバンナだと考えられました。

 森林に残り続けたものが、ゴリラ、チンパンジー、ボノボといったアフリカの類人猿になり

、樹から降りて森林からサバンナヘ進出したものが人類の祖先になったという説です。

(2) エネルギー効率論

 地上をゆっくりと移動するには、ヒトの二足歩行がチンパンジーの四足歩行より4倍もエネル

ギー効率がよく、ヒトの祖先は地上で二足歩行するようになったとする仮説です。

(3) 果実食仮説

 1990年代以降、サヘラントロプスやアルディピテクスなどの化石が発見され、初期人類は熱

帯雨林とサバンナが入り混じった環境で、二足歩行していたと想像されるようになりました。

 二足歩行のきっかけは、樹上で立ち上がって両手で果実を容易にかき集めるためであると主

張する研究者もいます。

(4) オスの育児参加説

 アメリカの形質人類学者ラプジェイが1980年代に発表した仮説で、初期人類のオスが特定の

メスとその子どもに食物を手で運ぶことによって二足歩行が進化したという仮説です。

1-2 二足歩行後の進化を推進したもの

 現在のところ、最初の人類が二本足で歩き始めた理由は明らかではありません。

 最初の人類が直立二足歩行を行うようになってから脳が発達するまで、どのようにして食料

を調達し、何を主に食べていたかについて以下の仮説があります。

(1) 狩猟仮説

 石器を使って狩猟したことが人類進化を推進したという狩猟仮説は、1950〜60年代にかけて

提唱された理論です。

 サバンナは植物性の食物が乏しく、代わりに草食動物の肉を求めて狩りを行うようになり、

棒や石を常に持ち歩くことで、二足歩行がより上手になりました。

 また、枝や石をそのまま道具として使ったり加工して道具を製作することで手先が器用にな

り、脳が発達しました。

(2) 死肉拾い仮説

 遺跡から発見された石器で最古のものは約250万年前のもので、狩猟仮説に対して現在では批

判や修正が加えられています。

 人類は最初から狩猟ができたわけではなく猿人、あるいはホモ・ハピリスくらいまでは、肉

食獣が倒した獲物を拾って肉を得たほうが多かったのではないでしょうか。

 ホモ属の常習的狩猟は180万年前に出現したホモ・エレクトス以降といわれ、石器も解体用で

なく狩猟具の槍が使われたのは、さらに時代が下った50万年前からです。

(3) 採集仮説と掘棒の重要性

 現在の類人猿の食物を見ると食物全体に占める肉の割合は3%程度であり、これまでの仮説は

肉食を重要視しすぎています。

 ランガム&ピーターソン1998、リーバーマン2015らは、ヒトが多量の地下の資源の存在に気

づいたとき、掘棒という重要な道具が発見されたと主張しています。

 掘棒は長さ80cm太さ3cmほどの真っすぐな枝の片方をとがらせた簡単な道具で、用途は多種多

様で手の延長として使われるだけでなく、武器や狩猟道具としても使われました。

 正確な起源は不明ですが、人類史上、猿人などの早い段階から行われたと推測され、掘棒や

運搬具の製作と使用は、その後の石器製作や使用につながる素地をつくりました。

(4) 初期人類からホモ属までの食生活

 700万年前の最初の人類は果物が食物の中心で、400万年前のアウストラロピテクスは豆やイ

モなどの植物性食物をメニューに取り入れて食べていました。

 250万年前までに植物食以外に死肉拾いによって肉を食べるようになりましたが、まだ本格的

な狩猟は始まっておらず、石器は骨を割ったり肉を削り取るために使われました。

 180万年前にはホモ・エレクトスが出現し脳容量も急激に増大し、この時代になって初めてヒ

トは常習的に狩猟を行うようになりました。

 ホモ・エレクトスになって身体も一回り大きくなり、直立二足歩行が完成し、食性も根茎や

豆、果実、葉などの植物食中心から次第に肉食にも傾斜するようになっていきました。

2. 現代の狩猟採集民

 ホモ・エレクトスの出現以降、20万年前にホモ・サピエンスが誕生し、それから約1万年前

に農耕・牧畜が始まるまで、人類は延々と狩猟採集生活を送っていました。

 二重分節言語、インセスト・タブー、親族組織およびこれの上に形成される集団間の連帯な

どの人類に固有の文化的特徴は、長い狩猟採集生活を通じて築かれたものです。

 現代の狩猟採集民が野生動植物の直接的利用に依存しており、その生活の中には、過去の人

類の生活と共通する部分があることも確かです。

2-1 狩猟探集民サンの社会

 サンは、南部アフリカのボツワナ、ナミビア、南アフリカに広がるカラハリ砂漠に住む狩猟

採集民で、ブッシュマンといわれることもあります。

 サンには10以上の言語集団が含まれますが、ここで紹介するのは、この言語集団のうちの
一つであるボツワナに住むセントラル・カラハリ・サンです。

 1970年代終わりまでは伝統的な遊動生活を送っていましたが、その後、生活の定住化が進み

、現在では病院や学校の整った集落に定住し伝統文化や生活は大きく変化しています。

(1) 遊動生活とキャンプのメンバー

 サンは水資源と植物にあわせて頻繁に移動し、狩猟採集民の居住集団は一般に「バンド」と

いわれますが、サンの居住集団は不安定で流動的でキャンプとよばれます。

 サンは出自を父方にも母方にも等しくたどりうる双系で、血縁がなくても気のあう友人どう

しが同じキャンプに住むこともありました。

 夫婦と未婚の子どもたちからなる核家族ごとに小屋を建て、キャンプの中心に向かって入口

を開けて暮らしました。

 キャンプのメンバーは流動的でいつでも分裂したり合流したりしましたが、平均して約5家族

(20〜30人)程度が同じキャンプで行動をともにしました。

(2) 「父系・父方居住バンド」モデルとその問題点

 1930年代のアボリジニ研究で提唱された父系・父方居住バンドは、狩猟採集民バンドは父系

集団で構成され、結婚した夫婦は夫の両親と同じバンドに住む父方居住が標準といいます。

 チンパンジーの同じ集団のオス同士は親密で強固な絆を形成しますが、他集団のオスとは激

しい闘争を繰り広げます。

 しかし、ゴリラやボノボなどの生態と行動の研究により、チンパンジーに見られるオスの絆

や暴力性は、他の類人猿に当てはまると限らないと指摘されるようになりました。

 また、ヒトの狩猟採集民社会について、現在では多くの研究者が、狩猟採集民はより柔軟で

双系的な居住を示すと主張しています。

2-2 サンの食料獲得

 サンの伝統的な生業は狩猟採集で、食用にする植物は80種以上、動物は40種を超えるが、こ

れらは食料としてだけでなく水源としても重要です。

 野生スイカから得た水、ウリ科の根茎から搾り取った水分、また、動物の胃液さえ重要な水

源です。

(1) 狩猟

 キリン、エランド、ゲムズポック、クーズー、ハーテビーストなどの大型哺乳類は、昔は弓

矢で捕まえていました。

 弓矢猟は1970年以降、槍猟に取って代わられましたが、槍は数メートルしか投げられないの

で、槍猟には犬や馬といった家畜動物が必要です。

 イシカモシカ、ヤプダイカーなどの中型哺乳類は罠で捕まえ、その他、トビウサギに特化し

た猟法、夜行性で就巣性の動物を対象にした猟法など、様々な狩猟の方法があります。

 動物の習性を知り、足跡や糞、草の倒れ方などから、動物の行動を読み解き、風の匂い、空

の色から天候を予測し、この複合的な知識によって獲物の発見や追跡が可能です。

(2) 採集

 採集物は季節によって異なりますが、一年を通して採集できるのは植物の根茎であり、ウリ

科の根茎を中心に、10種くらいの植物の根を利用しています。

 12月に入って雨が降り出すとユリ科の葉、次いで果実を採集し、2月ごろから野生のメロンを

収穫し、4月5月は実りの季節で毎日大量の豆やキノコを採集します。

 また、イモムシなどの昆虫、陸ガメ、ダチョウの卵などの動物性食物も採集します。

 男女とも狩猟も採集も行い、臨機応変に自然の動植物を利用し、男女問わず、全面的に自然

から食物を引き出します。

2-3 食物分配

 サンは、狩猟で得た肉をキャンプのメンバー全員に徹底的に分配し、食物分配は生活全般を

集団のメンバーと共有していることの一部で、共有は社会の核として機能しています。

 肉は生肉のままあるいは干し肉で狩猟に参加した人々で第一次分配が行われ、一次分配を受

けた人は第二次の分配を、その後、さらに親しい友人などへ第三次分配が行われます。

 このような分配は、一対一の関係よりも、場の全体性を重視して肉がキャンプ全体に行き渡

るように分けられますので,全員への分かち合いと表現したほうがふさわしい。

2-4 平等主義社会

 サンの社会は経済的に社会的に政治的に平等主義を志向し、貧富の差がほとんどなく社会的

分業が見られず、政治組織が未発達で首長などの政治的なリーダーがいない。

 サンは頻繁に移動を繰り返すので家財道具などの持ち物は最小限にとどめ、狩猟で得た肉を

徹底的に分配し貧富の差はなくなります。

 しかし、この分配によって物質的には平等になりますが、受け手は与え手に対して心理的な

負い目を抱き、結果的に与え手のほうが優位な立場になってしまいます。

 サンの人々は気前よく肉を他人に与えますが、生まれつきのお人好しなのではなく、サンの

社会は不平等の淵をのぞき込みながら、かろうじて踏みとどまっている社会なのです。

3. 狩猟採集民の多様性

 1万年前に農耕・牧畜が始まるまでは人類の生活基盤は狩猟と採集だけで、今日まで伝統的な
生活を残している狩猟採集民は世界中で30程度を数えるにすぎません。

 今日の狩猟採集民はその民族のアイデンティティを保っていたとしても、実際の生活は産業

社会に生きる現代人として貨幣経済に取り込まれて生活している人がほとんどです。

 現代の狩猟採集民は極地、ツンドラ地帯、タイガ地帯、落葉樹林帯、大草原、大盆地、熱帯

降雨林、サバンナ、半砂漠など、きわめて多様な環境に暮らしています。

 歴史時代も含めると狩猟採集社会は多様であり、平等主義的な社会から奴隷を組み込んだ階

層社会までをカバーする、広大なスペクトルをなしてきました。

4. 食物の社会道具化

 動物一般は独立生計であり、子ども、老齢、病気や怪我をした個体であっても、他の個体か

ら食物をもらうことはけっしてありません。

 動物の消費は手から口へで消費の遅滞は起こりませんが、類人猿には消費の遅滞=食物分配

が萌芽的に見られます。

 しかし、類人猿の分与からヒトが行う分配へと至るにはさらに大きな飛躍が必要で、所有と

いう抽象概念が存在しなければなりません。

 なぜ人は分配するのかという問いを突き詰めていけば、いわば他の規則に先立つもっとも根

源的な規則であることに行きつきます。

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2018年04月21日

チェコの十二ヵ月−おとぎの国に暮らす

 ”チェコの十二ヵ月−おとぎの国に暮らす”(2017年12月 理論社刊 出久根 育著)は、プラハに移り住んだ絵本画家によるチェコでの日々を綴るエッセイ画集である。

 プラハはチェコ共和国の首都であり、東経14度45分に位置する同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市であり、人口は約120万人である。市内中心部をヴルタヴァ川が流れ、古い町並み・建物が数多く現存し、毎年海外から多くの観光客が訪れる。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もある。独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備え、世界で最も美しい都市の一つである。

 出久根 育氏は1969年東京生まれ、武蔵野美術大学造形学部を卒業し、1998年にボローニャ国際絵本原画展で入選し、1999年にドイツのグリム兄弟博物館ギャラリーにおいて、グリム童話をテーマとする作品を展示・出品した。2002年よりチェコのプラハに在住している。2003年に第19回ブラチスラヴァ国際絵本原画展でグランプリを受賞し、2006年に第11回日本絵本賞大賞を受賞した。挿絵は細部まで緻密に描かれ、登場人物や動物が背後の暗がりから抜き出てくるような質感で描かれている。

 チェコスロバキアは、1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家である。現在のチェコ共和国とスロバキア共和国により構成されていた。建国当初には現在のウクライナの一部のカルパティア・ルテニアも領域に加えられ、首都は現在のチェコ首都であるプラハ、国旗は現在のチェコ共和国と同じものが使用されていた。1948年からはチェコスロバキア共産党の事実上の一党独裁制によるソ連型社会主義国となり、1960年から1989年まで国名はチェコスロバキア社会主義共和国であった。現在のチェコ共和国、通称チェコは、中央ヨーロッパの共和制国家で、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離して成立した。歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきたが、ヨーロッパ共産圏が全滅した時点で再び中欧または中東欧に分類されている。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接している。チェコに移り住む前、チェコといえば、カフカの迷宮のような不可思議な街を思い描いていた、という。ドイツからプラハヘ向かう列車の窓に映る風景は、次第に古びた灰色の街へと移行していった。初めて訪れたプラハは、それまで行った西欧のどの街とも違う、重々しい空気をただよわせていた。新参者の観光客には、店の店員はにこりともせず、まるで愛想が無く、外国人には不親切で意地悪な国という印象を持った。

 けれども縁あってその数年後にプラハで暮らすことになり、現地へ飛び込んでから初めてチェコ語に触れ、最初は若い学生たちに混ざってチェコ語を習った。ドラムに乗って街を散策し、知らない路地をうろうろと歩き回り、週末などには遠方へ足を延ばし、街路樹の林檎やプラムをもいでかじり、知らない土地の人の親切を受けたり、思いがけない出来事にも出遭った。チェコに移り住むことになったのは、突然の決断であった。当時は、まさにこれから取りかかろうという仕事が目の前にあったが、その頃にはパソコンは普及していたから、深く考えもせず、日本を離れて飛んで来てしまったという。メールで仕事のやりとりをしながら、追伸に、近況報告がてらチェコでの身近な出来事を書いていた。それを読んでいた編集者から、毎月きちんと書いてみたらと勧められ、それから、理論社のホームページに”プラハお散歩便り”として連載をすることになった。書き始めてみると、書くために見る、見ると書きたくなる、という具合に、チェコ生活に欠かせない連載ページとなった。無理のないペースで書いてきたため、ときどきお休みしてしまう月もあったが、実に11年にわたって書いてきた。これからも書き続けていきたいという。

 チェコのカレンダーでは、1月5日は三人の王様の日といって、キリストの誕生を祝いに東方から三人の王様がそれぞれ贈り物を持ってやって来た日である。2月は復活祭の46日前までの3日間は謝肉祭で、キリスト教による四旬節の期間に入る前に行われる。3月は四旬節の最後の日曜日に死を追い出す。冬に別れを告げて春を迎える。3月末か4月は春分の日の後の満月の日のすぐ後の日曜日が復活祭で、キリストの復活を祝う。4月30日は魔女焼きの日で、古くからの異教の習慣として残る春を祝い魔女の人形を焼いて厄を祓う。5月1日は五月祭が行われ、若い青年たちが春の象徴である大きな樅の木のマイカ=五月柱を引いて村中を歩き村にその柱を立てる。5月12日〜6月3日はプラハ市内各地でわが祖国で知られるチェコの作曲家スメタナの命日で、プラハの春音楽祭が行われる。7月5日はキュリロスとメトディオスの日で、東ローマ帝国の修道僧が大モラビア帝国に到着しスラヴ語によるキリスト教の布教・普及を始めたことを記念する。7月6日はヤン・フス焚刑の日で、1415年に宗教改革者でチェロの英雄のフスが処刑された日である。9月28日は聖ヴァーツラフの日で、10世紀半ばチェロの守護聖人とされた聖ヴァーツラフ一世=ボヘミア公の命日である。10月28日は1918年のチェコスロバキア独立を記念する独立記念日である。11月2日は死者の日で、死者の魂のために祈りを捧げ墓地に花を飾り蝋燭の火を灯す。11月11日は聖マルチンが白い馬に乗って雪とともにやって来ると言われる日である。冬の到来のシンボルで収穫を祝いガチョウの丸焼きを食べる風習がある。11月17日は自由と民主主義への闘争記念日で、1989年のビロード革命の記念日である。12月6日は4世紀頃の小アジア(トルコ)の司教だった聖ミクラーシュ(ニコラウス)=サンタクロースのモデルの命日である。12月24日はクリスマスイヴである。12月25日は降誕祭(クリスマス)である。

春の風景/火と水と風と土と/ヴェリコノッツェ(復活祭)/ぱにぽうとの魔女/銀河鉄道のネトリツェ/ト イェ シュコダ(ああ、残念)/本当のプルーン/秋の一日−プラハの魔法−/チ47ェルベナー・ジェパの魔法/プラハの秋−ビロード革命の記念日に−/聖ミクラーシユの日/いちごぱたけのちいさなおばあさん/クルコノシェ山地から/シュチェドリーデン(クリスマスイヴ)/マソプスト(謝肉祭)/ザビヤチカ(豚を屠る)/雪景色

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2018年04月14日

幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎

 ”幕末「遊撃隊」隊長・人見勝太郎”2017年6月 洋泉社刊 中村 彰彦著)は、徳川脱藩と称し鳥羽・伏見の戦いから五稜郭の戦いを駆け抜け華麗なる転身をした遊撃隊隊長・人見勝太郎の生涯を紹介している。

 人見勝太郎は幕臣であったが、後年は、官僚、政治家、実業家に転じ成功を収めた。1843年に京都で生まれ、剣術砲術や儒学を学び、のち徳川義軍遊撃隊に加わり遊撃隊長にもなった。明治元年=1868年に榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国政府が成立したとき、松前奉行を務めた。1876年に七等判事として司法省に出仕し、間もなく内務省に転じた。1880年に茨城県令に任じられ、5年4カ月にわたりその地位にあって腕をふるった。退官後も、利根運河会社社長、台湾樟脳会社設立発起人などを歴任した。

 中村彰彦氏は1949年栃木市生まれ、宇都宮高等学校、東北大学文学部国文科を卒業した。在学中に第34回文學界新人賞佳作に入選し、卒業後の1973年から1991年まで文藝春秋に編集者として勤務した。同社の雑誌編集部および文藝出版部次長を歴任し、1987年に第10回エンタテインメント小説大賞を受賞し、1991年より執筆活動に専念してきた。1993年に第1回中山義秀文学賞、1994年に第111回(1994年上半期)直木賞、2005年に第24回新田次郎文学賞を受賞した。歴史小説・時代小説を中心に執筆し、日本文藝家協会評議員、憂国忌代表世話人、会津史学会会員、会津親善大使、伊那市ふるさと大使を兼ねている。

 人見勝太郎は徳川脱藩と称して、旧幕府脱走軍を統率した。徳川脱藩という言葉は、旧幕府、あるいは駿府藩となってからの徳川家を去った者、という意味合いで使用されている。14代将軍徳川家茂が1866年に病死し徳川慶喜が15代将軍に就任したが、翌年に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し勅許を受けた。この時点で江戸幕府は消滅したが、江戸城、二条城、京都守護職、京都所司代、その他の機構はなお存続していたため、幕府という言葉に代わって旧幕府という表現が使われ出した。その後、王政復古を布告済みの新政府は徳川一門の徳川家達に宗家を家督相続させることを確認し、家達に駿河府中城改め駿府城と駿河一円、遠江、陸奥のうちに70万石の土地を与えると決定した。以後、旧幕府の旗本・御家人たちは駿府藩徳川家の家中の者となり、駿府城は1871年の廃藩置県まで存続した。

 人見勝太郎は、1843年に二条城詰め鉄砲奉行組同心で、御家人10石3人扶持の人見勝之丞の長男として京都に生まれた。1867年に遊撃隊に入隊し、前将軍・徳川慶喜の護衛にあたった。鳥羽・伏見の戦いにおいて、伏見方面で戦い、その敗退後は、江戸へ撤退して徹底抗戦を主張した。遊撃隊の伊庭八郎ら主戦派とともに房総半島へ移動し、請西藩主・林忠崇と合流するなど、小田原や韮山、箱根などで新政府軍と交戦した。奥羽越列藩同盟に関与し、北関東から東北地方を転戦した後、蝦夷地へ渡った。箱館戦争において、箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を渡す使者となり、五稜郭に向かうが峠下で新政府軍と遭遇し、峠下の戦いに参加した。旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、蝦夷共和国の松前奉行に就任した。1869年の箱館総攻撃に際して、七重浜に出陣し、辞世の漢詩を揮毫した旗を翻し戦った。そのとき負傷して箱館病院に入院し、新政府に降伏し、捕虜として豊前香春藩に預けられた。1870年に釈放され、5ヶ月間鹿児島に旅し、西郷隆盛などと交遊した。

 維新後は、1871年に静岡に徳川家が設立した静岡学問所で、校長に相当する学問処大長に就任した。1876年に大久保利通の推挙により勧業寮に出仕し、製茶業務に従事した。1877年に群馬県官営工場所長、1879年に茨城県大書記官、翌年、茨城県令を務めた。その後実業界に転じ、1887年に利根川と江戸川を繋ぐ利根運河会社を設立し、初代社長に就任した。また、サッポロビールや台湾樟脳会社の設立に関与した。1897年から旧幕府主催の史談会に出席し、幕末維新期に関する談話を残し、1922年に享年80歳で死去した。人見勝太郎関係資料はかなり少ないが、”人見寧履歴書”と題する回想録を残した。人見は、維新後、寧=やすしと名乗った。かつて著者は、”KENZAN”という小説誌の第14号と第15号に、”幕臣人見寧の生涯”という歴史ノンフィクションを連載した。同誌は第15号で休刊となったため執筆を中断していたが、このところ時間ができたので加筆に取りかかったという。本書は、回想録やほかの史料を参看しながら、幕末維新の荒波を浴びつつ生きた、一代の風雲児の足跡をたどっている。

第1章 幕府の遊撃隊に参加して/第2章 敗退/第3章 転進/第4章 脱藩大名との出会い/第5章 箱根戊辰戦争/第6章 奥州転戦の足取り/第7章 「蝦夷島政府」の誕生/第8章 「好し五稜郭下の苔と作らん」/第9章 戊辰の敗者の彷徨/第10章 辣腕の茨城県令

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2018年04月09日

からだの進化

3 からだの進化 梅ア 昌裕先生

(目欄&ポイント)

 人類はホモ・サピエンスという一つの生物種で、およそ20万年前にアフリカ大陸で進化したと考えられています。

 その後、一部のグループはアフリカ大陸を離れ、地球の全域に拡散していきました。

 その中で、自分たちが進化したアフリカ大陸とは異なる環境条件への適応を迫られました。

 ここでは、ホモ・サピエンスが暑さや寒さなどの環境条件に対処するメカニズムと、様々な環境への適応が人類集団の生物的な多様性につながっていくメカニズムについて学びます。

1. なぜ人間のみかけは多様なのか

 地球上に暮らす人間は、全員がホモ・サピエンスという同じ種の生物でありながら、顔かたち・体つきがこれほどまでに多様になったのはなぜなのでしょうか。

 生態学的特徴の一つめは、ほとんどの哺乳類は固有の生息地域をもっているのに対し、人類は地球上のあらゆる場所に暮らしているということです。

 二つめは何でも食べることであり、この雑食性は、結果的に、人類が地球上の様々な自然環境で生きることのできる基本的な条件となっています。

 多様な顔かたち・体つきの人類が、地球上のあらゆるところに存在し、それぞれの地域で生産される植物や動物を食べながら生存しています。

2. ホモ・サピエンスの進化と出アフリカ

 最初の人類である猿人から私たち現生人類=ホモ・サピエンスまで、進化のプロセスでたくさんの新しい人類集団が生まれそして絶滅しました。

 猿人がアフリカ大陸で二足歩行を始めた700万年以上前で、その後、猿人の一つのグループであるホモ・ハビリスが原人に進化しました。

 今から20万年位前にアフリカ大陸で原人がホモ・サピエンスに進化し、10万年位前に一部がアフリカを出て中東を通り、ヨーロッパ、北東アジア、東南アジアヘ拡散しました。

 先住者のネアンデルタールなどの人類集団とは一部混血した痕跡があるものの、基本的には先住者集団とおきかわりながらその居住地を拡げたと考えられています。

3. 暑さ寒さへの適応

 人間は恒温動物ですので、脳や内臓などの温度=深部体温が37度に保たれていることが重要です。

3-1 寒さへの適応

 人間は熱帯で進化したために暑さに強く寒さに弱いという特徴をもっておりますので、ホモ・サピエンスがアフリカ大陸を出てからの寒さ対応が問題となります。

 熱帯雨林帯は降水量か多く気温が高いという特徴がありますが、温帯さらに高緯度にある寒帯など、現在、多くの人類が居住する地域は気温が低く降水量も少ないです。

 アレンの法則では恒温動物は同じ種でも寒い地域に生息するほど突出部が短くなるとされ、ベルクマンの法則では同じ種でも寒い環境に生息するものほど体重が大きいとされます。

 しかし、人類の表現型と寒さへの対応を一般的な法則で説明するのは困難で、ホモ・サピエンスは生物的適応だけでなく家や服などの文化的適応を行ってきました。

3-2 暑さへの適応

 人類は熱帯で進化したために暑さに対する耐性の高い生物で、体表には多数の汗腺が存在しし子供期の熱暴露によって活性化されます。

 気温が深部体温より高くなると体表部分の毛細血管が拡張し、心拍数をあげて体の深部にある熱を血液にのせて体表まで運び、そこで汗の気化によって熱を体から逃がします。

 このメカニズムによって、乾燥した砂漠で動かないでいる場合には気温50度まで、乾燥した日陰を歩く場合には気温47度までは、深部体温を37度に保つことができます。

 暑さへの耐性という人間の能力にはふだん暮らしている環境条件が関わっており、順化の期
間をおくことで暑さへの耐性に関わる集団間差はほとんどなくなります。

4. 人類集団ごとの生物的特徴と健康

 人類の集団には移動と隔離が起きて、新しい環境に移動し新しい場所ではもとの人類の集団から隔離され、各集団の遺伝的変化は共有されず固有の遺伝子プールが形成されてきました。

 南アメリカやポリネシアのように、アフリカから離れた場所の人類集団は、そこに到達するまで移動と隔離を多く繰り返したため、遺伝的な均一性が相対的に高いことが多い。

4・1 緯度と肌の色

 一般的に、低緯度地域の人類集団では肌の色が濃く、高緯度地域の集団では薄いという傾向があります。

 肌の色を左右するメラニン色素は細胞に有害な紫外線を吸収する性質をもっているため、紫外線の強い低緯度地域ではメラニン色素が多いことが生存に有利だと考えられます。

 一方、紫外線は体の中でのビタミンDの合成にも関わり、紫外線の弱い高緯度地域では紫外線を吸収するメラニン色素が多いことが生存にとって不利に働くと考えられます。

 重要なことは、メラニン色素の量が人類の生存に有利に働くかどうかは、居住環境の紫外線がどのくらいの強さであるかに依存するということです。

4-2 倹約遺伝子と肥満

 遠洋航海によって南太平洋に移動していった人々は優れた航海術をもっていたとはいえ、途中で食料が底をつくような状況でどう生き残ったのでしょうか。

 端的にはエネルギー効率の良い人々だったと思われ、効率的消化と余剰エネルギー貯蔵ができる身体的特徴をもち、消費エネルギーや基礎代謝量が少ない人などが考えられます。

 このような特徴をもった人が食料の豊富な環境で暮らすと、余剰エネルギーが多くなることになりそれが脂肪として体に蓄えられやすいことになります。

 この倹約遺伝子仮説は、わずかな栄養効率の違いが肥満の原因になることになり、南太平洋諸国の住民に肥満や糖尿病が多く見られることをうまく説明できます。

4・3 牧畜と乳糖不耐性

 これまでに乳糖不耐性に関連する遺伝子が特定され、乳糖不耐性の割合に関わる集団間差が遺伝子によってある程度は説明できることがわかっています。

 中国、日本、タイ、極北先住民、アメリカ大陸先住民などの殆どの大人は乳糖を消化できませんでしたが、乳を食料とする牧畜民では乳糖不耐性は20%程度と顕著に少ないです。

 近年、乳糖不耐性の割合が高かった東アジアで牛乳摂取量が急速に増加し、乳糖不耐性には遺伝的な背景だけでなく、習慣や慣れが大きく関わっていると明らかになってきました。

 人類集団の間に見られる生物的な違いは遺伝的な違いだけではなく、むしろふだんの習慣によって形成されている部分が大きく、違いは順化によってかなり消失するようです。

5. まとめ

 私たち人類=ホモ・サピエンスはアフリカ大陸を離れ、極端に異なる環境条件でそれぞれが適応しながら生存したため、人類の集団は様々な生物的特徴をもつに至りました。

 遺伝的にはサピエンスの集団間の多様性はチンパンジーに比べて遺伝的な多様性は小さいですが、生物的特徴の違いの中には遺伝的な違いに裏打ちされている部分もあります。

 遺伝的な違いを生み出した時間は長くても20万年ほどであり、集団間に見られる生物的特徴のばらつきの中には順化によって消失するようなものも多いです。

 地球上の様々な人類集団は文化的側面に着目した場合それぞれが異なるという理解が一般的ですが、生物的な側面に着目した場合はみな同じであるという理解が一般的です。

・進化とは何か?

 進化という言葉は良い方向への変化の意味で使うことがありますが、生物学では進化は様々な偶然が重なって生まれる遺伝型の変化であり、そこに良い悪いの方向性はありません。

 ダーウィンの進化論は、次の三つの原則から成り立っています。

・生物には変異がある。そしてその変異は少なくとも部分的にはその子に受け継がれる。

・生物は生き残れる以上に多くの子や卵を産む。

・平均すれば、その環境にとって好ましいとされる方向に最も強く変異している子孫が生き残って繁殖するだろう。したがって、好ましい変異は、自然淘汰によって個体群の中に蓄積されていくだろう。

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2018年04月07日

ビジネスエリートの新論語

 ”ビジネスエリートの新論語”(2016年12月 文藝春秋社刊 司馬 遼太郎)は、論語そのものではなくサラリーマン生活の支柱になるような古今東西の金言名句を中心に書かれたビジネス社会で働く人々への厳しくも励ましに満ちたエールである。

 旧作は昭和35年に、”名言随筆サラリーマン哲学”として六月社から刊行され、昭和47年に”ビジネスエリートの新論語”として六月社書房から刊行された。両方とも、福田定一著となっている。本書は、経新聞記者時代の司馬遼太郎が、本名である福田定一名で刊行した“幻の司馬本”を、単独としては著者初の新書として刊行したものである。著者はサラリーマン記者としてほぼ10年の間に新聞社を3つ変り、取材の狩場を6つばかり遍歴した。最初の数年間は、いつかは居ながらにして天下の帰趨を断じうる大記者になってやろうと、夢中ですごした。しかし、駈出し時代の何年かはアプレ記者と蔑称され、やや長じた昭和35年ころには、事もあろうにサラリーマン記者とさげすまれるにいたっているという。組織を生きるには、何が大切でどんな意識が必要なのであろうか。

 司馬遼太郎は1923年大阪市生れ、1936年大阪市難波塩草尋常小学校卒業、1940年私立上宮中学校卒業し、旧制大阪高校、翌年旧制弘前高校を受験するも不合格であった。1942年に旧制大阪外国語学校蒙古語学科に入学し、1943年に学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業、翌年9月に正式卒業となった。兵庫県加東郡河合村青野が原の戦車第19連隊に入隊し、1944年4月に満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し12月に卒業した。1945年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう、いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろうとの疑問を持ち、昔の日本人はもっとましだったにちがいないとして、22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いたという。

 筆名の由来は、司馬遷に遼に及ばざる日本の者、故に太郎から来ている。産経新聞社記者として在職中に直木賞を受賞し、歴史小説を中心に戦国・幕末・明治を扱った作品を多数執筆した。また、多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。ほかに、菊池寛賞、吉川英治文学賞、日本芸術院恩賜賞、読売文学賞、朝日賞、日本文学大賞、大佛次郎賞などを受賞し、また、日本芸術院会員で文化功労者であり、文化勲章も受章している。本書は、著者の深い教養や透徹した人間観が現れているばかりでなく、大阪人であることを終世誇りとして、卓抜なるユーモア感覚に満ちている。

 論語は孔子と高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。孟子、大学、中庸と併せて、儒教における四書の1つに数えられる。論語は五経のうちには含まれないが、孝経と並んで古来必読の書物であった。顔氏家訓勉学篇では、乱世では貴族の地位など役に立たないが、論語・孝経を読んでいれば人を教えることができるとしている。宋学では論語を含む四書をテキストとして重視し、科挙の出題科目にもなった。大工さんには大工さんの金言がある。その職業技術の血統が、何百年をかけて生んだ経験と叡智の珠玉なのだ。植木職でも陶工の世界でも同じことがいえよう。サラリーマンの場合、いったい、そんなものがあるだろうか。

 学者、技術家、芸術家などの職業感覚からみれば、まことにオカシナ職業の座にサラリーマンというものは座っている。じつにサラリーマンたるや、きょうは営業課員であっても、あすは庶務課員もしくは厚生寮カントク員と名乗らねばならぬかもしれぬ宿命をもっている。職業がへんてんとして変るのだ。この本で日本のサラリーマンの原型をサムライにもとめたが、サムライも発生から数百年間、サラリーマンではなかった。戦闘技術者という、レッキとした職業人であった。ところか、徳川幕府の平和政策は、いちように彼らをサラリーマン化してしまった。もはや、刀槍をふりまわす殺人家としての金言は要らない。しかし、平凡な俸禄生活者としての公務員に甘んじさせるために、何らかのサラリーマン哲学が必要だった。

 儒教の中でも、ことに朱子の理論体系か幕府の気に入り、多少の革命思想をふくむ陽明学などは異学として禁じたほどだった。いずれにせよ、儒教のバイブル論語が、江戸サラリーマンの公私万般におよんだ金科玉条であった。本書には、”ユーモア新論語”という副題がふられている。しかし、孔子さまの向こうを張って、昭和の論語を編むという恐るべき考えはさらさらない。最初は、鎌倉サラリーマンの元祖というべき、大江広元の座右訓の”益なくして厚き禄をうくるは窃むなり”である。また、本書の2部に収録、記者時代の先輩社員を描いたとおぼしき”二人の老サラリーマン”は、働くことと生きることの深い結びつき問う、極めつけの名作短編小説である。いずれも、現代の感覚をもってしても、全く古びた印象はないものになっている。

第1部
 サラリーマンの元祖/洋服をきた庶民/秩序の中の部品/サラリーマンの英雄/サラリーマン非職業論/ロマンの残党/義務のたのしみ/長男サラリーマン/人生観の年輪/サービスの精神/収支の観念/恒産という特権/明日を思い煩うな/反出世主義/親友道と仲間道/湿地に咲く花/金についての人格/公憤のない社会/グチはお教だ/ホワイト・カラー族/真鍮の人生/約束を守る/顔に責任を持つ/崩れぬ笑い/猫にも劣った人物/奴レイ人種/起こるということ/議論好きは悪徳/職業的倦怠感/無用の長物/上役と下僚/階級制早老/女性サラリーマン/職場の恋愛/女性に警戒せよ/サラリーマンの結婚/大度量の女房/家庭の芸術家/家庭という人生/停年の悲劇/運命論が至上哲学/サラリーマンと格言/不幸という喜び
第2部
 二人の老サラリーマン/あるサラリーマン記者

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2018年04月02日

文化としてのドメスティケーション

2 文化としてのドメスティケーション 梅崎 昌裕先生

(目標&ポイント)

・人類が植物や動物をドメスティケートし栽培化・家畜化したのは、ごく最近のことです。

・ドメスティケーションによって植物や動物はどのような特徴をもつようになったのでしょうか。

・そして、ドメスティケーションによって人類の生活はどのように変わってきたのでしょうか。

1. 食べ物は誰がつくるのか

 米、小麦、トウモロコシ、イモ類などの炭水化物を多く含む食べもののほとんどは、人間が田んぼや畑で栽培したものです。

 ウシ、ブタ、ニワトリなど動物性食品も、そのほとんどは人間が飼育した家畜であり、ふだんの食事には野生の動物はほとんど登場しません。

 現代社会では、栽培された植物、飼育された動物を食べるのがあたりまえですが、栽培と飼育という技術が発明されたのはわずかに1万年より少し前のことです。

 ドメスティケーションとは、人間が野生の植物や動物を、栽培化された植物、飼育化された動物に変えてきたプロセスを指す言葉です。

2. 植物のドメスティケーション

2-1 栽培化された植物

 植物を栽培するためには、栽培に適した栽培化された植物と、それを栽培する技術が必要で、栽培化された植物は、もととなる野生の植物から人間がつくりだしたものです。

 栽培化された植物が備える人間にとって都合のよい特徴は、ほとんどの場合、植物の生存にとっては不都合な特徴です。

 栽培化された植物は、植物がその生存を可能にするために有していた特徴を失った状態にあり、栽培化された植物は、自然の中では生きていけません。

 栽培化された植物が生きられる環境をつくる栽培技術体系が農耕であり、それは、現代農業の技術を利用した現代農業と、在来の知識や技術に立脚した在来農耕に分けられます。

2-2 農耕の類型化

 現代農業と在来農耕には、栽培化された植物が成長環境を確保し、成長植物を収穫する共通点がある一方、栽培化された植物が成長環境を確保する手段に大きな違いが見られます。

 現代農業では、農学という学問分野において開発された除草剤、化学肥料、化学物質などの様々な製品の使用が前提となっています。

 耕起、収穫などでは農業機械が使われることも多く、近年では、バイオテクノロジーの発展を背景として、作物としての生産性、食害耐性などが飛躍的に高められました。

 対照的に、在来農耕のあり方は基本的にローカルであり、在来農耕は在来知識、規範、儀礼、暦など社会の中の多様な文化的行為との繋がりをもっています。

2-3 現代農業と在来農耕の対比

 土地当たり収穫量は関東地方がパプアニューギニア高地の一番肥沃な畑に比べ約2倍で、人間と機械の合計投入エネルギーは、トラクターを使うと人間が鍬を使う場合の2.5倍必要です。

 1ヘクタールの農地を耕す時間・人間の投入エネルギーは、人間が鍬を使う場合はトラクターを使う場合のおよそ100倍必要です。

 産業革命によって、世界各地では在来農耕が人間の投入する時間とエネルギーが少なく、安定的で生産性の高い現代農業にとって替わられてきました。

 一方で、現代農業での食料生産に必要な全体のエネルギー量は在来農耕よりも大きく、在来農耕から現代農業への置き換わりは地球環境への負荷を増大させる側面もありました。

3. 動物のドメスティケーション

3-1 飼育化された動物

 飼育化された動物はそれぞれの野生種に比較すると人間の役に立つ能力が強化され、人間にとって望ましくない性質が弱められる方向に変化しています。

 すべての飼育化された動物に共通するのは、人間に対する攻撃性や警戒心が少なく、人間とうまくやっていけるような穏やかな性質をもっていることです。

 いくつかの例外はあるものの、基本的には人間の利用できないものを食べて生存することができ、子どもをつくり育てることが人間によって管理されていることが多いです。

 飼育化された動物は人間が準備した餌を喜んで食べ人間の目の前で子どもを産みますが、これは飼育化されていないほとんどの動物にはあてはまりません。

3-2 飼育化された動物の利用

 栽培化された植物と同じく、飼育化された動物は人間のつくった構造物(柵、檻など)によって外敵と隔てられ、成長に必要な食料を人間に与えられて育ちます。

 攻撃性、極端な警戒心などそれぞれの野生種が自然環境の中で生存するのに不可欠であった特徴は消失しているため、一般的に完全な自然環境下での生存は困難です。

 飼育化された動物の人間にとっての主たる用途は、食べ物、道具や服の材料、労働力・輸送力、愛玩・実験の対象、威信財などで、ほとんどは複数の用途に用いられます。

 それ以外にも、狩猟で活躍するイヌ、漢方薬の材料になるトナカイ、など、特異的な特徴によって人間の役に立つ動物も多いです。

3-3 飼育化された動物が人間の生活に与えた影響

 飼育化された動物の中でも家畜とよばれるものは、人間の利用できない資源を食べて成長し、人間に肉や乳、労働力などを提供します。

 一方で近年になって、飼育化された動物の存在が、人間の罹患する感染症の流行に大きな影響を与えていることが知られるようになりました。

 ウイルスや細菌の中には人間と飼育化された動物のどちらにも感染するものがあり、生物は高密度で存在すると個体間の接触が増え感染症が拡がりやすくなっています。

 症状を起こすことなく感染するにもかかわらず、人間には重篤な症状を引き起こすタイプのウイルスや細菌は、感染した動物を判別するのが難しいためにコントロールが難しいです。

4. まとめ:ドメスティケーションの捉え方

 人間は生態系の一員として、他の生物と同じように被食−捕食の関係の中で生きていましたが、ドメスティケーションによって人間の生存は相対的に容易になりました。

 ドメスティケーションは、人間が他の生物を自分の都合のよいようにコントロールして、生態系の構造を人為的に改変した現象といいかえることもできます。

 およそ1万年前から現在までのドメステイケーションの試みは人類史の中でも大きな発明の一つであり、結果として今日の人類の食生活や労働のあり方に大きな影響を与えました。

 より少ない労働投入によりおいしいものが食べられるようになり、人口に占める肥満者の割合が増加し、活動不足によって引き起こされる疾患の有病率が上昇しました。

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2018年03月31日

池田光政−学問者として仁政行もなく候へば

 ”池田光政−学問者として仁政行もなく候へば”(2012年5月 ミネルヴァ書房刊 倉地 克直著)は、江戸前期の備前岡山藩主で仁政理念に基づいた藩政を展開し新田開発や藩校開設などを行った池田光政の生涯を紹介している。

 池田光政は、1609年生まれの江戸時代前期の大名である。姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男として生まれ、母は江戸幕府2代将軍秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫であった。当時の岡山藩主・池田忠継が幼少のため、利隆が岡山城代も兼ねていた。1613年に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。1616年に利隆が死去したため、幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となった。1617年に幼少を理由に、因幡鳥取32万5,000石に減転封となった。1632年に叔父の岡山藩主池田忠雄が死去し、従弟で嫡男の光仲が3歳の幼少のため、光政が岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった。以後、輝政の嫡孫である光政の家系が、明治まで岡山藩を治めることとなった。本書の大筋は、著者が2009年度から2011年度にかけて岡山大学、大谷大学、九州大学で行った講義によっているという。

 倉地克直氏は1949年愛知県生まれ、1972年京都大学文学部卒業、1977年京都大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学、1980年から岡山大学文学部講師、助教授、教授を経て、2007年に社会文化科学研究科教授、2015年に定年退任、現在名誉教授である。なお、池田家文庫は、戦後、岡山総合大学設立期成会が買取り、岡山大学に寄贈された。池田文庫は、光政が鳥取から岡山城に入部して以来廃藩置県に至るまでの、約240年の備前藩藩政資料と池田侯爵家襲蔵の図書類である。内訳は、藩政資料68,083点、和書4,166部22,117点、漢籍653部10,420冊となっている。

 江戸時代には全国に260あまりの藩があり3000人を超える大名がいたが、現在使われている高等学校の日本史教科書に登場するのは、幕府の老中などを務めたものを除くと、10人にも満たない。池田光政はその数少ない大名の一人で、江戸時代前期を代表する典型的な大名として取り上げられる。この時期の大名はどのような課題に直面し、それをどのように処理しようとしたのか、を説明するために、光政の治績か取りあげられるのである。鳥取藩主としての光政の内情は苦しかったようである。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だった。藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。岡山藩主としての光政は、儒教を信奉し陽明学者熊沢蕃山を招聘し、1641年に全国初の藩校花畠教場を開校した。1670年に日本最古の庶民の学校として閑谷学校も開いた。

 教育の充実と質素倹約を旨とし、備前風といわれる政治姿勢を確立した。干拓などの新田開発、百間川の開鑿などの治水を行い、産業の振興も奨励した。このため光政は、水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学と心学を藩学として実践した。光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とし、神仏分離を行ない寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。また、光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行い、庶民の奢侈を禁止した。光政を明君とする評判は当時からあった。三代岡山藩主池田継政は祖父光政を敬慕し、その政治理念を受け継ぐことを理想とした。家中に伝えられた光政の逸話を集めたものに”有斐録”があり、のちに”仰止録””率章録”といった言行録も作られた。いずれも、光政の偉業を賞揚しその言行に依拠することで、家中の結集を図ろうとする意図をもって編まれたものである。時代を経るにしたがって、明君光政像は教訓化、理想化された。また、光政には自筆の日記が残っており、そこに光政の自意識の高さを認めることができる。

 本書の副題とした言葉は光政の言葉そのままではない。”池田光政日記”1655年4月15日にあるのは、”我等学問者と有名ハ天下ニかくれなく候ニ、仁政行ハ一ツとしてなく候ヘバ、名過候、此天罰ハのがれざる所ニて候”である。光政が学問に志す者であることは天下のだれもが知っている。そうした者であるのに仁政の行いは一つもなく、民に苦しみを与えている。これは名か過ぎて実がないということだ。だから、天罰は遁れられないのであり、今回の洪水は天が自分への戒めとして与えられたものだ、といっている。光政の治者としての個性は、学問者であること、仁政行の実践を目指したこと、常に自己反省を欠かさなかったこと、などが重要な点である。1672年に隠居し藩主の座を長男の綱政に譲り、次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与した。1681年10月に岡山に帰国した頃から体調を崩し、1682年5月に岡山城西の丸で享年74歳で死去した。巻末に。詳しい年譜が付いている。

第1章 岡山以前の光政/第2章 光政における「家」と「公儀」/第3章 最初の「改革」と「治国」の理念/第4章 二度目の「改革」と「心学者」たち/第5章 最後の「改革」と光政の蹉跌/第6章 晩年の光政

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2018年03月27日

地球におけるヒトの存在

1 地球におけるヒトの存在  高倉 浩樹先生

(目標&ポイント)

・ヒトは文化的存在であると同時に太陽の恵みに依存する生物です。

・狩猟採集民だった時代に地球上に拡散したヒトは、農業革命と産業革命をへて独自のエネルギー連鎖をつくり今日に至っています。

・エネルギーは身体の栄養源であると同時に社会を支える動力源です。

・人類史はエネルギー拡散の流れを様々な地域でヒトが独自の系をつくりだしてきた過程といえます。

・文化をエネルギー利用の観点から見ることで、地球におけるヒトの存在を鳥瞰する視点を紹介します。

・地球環境問題と人類史を関連づけて理解します。

1.太陽の恵み

 ヒトは地球上の生物と同様に太陽の恵みがなければ生存できない存在でもあります。

 電気は石油や石炭などを利用してつくられ、風力や潮力も太陽の熱エネルギーが地球に降り注ぐ中で出現するものです。

 水や大気などの無生物を含めた物質循環つくりだす大元は太陽から発せされる光と熱のエネルギーです。

 地球の大気や水の動きは太陽によってつくられ、ヒトの文明社会はその土台の上に成り立っています。

2.共通言語としてのエネルギー

2-1 30人の奴隷

 ある地球物理学の研究者によれば、現代日本人は一人一人30人の奴隷を使って生活しているといいます。

 日本人一人が一日に摂取するエネルギーは2400kcalですが、消費する総エネルギー量は平均すると72000kcalとなり、約30倍です。

 奴隷30人が必要なエネルギー量を、一人の人物が現代の日本で生活していくには必要なのです。

 こにょうに、物理学的視点で人間活動を捉えることは、地球におけるヒトの存在を考える上
できわめて重要です。

2-2 時代格差と地域格差

 ある研究によれば、ヒトの祖先であるアウストラロピテクスは一人一日当たり3000キロカロリー消費していました。

 中世ヨーロッパでは輸送が増え2万kcal、産業革命後は工業化が始まり7〜8kcal、1970年当時の米国人は25万kcalになっていました。

 文明が発達すればするほど人類はエネルギーを利用=消費する社会をつくっていることを示しています。

 世界の貧困問題や南北格差に見られるように現代世界では、1996年では、米国27万、英国13万、韓国10万、中国24万で、世界平均は約5万kcalです。

3.エネルギー循環の人体と社会

3-1 代謝とダイエット

 ダイエット本にはカロリー制限のことが書いてありますが、カロリーは我々が暮らしている標準大気圧の中で1グラムの水の温度を1度上昇させるのに必要な熱量のことです。

 ヒトの行動はエネルギーの摂取と消費という観点で把握することが可能で、摂取した栄養分を体内で燃焼させ、作り出したエネルギーを生命維持のため消費しています。

 代謝とは、食べることを通して外部から取り入れた物質をもとに体がエネルギーを生産し、利用するために物質を変えていく過程です。

 人類史におけるエネルギー消費が徐々に増えてきているのは、人間以外のエネルギーを我々の社会はどんどん取り入れてきたからなのです。

3-2 社会の中のエネルギーの変換

 地球の生命活動を支えるエネルギー起源は太陽に遡り、地球の断面積1億3000万?で地球全体にすると毎秒41兆キロカロリーを受け取っています。

 太陽の恵みがヒトに回わってくるまで幾つもの過程があり、太陽の恵みを地球の生命が使えるように変換した蓄えによって、すべての生態系は成り立っています。

 植物が光合成を通して得た72京kcalのうち7.2京kcalを草食動物が利用し、それ以外は植物の生命維持や再生産に利用されています。

 ヒトの一日のエネルギー推奨量2100kcalから、地球上の人口維持に必要なエネルギー量は0.5京calで、植物が太陽から固定したエネルギーの約1%弱を人類が必要としています。

4.エネルギーの最大消費の起源と石油文明

4-1 エネルギー生産技術としての農業

 700万年前に出現した人類の祖先は雑食だったといわれ、肉をどう手に入れていたかについては諸説あるが、いわゆる死肉あさりをしていたという説が最近有力です。

 約1万年前に始まる農業や牧畜は、食べるための穀類や家畜を野生の再生産の過程から切り離したという点に注目する必要があります。

 農業はヒトが生存していくために編み出した技術の代表的なものであり、その中でヒトは生存にとって好ましい特定の流れを見いだし、強化・拡張してきた。

 人類史はエネルギー利用の拡大史であり、ヒトの人口は80億を超え地球上分布していない場所はないという意味で巨大な個体群です。

4-2 蒸気機関の発達と石油文明

 18世紀に発明された蒸気機関は、従来のヒトの社会には存在しなかった動カエネルギーをつくりだしました。

 人類史を紐解くと、石炭・石油の利用はほとんど暖房用の熱源でしたが、蒸気機関が発明され鉄道や機械制工業の発生に繋がりました。

 石油は19世紀まで熱源以外の利用はほとんどされなませんでしたが、原油から灯油を精製する過程で発生する揮発油を動力化した内燃機関が、自動車や飛行機を生み出しました。

 石油化学の発展によってプラスチック製品が誕生し、従来の太陽エネルギーに基づく地球上の物質循環とは異なるエネルギー拡散の系を、鉱物資源をつくってヒトがつくりました。

5.エネルギーと文化

 1950年代のアメリカの人類学者レスリー・ホワイトは、文化を進化という観点で着想し、エネルギー消費量を量的に分析して、社会の発達段階を科学的に把握できると考えました。

 エネルギー消費量の増加が社会の進化であると主張しましたが、過度に物質主義に立脚した議論は、今日では、ほぼ忘れ去られたといってもよい状況です。

 しかし、ホワイトによる文化の定義は興味深く、ヒトの社会の物質的基盤に接近し伝統と工業化をエネルギー消費の観点から連続的に捉える、という点は着目していいでしょう。

 議論の欠点は過度に物質主義で外側からの視点であることですが、他の社会科学や自然科学と共同して、ヒトの存立を理解する土台を提供しているのではなでしょうか。

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2018年03月24日

伊勢崎藩

 ”伊勢崎藩”(2018年1月 現代書館刊 栗原 佳著)は、藩校の学習堂を設立した日本有数の教育藩で向学心により幾多の危機を克服してきた伊勢崎藩の沿革を紹介している。

 伊勢崎藩は江戸幕府の成立当初から存在した。一般的には譜代2万石の小藩で、厩橋=前橋藩主から後に姫路藩主となった酒井雅楽頭家から分岐した支藩というイメージか強い。だが、酒井忠寛が伊勢崎藩主となる1681年まで、伊勢崎藩は数奇な運命を辿った。

 栗原 佳氏は1989年前橋市生まれ、群馬大学教育学部で社会専攻、学習院大学大学院人文科学研究科で史学専攻、その後、高校地理歴史科の教諭となった。伊勢崎商業高校勤務を経て高崎女子高校に勤務しており、NPO法人歴史資料継承機構じゃんぴん会員である。伊勢崎商業高校には4年間勤務したが、生まれも育ちも前橋市であり伊勢崎に住んだ経験は一度もないという。やっと伊勢崎の土地勘がついてきて、教員生活も慣れてきたところで本書の執筆依頼を頂いたとのことである。

 伊勢崎藩を最初に支配したのは徳川家康の家臣の稲垣氏で、志摩国鳥羽藩・稲垣氏の祖・稲垣長茂が加増によって1万石を領したことに始まる。長茂は1600年の会津征伐時に牧野康成の大胡城を守備し、1601年に上野佐位郡で加増されて1万石の大名として諸侯に列し、伊勢崎藩主となった。稲垣氏は長茂、重綱と2代にわたって伊勢崎を支配したが、重綱は1614年からの大坂の陣に参戦し戦功を挙げ、1616年に越後藤井藩2万石に加増移封された。治世は僅か16年という短いもので、支配領域は佐位郡という伊勢崎の東武南部の領域のみであった。その後、武蔵川越藩初代藩主で後に上野厩橋藩初代藩主となった、雅楽頭系酒井家宗家初代の酒井重忠の嫡男の酒井忠世が、那波藩という伊勢崎の西部を支配し稲垣氏の旧領をも吸収した。忠世は上野那波藩主、伊勢崎藩主となり、1617年に重忠が死去して遺領の厩橋3万3千石を継ぎ、それまでの領地と併せて8万5千石となった。

 忠世が厩橋藩を継いだときに、伊勢崎藩領はそのまま厩橋藩領に組み込まれた。1623年に秀忠の嫡子の家光の世継が確定すると、忠世は家光付きの家老の年寄衆に加わった。忠世は1636年に死去し、同年のうちに忠世の跡を継いだ嫡子・酒井忠行も死去した。このため、酒井氏の家督は忠行の嫡男・酒井忠清が継ぐこととなった。このとき、忠清の弟・酒井忠能が、兄より上野那波郡など3郡2万2,500石を分与され、伊勢崎藩主となった。しかし、1662年に忠能は7,500石を加増されて3万石の上で信濃小諸藩に移封され、伊勢崎は廃藩となった。その後、1681年に4代将軍徳川家綱の下で大老を務めた酒井忠清の三男・酒井忠寛が兄・忠挙より2万石を分与され、前橋藩の支藩的な性格を帯びて伊勢崎藩が再立藩した。忠寛が藩主となって以降は、その子孫が伊勢崎藩主となった。その後厩橋藩の酒井氏は姫路藩に移封となり、伊勢崎藩は姫路藩の支藩的存在となった。3度目の正直で酒井氏の安定した支配か確立した。小藩であった伊勢崎藩は財政問題が常にネックとなり、時代を経るにしたがってさらに悪化していった。こうした状況を打開するために藩校で朱子学の教育か始まり、家臣に浸透していった。

 18世紀の後半には、藩政の重役に朱子学者が多く登用された。藩内は強い師弟関係で結ばれ、伊勢崎藩が浅間山犬噴火で大きな被害を受けた際には善政を行うことで難局を乗り切った。教育はやがて庶民にも広まって郷学が造られ、伊勢崎は日本有数の教育藩となった。日光例幣使道に沿った町の市では、様々な商品か取引された。日光例幣使街道は江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後に東照宮に幣帛を奉献するための勅使が通った道である。農村では蚕糸業が発展し、伊勢崎太織を生産するようになり、これが近代以降の絣の町伊勢崎繁栄の基礎をつくった。蚕糸業が発展したことで、幕末開国後は伊勢崎の蚕種か欧米に輸出されるようになった。開国の影響で伊勢崎藩も幕末の緊迫した情勢に巻き込まれていく。戊辰戦争では宗家の意向に従いはじめは旧幕府軍についたが、後に新政府軍側について参戦した。幕末、最後の姫路藩主となった酒井忠邦は、伊勢崎藩の7代藩主・酒井忠恒の九男である。幕末には新政府から警戒されたが、8代藩主・酒井忠強は自ら謹慎することで恭順の意を示した。その後、1869年の版籍奉還により忠強の跡を継いだ酒井忠彰は知藩事となり、1871年の廃藩置県により伊勢崎藩は廃藩となった。藩主家は、1884年に子爵となった。なお、この本の中では伊勢崎の名所やグルメも紹介されている。

第1章 伊勢崎藩の成立−幕府の始まりからめまぐるしく入れ替わった伊勢崎藩の支配者/第2章 伊勢崎藩の武士たち−役職に励み、苦しい生活に悩まされ、偉業を成し遂げた武士がいた伊勢崎藩/第3章 浅間山大噴火を乗り越える−関 当義・重嶷父子の活躍−未曽有の大災害を克服し、伊勢崎藩全域に広まった教育熱の高まり/第4章 人々の暮らし−伊勢崎太織生産の拠点や、交通の要衝としての伊勢崎藩を支えた人々の暮らし/第5章 幕末の伊勢崎藩−幕末のめまぐるしい情勢に、藩として対応に追われた時代

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2018年03月18日

総合人類学としてのヒト学

 放送大学の、”総合人類学としてのヒト学(’18)”を受講します。

 専門科目としての文化人類学への導入としての科目です。

 人類学は一般に、人類の進化や生物学的側面を研究する自然人類学と、人類の社会的・文化

的側面を研究する文化人類学あるいは社会人類学に大別されされます。

 文化人類学は、人間の生活様式全体の具体的なありかたを研究する人類学の一分野です。

 主任講師は、高倉浩樹先生です。

 1968年東京都に生まれ、1992年上智大学文学部卒業、1998年東京都立大学大学院社会科学研究科単位取得退学(社会人類学博士号1999年取得)。

 東北大学教授で、専攻は、環境人類学、災害人類学、ロシア・シベリア研究です。

 各回のテーマと放送内容は次の通りです。

 第 1回 地球におけるヒトの存在

 第 2回 文化としてのドメスティケーション

 第 3回 からだの進化

 第 4回 食べものをとる

 第 5回 家畜とともに暮らす

 第 6回 食べものをつくりだす技と場

 第 7回 ヒトの家族の起源

 第 8回 ヒトの繋がりと社会集団

 第 9回 時間と空間を区切る

 第10回 遊ぶことと祈ること

 第11回 もののやりとりと社会関係

 第12回 支配の仕組み

 第13回 近代世界の成立と国民国家の形成

 第14回 グローバリゼーションとローカル社会

 第15回 地球温暖化と人類社会

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2018年03月17日

装丁、あれこれ

 ”装丁、あれこれ”(2018年1月 彩流社刊 桂川 潤著)は、本に生命を吹き込む装丁という仕事にまつわるあれこれを紹介している。

 装丁は書物を形づくることやその方法をいい、一般的には本を綴じて表紙などをつける作業を指す。装幀と書かれることもあるが、正しくは装い訂める=よそおいさだめる意味の装訂であるとも言われている。書画の表具を意味する幀が好まれ、装訂の略用表記の装丁とともに定着している。広義には、カバー、表紙、見返し、扉、帯、外箱のある本は外箱のデザイン、また製本材料の選択までを含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。装幀を担当する専門家のことを装幀家、装丁家と呼び、装幀と本文のデザインなどを含めた図書設計を行う専門家のことを図書設計家と括る場合もある。

 桂川 潤氏は1958年東京生まれで、立教大学大学院文学研究科前期課程修了の装丁家・イラストレーターである。キリスト教系NGOや研究所の勤務を経て、1995年からブックデザインの仕事をはじめ、2010年に第44回造本装幀コンクール日本書籍出版協会理事長賞を受賞した。本書は”出版ニュース”の連載コラム”装丁”に掲載された2012?2017年分をまとめたものである。

 明治までは、造本作業は単に製本と呼ばれ、明治末年頃からの出版文化の発展とともに、装い釘じるという意味の装釘が使われ始めた。装釘は、装い釘うつを意味する熟語として中国古代より存在した熟語である。1920年代後半からは、釘との連想を避けて装幀と表記することが多くなった。1946年に発表された当用漢字表には幀・釘ともに入っていなかったため、1956年の国語審議会報告では装幀、装釘には装丁が置き換えられることとされたが、装幀や装釘も一般に用いられている。装幀とブックデザインという言葉は、同じ意味で使われることもそうでない場合もある。ブックデザイン、カバーデザイン、カバーイラストレーションと分けて表記されている場合は、ブックデザインはカバーを除いた書籍本体のデザインのみを意味する。著者は、装丁家と名乗っても、まず何の仕事か理解してもらえないという。ブックデザイナーと言いかえると少しは通じるけれど、今度は、本のデザインって、いったい何をデザインするんですか、と訊ねられる。奥さまは、ご主人がこの仕事をするまで装丁という職能を知らなかったそうである。本の顔と姿かたちを誰が考え出すのか、と訊ねると、そんなの自然に出来ると思っていた、と返されて絶句したとのことである。

 言われてみると、いっさいの作為を感じさせず、自ずから生じたように映る装丁こそ、理想の装丁かも知れない。編集者が装丁した本には、通常、装丁者名が記されない。編集者装丁はテクストに寄り添う装丁であり、そのゆかしさに独特の魅力があった。しかし、時代とともに書物の量産化・商品化が進み、装丁にも広告デザイン的なテクニックや鋭い批評性が求められ、さらに多忙を極める編集者からは装丁に携わる余裕が奪われた。結果、装丁家が編集作業から独立した書物の演出家として脚光を浴び、百花線乱のブックデザインが奸を競うようになった。多機能端末が登場した2010年以降、書籍電子化の波を受けて、紙の本と装丁は消えてしまうのかと、あちこちで訊ねられたそうである。しかし5年を経た今(原稿執筆時点)、出版状況はいっそう厳しいけれど、紙の本はどっこい生きている。魅力的な本屋やブックカフェが話題を呼び、ブックイベントが各地で催され、本と装丁の面白さに惹かれる人が以前より増えたように感じる。世の流れは未だ油断ならないが、存外一本調子ではなさそうだという。装丁論と出版文化論を通じて、本をめぐる真摯なる問いである、理想の装丁とは何かを徹底的に考えようとしている。

「理想の装丁」装丁備忘録2012-2017
2012年 電子本は、これから?/本から離れようつたってそうはいかない/《ソウテイ》あれこれ/なぜリアル書店で本を買うのか/やはり本屋が面白い/3・11後のデザインの可能性/「ゆるい」装丁の時代/日本の電子出版を創ってきた男たち/本と電子書籍の定義は?/電子書籍の「表と裏」/”モノ”から。コト”へ、物”から語り”へ/PDF写真集の試み
2013年 紙の本ならではの装丁/物である本の儚さ/二枚腰のしたたかさか求められる装丁家/「本の気配」を感じるということ/「本の未来」について/仕事の域を超えてゲラ読みに熱中した一冊/映画『世界一美しい本を作る男』を観て/坂川事務所の集大成
2014年 電子カレンダーと手帳/本を舞台に真剣勝負/韓国の書籍装頓と装禎家/装丁はモノから切り離せない/制約を楽しむ/世の流れは「手書き」へ/「偶然の装丁家」/リアルな本の存在意義/菊地信義の批評性/鈴木成一の仕事/紙の本と電子本を知り尽くした山田英春/二冊の写真集
2015年 変幻自在の「和田ランド」/祖父江版『心』/『工作舎物語』/デザイナーの仕事/中小出版、当面はPDFで電子出版?/韓国のブックデザイン/ミシマ社のブックデザインに注目/『書影の森』(みずのわ出版)について/一箱古本市に参加して/エンブレム問題とブックデザイン/坂川栄治流/小さな出版社のもっとおもしろい本
2016年 年末進行のアルゴリズム/本の顔は背である/ブックデザイン派の装丁/ミシマ社と春風社/昨今のラフ、カンプ事情/西日本の個性的な書店・版元巡り/広告出身のブックデザイナー/BBOは地域の祭りに成長/俳句と装丁/本とは何か/「鈴木…久美さん。おーっ!」/鳥海鯛の書体
2017年 花森安治の装釘集成/加藤典洋さんの三冊/身体としての書物/「世界のブックデザイン」展から/紙の本は美しくなければ…/装丁のいい本は中身もいい/佐藤正午本の装丁/韓国の本屋事情/タラブックスの本づくり/たかが帯、されど帯/装丁家ふたりのエッセイ/17年のキーワードは「地方」
〈予感〉を包み込む
私が装丁家になった理由/現実と異界をつなぐ扉/予感を包み込む
あとがき/初出一覧/人名索引/事項索引

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