2017年08月17日

子規と漱石

 ”子規と漱石 − 友情が育んだ写実の近代”(2016年10月 集英社刊 小森 陽一著)は、夏目漱石のいちばんの理解者であった正岡子規の生き方を中心に二人の関係を紹介している。

 第一高等中学の同窓生である子規と漱石は、意見を闘わせながら新たな表現を模索した。しかし、1902年に亡くなった子規からの最後の手紙を、漱石は返事をせずに放置したという。

 小森陽一氏は、1953年東京生まれ、1976年北海道大学文学部卒業、1979年同大学大学院文学研究科修士課程修了し、大学院在学中に札幌の予備校講師を勤め、その後、成城大学勤務を経て東京大学に着任した。現在、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授、専門は日本近代文学である。

 子規は1867年9月に松山藩士の長男として伊予国・温泉郡で生まれ、明治という時代の新しい活字メディアである新聞と雑誌を舞台に、短詩型文学としての俳句と短歌を革新する運動を展開し、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

 漱石は1867年1月に江戸・牛込馬場下の名主の家の末子五男として生まれ、第一高等学校卒業後、東京帝国大学で英文学を学んだ。卒業後、松山中学校、熊本第5高等学校の英語教師を経てイギリスに留学し、帰国後、東京帝国大学で英文学を教えた。子規の弟子高浜虚子の勧めで、子規と虚子が刊行していた俳句雑誌に小説を執筆した。小説家としての能力が高く評価され、1907年に朝日新聞専属小説家として入社し、独自の小説世界を構築した。

 子規は、1872年に父が没したため家督を相続し、大原家と叔父の後見を受け、外祖父の私塾に通って漢書の素読を習った。翌年、小学校に入学、後に、勝山学校に転校し、1880年に旧制松山中学に入学した。1883年に中退して上京し、受験勉強のために共立学校に入学した。翌年、旧藩主家の給費生となり、第一高等学校に入学し、常盤会寄宿舎に入った。東大予備門では漱石と同窓であった。1890年に帝国大学哲学科に進学したが、後に文学に興味を持ち、翌年、国文科に転科した。この頃から子規と号して句作を行った。大学中退後、叔父の紹介で1892年に新聞日本の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年に俳句の革新運動を開始した。1894年に日清戦争が勃発すると、翌年、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡った。その2日後に下関条約が調印されたため、5月に帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院し、7月に須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年に俳句雑誌”ホトトギス”を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。そして、漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。短歌においても、古今集を否定し万葉集を高く評価して、形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催し短歌の革新につとめた。漱石と子規の交友が始まるのは、二人が第一高等中学校本科一部に進学してしばらくしてからの、1889年1月頃であった。この年の5月9日に常規は突然喀血し、翌日50句近い俳句を作った際に子規と号した。漱石は13日に子規を見舞いに行き、その日のうちに手紙を書いた。兄が同じ日に吐血したことを打ち明け、自分の身内と同じように、あるいはそれ以上に心配をしていることを、さり気なく子規に伝えた。子規は喀血する前の5月1日、7種の異なった文体、漢詩、漢文、和歌、俳句、謡曲、論文、擬古文体小説で編んだ文集を脱稿し、友人たちに回覧した。この文集の末尾に、漱石は漢文で評を書き、最後に七言絶句九篇を付けて、5月26日に病床の子規を見舞い返却した。このときはじめて”漱石より”と署名した。後に、漱石の文字に誤記があったかもしれないという手紙を出して、子規に再確認を促した。自分の書いた文章に、相手の注意を向けさせ、自分もまた相手の書いた文章を注意深く批評するという関係を、漱石は子規と結ぼうとしていたのである。この日から、子規と漱石という二人の文学者の交友が始まった。漱石は生前の子規を、自らの俳句の宗匠として位置づけた。そうすることが、当時は不治の病だった結核を悪化させていく子規に、精神的な生命力を与えようとする、漱石の友情の表明であった。東京と松山、あるいは熊本という形で離れていた子規と漱石は、活字印刷と郵便の制度を媒介として、作者と読者の役割を転換し続ける言葉のやり取りを続けた。子規は漱石の手紙の読者であり、俳句については読者兼添削者でもあった。子規は、ときに編集者となりときに批評家になった。地方都市に暮らしていた漱石は、新聞や雑誌の読者であると同時に、編集者予規に俳句を選ばれることにより、活字媒体における作者ともなっていった。二人の文学的関係は、1900年に漱石がロンドンに留学した後も継続している。二人が最後に会ったのは、漱石がイギリス留学に出発するに際して、子規に別れをいいに行った時だった。その時、子規は餞別として”萩すすき来年あはむさりながら”の句を贈った。子規が漱石にあてた生涯最後の手紙には、”僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居るやうな次第だ”と書かれている。本書は、こうした子規と漱石の間で生み出された、近代日本語の表現の水準を探っている。

第一章 子規、漱石に出会う/第二章 俳句と和歌の革新へ/第三章 従軍体験と俳句の「写実」/第四章 『歌よみに与ふる書』と「デモクラティック」な言説空間/第五章 「写生文」における空間と時間/第六章 写生文としての「叙事文」/第七章 病床生活を写生する『明治三十三年十月十五日記事』/第八章 生き抜くための「活字メディア」/終章 僕ハモーダメニナツテシマツタ

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2017年08月12日

平田篤胤: 交響する死者・生者・神々

 ”平田篤胤: 交響する死者・生者・神々”(2016年7月 平凡社刊 吉田 麻子著)は、かつて国粋主義の元祖とされ国学において宣長学の俗化と捉えられてきた篤胤の知られざる生涯を紹介している。

 平田篤胤は、戦後、皇国史観の元祖、狂信的国粋主義者という偏った見方でしか語られず、また、無視され続けてきた。しかし、平田家に伝わる膨大な新資料を整理すると、その実像は、若くして亡くなった妻や、幼くして亡くなった子を思う、家族愛にあふれている。また、現代にも通ずる日本独自の豊かな死生観を探究した、江戸後期を代表する思想家でもあった。

 吉田麻子氏は1972年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科日本文学専攻博士課程単位取得退学し、現在、学習院女子大学・相模女子大学・東海大学などで非常勤講師を務めている。1998年に、それまで未公開だった先祖伝来の気吹舎資料の調査を、平田篤胤神道宗家当主より許された。また、2001年に、当時、国立歴史民俗博物館館長であった宮地正人氏と出会い、その指導を仰ぎながら共に調査を進めた。

 平田篤胤は江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者で、1776年出羽久保田藩生まれ、成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となった。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎=いぶきのや、家號を真菅乃屋=ますげのやといい、医者としては玄琢を使った。1843年に67歳で亡くなり、墓所は秋田市手形字大沢にあり、国の史跡に指定されている。東京都渋谷区に篤胤を祭った平田神社があり、千葉県旭市に平田篤胤歌碑が残されている。死後、神霊能真柱大人=かむたまのみはしらのうしの名を、白川家より贈られている。復古神道、古道学の大成者であり、大国隆正によって、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人=うしの中の一人として位置付けられている。平田篤胤という人物について、これまである偏ったイメージをもって批判的に語られてきた。たとえば、倫理学者の和辻哲郎は篤胤を、”日本倫理思想史”の中で、狂信的国粋主義の変質者と呼んでいる。また、思想史研究者の安丸良夫は篤胤の思想を、”日本ナショナリズムの前夜”の中で、人間の頭脳か考えうるかぎりもっとも身勝手で独りよがりな議論と評している。篤胤の語る死後の世界は、実は日本神話の神々の織りなす壮大なコスモロジーの中に含み込まれて構想されている。そこでは、日本を中心とした世界観が思想全体を覆っていて、日本が世界のもとの国であると主張している。日本の万事万物は万国にすぐれている、あるいは、わが天皇が万国の大君などといった、極端な文言か並んでいる。そのような側面が、篤胤没後の幕末維新期に、尊皇攘夷と王政復古運動、廃仏毀釈、祭政一致など、一連の社会的な情勢や展開に多大な影響を与えたと言われている。さらに、戦前の国家主義に利用されるといった、大きな歴史的経緯にも関わることとなったことから、篤胤についての偏った見方が生まれ無視されることとなった。しかし、未公開だった気吹舎資料の厖大な書簡や草稿類は、これまでのような単純な裁断を許さない迫力を有していた。そこには、戦前の国家主義や国粋主義といった言葉には、とうてい収まりきれない、豊かな感性と思想があった。そのことによって、もういちど篤胤の書いた書物に立ち戻って考えたいという欲求が湧き上がってきた、という。篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していた。西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などに精通し、心霊現象、死後の世界、霊魂の実在、パワースポット、生まれ変わり、神などなどを考察した。人が生きているあいだには、どうしてもそのように穏やかな波間にたゆたっているわけにはいかなぐなることかある。なんとなく、あるような、ないようなではすまされない、この世ならぬものへの止みがたき希求の瞬間が訪れる場合かある。それは、社会的環境やその変化によってもたらされることもあり、また個人の人生における何らかの衝撃による場合もあろう。平田篤胤は、江戸時代後期の日本においてその瞬間を迎え、自身の強い実感と現実とのあいだにある混沌とした大きな闇を、なんとか言葉で解明し、他者に説き広めようとした。死後の魂の行方や、この世ならぬものの存在の有無といった問題は、実は私たちか死んだ後に関わってくる話ではない。まさに生きている私たちの世界がどのように成り立っているか、あるいは人間が生きるということはどういうことなのかを捉え直すことに他ならない。少なくとも篤胤は、人間を、そのいとなみを、間違いなく愛している。名も無き庶民を、人間か生きることを、まるごと肯定している。にもかかわらず、中心としているのは人間ではない。では何を中心としているのかといえば、海、山、川、雨、風、稲など、万物にやどる八百万の神々とそこら中にある亡くなった人たちの魂である。生きている人間だけを大切にするのでは、真の意味で人間を大切にすることかできないということである。この篤胤独自の哲学は、江戸時代の平田門人たちだけでなく、現代社会に生きる私たちにとっても、けっして見過ごせないものであるように思われる。篤胤の、生きている人間を中心としないヒューマニズムと、それを支えていた日本の前近代的な感性は、現代社会のありようを見つめ直す、大きなヒントになるのではないか。

第1章 平田国学の胎動/第2章 西洋の接近と『霊能真柱』/第3章 地城の奇談と平田門人/第4章 世界像と祈り/第5章 生の肯定、死生の捉え直し/第6章 近世後期の知識人たち/第7章 平田国学における倫理/第8章 広がりゆく書物と篤胤の最期

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2017年08月09日

大江匡衡

 ”大江匡衡”(2006年3月 吉川弘文館刊 後藤 昭雄著)は、平安中期に漢詩文の才で栄達をめざした文人官僚大江匡衡の生涯を紹介している。

 大江匡衡=おおえのまさひらは、平安中期の詩文の才に秀でて優れた漢詩文を制作した文人官僚で、一条天皇の侍読などを歴任し、藤原道長と緊密な関係を築き、晩年は尾張・丹波の国守を務めた。

 後藤昭雄氏は1943年生まれ、1970年九州大学大学院文学研究科博士課程修了し、1982年に九州大学文学博士となった。鹿児島県立短期大学講師、静岡大学教育学部講師を経て、1983年大阪大学教養部助教授、1994年同文学研究科教授となり、2007年定年で名誉教授となった。2008年から2013年まで成城大学教授を務めた。

 大江匡衡は村上天皇の代である952年に、大江音人を祖とし菅原氏=菅家と並ぶ学問の家柄の大江氏=江家に生まれた。平安時代中期の儒者・歌人で中納言・大江維時の孫、左京大夫・大江重光の子で、官位は正四位下・式部大輔、中古三十六歌仙の一人であった。大江氏は菅原道真の失脚後に飛躍し、聖代とされている村上朝には、匡衡の祖父にあたる維時や一族の大江朝綱らが儒家の中心的存在となった。父の重光は、対策に及第している文人官僚であった。晩年に自身の半生を回顧した長編の述懐詩によれば、大江匡衡は7歳で読書をはじめ、9歳で詠作を行ったという。964年に13歳で元服し、祖父の維時から教戒を受けた。ただし、維時は実際には963年に死去している。966年に15歳で大学寮に入り、翌年には寮試に合格して擬文章生となった。紀伝道を学び、973年に省試に合格して文章生となった。なお、この時期に父の重光が死去している。976年〜978年ころ、赤染時用の娘で歌人として知られる赤染衛門を妻としている。匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られ、仲睦ましい夫婦仲より匡衡衛門と呼ばれたという。979年に対策に及第した。985年に襲撃され、左手指を切断された。犯人は藤原保輔とされている。991年に仁康上人が河原院で五時講を行った際に執筆した願文により名声を高め、侍従に任官した。998年に従四位下に叙され式部権少大輔に任官し、一条天皇の侍読となった。1009年に文章博士となり、尾張守となった。東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至った。匡衡が文人として活躍するのは一条天皇の時代であるが、一条朝こそ平安朝文学の精華である”源氏物語”や”枕草子”を生み出した時代である。それぞれの作者である紫式部と清少納言は、一条天皇の后として寵愛を競い彰子と定子に什える女房であった。さらに、歌人として和泉式部、また匡衡の妻である赤染衛門がある。一般的には、一条朝は女流文学が華やかに花開いた時代、というイメージで理解されているに違いないが、それだけではなかった。文字に仮名に対して真名があるように、文学にも仮名の文学に対して漢字の文学=漢詩漢文があった。仮名文学全盛の時代と見える一条朝においてさえ、男性の貴族たちの間では、和歌よりも漢詩の方が、文学として正統な、より価値のあるものと評価されていた。平安朝の漢文の名篇を選録した”本朝文粋”には、匡衡は作者別では最も多い数の作品が収められている。ただし、表や願文、奏状など、上流貴族の依嘱を受けて制作した作品がかなりある。このことは、文人として匡衡が重要な位置にあったことを示すものである。また、広く貴族社会の中にあっては、詩文制作の専門家という限定的立場に置かれていたことを物語る。匡衡の伝を叙述していくに当たって最も基本となるのは、もちろん匡衡が作った詩文である。匡衡には詩集”江史部集”があり、130首余りの詩と29首の詩序が収められている。平安朝には多くの文人詩人が登場したが、その詩文集が現存するのはごくわずかな人々であり、匡衡はその数少ない幸運な詩人の一人であった。また、匡衡は歌人としても、中古三十六歌仙の一人で、歌集”大江匡衡集”を持っており、すなわち和漢兼作の詩人であった。匡衡の生涯を追っていくうえで、妻で歌人である赤染衛門の存在は大きい。匡衡は一条天皇期に文人として活躍し、藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、時折彼らの表や願文、奏上などの文章を代作し、名儒と称された。また地方官としても善政の誉れ高く、尾張国の国司としての在任中は学校院を設立し、地域の教育の向上に努めた。公卿としての地位を望んだが果たせずに終わった。

第一=稽古の力(誕生とその時代/少年期/大学での修学/赤染衛門との結婚)/第二=帝王の師範(官途に就く/文章博士/帝師として)/第三=学統の継承(尾張赴任/京へ帰還/再び尾張へ/丹波守への遷任と死/詩文と和歌/子供たち)/人と文学/系図/略年譜/参考文献

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2017年08月05日

世界の四大花園を行く - 砂漠が生み出す奇跡

 ”世界の四大花園を行く - 砂漠が生み出す奇跡”(2012年9月 中央公論新社刊 野村 哲也著)は、一年に一度、花園に生まれ変わる、南米、オーストラリア、アフリカの砂漠の絶景をカラーで紹介している。

 世界でいちばん美しい花園は、砂漠の中にある、という。砂漠とは死の世界であり、そこは灼熱の太陽と干からびた空気に満ち、草本は絶え動物たちの姿はない。だが時として、ここに恵みの雨が降り注ぎ、それが大地にしみわたって、ある闇値を超えたとき、信じられないような奇跡を起こすことがある。荒涼とした砂漠に、突如、大花園が出現するのである。雨季とともに花開き、まもなく消えてしまう幻の花景色である。

 野村哲也氏は1974年岐阜県生まれ、中部大学大学院工学研究科修了、高校時代から山岳風景や野生動物を撮りはじめ地球の息吹をテーマに、アンデス、南極、パタゴニアなどに被写体を求めてきた。2011年より南アフリカのステレンボッシュに移り住み、四季を通してナマクワランドの花園を撮影してきた。今までの渡航先は85ヵ国に及び、秘境のツアーガイドやテレビ番組制作にも携わっている。また、日本国内ではスライドショーなどの講演活動を続けている。

 四大花園とは野村氏が命名したもので、南アフリカ、オーストラリア、チリ、ペルーにある、という。南北600キロも花街道がつづく南アフリカ、クリスマスリースのような花束が咲くオーストラリア、世界でもっとも乾燥した大地がピンクの花で敷き詰められるチリ、瑠璃色の花が砂丘を埋めつくすペルーである。著者はこれらすべての花園を訪ねて地球を何周も巡り、多種多様な花、そこに生きる人々や動物の姿を写真に収めてきた。南半球が春を迎える9月、大陸西岸に広がる世界の砂漠地帯に、極楽浄土のような絶景が生まれる。360度見渡す限りの花園に包まれるのは、砂漠はあまり起伏がなく、ある時期に全面花園になるからである。2001年の初夏、ペルーの砂漠でこの信じかたい光景を目の当たりにした著者は、不思議な縁に突き動かされるようにして、世界中で次々と、互いを結び合う夢のような繋がりの力に驚き圧倒され続けた。本書は、いまだ知られざる世界四地域の砂漠の花園の全貌を、余すところなく紹介するものである。本物の感動を味わえるのは現地を訪れて実際に体験することなので、できるだけ細かいデータや地図を掲載し、地名を現地の発音に近づけるなどして、手軽なガイドブックの役割を兼ねたものにもなっている。四大花園のなかでも、屈指の規模を誇るのは南アフリカのナマクワランドである。2011年に著者は南アフリカに移住し、腰を据えてこの花園を撮り続けることを決意した、という。アフリカの著名な写真家アラン・プロストからの一枚のポストカードが決め手になった。色とりどりのワイルドフラワーが絨毯のように赤土の山へと続いていき、花の息づかいや風の音色までも聞こえてきそうな写真だった。その場所を見たくなり、夏のある日、ニューウッツヴィル周辺をくまなく探した。ひとつ、ふたつ峠を越えたところで、穴が開くほど見たポストカードの風景か迫ってきた。カメラを片手に同じ画角になる場所へ立った。雲間から透明な光か射し込み、山がさらに赤く色づき、生ぬるい熱風か砂上を走り、照りつける太陽が気温を押し上げた。生命は流転の旅を繰り返し、同じ風景は二度と現れない。一瞬一瞬の尊さを自分自身に映し込んでいく作業、それこそが写真=写心の力となり、通い続けることが力強さとしなやかさを育んでいくのかもしれない。砂漠の花園、そこに生きる動植物、関わり合ったすべての人々、その一つひとつが宝の珠となり、映し合い、生命は網目のように未来へ繋がっていく。

第1章 ペルー共和国−海霧が作る花園
第2章 南アフリカ共和国−蛍光色の極楽花園
第3章 オーストラリア連邦−一万二〇〇〇種類の花園
第4章 チリ共和国−幻の巨大花園
最終章 四大花園を旅して−光のルーツを追って

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2017年08月02日

サハラ砂漠 塩の道をゆく

 ”サハラ砂漠 塩の道をゆく”(2017年5月 集英社刊 片平 孝著)は、ラクダのキャラバンで運ばれる塩の交易アザライに密着した往復1500キロ、42日間の大旅行を写真と文章で紹介している。

 サハラ砂漠はアフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大の砂漠である。南北1,700千米に渡り面積は約1,000万平米であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占めている。サハラ砂漠全体の人口は約2,500万人であり、そのほとんどはモーリタニア、モロッコ、アルジェリアに住んでいる。サハラ砂漠内で最大の都市は、モーリタニアの首都ヌアクショットである。その他、重要な都市としては、ヌアディブー、タマンラセト、アガデズ、セブハ、インサラーが挙げられる。かつてこのサハラの奥地に、金と同じ重さで取引された岩塩があった。いにしえの黄金都市トンブクトゥからサハラ砂漠奥地のタウデニ岩塩鉱山への、いのちの塩を求めての旅であった。

 片平孝氏は1943年宮城県生まれの写真家で、1969年からサハラに魅せられ、砂漠の旅を続けた。1972年にハウサ族のラクダのキャラバンに密着し、サハラの塩の道の東西ルートを踏破した。この時、命懸けで塩を運ぶ人々の姿に感動し、以来、塩を産出する土地を求めて、世界中で取材を続けている。

 サハラにおいてもっとも希少な資源は水であるが、サハラは数千年前までは湿潤な土地であり、そのころに蓄積された化石水が地底奥深くに眠っている。この化石水は現在の気候条件下では再生不可能なものであり、使用しきってしまえば一瞬にして無用の長物と化すと言われている。サハラはさほど鉱物資源の多い地域ではないが、それでもいくつかの大規模鉱山が存在する。サハラでもっとも豊富で価値のある資源は石油である。とくに砂漠北部のアルジェリアとリビアには豊富な石油が埋蔵されており、アルジェリアのハシメサウド油田やハシルメル油田、リビアのゼルテン油田、サリール油田、アマル油田などの巨大油田が開発され、両国の経済を支えている。また、モロッコと西サハラには燐酸塩が埋蔵されている。西サハラのブーカラーで採掘されるリン鉱石は全長約90千米以上のベルトコンベアーで首都アイウンまで運ばれ、船に積み込まれる。この採掘は全域が砂漠の西サハラにおいて最大の産業となっている。このほか、砂漠西部のモーリタニア北部、ズエラットには巨大な鉄鉱床が存在し、ここで採掘される鉄鉱石は近年大西洋沖合いにて石油が発見されるまでモーリタニア経済の柱となってきた。また、砂漠中央部、ニジェール領アーリットにはウランの鉱床があり、アクータ鉱山とアーリット鉱山の2つの鉱山が開発されて、ほかに見るべき産物のないニジェール経済の牽引車となってきた。また、北東部のリビア砂漠においては、リビアングラスという天然ガラスが埋蔵され、古代エジプト時代より宝石として珍重されてきた。また、サハラ北部には砂漠のバラが多数存在し、土産物となっている。歴史上においては、サハラでもっとも貴重な鉱物は塩であった。古来、人々は、塩を手に入れるために命を賭して戦い、様々な工夫と知恵を絞ってきた。古代から近代に至るまで、多くの国の財政は塩にかけた税金で賄われていた。フランス革命は、塩にかけた重税に対する民衆の怒りの爆発でもあった。塩は時に思いもよらない力と価値を生み出す。かつて金と同等の希少価値を持つ塩があった。塩が奴隷の体重と同じ重さで取引された時代もある。しかし、現代の塩は台所の隅っこでただの調味料として無関心に扱われ、塩の摂り過ぎは健康を害するとして悪者扱いされることさえある。塩は、人の命を繋ぎ、人の命を破壊する諸刃の剣でもある。塩のふるさとは太古の海だ。大昔に海だったサハラ砂漠には、海塩をはじめ、湖塩、岩塩など、地球上のすべての塩が存在している。なかでもサハラ砂漠の奥地に産出する岩塩は、かつて王者の商品とまで呼ばれ、塩の採れない西アフリカ内部の森林地帯では金と同じ重さで取引されるほど、大変な貴重品だった。アフリカの政情は、空模様のように変わる、たまたま治安が良くなった年があった。2002年に世界遺産の撮影で28年ぶりにトンブクトゥを訪ねた時、外国人でもタウデュ鉱山に行けるようになったことを知った。2003年12月にアザライと旅をするという夢を実現させるために、4度目のマリに飛んだ。初めてアザライを目にしてから、すでに33年の時が流れていた。本書はこのときの記録である。

第1章 タウデニ岩塩鉱山への旅立ち/第2章 タウデニ岩塩鉱山/第3章 タウデニからの帰り道/第4章 旅の終わりの試練

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2017年07月30日

鬼才 五社英雄の生涯

 ”鬼才 五社英雄の生涯”(2016年8月 文藝春秋社刊 春日 太一著)は、時代劇映画ややくざ映画で活躍した五社英雄監督の評伝である。

 五社英雄と言えば、”鬼龍院花子の生涯””極道の妻たち””陽揮楼””吉原炎上””三匹の侍””人斬り”など、異色の映画を作った極彩色のエンターテイナーであった。テレビでも、ひらけ!ポンキッキの企画に携わり、三匹の侍は続編も作られるほどの人気となった。

 春日太一氏は1977年東京生まれ、日本大学芸術学部卒業し、同大学大学院博士後期課程修了、芸術学の博士号を取得した映画史・時代劇研究家である。五社英雄は1929年東京都生まれ、明治大学商学部卒業後、ニッポン放送プロデューサー、フジテレビ映画部長、五社プロダクション社長を務めた。

 草創期のテレビは新しいメディアとしての可能性に満ち溢れていて、作り手たちは、テレビだからこその表現方法を探って多くが芸術家・思想家のような小難しいことばかりを述べていた。そうした中で一人異彩を放っていたのが五社だった。満足でない制作環境への文句、映画界への嫉妬、そして徹底した観客へのサービス精神があった。テレビドラマでは刑事ものやジキルとハイドなどではプロデュースも担当し、原作・脚本・監督をこなす映画監督であった。テレビ出身の映画監督の先駆けとして活動していくが、テレビ界出身ということで、長らく日本の映画評論界から不当に無視に近い扱いを受けてきた。また、その言動は常に毀誉褒貶の対象だった。しかし、現在の時代劇やアクションは五社の存在なくしては語れない。真っ白なジャケットとズボンで敵だらけの現場に乗り込み、水たまりがあればそのジャケットを脱いで女優にその上を歩かせて周囲の度肝を抜いた。また、こういう話をすれば相手は喜んでくれるだろうとの想いから、相手に合わせてエピソードを面白おかしくでっちあげたこともあった。父親は鳶職をしていて、その世界に入る時は誰もが彫り物を体に彫り込むことになっていた、と言ったことがあった。彫ったらこの子の人生は変わると、彫り師はなんとか止めさせようとしたが、父親は聞かなかった、これで人生が変わるようだったら、もうそんな奴はいらんと言った、という。青年は父親に言われるまま、背中に彫り物を入れることになった。しかし、背中に彫り物があったことは確かだが、実際に彫り物を入れたのは50歳を過ぎてからのことだった。ちなみに、五社の父親は鳶でもなかった。五社は作品を通してだけでなく、常日頃から、いかにして周囲の人間を楽しませるか、そのことだけを考えてきた。そのために彼は、自らの人生をも脚色していたのであった。1980年には銃刀法違反で逮捕され、一時は映画界を追放されてすべてを失った。フジテレビを依願退職し、オファーされていた映画”魔界転生”の監督もなくなり、妻にも逃げられた。生活していくため”五社亭”という店名の飲み屋の開店の準備をしていたが、それを見かねた岡田茂・佐藤正之の尽力により映画界に復帰した。1982年の映画”鬼龍院花子の生涯”で復活し、以降は女優たちの濃厚な濡れ場やヌードに彩られた極彩色の映画を連発して、低迷する日本映画界を牽引した。今では当たり前の、刀がぶつかり合い、肉を斬り骨を断つ効果音を、最初に生み出したのも五社だった。テレビの小さな画面でいかにして映画に負けない迫力や殺気を出すか、に悩んだ末に辿りついた発想だった。1985年に五社プロダクションを設立し、映画”世界最強のカラテキョクシン”の総監修や、映画”陽揮楼UKAGERO”の脚本監修も手がけた。1992年8月30日に、呼吸不全のため死去した。根強いファンに支えられながらも映画賞には縁が薄く、キネマ旬報ベストテンには一度も入賞しなかった。”陽暉楼”では日本アカデミー賞において、監督・脚本・主演男優・助演男優・助演女優の主要5部門で最優秀賞を独占しながら、作品部門では優秀賞に漏れるという珍記録を作った。ハッタリ入り乱れた生涯に翻弄されながら、著者は渾身の取材で鬼才の真実に迫っている。

第1章 情念/第2章 突進/第3章 転落/第4章 復活/第5章 未練

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2017年07月26日

藤原伊周・隆家

 ”藤原伊周・隆家”(2017年2月 ミネルヴァ書房刊 倉本 一宏著)は、栄華を誇る藤原道長の陰で生きた中関白家の栄光と没落、そしてその後を描いている。

 藤原伊周=これちか、隆家は平安期の公卿の兄弟で、父道隆に引き立てられたが、伊周は父死後叔父道長と対立し花山上皇と闘乱した等の罪で大宰権帥に左遷され、隆家は兄に連座して左遷されたが後に復帰した。隆家は、満州民族を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した1019年の刀伊の入寇事件で海賊を撃退した。

 倉本一宏氏は1958年三重県津市生まれ、1983年東京大学文学部国史学専修課程卒業、1989年同大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学、1997年博士(文学、東京大学)で、現在、国際日本文化研究センター教授を務めている。

 中関白家は藤原北家の中の平安時代中期の関白・藤原道隆を祖とする一族の呼称である。道隆は摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男で、花山天皇退位事件で父の意を受けて宮中で活動し、甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。妻・高階貴子は女房三十六歌仙に数えられる歌人である。花山天皇は第65代天皇で、冷泉天皇の第1皇子、母は藤原懐子、円融天皇の譲位をうけ984年に17歳で即位した。しかし、右大臣藤原兼家・道兼父子にはかられ、986年に在位1年余で退位し元慶寺=花山寺で出家した。道隆は990年に父の後を継いで摂関に就任し、自己の系統を摂関家の嫡流にすべく尽力した。関白道隆が全盛期を迎え、個人的能力に秀でた嫡男の伊周は異数の昇進を続け、994年に道長など3人の大納言を超越して内大臣に任ぜられた。次の世代の政権担当予定者としての地歩を固めつつあった。その弟の隆家は参議、庶長子の道頼は権大納言に任ぜられ、娘の定子は一条天皇の中宮、同じく原子は東宮居貞親王=後の三条天皇の妃となった。定子の女官には、”枕草子”の作者清少納言がいた。しかし、彼らの春は永くは続かなかった。995年に道隆と道頼が急死し、中関白家は政権交代のレールを敷き終わらないまま、その中心を失ってしまったのである。その運命の変転の前には、残された者は、あるいはまったく無力に立ちつくし、あるいは空しい足掻きを行って、没落を早めるのみであった。中関白家は、あたかも彗星のごとく光り輝き、そして消え失せていった。その後叔父である道長との権力闘争に敗れた伊周が、花山院闘乱事件などによって大宰権帥に左遷され、隆家もこれに加担したとして連座した。花山院闘乱事件は、996年頃、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君に花山法皇が通いだしたところ、伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家が従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いたとされる事件である。花山法皇は出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり隆家は4月に出雲権守に左遷された。また伊周は、勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法をひそかに行ったとして、大宰権帥に左遷された。どちらも実質的な配流であり、姉弟であった一条天皇・中宮定子の落飾という事態をも招いた。その後、定子は道長の娘である彰子に追いやられるように病没し、遺された敦康親王も皇位に就くことなく病死したため、外戚になることもなかった。伊周の子である道雅も問題行動が多く不遇のまま没し、隆家の家系のみが続いたが、大臣以上を輩出することはなかった。中関白家の人々というのは、単純に言うならば、父の道隆が戯の人、母の貴子が才の人とすると、伊周が才の人、隆家が戯の人、そして定子は両方を受け継いだと言えよう。それに清少納言の影響もあり、笑いに包まれた一家であった。嫡男の伊周は家柄がよくて容貌がよく、学問があって、女性にもてて、自己主張が強く、若くして親の引きで出世した。隆家の方は豪毅にして竹を割ったような性格、また権力者に対しても物怖じしない態度、すぐに暴力に訴える行動様式、にもかかわらず誰からも好か札る立ち位置と、伊周とはまことに対照的な人物像が浮かび上がる。また、結構長寿を得ることができ、多くの子女を儲け、子孫はそれなりに繁栄するなど、伊周とは好対照であった。たとえ不遇な境地にあっても、与えられた立場をしっかり守り、その立場の中で最善を尽くす、そして自らの誇りと矜持は守るといった生き方は、千年を経た今でも強く心を打つ。

第一章 道隆政権誕生まで  兼家雌伏の時代/摂政兼家の誕生と道隆の昇進
第二章 中関白家の栄華   摂政道隆/「中関白道隆」と『枕草子』の世界
第三章 「内覧」伊周    中関白家最後の栄華/伊周の内覧宣旨と道隆の死
第四章 道長政権の成立と長徳の変  道長政権の成立/長徳の変/伊周・隆家の召還
第五章 道長政権下での復権 敦康親王の誕生と定子の死/道長政権下での復権/道長家栄華の「初花」
第六章 呪詛事件と伊周の死 道長・彰子・敦成呪詛事件/伊周の死
第七章 道長の栄華と「刀伊の入寇」 「この世をば」と敦康親王の死/「刀伊の入寇」と隆家/隆家の死
おわりに――中関白家の末裔

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2017年07月22日

カザフスタン

 ”カザフスタン”(2006年9月 白水社刊 カトリーヌ・プジョル著/平山智彦・須田将訳)は、ユーラシアの中心に広大な国土を擁するカザフスタンの風土・歴史・政治・経済・外交を紹介している。

 カザフスタン共和国は、中央アジアとヨーロッパにまたがる共和制国家で、首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ、ロシア連邦、中華人民共和国、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海、アラル海に面している。世界第9位の広大な国土面積を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。国土の大部分は砂漠や乾燥したステップで占められ、地形は中国国境やアルタイ山脈を含むカザフ高原、中部のカザフステップ、西部のカスピ海沿岸低地の3つに分類される。

 著者のカトリーヌ・プジョル女史は、フランスの国立東洋言語文明学院の教授である。フランス国立東洋言語文明学院は、パリにある研究機関、高等教育機関で、略称、INALC=イナルコと言い、国立東洋言語文化大学と訳されることもある。西ヨーロッパ起源以外の言語と文明について、研究および教育を行っている。フランスの教育法では、大学とは別の特別高等教育機関の一つで、バカロレアを取得すれば誰でも入学でき、位置付けは大学と全く同等となっている。

 宇山智彦氏は1967年生まれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程中退、日本の中央アジア地域研究者、歴史学者、政治学者で、現在、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター教授を務めている。

 須田将氏は1975年生まれ、上智大学外国語学部フランス語学科卒業、同大学院外国語研究科博士前期課程修了、執筆当時、北海道大学大学院文学研究科博士後期課程在籍中であった。

 カザフスタンは、面積272万4900?、人口1760万人で、民族はカザフ系65.52%、ロシア系21.47%が多く、ほかにウズベク系、ウクライナ系、ウイグル系、タタール系、ドイツ系などで構成されている。言語はカザフ語が国語で、ロシア語は公用語となっている。宗教はイスラーム教70.2%、ロシア正教26.3%が多く、ほかは仏教、無宗教などである。14世紀頃まで現在のカザフ人とほぼ同じ人種的特徴と、カザフ語とよく似た言語が定着し、15世紀後半 遊牧ウズベク国家から分離し、キプチャク草原に勢力を拡大し、カザフ・ハン国が成立した。18世紀初にジュンガルとの戦いの中でカザフ人の一体性の意識が明確化し、大ジュズ、中ジュズ、小ジュズの3つの部族連合体に分裂した。1730年代にカザフの支配層の一部がロシア皇帝に臣従し、18世紀中頃には清朝にも朝貢した。1820年代までロシア帝国が南部を除くカザフスタンを直接支配下に収めた。1837年から1847年までケネサルの対ロシア反乱が起こり、1850年から1860年代までカザフスタン南部がロシア帝国に併合され、カザフスタン全域がロシアの支配下になった。1920年にはロシア連邦共和国の一部として、カザフ自治ソビエト社会主義共和国が成立し、首都はオレンブルグとなった。1925年に首都をオレンブルグからクズィルオルダに移し、国名をカザフ自治ソビエト社会主義共和国に変更した。1929年に首都をアルマティに移転し、1936年にソ連邦を構成するカザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格した。1986年にはカザフ人共産党第一書記コナエフ解任に抗議するデモ、アルマ・アタ事件が起こり、内務省軍と警察による弾圧があった。1990年にナザルバエフ大統領は就任し、共和国主権宣言を行い国名をカザフスタン共和国に変更した。1991年に共和国独立を宣言し、首都をアルマティからアクモラ、現アスタナに移転した。カザフスタンの歴史は逆説的で、数千年のあいだ、境界の不明確な領域に広がっていたカザフスタンは、遊牧という特徴とテュルク語の独占権の喪失と引き換えに、近い過去において地歩を確立した。ソ連時代がカザフスタンの現在の形を生み、以前からの大変化を完結させた。幾度かの手直しを経て、カザフ共和国を生んだ領域画定の政策は、ソ連中央のシステムヘの統合における新たな層をなした。ツァーリズムの実践で伝統社会の本質を構成するものと対決したのに対し、ソ連の指導者たちは真の断絶をもたらし連邦の他の部分に統合するために中央アジア的な特徴を衰弱させた。スターリン期の抑圧政策は、憲法制定、イスラーム法と慣習法アーダトの禁止、世俗化という法的な断絶と、金の流れの中央管理、集団化という経済分野での断絶を伴った。数千年にわたる豊かな文明を持つものの、ソヴェト民族政策による遺産をそのままの形で引き継いだカザフスタン共和国の政治的・法的・心理的な枠組みは、まだ確立されるに至っていない。カザフスタンは、国内情勢・国際情勢が同国に可能性を与えた場合には、成果をあげることのできる切り札を持っている。有用かつ貴重な一次資源が豊富で、有能な労働力と犠牲に慣れた住民、技術と政治の革新に適応できる能力のある行動的な若年層を持っている。グローバルな観点からみると、陸の孤島からの脱却作戦か成功し、中央アジア各共和国の国内状況が安定を維持し、アフガニスタンが再建された場合、カザフスタンは大陸横断交易に欠けていた鎖の輪となり、ユーラシア大陸の軸としてその歴史的役割を再び見出すであろう。連続的な文化的ショックの中心であるカザフスタンは、ロシア人とカザフ人という明確に区別される民族と、無神論から生き残った正教とシャーマニズムによって消化されたイスラームという2つの異なる文化システムを内包するため、アジア的東洋と西洋の真の融合体となっている。カザフ人は一方では、影響力があり信頼できる西洋の寄与を求め、他方では、その再建はおそらく幻である征服された遊牧世界に根を下ろす、アジア的な遺産を持つ。両者のあいだで引き裂かれたアイデンティティが提示する歴史的方程式を、カザフ入は解くことかできるに違いない。

序   領域から共和国へ
第1部 カザフ空間とユーラシア
 第1章カザフ人登場以前のカザフ空間/第2章多様性の少ない遊牧世界−諸オルダ/第3章ロシアによる征服と植民地化
第2部 ソヴェト・カザフスタン
 第1章1917年の革命−時系列的概略/第2章スターリン時代/第3章ソヴェト空間への統合−フルシチョフからブレジネフまでの経済と文化/4章主権の主張−ペレストロイカから1991年まで
第3部 脆弱な巨人−ポスト・ソ連の移行から再構成へ
 第1章独立以降の政治状況/第2章新しいパートナーたちに向けた開放−国際的均衡のなかでのカザフスタン/第3章深い変化を遂げつつある文化と社会

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2017年07月17日

すべての疲労は脳が原因

 ”すべての疲労は脳が原因”(2016年4月 集英社刊 梶本 修身著)は、疲れているのは体じゃない脳だったといい最新科学が解明した疲労の正体を明らかにしている。

 私たちが日常的に使う”体が疲れている”とは、実は脳の疲労にほかならない。栄養ドリンクや運動は疲れに効くとか、乳酸=疲労物質はすべてウソであるという。

 梶本修身氏は1962年生まれ、大阪大学大学院医学研究科修了、医学博士で、大阪市立大学大学院疲労医学講座特任教授、東京疲労・睡眠クリニック院長を務めている。

 ものごとはきりのいいところまでやらないと気が済まない、ストレス解消のために体を動かすのが習慣である、責任感があり遅くまで残業しても苦にならない、日中に眠気があり大きないびきをかくと言われる、集中力が高く何かに没頭すると周りが見えなくなる、疲れたら栄養ドリンクをよく飲む、屋外ですごす時間が長い、長時間のドライブでも途中休憩をあまりとらない、熱めのお風呂に長湯をするのが好きである、休日は遠くのテーマパークやアウトレットに足を延ばす、

 以上の10項目のうち、1つでも思いあたることがあれば、脳疲労が蓄積している可能性があるという。世界的にみて疲労の研究の歴史はまだ浅く、日本において国が研究をスタートさせたのは1990年代である。1984年にアメリカのネバダ州で慢性疲労症候群の患者が発見されたのを機に、日本では1991年に厚生労働省がこの病態の対策として研究班をスタートさせた。そして、1999年に文部科学省の研究班があとを継ぐ形で、疲労および疲労感の分子・神経メカニズムとその防御に関する研究班を発足させた。日本は疲労大国であるがゆえに、その分野の研究はいまや世界でトップクラスの水準となっている。疲労と聞くとガス欠のイメージを持っている人も多いと思われる。また、仕事や運動をすればエネルギーを消費するから体が疲れるのは当たり前と思っている人も多い。しかし、エネルギー自体が枯渇して疲労を起こすことは滅多にない。仕事や運動をして体の疲れを感じるのは、エネルギーが不足したからではない。日本では疲労が浸透しているにもかかわらず、一方で、実は、疲労の原因や科学的なメカニズムはほとんど理解されていない。疲労が起きるのは細胞のサビに原因があり、細胞が酸化ストレスにさらされることでさびてしまい、細胞本来の機能を維持できなくなることで起こる。酸化ストレスは、体内で活性酸素が過剰に発生することで引き起こされる有害な作用である。ただし、疲労を起こす原因のすべてが酸化ストレスというわけではない。たとえば、がん患者の場合は、がん細胞による体全体への悪液質が発生し、それが疲れの原因になる。疲労とは症候群であり原因はさまざまであるが、大多数の健康な人においては細胞への酸化ストレスが大きく関わっている。酸化ストレスがもっとも激しいのは、筋肉や肝機能などではなく脳の自律神経の中枢である。たとえば、長時間のジョギングや暑い中ゴルフをしていると、体が疲れたと感じる。ヒトは運動を始めると数秒後には心拍数がにがり呼吸が速く大きくなるが、それを秒単位で制御しているのが脳の自律神経の中枢と呼ばれる視床下部や前帯状回なのである。運動が激しくなると脳の自律神経の中枢での処理が増加し、脳の細胞で活性酸素が発生し、酸化ストレスの状態にさらされることでさびつき、本来の自律神経の機能が果たせなくなる。これが脳で疲労が生じている脳疲労であり、ヒトはそのときに体が疲れたというシグナルを眼窩前頭野に送り、疲労感として自覚する。健康な人における疲労とは、日本疲労学会では、一般に運動や労力などの身体作業負荷あるいはデスクワークなどの精神作業負荷を連続して与えられたときにみられる、身体的あるいは精神的パフォーマンスの低下現象と定義されている。パフォーマンスの低下現象とは、本来の能力を発揮できない状態であり、たとえば、思考力が低下する、刺激に対する反応が鈍くなる、注意する力が衰え散漫になる、動作が緩慢になる、行動の量が低下するという変化であり、さらに、目がかすむ、頭痛がする、肩こりが起こる、腰が痛いなどの症状を言う。疲労とは、医学的には、痛み、発熱と並んで人間の生体アラームのひとつと考えられている。つまり、これ以上、運動や仕事などの作業を続けると体に害が及ぶという警報である。もしも警報を発することができなければ、死にいたるまで作業を続けてしまう恐れがある。その危険を回避するために、痛みや発熱と同様に疲労という警報を発し、それ以上の活動を制限するように働いている。疲労とは、生物が生命を守るために体の状態や機能を一定に保とうとする働き、ホメオスタシスのひとつである。アラームが効かない状態で、疲労感を覚えることができずに運動や仕事の負荷作業を連続して行ってしまうと、過重労働で重篤な病気、また過労死につながることがある。

 本書では、疲労とは何か、最新の抗疲労研究の結果から現代人の疲労の本質である脳疲労のメカニズムを探って、その解消法を伝えている。前半の第一章から第三章は脳疲労と疲労について解説し、後半の第四章から第六章では脳疲労を解消するための科学的に根拠のあるメソッドを具体的に紹介している。

はじめに疲労を科学することとは/第一章疲労の原因は脳にあり/第二章疲労の原因物質とは/第三章日常的な疲労の原因はいびきにあった/第四章科学で判明した脳疲労を改善する食事成分/第五章「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減する/第六章脳疲労を軽減するためにワーキングメモリを鍛える/あとがきにかえて

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2017年07月14日

隕石

 ”隕石”(2017年5月 白水社刊 マテュー・グネル著/斎藤かぐみ訳/米田成一監修)は、隕石の基礎知識から、発見の歴史、宇宙科学の現在までを詳細に解説し隕石研究の現在の状況を知ることができる。

 隕石とは、惑星間空間に存在する固体物質が地球などの惑星の表面に落下してきたものを指し、分類すると、鉄隕石、石鉄隕石、石質隕石の3つの種類に分けられる。鉄隕石は主に金属鉄からできている限石で、ニッケルも多く含んだ鉄ニッケル合金で、コバルト、金、白金、イリジウムのような貴金属もわずかながら含まれている。石鉄隕石は鉄ニッケル合金と石質のケイ酸塩鉱物がまざった成分の隕石で、石質隕石は主にケイ酸塩鉱物からなる隕石である。

 マテュー・グネル氏は1971年生まれ、1994年に物理学で修士の学位を取得し、1995年にケンブリッジ大学トリニティー・カレッジで研究を行い、1996年にパリに戻ってからさまざまな阻石研究者と交流し、2000年にパリ第7大学から博士の学位を取得し、大英自然史博物館研究員、パリ第11大学講師を経て、2005年よりパリ国立自然史博物館に勤務、2006年に国際隕石学会ニーア賞を受賞し、2008年からパリ国立自然史博物館の教授に就任した。

 斎藤かぐみ氏は1964年生まれ、東京大学教養学科卒業、欧州国際高等研究院修了のフランス語講師・翻訳家である。米田成一氏は1960年生まれ、1982年東京大学理学部化学科卒業、1987年東京大学理学系研究科化学専門課程卒業、その後、東京大学大学院理学系研究科化学専門課程博士課程単位修得退学、1987年から日本大学文理学部助手、1992年からシカゴ大学博士研究員を経て、現在、国立科学博物館理工学研究部理化学グループ長、理学博士で、専門は宇宙化学、隕石学である。

 パリ国立自然史博物館の隕石研究者である著者が、私たちをマクロとミクロが行き交う世界へと誘う。隕石は天空から地球に飛来した石であり、その年齢は太陽系の年齢であり、人類が手にできる最古の物体である。隕石は神秘のしるしとして、地と天を同じ目で見るようにと私たちを促すと同時に、最先端の機器を使った科学研究の対象として、現在の研究の様子をかいま見せてくれる。過去と現在を結び、博物学と先端科学を架橋してくれる、そんな存在は阻石の外にはない。隕石の研究は、仏語では宇宙化学、英語では隕石学と呼ぶ。地球外天体と生物圏の相互作用、私たちの太陽系の形成、天体の地質進化、地球上の生命の起源などが課題となる。ヨーロッパで隕石が地球外から来たことが科学者に受け入れられたのは、18世紀末から19世紀初めのことで、以後、本格的な収集・保存が行なわれるようになった。1985年までに発見された2700個の隕石中、落下するところが目撃されたのはおよそ45%である。南極では日本をはじめとして各国の南極観測隊が1985年まででも7500個の隕石を回収した。隕石カタログ2000年版には南極隕石17,808個を含む22,507個が掲載されている。このうち21,514個が石質隕石、865個が鉄隕石、116個が石鉄隕石である。隕石の多くはおよそ45億年ほど前にできたもので、太陽系の初期、惑星が形成された当時の始原的な物質であろうと推定されている。隕石は地表に到達するまでに破片になることもあれば、大きな塊のまま到達することもある。大気との衝突によって多数の破片になり、楕円形の長径数kmから数10kmの地域に、数10個から数100個程度、まれに数万個程度の隕石となって落下する。この場合は数100gから数kg程度のものが多い。大きな塊のまま落ちてくることもあり、北アメリカのバリンジャー隕石孔は直径1.2kmあり、数万トンから数10万トンの質量だったと推定されている。隕石そのものが発見された中で最大なのはナミビアのホバ隕石で、重さ66トンである。隕石の真の価値が理解されるようになるのは20世紀後半になってからである。これは、さまざまな分析技術の進歩によるところが大きい。特にウランの放射壊変を利用した年代測定法か開発され、1956年に地球の年齢が推定されたが、これは地球の岩石とウランをほとんど含まない鉄隕石とを比較することによってなされた成果である。また、一部の例外を除くと隕石の種類にかかわらずほぼ全ての隕石が約46億年の年代を示すことから、太陽系か形成されたのは約46億年前と推定されている。地球の年齢は、地球が小さな原始地球から現在の大きさまで成長する時間が必要なため不確かさが残るが、成長を始めたのはやはり約46億年前と考えられる。なお、地球の内部は現在でも熱く、地球表面が絶えず新しく作り替えられているため、地球の岩石は最も古いもので約40億年、岩石に含まれる鉱物でも約44億年が最古であり、地球の岩石の分析だけでは地球の年齢を求めることはできない。隕石の構成成分をさらに詳しく年代測定すると、炭素質コンドライトに含まれるCAIと呼ばれる包有物が太陽系で最古の年齢を示し、ある分析では45億6720万年±60万年という精度で求まっている。このように、隕石は太陽系の形成から惑星の成長までを記録した物的証拠として計り知れない科学的な価値を持っている。本書はこれらの科学的成果を詳細に解説しており、隕研究の現在の状況を知ることか可能である。日本の隕石についての補足説明もあり、九州の直方隕石は落下が目撃され現代まで破片が保存されている世界最古の隕石であるという、また、東京のコレクションは、国立極地研究所が保有する南極隕石の数は、現在約1万7000個で、その数量は世界有数のものとなっている。

第1章 惑星科学と宇宙化学の基礎知識
 基本的な定義/惑星科学の基礎知識/地球化学の基礎知識/同位体宇宙化学の基礎知識/始源的な天体から物質分化した天体へ/宇宙の玉突き/隕石の分類
第2章 隕石小史
 迷信と驚嘆/十八世紀末の転換点/十九世紀―系統的な研究の始まり/二十世紀―宇宙の時代
第3章 地球上の隕石
 大気圏突入/地球外物質の採集/地球外物質のフラックス/衝突と生物圏/隕石の落下年代/こなたの隕石、かなたの隕石
第4章 隕石の見分け方
第5章 母天体から地球へ
 隕石の起源/隕石の照射年代/隕石の地球までの移動
第6章 コンドライトと太陽系形成
 コンドライトの化学組成と同位体組成/コンドライトとその構成要素の形成年代/カルシウム・アルミニウムに富んだ包有物と鉄苦土性コンドルールの形成/酸素同位体組成の進化/短寿命消滅核種/基質―出発物質/昔の光沢いまいずこ
第7章 天体の地質進化
 衝突と衝撃/コンドライトに見られる熱変成と熱水変成/物質分化
第8章 隕石と生命の起源
 隕石中の地球外生命/隕石中の生命前駆分子/宇宙化学と生命出現の背景状況

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2017年07月12日

地球の生物:過去・現在・未来


第15回 地球の生物:過去・現在・未来 海部宣男先生

 これまでの太陽系についての知見を踏まえて、宇宙の中の地球とその上で進化してきた生物の歴史を概観します。

 地球の生物史は地球史とほとんど同じ長さを持ち、それと一体となって進んできました。

1. 宇宙の中で地球と生物を考える

 地球に住む私たちは、炭素の化合物である有機物を基礎とする身体を持ち、岩石の地殻の上に立ち、酸素に富む空気を呼吸し、多彩なミネラルを溶かし込んだ水を飲んでいます。

 また、大量の鉄とコンクリートを用い、金や銀を通貨とし、そして炭素の燃焼やウラニウムの核反応などによるエネルギーを使いながら、文明社会を築いています。

 これらの材料・物質はすべて、宇宙における恒星や暗黒星雲の活動と物質の進化を通じて生産・蓄積されてきました。

 138億年の宇宙史の中で、さまざまな過程を通して地球という天体に集積され、私たち地球の生物はそこから出発して、今日の生態系を作り上げてきたのです。

 地球の生物は、宇宙における物理法則と物質進化という宇宙に共通する基盤に立ちながら、地球という環境に適合した形で生まれ、地球環境の変動に適応して進化してきました。
 
 私たちは、地球が生み出した、地球の生物なのです。

 138億年前、私たちが住むこの宇宙は、加速度的な膨張=インフレーションの中で、空間および物質が現在の形を取ることで、スタートしたと考えられます。

 非常な短時間で終わったとされるインフレーションは、膨張をつづける超高温・高密度のビッグバン宇宙を生みました。

 宇宙が膨張とともに冷えるとより弱い力が働くことは可能になり、さまざまな物質が形を成し、次第に複雑な物質構造が可能になりました。

 現在、その結果の一つとして、地球生命や私たちの文明の活動があります。

 インフレーションの当初は、現在の素粒子論が記述できない超高エネルギー状態で、空間や力、物質の現れ方も、現在とは異なっていたと推定されます。

 インフレーションの加速度的膨張はほぼ10-33秒という、私たちの常識を絶する短時間で終わり、後には超高温・超高密度のビッグバン宇宙が残されます。

 膨張とともに冷却が急速に進み、クォークなどの素粒子が形成され、強い力が働いて陽子などの素粒子やヘリウム原子核が形成され、クーロンカが働いて原子が構成されました。

 最後に最も弱い力だが遠くまで届く重力が働いて、天体の銀河や星の形成が始まりました。
 最初の天体形成の時期は観測的宇宙論が追いかけている最先端のテーマの一つですが、膨張開始から1〜2億年の頃ではないかと考えられています。

 天体の形成が始まった当初、宇宙の元素としては最も簡単な元素である水素とヘリウムしか存在しませんでした。

 私たち生物に不可欠な酸素やケイ素や炭素、金属といった重い元素は、恒星が形成されてから、その核融合反応によって合成されたものです。

 惑星形成の基本的プロセスは固体微粒子の凝集によるコアの形成であり、ガスである水素やヘリウムを除いて重元素だけを選択的に惑星に取り込む過程でもあります。

 生命という複雑なシステムの発生、それによってはじめて可能になりました。

 大気は金星では地球の100倍火星では100の1弱で、気温は金星は極度に高く火星は極度に低いため、表面に液体の水が存在できるのは、太陽系では地球だけになっています。

 太陽からの放射量だけであればこれはどの違いは生じませんが、大気による温室効果が気温の大きな違いをもたらしているのです。

 地球の大気は炭酸ガスがほとんどなく酸素が多いのが特徴で、酸素はシアノバクテリアや植物による光合成で蓄積されたもので、初期の地球大気中には存在しませんでした。

 大量に存在した炭酸ガスは海洋に溶け、また侵食作用や光合成によって地中に固定されて、長い間に劇的に減少しました。

 海洋は炭素の循環などを通して地球の気候をある程度安定化する役割も果たし、海洋の存在が大気をコントロールして、生命に適切な気候を維持してきたと言えるようです。

 条件から少しはずれると金星のように暴走的気候へのスイッチが入ってしまいますので、液体の水の存在は、生物の発生と維持にとって重要と考えられます。

 地球の水は半径6000kmの球体の表面を平均わずか5kmの深さの層で覆い、3割近い面積の陸地を水面上に残しています。

 宇宙における氷粒子の多さを思えば地球は深い海に完全に覆われていても不思議ではなく、衛星や外縁天体の多くは分厚い氷や水に覆われています。

 地球型惑星は氷を含まない惑星として生まれたはずで、海の本は後で彗星などにより供給されたか地殻から搾り出されたのかという、地球の水起源論はまだ決着がついていません。

 海洋の存在は生命にとって基本ですが、陸地の存在も地球の生物進化には重要だったと思われます。

 陸地の浸食でリンやカルシウムなど生物にとって不可欠な元素が海に供給され続けてきたことが、生物進化に重要な役割を果たしたと考えられます。

 加えて、侵食作用を通じて大気中の炭酸ガスを海に流し沈殿固定化することで、地球の気温を押し下げてきました。

 長期にわたっては気候の基本条件も変わり、地球では炭酸ガスの長期的減少に加え、何度かの全面氷結期や最近の氷河期もありました。

 地球もゆっくり冷却しており、その影響に太陽自体の放射の増大も重なって、地球の海洋も10億年以内になくなるという予測があります。

2. 地球史と地球生物史

 46億年前に誕生した時の地球は非常に高温で、惑星形成の残漬である微惑星等の衝突も多く、海が安定的に存在できるまでに数億年を要しました。

 生物は、高温の海、炭酸ガスを多く含む高温の人気という、現在とはおよそ異なる地表環境で誕生しました。

 現代に生きている地球生物は、真正細菌、古細菌、真核生物の3つに大別されます。

 真正細菌と古細菌は、ともに原核生物と呼ばれる小さく原始的な単細胞生物ですが、両者の分岐は30億年ないしそれ以上前です。

 大型の真核細胞生物の登場は、20億年くらい前と思われます。

 原核生物には、自己を外の環境と区別、栄養を摂取し活動、自己を複製、遺伝子の複製ミスや変異を通し環境に合わせてダーウィン進化、という4つの特性があります。

 真核生物は、真核糾胞の単体、または多細胞体です。

 原核生物は、基本としては多細胞体を形成しません。

 真核生物は多彩な細胞機能を活かして、巨大な多細胞生物を出現させました。

 多細胞生物の代表は、私たちに身近な植物と動物です。

 巨大化した細胞と原核生物との共生を通して20億年前に出現した貞核細胞生物は、その後の地球生物の多様性の基盤であり、その出現は地球生物史上の大事件でした。

 これまでに見つかっている最古の生物の痕跡は、専門家により意見が分かれますが、38億年前から35億年前のものです。

 安定した海洋が生まれると、おそらく海底の噴火口近くや浅瀬などで、最初の生命が生まれたのではないかと思われます。

 生物が発生した後は単細胞の時代が長く続き、本格的な多細胞生物の出現にはなお時間がかかりました。

 長い生物の歴史の中で、地球の環境は大きな変化を何度も繰り返したことが分かっています。

 その原因は、地球の内部からも地球の外部からもあり、生物自体が引き起こした大変化もありました。

 しかし、そのたびに地球の生物は打撃ををこうむりながら生き延び、それによってかえって進化の速度を増してきたと考えられるようになりました。

 大気中の酸素濃度は段階的に増え、それと反対に炭酸ガス濃度はほぼ一方的に下がり続けてきました。

 生物による光合成と陸地の浸食による、炭酸ガスの固定の結果です。

 海水が減ったり地球の内部活動が強くなって陸地が増えると、空気中の炭酸ガスは浸食によって海に流れ、岩石への固定作用を受けて炭酸ガスは減ります。

 一方、地球内部の運動が激しくなれば、火山活動で炭酸ガス放出が増えます。

 炭酸ガス濃度の低下は、地球の気候の長期的寒冷化をもたらしました。

 一方で酸素が増えれば、酸素から獲得した大量のエネルギーを消費して、動き回りエサをとる動物の出現が可能になります。

 私たち人間は脳で大量の酸素を消費し、十分な酸素なくしては生きていけない動物です。

 長期にわたる地球環境の変動は、海洋や地殻の変化のみならず、生物の大量発生とその活動によっても引き起こされました。

 最近、およそ22億年前と7億年前の2度にわたって、地球全体が凍りついたと考えられるようになっています。

 原因は特定はされていませんが、当然生物の大量の死滅が起こったはずです。

 生物はその長い歴史の中で、何度も大きな危機に瀕してきました。

 原因は、大規模な酸素欠乏、光合成の途絶、天体衝突、大規模火山活動など諸説があり確定していません。

 地球環境は基本的には安定ですが、まだ十分特定できない原因によりしばしば突然の気候変動が起こり、生物は大打撃を受けてましきた。

 それでも生物はしぶとく生き残り、大絶減のたびに生じる生態的な隙間を新しい環境に適応した新しい種が急速に埋めることに

 大絶滅は最近5.5億年でも少なくとも5回確認されていますので、その前の35億年の間にも多くの環境大変動が起きたと考えるのが自然でしょう。

 真核細胞の出現した20億年前と、多細胞生物の大発生した6億年前にも、地球生物史上の大事件があったのではないでしょうか。

3. 地球の生物と人間、文明、未来

 地震波を世界各地で同峙に観測し相関分析から地球内部の構造を拙き出す地震波トモグラフィーという方法によって、個体地球の理解はかなり進んでいます。

 それによって、海洋プレートが冷えて沈み込む一方、熱いマントル物質が地下深くから上昇し、全休としてマントル内部の対流が進んでいる様子が見えてきました。

 そうした大きな変動はプレート運動に新たな変化を起こし、大陸を離合集散させます。

 地球の大陸は過去、3億年前のパングア、22億年前のゴンドワナ、10億年前ロディニアというふうに、2〜3億年の周期で一つに纏まった超大陸を作ってば分裂してきました。

 現在は、ユーラシア超人陸の形成中と昆ることができます。

 そのほか、たとえば27億年前には突然、地球に磁場が生まれたらしいです。

 これも内部運動の大きな変化に起因していることは間違いありません。

 そうした地球自体の運動や冷却に伴う長期的な変化は、地球の気候にも大きな変化を及ぼし地球生物の進化にも大きな影響を与えたであろう。

 地球の生物は、地球環境に全面的に依拠し、ときどき思いがけない形で起きる環境変動に対応して新しい環境に適応するものが生まれて生きのび、進化を続けて、現在に至った。

 その中で、二足歩行をはじめ、手を用いて道具を作り、脳を大きくして計画的行動を発展させ、20万年前に文化を持つ種として現れたばかりの動物が人間です。

 人間は地球生物としてはじめて自己を認識し未来を考える能力を持ち、言語などの情報を共有し、科学・技術・産業、総称して文明という新しい社会活動を行う動物です。

 地球の未来については、長期的にはある程度のことが予測できます。

 太陽は中心部で核融合反応が進み、ヘリウムが中心に溜まるとともに、少しずつ明るさを増してきています。

 今後もそれは続き、およそ50億年後には急速に膨れ上がって、赤色巨星になるでしょう。

 金星はのみこまれ、たぶん地球も蒸発するでしょう。

 少なくとも灼熱の世界になるでしょう。

 その前に太陽放射で地球の海は干上がりますが、地球自体の冷却に伴う海の消滅のほうが、それより早いかもしれません。

 地球の海はいま、少しずつマントルに吸収される過程にあるらしいです。

 プレートは岩石中に取り込んだ海水をマントルに運び込みますが、地下の高温のため水は分離してふたたび地上に帰ってきます。

 ところが地球内部が冷えると、水を海に戻すこのプロセスが働かなくなります。

 そのためすでに数億年前から海水のマントルヘの吸収が始まっているらしく、地球に海がなくなるのは10億年くらい先と言われています。

 そうなれば、地球の現在の気候も生態系も維持できません。

 もっとも、何億年も先の地球にどんな生物がいるかは全く予想できません。

 そんな先の話でなくとも、地球における環境の大変動の可能性は、過去の例からいろいろ考えられています。

 環境に変動をもたらすほどの大隕石衝突の時間スケールは、数100万年でしょう。

 超火山の噴火も、それに劣らない気候の人変動を起こします。

 7万4千年前におきた超火山級のトバ火山の大噴火では、当時の人類の数が急減したことが知られています。

 超火山の時間スケールは、10万年のオーダーです。

 氷河期もあり、過去200万年にわたって10万年ごとに繰り返された氷期と間氷期のうち、最新のウルム氷期が12000年間前に終わった後の比較的温暖な間氷期に私たちはいます。

 また寒い氷期が訪れると考えたほうがよいという研究者も多いようです。

 次の氷期が来るとすれば、過去の明確な同期から言って5万年から10万年以内ということになります。

 そうした変化はおおごとではありますが、生物も人間も何とか対応していけるでしょう。

 最も時間スケールが短く、そして真剣に考えなければならないのは、人間自身が作り出す環境変化です。

 前までは無限に大きく思われた地球という容れ物は、今は小さく感じられるほどになりました。

 人為的温暖化、食料、水不足などの問題や、化学物質の蔓延、人類活動によるかつてない規模の生物大絶滅と生態系の激変など、課題は山積みになりつつあります。

 人間活動による環境変化の最も深刻な問題は、その時間スケールの短さにあります。

 時間スケールは世代を重ねる必要からかなり長く、さまざまな中和要素が自然に働きます。

 けれども人間活同の場合、時間スケールが桁違いに短いので、人間以外の何ものも、それを中和することができません。

 人間はそれに対応できるでしょうか。

 あるいは、急激で方向性が分からない変化を自分で生みだし、有効な対応ができずに人間文明が自滅して短命に終わるという可能性もあるのでしょうか。

 それはまさしく、現代に生きる私たち人間自身の問題です。

 第一生物はすべての生物の祖の原核生物、第二生物は巨大な細胞を組み立てた真核生物、第三生物は真核細胞を何兆個も積み上げ分業化して大型生物となった多細胞生物です。

 人間は知りたがりの動物で、空間と時間を越えて知を共有する動物であり、地球が産んだ第四の生物といえます。

 地表をほぼ覆い尽くして生きる第四生物としての人間は、自身が生み出しだ巨大な活動の結果に、自分で責任を負わなければなりません。

 人間は、すでにその第一歩を踏み出しているといえないでしょうか。

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2017年07月10日

武田信重

 ”武田信重”(2010年5月 戎光洋出版社刊 磯貝 正義著)は、国を逃れ国外に20余年隠忍自重し漸く帰国し守護となった数奇な運命を辿った甲斐武田氏14代当主の生涯を紹介している。

 武田信重は信玄の5代前の甲斐武田氏当主であり守護大名であったが、一生を安泰に送った人ではない。父信満の敗死という不測の事態が運命を狂わせ、西国に流浪した異色の存在である。

 磯貝正義氏は1912年岐阜県土岐郡時村生まれ、第八高等学校を経て、1936年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し大学院へ進み、1938年に満期退学し、文部省に勤務した。文部省宗務局保存課・宗務課に所属し、戦後、1946年に山梨県へ移り、山梨師範学校教授、山梨大学教育学部教授を歴任した。1978年に名誉教授となり、山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編纂委員会委員長と務めた。

 武田信重は、1386年に第13代当主・武田信満の長男として甲斐国都留郡に生まれた。武田氏は甲斐源氏の棟梁であり、甲斐源氏は名門清和源氏の一流である。甲斐源氏は新羅三郎源義光を祖とし、甲斐と清和源氏との関係は義光の祖父頼信の時代までさかのぼることができる。1029年に頼信は甲斐守に任ぜられたが、在任中平忠常の乱を平定し、束国に活相源氏の勢力を植えつけた。後年、甲斐が甲斐源氏によって制圧される素地は、この頼信の時代に築かれた。頼信の子頼義は父に従って甲斐に下向したが、のち陸奥守兼鎮守府将軍となり、陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子の反乱を、前後12年にわたる苦闘の末に平定した。頼義の長子義家は父に従ってこの役に参戦したが、後年、陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられ、出羽の豪族清原氏一族の内訌に発する大乱を悪戦苦闘の結果平定した。義光はこの義家の弟で、兄を助けて乱の平定に大きな貢献をした。義光には数子があり、義業が常陸佐竹氏の祖となり、盛義が信濃平賀氏の祖となったのに対し、義清は甲斐に土着して甲斐源氏の直接の祖となった。義清の子清光は峡北の逸見方面の経営に主力を注ぎ、子供たちを国内の要地に分封することによって甲斐源氏の勢力は一層強大化した。清光には大勢の男子があり、それぞれ国内の要地を占拠し、その地名によって氏を称え、甲斐源氏は幾多の分脈を生ずるに至った。逸見・武田・加賀美・安田・平井・河内・田井・八代・奈胡・浅利・曽根などの諸氏が生れ、それらがさらに一条・甘利・板垣・秋山・小笠原・南部など無数の分脈を派出し、甲斐源氏は天下に名高い大族となった。これらの中で、後世とくに繁栄するのが信義の子孫と遠光の子孫である。信義は武河荘武田に拠って武田氏の祖となり、兄の逸見光長を凌いで甲斐源氏の総領的地位に立ち、後世甲斐の守護職はその子孫が独占することになった。一方、遠光は加賀美に拠って加賀美氏を称したが、その子長清は小笠原氏などの、光行は南部氏などのそれぞれの祖となり、子孫は国外の大族として栄えるに至った。信義には忠頼・兼信・有義・信光などの諸子があり、それぞれ活躍するが、鎌倉幕府草創期の困難な時代を生き抜き、最後に武田の総領職を継いだのは、石和の御厨を占拠した石和五郎信光であり、かれは甲斐の武田・大井・穴山氏などのほか、安芸・若狭の武田氏や松前氏など、国外の大族の祖ともなっている。信光の活動期間は長く、源家が三代で滅ぶと、後鳥羽上皇は朝権の回復を図って北条氏追討の軍を起こした。信光は一族の小笠原長清、関東の雄族小山朝長・結城朝光とともに、東山道大将軍として西征、戦勝後、恩賞として安芸の守護に任ぜられた。信光の子孫が代々安芸の守護となり、その一族が安芸に移り住むようになった。信光のあとは、信政・信時・時綱・信宗と続いて鎌倉時代の末期に及んだ。元弘の乱から鎌倉幕府の滅亡、建武の中興、南北朝の争乱と、14世紀の中葉以降は動乱の世紀であった。甲斐の一族も両派に分かれて争い、とくに南北朝期には両派に分属して相抗争した。武家方が圧倒的に優勢で、信武・信成・新春と続く武田の総領家は、終始一貫して武家方であったため、その地位はまず安奏であった。とくに信武は尊氏の信任が厚く、尊氏の姪を妻とし、兵庫助・甲斐守・伊豆守・陸奥守等に任ぜられ、また安芸守護のほか九州探題や甲斐・若狭の守護を兼帯し、後世武田家中興の祖と称せられた。信武の子信成は安芸守・刑節大輔で甲斐守護となった。信成の手信春は、修理亮・伊見守・陸奥守等に叙され、甲斐守護を継いだ。南北朝の動乱期を無事に切り抜けた武田総領家が、一転して不幸のどん底に落ち込むのは、信春の子信満が上杉禅秀の乱に加担して敗死したからであった。この信満の長子が信重であり、武田守護家の嫡流でありながら、20余年間も国外を流浪した末に、ようやく入部できた悲運の守護であった。1416年10月の上杉禅秀の乱に際して、父の信満や弟の武田信長は上杉禅秀方に与したが、翌年1月に禅秀が幕府軍に敗れて自害し、続いて領国の甲斐国に逃れた信満も2月に敗死した。信重は高野山に逃れて出家し、光増坊道成と号した。信満敗死後の甲斐守護には同じく高野山に逃れていた叔父・武田信元が補任されて1418年2月に帰国していたが、1421年には信重も幕府より甲斐国への帰国を促されたが、このときは帰国を拒否している。1423年6月に室町幕府4代将軍・足利義持から守護に補任されていたが、鎌倉府がこれを承認しなかったため入国は果たせなかった。1425年6月にも、逸見・穴山等打出として帰国を拒否し、在京のままでの守護就任を望んだ。その後、信長の子で信元の嗣子となっていた武田伊豆千代丸が、実父の信長や甲斐守護代の跡部氏らの助力を得て、逸見有直をはじめとする反武田勢力と抗争して優勢だった。逸見氏の後ろ盾となっていた鎌倉公方・足利持氏の介入によって戦況は後退し、1426年8月に信長が鎌倉府に降伏、さらに台頭してきた跡部氏が専横を揮った。その跡部氏が信重の帰国を要請したこともあって、1438年8月に、信濃守護・小笠原政康の支援を得て帰国を果たした。1439年の永享の乱には出陣しなかったが、1440年の結城合戦に参陣して、結城七郎を討ち取る武功を挙げた。1450年11月に、一族の黒坂太郎を討つために出陣したところ、小山城主の穴山伊豆守がその隙を衝いて攻め、前後を挟撃されて自害したという。墓所は館のあった山梨県東八代郡石和町小石和の成就院で、跡目は子の武田信守が継いだ。

1 父祖の遺業
2 武田信満と上杉禅秀の乱
3 武田信元の守護補任と帰国
4 武田信長の活動
5 武田信重の流寓
6 武田信重の帰国
7 守護武田信重の活動
8 武田信重の信仰と修養
9 武田信重の死
10 武田信重の後裔
11 武田信重館跡と成就院

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2017年07月09日

他の惑星・衛星に生物は存在するか?

第14回 他の惑星・衛星に生物は存在するか? 長沼 毅先生

1. 火星−我々の隣人を探して

 1976年、米国の探査機バイキング1号・2号が相次いで火星に着陸し、有機物の検出と生物学実験を行いましたが、結局、生命や有機物の存在は確認できませんでした。

 バイキング計画は、生命探査での失意の一方、火星の大気組成に関する詳細なデータを得て、地球に落下した隕石の幾つかが火星出来であることが判明しました。

 ALH84001と命名された隕石は、1500万年前の隕石衝突で火星から弾き出され、太陽系をさまよった後、南極に落下し1984年に発見されたものです。

 1996年に米国NASAはこの唄石の内部に化石化した徹生物のように見える構造があると発表し、火星の生物探査熱が再燃しました。

 この隕石には、生命の存在を示唆する、

 炭酸カルシウムが存在すること、生物に由来する有機物と同じものが見つかったこと、鉄と硫化鉄が共存すること、化石化した微生物のように見える構造があること、

の4つの特徴がありました。

 個々の特徴は非生物的にもできるものですが、これらが同時に存在することは生物の存在を示唆しているようにも思えます。

 この問題にはまだ結論がでていませんが、少なくとも過去の火星に生命が存在したかもしれないという期待を抱かせるに十分です。

 その後の火星探査計画では、いきなり生命活動や生物を見つけようとするのではなく、その前提になる環境条件の精査に主眼が置かれるようになりました。

 火星の失われた水を求めて、米国の2機の探査車が2004年に着陸し、うち1機は2013年1月現在も稼働中です。

 エンデュアランス・クレーターという隕石孔にも入り、ここがかつて北米の五大湖に匹敵する大きな水体であったことを示唆するデータを得ました。

 太古の火星にはかつて水が存在したもののその大部分は失われましたが、現在も火星の南極や北極などに氷になった水が残っています。

 火星の地表の水とともに重要な発見は、火星の大気におけるメタンとアンモニアの存在ですが、欧州宇宙機関のマーズ・エクスプレス(2003〜2014)は、微量ながらも検出しました。

 火星の生命探査でもっとも重要なのは有機物の発見ですが、これまで火星で有機物が検出されたことはありません。

 有機物の発見を主目的としだ動く実験室ともいえるほど本格的な探査車、キュリオシテイ(2012年〜)が火星に降り立ち活動を始めました。

2. 木星系・土星系−エウロパ、タイタン、エンケラドゥス

 水星には60個以上の衛星がありますが、そのうち大きな4個はガリレオ衛星で、木星に近い方からイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストです。

 1979年3月、惑星探査機ボイジャー1号がイオの火山活動を撮影しました。

 火山活動の熱源は、太陽系最大の惑星である木星と太陽系最大の衛星ガニメデによる潮汐作用で、イオの岩石が摩擦・変形して発熱します。

 イオよりは弱いものの潮汐加熱は隣の衛星エウロパにも効いています。

 エウロパにも火山活動が期待できるものの、火山活動はエウロパの表面を覆う厚い氷殻に隠れてしまいます。

 しかし、1977年に地球の海底火山で、太陽の恵みを受けた生命・生態系ではなく、地球という惑星自身に由来する、火山ガス成分をエネルギー源とする生物群集が発見されました。

 海と火山は生命の存在を予想させるものであり、同じことが、海と火山のある他の天体にも当てはまるかもしれず、エウロパはその一例です。

 ただし、現在の地球のように活発な生命と多くの生物を支えるには、十分な量の酸素の供給が必要と考えられますが、エウロパではそれは困難と思われます。

 土星の衛星タイタンは地球的な月と言われ、厚い大気を有しています。

 太陽系で1気圧以上の濃い大気をもつ天体は、金星、地球、木星、土星、天王星、海王星、そして、土星の衛星タイタンの7つあります。

 木星の衛星ガニメデやカリストはタイタンとほぼ同じ大きさですが、希薄な大気しかありません。

 このうち、大気の主成分が窒素なのは、地球とタイタンだけです。

 タイタンの大気組成は窒素が98%、メタンが2%で、他にエタンや一酸化炭素、二酸化炭素などもわずかに含まれています。

 タイタンの地表温度は−179℃で、約1.5気圧でこの温度なら大気成分の窒素は気体のままですが、メタンやエタンは液体として存在します。

 2006年と2007年、探査機カッシーニは、タイタンの北極域および南極域に液体の湖を発見しました。

 液体のメタン・エタンの湖と推定され、水というより油と同じ非極性という性質を帯びていますので、それは油っぽい湖です。

 一方、地下には深さ不詳のアンモニア水の内部海、さらに深度700kmまでアンモニア水の氷層があって、その奥に珪酸質の岩石層があると考えられています。

 ソリンの大気、メタンの湖、アンモニア永の内部海。生きているタイタンのどこかに、生命の予感がします。

 探査機カッシーニは、タイタンよりずっと小さい衛星エンケラドゥスに薄いながら水蒸気の大気があることを発見しました。

 小さな天体の弱い重力では大気は宇宙空間に逃散してしまうはずなのに水蒸気があるということは、水蒸気が常に供給されていることを示しています。

 エンケラドゥスの南極にあたる場所のひび割れから、液体の水が噴出する光景が捉えられました。

 これは氷火山と呼ばれる火山活動で、氷火山の噴出物からは、探査機カッシーニによる2005年の観測では、水蒸気が主成分で、窒素やメタン、二酸化炭素も検出されました。

 さらに2008年の観測では、エタンやプロパン、アセチレンなども検出され、2009年には、エンケラドゥスの内部海が塩水であることを示唆する報告もなされました。

 エンケラドゥスには、火山と塩水の海と有機物という生命への三拍子があることになりますが、三者の同時存在が確認されたのは、地球以外ではエンケラドゥスが初めてです。

3. 太陽系外縁から太陽系外へ

 地球以外で現在活動している火山一活火山がはっきり確認された天体はどれも衛星で、イオ、エンケラドゥス、そして、海王星の衛星トリトンだけです。

 熱源が何であれ、天体の表面に滑らかな領域があり液体の水やアンモニア水などが噴出して凍ったと思われる斑状痕があれば、氷火山があったと間接的に想定できます。

 そのような天体としては、天王星の衛星ミランダ、冥王星の衛星ガロンなど、続々と候補が挙がってきています。

 トリトンやガロンはかつて太陽系外縁天体に属していたと考えられており、太陽系外縁天体は、直径100km以下のものも含めると、一億個以上あるかもしれません。

 そこに氷火山があるということは、太陽系外縁天体にも氷火山、生命への三拍子の可能性の基本があることを予想させます。

 小惑星は軌道やスペクトル型などで分類され、スペクトル型では小惑星帯の内側にはケイ酸質中心のS型が多く分布し、外側に向かって炭素質のC型が増えてきます。

 しかし、地球から遠い上に暗くて観測しにくいため、小惑星のサンプルを採取・回収するサンプルリターンへの期待が大きいです。

 地球生物の体をつくるタンパク質は、アミノ酸がたくさんつながったもので、立体構造によって左手型と右手型があります。

 化学組成や性質は同じなのですが、左手型と右手型を重ね合わせることはできず、地球生物のアミノ酸はほとんど左手型で、左手のキラリティーといいます。

 なぜ左手型が多いかというキラリティー問題はまだ解決されていませんので、生命の起源に関する仮説はこの問題にも答えなければなりません。

 地球外生命探査の目は太陽系の外へも向けられ、系外惑星は候補も含めてすでに3300個以上発見され、800個以上が確定しています。

 生命探査で意義深いのは、地球から約20光年と比較的近いところにある赤色矮星グリーゼ581の2つの惑星、グリーゼ581dと581gです。

 どちらも巨大地球型惑星であり、中心恒星からの距離が生命可能領域にあると考えられていますが、水の存在は未確認です。

 確定した系外惑星であるスーパーアースの候補には現時点でもう2つあり、ひとつは地球から約22光年離れたグリーゼ667Cの惑星グリーゼ667Ccです。

 グリーゼ667は三連星で少なくとも2つの惑星があり、ハビタブルゾーンに位置するのがグリーゼ667Ccです。

 そして、太陽とほぼ同じ大きさの中心恒星ケプラー22を回る惑星ケプラー22bも有望で、質量は海王星くらいのスーパーアースです。

 また、別の系外惑星ケプラー20eは地球より小さなサブアース、惑星ケプラー20fは地球とほぼ同サイズです。

 このような生命がありえるハビタブルな系外惑星を探すため、宇宙望遠鏡ケプラーが2009年3月に打上げられましたので、地球外生命が見つかることを期待したいと思います。

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村 心地よい暮らし]





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2017年07月04日

無数の惑星系の中で

第13回 無数の惑星系の中で 海部 宣男先生

 京都モデルを軸に太陽系の形成シナリオが書き上げられていった1980年代には、太陽系はまだ宇宙で唯一の惑星系でした。

 しかし、1995年を皮切りにほかの恒早を回る惑星=太陽系外惑星の発見がめざましく進み、2013年はじめまででその数は3000個を超えています。

 観測された太陽系外惑星のふるまいは太陽系での常識を次々と覆し、天文学に衝撃をもたらしました。

1. 太陽系外の惑星の探査

 今や、惑星系はごくありふれた存在であることが明らかになりました。

 1940年代にワイゼッカー、カイパーらは、太陽をとりまいて回転する円盤の安定性と、円盤の分裂による惑星形成を論じました。

 かつて主流だった潮汐説は恒星同士の接近遭遇という希な現象を基礎としていたため、惑星もごく希な存在と考えられていました。

 これに対し、円盤説では惑星は恒星の誕生のおまけであり、惑星系はたくさん存在するだろうという予想を導きました。

 アストロメトリ法では、中心星が力学的釣り合いにより惑星との共通の重心の周りを同じ周期で小さく円運動する動きを、中心星の天球上での位置の周期的変化として検出します。

 極めて小さな位置変化を何年も追う忍耐強い観測の末1942年に、ストラッドが白鳥座61番星に、ファン・デ・カンプがバーナード星に、それぞれ惑星の存在を確認したと発表しました。

 しかし、他の観測者による再確認が出来なかったため、1970年までにはどれもほぼ否定されるに至りました。

 アメリカのストルーヴェは19524年にドップラー法を提案し、中心星のわずかな円運動をとらえるのは同じですが、運動を中心星の視線速度の周期変化として観測しようとしました。

 中心星の光をしっかりとらえればよく、近距離の恒星であれば光は十分あるやめ、遠いことによる観測の不利は比較的少ないです。

 高感度CCD光検出器や光ファイバなどの分光器の高度安定化、高度な波長基準システムを用いた波長の統計分析など、数多くの技術的進歩を積み重ね観測が実を結んだのは20世紀末でした。

[最初の発見]

 1995年、マヨールたちはジュネーブ天文台の2m望遠鏡によるドップラー法の観測で、ペガスス座51番星を回る太陽系外惑星の存在を確認したと発表しました。

 この惑星は木星の半分程度の質量の巨大惑星なのにわずか4.23日の周期で公転していて、太陽系の惑星とは全異なるふるまいをする惑星でした。

 この発見をきっかけに太陽系外惑星の探査は急速に進み、探査グループが世界各地に形成され、発見は年々数を増しました。

 報告された太陽系外惑星は2008年までに300個を超え、2013年3月現在では太陽系外惑星探査衛星ケプラーの成果も加えて、3000数百個が報告されています。

[太陽系外惑星の探査法]
 
 ドップラー法から得られる情報:ドップラー法の観測から直接得られるデータは中心星の公転周期と中心星の速度です。

 中心星の質量をスペクトル型から推定して併せると、惑星の公転軌道と質量を導けます。

 トランジット法:ストルーヴェはドップラー法を提案したと同じ短い論文で、トランジット法による太陽系外惑星検出の可能性にも触れています。

 軌道面の延長がちょうど地球の方向を向いている惑星の場合、地球から観測していると惑星は周期的に中心星の前を横切って、食=トランシットを起こす可能性があります。

 これを観測すれば、公転周期はもちろん、中心星の減光の割合と中心星の大きさの比較から、惑星の直径も分かります。

 トランシット観測が可能な惑星系の割合は小さいですが、惑星系は非常にたくさんありますので、地上からの観測でもすでに数十例の観測が帳内されています。

 重カレンズ法:遠方にある巨火銀河や銀河団は重力で周囲の空間をゆがめますので、光はゆがんだ空間の最短距離に沿って直進し、宇宙的サイズのレンズ効果が現れます。

 マイクロ重力レンズで、系外惑星によるマイクロレンズ効果で背景の星の光度が増加する現象をとらえることができるようになりました。

 ただし観測上の制限が多く、検出例もまだ少ないです。

 直接観測:惑星の光を直接とらえて分析し大気や温度など物理的性質を調べる直接観測が、これからの大きな課題となります。

 すでにすばる望遠鏡に備えた専用観測装置CIAO、さらにその次世代機であるHi-CIAOなどでは、中心星から離れた軌道を回る大型惑星の直接イメージが得られ始めています。

 ハビタブル惑星の将来の探査も含め、惑星光の分光による系外惑星の直接観測は、30m級の可視光・赤外線望遠鏡計汲竡汾「代スペース望遠鏡の大きなテーマになっています。

2. 太陽系外惑星系の世界

・初期の観測:太陽系外惑星の意外なふるまい

[灼熱巨大惑星]

 まず発見されたのは、木星規模の質量を持つ巨大惑星でありながら、中心星に極めて近い軌道を高速で公転する惑星でした。

 ペガスス座51番星の発見は衝撃を与えましたが、その後相次いだ発見の多くは、やはり大質量のガス惑星が中心星のすぐそばをビュンビュン回るものでした。

 太陽近くには小型岩石惑星が回り、遠くでは巨人ガス惑星がゆったり回るという太陽系の常識は、太陽系外惑星発見の最初から覆されました。

 大気は激しく乱れ、巨人な彗星のようにガスをなびかせている灼熱巨大惑星あるいはホット・ジュピターと呼ばれる惑星は、太陽系では想像もされなかった新しい種類の惑星です。

[偏心軌道惑星]

 おとめ座70番星の惑星のドップラー法のデータは、離心率が人きな、すなわちかなり潰れた楕円軌道を描く偏心軌道惑星であることを示しています。

 エキセントリック・プラネットとも呼ばれ、そろった公転面の上でたくさんの惑星が同心円状の軌道を描くという太陽系的な惑星系のイメージも大きく崩れました。

 これまでの観測では、離心率が1に近いものまで含め大離心率の惑星が非常に多く、離心率がほぼゼロの太陽系型の惑星は、むしろ少数派にすら見えました。

 灼熱巨大惑星に加えて、これら偏心軌道惑星がなぜ生まれるか、惑星形成論にはその説明が新たに求められることになりました。

・系外惑星の統計的分析とスーパー・アースの発見
 
 発見された太陽系外惑星の数が増え、木星より重い惑星もかなりあるが、小質量の惑星ほど数が急速に増える傾向が顕著です。

 地球の質量は小さいが、感度の向上から、ドップラー法からも、今後地球程度の惑星が多数見出されてゆくことは十分に予想できます。

 2009年ころから、太陽系には存在しない地球質量の数倍から10倍前後の惑星が続々発見されて、新たな驚きをもたらしました。

 この新種の惑星はスーパー・アースと呼ばれ、マヨールたちによれば、太陽型恒星の3割から5割に、多くの場合複数のスーパー・アースが存在します。

 いまのところ、公転周期10日程度の中心星近傍を回るホット・スーパー・アースが多く見つかっています。

・トランシット観測の進行

 宇宙空間からのトランシット観測で地球サイズの惑星を多数見つけようというNASAのケプラー望遠鏡衛星によるケプラー・ミッションが、2013年現在までで大きな成果をあげました。

 2012年2月及び2013年1月に中間報告が公表され、地球サイズの惑星を含む3000個近い惑星候補を検出するなど、期待に近い成果が挙がりつつあります。

 ただ感度が当初の目標にやや届かないこともあり、運用期間を延長しましたが、2013年5月に装置の不調で観測を一時停止しています。

 地球サイズの惑星がすでに300数10個も見つかっていること、スーパー・アース・グループも多いこと、海王星サイズが最も多いことなどが注目されます。

 地球サイズ、スーパー・アースサイズ、海王星サイズ、木星サイズの惑星を持つ恒星の割合はそれぞれ17%25%30%50%程度で、全体では恒星のうち70%が惑星を持つとしています。

 同じ惑星をドップラー観測できれば不定性のない質量が求められ、さらにトランシットで分かる惑星サイズから惑星の密度が分かります。

 ケプラー・ミッションの対象星の多くは遠いのでドップラー観測が困難ですが、すでに100個以上の惑星でそうした密度の推定が行われています。

 大雑把には太陽系と同様、ガス惑星、水・氷惑星、岩石惑星の3種が区別されるようです。

・惑星系は「ありふれた」存在

 初期の観測からは太陽型恒星の5パーセント以上が巨大惑星を持つことが確かめられました。

 太陽型以外の恒星では、スペクトル型A型の巨星がさらに多い割合で惑星を持つことが明らかになり、反対により小型で暗いM型の恒星でも惑星が数多く見つかっています。

 その後のケプラー・ミッションと最近のドップラー観測から、惑星がかなり普遍的な存在であることがはっきりしました。

 ケプラー・ミッションから、恒星のうち17%以上が地球サイズの惑星を持つと推定され、地球程度の小型惑星は非常に多いことが確実になりました。

 恒星を回る惑星系は銀河系においてはごく普通の存在と考えられ、無数の惑星という言い方は天文学においてもはや常識になってきました。

3 太陽系はどんな惑星系か

 発見された太陽系外惑星の意外なふるまいから、太陽系形成理論にも見直しが迫られました。

 その結果、太陽系形成論はより大きな惑星系形成論に進化しつつあります。

・太陽系形成論の拡張(1):大型惑星の形成

 原始惑星系円盤の質量の見直し:

 太陽系外惑星の観測がもたらした最初のインパクトは、巨大惑星、それも中心星の非常に近くを公転する灼熱巨大惑星が多いことでした。

 そこでまず、惑星系のもとになる原始太陽系円盤、一般的には原始惑星系円盤が見直されました。

 原始惑星系円盤が重ければ巨大惑星がたくさん生まれる一方、質量が小さな原始惑星系円盤からは小さな岩石惑星しか生まれないでしょう。

 内側に岩石惑星、外側に巨大惑星が回る太陽系は、やはり中間的存在なのかもしれません。

 原始惑星系円盤の質量と生まれ出る惑星とのそのような関係が、本当に成り立っているかどうか、さらに詳しい観測が期待されています。

 原始惑星系円盤における惑星の軌道変化:

 もう一つ考えなければならないのは、京都モデルでは円盤の外側でガスを集めて成長したはずの巨大ガス惑星がなぜ、ホット・ジュピターとして中心星近くを回っているのかです。

 注目されているのは、原始惑早系円盤の中で起きると考えられる惑星の内側への移動です。

 個体である惑星とは異なり、円盤中のガスは粘性のため角運動量を外へ伝達して速度を失い、中心近くに落ち込んでいきます。

 すると惑星も、公転速度が遅い周りのガスとの衝突でやはり公転速度を失い、ゆっくり中心に向かって移動します。

・京都モデルの拡張(2):力学的安定性

 惑星どうしの力学的相互作用:

 原始惑星系円盤から生まれた惑星はほぼ円運動をするはずで、大離心率の楕円軌道を持つエキセントリック・プラネットが生まれるには、何らかの擾乱が起きることが必要です。

 そこで主役を演じるのは、成長したに犬惑星どうしの力学的相互作用と思われます。

 そうした力学的擾乱は、大惑星がたくさん生まれた場合にはほぼ必然的に起きることが、コンピュータによる重力多体問題のシミュレーション計算から分かってきました。

 系外惑星に多く見られるつぶれた楕円軌道を描く巨大惑星の多くは、惑星系一般の安定性に疑問を投げかけます。

 惑星の内側への落込みにせよ、力学的不安定にせよ、惑星系は必ずしも当初生まれたままの姿にとどまるわけではないことがはっきりしました。

 太陽系の場合:

 太陽系はすでに46億年間ほぼ安定に過ごしてきましたが、力学的には今後も当分安定に存在できることが、同様なシミュレーション計算から分かっています。

 太陽系が安定なのは、惑星が比較的小さく、軌道がかなり離れているからと考えられます。

 木星型の巨人惑星はむしろ少数派で、地球サイズやスーパー地球サイズの惑星が多いことなどから、予想としては、太陽系のような惑星はかなり多く存在するだろうと思われます。

 太陽系外惑星の探査は観測の精度を上げながらより小さな惑星へと向っていますが、生命を宿し得るハビタブル惑星への強い関心があるのはもちろんです。

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2017年07月03日

遣唐使 阿倍仲麻呂の夢

 ”遣唐使 阿倍仲麻呂の夢”(2015年9月 角川学芸出版刊 上野 誠著)は、科挙を突破し希有の昇進を遂げ唐の重臣閣僚となった阿倍仲麻呂の苦難の生涯をつらぬく夢を日唐交流史をふまえて描きだしている。

 阿倍仲麻呂は698年に大和国に生まれ、筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫、中務大輔・阿倍船守の長男であった。若くして学才を謳われ、717年多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して、唐の都・長安に留学した。同次の留学生には、吉備真備や玄ムがいた。唐名を朝衡または晁衡といい、唐で国家の試験に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。

 上野 誠氏は1960年福岡県生まれ、国学院大学大学院文学研究科博士課程後期単位修得満期退学、奈良大学文学部教授(国文学科)、博士(文学)で、万葉挽歌の史的研究と万葉文化論により、第12回日本民俗学会研究奨励賞、第15回上代文学会賞、第7回角川財団学芸賞を受賞している。

 当時、唐の国力に及ぶ国はほかになく、都・長安は人口100万人の大都会であった。日本の平城京はわずか10万人であった。唐こそ世界を支配することのできる唯一の帝国であった。8世紀の東アジア世界においては、唐の文明を受け入れることで各国の国作りが進められていた。日本はそのうちにあって、世界帝国・唐の文明の果つるところ、辺境の一小国に過ぎなかった。ほぼ20年に一度派遣される遣唐使は、国家の存亡に関わる重い任務を負って、唐に旅立っていったのである。阿倍仲麻呂も、遣唐留学生の一人として唐に渡った人物である。なお、姓は史料ごとに異なり、”阿倍””阿部””安倍””アベ”の表記となっている。本書では、”阿倍”に統一して記すことにする。唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えた。太学は古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関で、官僚を養成する機関であった。科挙は、中国で598年〜1905年まで約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。玄宗は唐の第9代皇帝で、治世の前半は太宗の貞観の治を手本とし、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えた。しかし、後半は、楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作ったと言われている。仲麻呂は725年に洛陽の司経局校書として任官、728年に左拾遺、731年左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから、李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していた。733年に多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行は、かろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄ムは、第1船に乗っていたものの助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると、今度は崑崙国に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で、渤海経由で日本に帰国することができた。734年に儀王友に昇進し、752年に衛尉少卿に昇進した。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐した。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維が秘書晁監の日本国へ還るを送るの別離の詩を詠んでいる。しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流された。このとき李白は仲麻呂が落命したという誤報を伝え聞き、明月不歸沈碧海の七言絶句、哭晁卿衡を詠んで仲麻呂を悼んだ。しかし、仲麻呂は死んでおらず、船は唐の領内である安南の驩州に漂着し、755年に仲麻呂一行は長安に帰着した。この年、安禄山の乱が起こったことから、日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来したが、唐朝は行路が危険である事を由に清河らの帰国を認めなかった。仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、760年に左散騎常侍から鎮南都護・安南節度使として再びベトナムに赴き総督を務めた。761年から767年まで、6年間もハノイの安南都護府に在任し、766年に安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督を贈られ、770年1月に73歳の生涯を閉じた。歌人として”古今和歌集””玉葉和歌集””続拾遺和歌集”に、それぞれ1首ずつ入首したとされる。”続拾遺和歌集”の1首は、万葉集の阿部虫麻呂の作品を誤って仲麻呂の歌として採録したものと言われている。百人一首に、

 ”天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも”

が選ばれている。753年に帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説であるが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え福岡県春日市の御笠山から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在する。

第1章 新生「大宝律令」の子/第2章 日本から唐へ/第3章 科挙への挑戦/第4章 官人として宮廷社会を生きる/第5章 知恵が救った四人の命/第6章 阿倍仲麻呂帰国/第7章 阿倍仲麻呂と王維/第8章 天の原ふりさけ見れば

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2017年07月02日

太陽系誕生のシナリオ

第12回 太陽系誕生のシナリオ 海部 宣男先生

1. 恒星と惑星はどのようにして生まれたのか

 太陽系の中心である恒星、すなわち太陽と、それをとりまいて回る地球などの惑星は、何から、どのようにして生まれたのでしょうか。

 恒星と惑星の材料である暗黒星雲の存在は1930年代の光学観測で認識されました。

 その実態と星形成過程の理解は、ようやく1970年から!980年代にかけて、電波観測と赤外線観測によって進みました。

 太陽系の起源に関する考察は、試行錯誤の末に、基本的な理論が築かれたのは1970年から1980年代のことです。

 太陽・恒星のエネルギー源は核融合反応にあることは、ワイゼッカーやベーテが1930年代末までに明らかにしました。

 恒星にもそれぞれの質量に応じて寿命があることが理解されましたが、そもそも恒星は何からどのように生まれてくるのでしょうか。

 1930年代に、星間空間にガスや星からの光を吸収・散乱する微小な固体粒子=星間塵、ダストの存在することが明らかになりました。

 しかし可視光による観測から得られるのは吸収によるわずかな手がかりだけで、恒星が暗黒星雲から形成されるのか、それとも水素ガス雲などから形成されるのかは、長い間不明でした。

 1cm〜1mmという非常にミリ波による観測が登場して星の形成に関する観測が進み、暗黒星雲はさまざまな分子のガスを主成分とする星間分子雲だということが分かりました。

 暗黒星雲の密度、温度、質量などの物理状態や運動が明らかになり、暗黒星雲=星間分子雲が10K前後の低温で密度もかなり高く、実際に星を生み出す母体であることが判明しました。

 1930年代ころまでの太陽系形成論には星雲説、遭遇説などがありましたが、星雲が恒星と惑星生成の主役だと認められたのは1970年以降の電波観測によるものです。

 恒星はさまざまな分子や固体微粒子を含む暗黒星雲=星間分子雲が、自分の重さで収縮して生まれます。

 宇宙空間にあって自己重量でまとまっている雲が自分の重さで縮むためには、雲の温度に応じた分子ガスの熱運動が生み出す内部圧力に、雲の自己重力が打ち勝つ必要があります。

 雲の温度が低くまた密度が高いほど小さな星を作ることが可能になります。

 ミリ波観測と赤外線とから恒星が実際に生まれる様子が詳しく観測され、恒星の一つである太陽の形成時の状況も想定できるようになってきました。

2. 太陽系形成の標準的なシナリオ

 太陽系の形成を説明する理論は、太陽系とその諸惑星が持つ顕著な性質を説明できなければなりません。

 第一は、惑星の質量が中心星の太陽に比べて千分の1以下と非常に小さく、かつ恒星のような高温のガス体ではなく岩石の本体または核を持つことです。

 木星質量の13倍程度より重い天体は高温のガス体となり固体の岩石核を内部に持つことは出来ないとされ、木星質量の13倍前後が恒星と惑星の質量境界とほぼ考えられています。

 第二は、太陽の周りの整然とした公転です。

 水星から海王星までの8惑星の軌道では、真円からのずれの程度を表す離心率は平均0.060(Oが真円、1が放物線で、その間の値が楕円を示す)です。

 第三は、惑星の公転軌道が形成する円盤が非常に薄いことです。

 黄道面(地球が太陽を公転する軌道面)からの各惑星の公転軌道の傾きを表す軌道傾斜角は、平均2.23度、最大が水足の7.0度です。

 第四は、質量と角運動量の分布です。

 太陽系の全質量の99.8%が中心の太陽に集中しているのに対し、太陽系の全角運動量の98%は惑星が保有しています。

 第五は、惑星は内側から外側に向かって、大きさと形態に顕著な違いがあることです。

 太陽系惑星は、内側から小型岩石惑星(地球型惑星)、巨人ガス惑星(木星型惑星)、巨人水・氷惑星(天工星型惑星)の3つのタイプと、2つの小天体群から成ります。

 1970〜1980年代にかけて、京都大学の林忠四郎グループが現実的な太陽系形成のシナリオを組み立て、その成果が太陽系形成の標準シナリオとして知られる京都モデルです。

 1)星間分子雲が自己重力で収縮し、中心星である原始太陽と、それをとりまいて同転する原始太陽系円盤が生まれる。

 2)分子ガスと固体微粒子から成る原始太陽系円盤は、原始太陽を回りながら、内部の乱流・粘性と遠心力・重力の作用により、赤道面からの厚さが内側ほど薄い形を形成する。

 3)円盤の中では、固体微粒子(ダスト)が、分子間力で相互に吸着成長しながら赤道面に薄く沈殿する。

 4)円盤の赤道面に沈殿したダスト層は、ある濃度に達すると重力的に引き合って分裂し、サイズが数km〜10km前後の微惑星を無数に生成する。

 5)微惑星は重力で相互に引き合い、衝突合体を繰り返して、直径1000km前後の原始惑星に成長する。

 6)原始惑星は、近傍の原始惑星との合体、重力による跳ね飛ばしなどで公転軌道ごとに整理され、その領域で最も大きく支配的な原始惑星が急激に成長して、現在の惑星になった。

 またこの間に、円盤内のガスは外部に散逸した。

 分子雲からの惑星形成は、太陽系の内側では数百万年から1千万年、外側でも1億年程度の時間スケールで進行する。

 京都モデルの大きな特徴は、円盤中の星間塵=ダストが凝集成長して固体惑星またはその内部コアを形成するダストコア凝集の過程にあります。

3. 現代の太陽系形成論

 1990年代、京都モデルを軸とする太陽系形成論に大きな影響を及ぼした画期的な観測が、相次ぎました。

 さらに、1995年から続く太陽系外惑星の発見と観測は、太陽系だけをもとに組み立てられてきた太陽系形成論に大幅な修正を追っています。

・太陽系の形成史(1):分子雲からの自己重力収縮と円盤形成

 ハッブル宇宙望遠鏡で撮影したオリオン星雲は、高温ガスの光を背景に生まれかけの若い星を囲む黒い楕円形のシルエットがいくつも浮かんでいます。

 これらは若い星の周りに暗黒星雲物質から形成された太陽系くらいの大きさの原始惑星系円盤で、オリオン星雲中の若い星の半分以上がこうしたダスト円盤を伴っていました。

 京都モデルが想定する原始惑星系円盤がいよいよ姿を現し、太陽系形成論は観測的な裏づけを得てさらなる精密化に向かうことになりました。

 暗黒星雲=星間分子雲は最初は巨大ですが、重力収縮が進むと密度が高くなりジーンズ質量は小さくなり、内部ではより小さく高密度な領域へと分裂と収縮が繰り返されます。

 分裂した雲のサイズと密度の分布は、乱流的な構造に特有な関係を示すことが分かっています。

 最終的に大きさ1万天文単位程度、主成分の水素分子の数密度が10の11乗個/立米程度の分子雲コアに至ると、急速な自己重力収縮を開始して恒星を生み出します。

 分子雲コアから生まれる恒星が連星系となるか孤立した星となるかは、その自転によって決まると考えられます。

 分子雲コアは速やかに収縮して、大部分の物質を集めた中心の原始星と、大きな回転モーメントのため中心に落ちきれずに周りを回る原始惑星系円盤とが形成されます。

 中心星には分子雲からの物質が激しく落下して赤外線で明るく輝き、原始星となります。

 このときの原始惑星系円盤のサイズはほぼ太陽系のサイズの100天文単位程度、中心の原始星の直径は0.01天文単位程度です。

 もとの分子雲コアのサイズから見れば、円盤で100分の1に、原始星では100万分の1にまで縮んでいます。

 激しい落ち込みを反映して、円盤の回転軸に沿った反対2方向に激しい分子ガスである流出双極分子流が観測されることが、原始星段階の大きな特徴です。

・太陽系の形成史(2):ダストから惑星への集積

 観測から推定される原始星段階の寿命は短く、10万年程度で大規模な落ち込みは終わります。

 原始星をとりまく分子雲コア物質の名残りも円盤を残して薄くなり、それまで赤外線でなければ見ることが出来なかった中心星が、可視光でも見えるようになります。

 これを”古典的Tタウリ型星”段階と呼び、原始惑星系円盤は平衡状態に近づいていますが、円盤内では内部物質の移動、中心星への物質落下が続いています。

 およそ1000万年にわたる古典的Tタウリ段階を経て、円盤の活動が収まり中心星への物質落下も一段落し、”弱輝線Tタウリ型星”段階になります。

 弱輝線Tタウリ型星段階では、円盤の中で惑星形成が進み、無数の微惑星が互いの重力で引きあい、合体成長して直径1000kmサイズの原始惑星になります。

 原始惑星同士はその重力でさらに激しく衝突合体し、あるいは重い原始惑星が軽いものを圏外に振り飛ばすなどにより、公転軌道周辺を独占して、安定的に回る惑星が残ったと考えられます。

 中心星から遠くなるほど円盤の物質密度は小さく公転速度が遅くなり微惑星同士の衝突も間遠になり、惑星形成に時間がかかるため惑星形成時間は1億年程度と見ることができます。

・太陽系の形成史(3):大型惑星の形成

 星間塵=ダストの成分は暗黒星雲の赤外線観測で詳しく調べられ、ケイ酸塩鉱物岩石の元のシリケイトの微小砂粒子と、それ以上に氷粒子が多く存在することが分かりました。

 氷粒子が存在できる境界を雪境界線と呼び、その内側では氷が揮発してしまうため、ダストはケイ酸塩粒子が主体となり、結果として小さめの岩石コア=小型岩石惑星しか出来ません、

 雪境界線より外側では大量の氷粒子がケイ酸塩粒子と一緒に凝集するため、大きな固体コアが形成されます。

 さらに、大きな固体コアは強い重力で周りのガスを大量に集めることが可能になり、暴走的にガスを集めて巨大化すると考えられます。

 こうして生まれたのが木星や土星であり、氷粒子の分布によって、火星より内側の小型岩石惑星と、非常に大きく膨大なガスの衣をまとう木星型の巨大ガス惑星の違いが説明されます。

 天王星と海王星も当初は木星や土星と同様の巨大ガス惑星と考えられていました。

 しかし探査ロケットによる観測などから、ガスよりも氷が主な成分であることが分かってきた結果、いまは巨大水・氷惑星あるいは天王星型惑星と呼ばれます。

 太陽から遠い天王星・海王星の領域では固体コアの集積・形成に時間がかかり、ガスを集められるサイズに達したとき、原始太陽系円盤中にガスはあまり残っていなかったと考えられます。

・太陽系の形成史(4):小惑星・太陽系外縁天体の形成

 小惑星は、ほとんどが大小の岩石塊ですが、中には隕鉄として知られる鉄・ニッケルの塊があります。

 火星と木星の間の非常に広く開いた領域に集中していることも重要な特徴で、小惑星がかつて
は惑星にまで成長しかけていたことを示しています。

 そのサイズの天体では内部で成層分化が起き、中心に鉄・ニッケルのコアが形成されるからです。

 すなわち小惑星は、数個の原始惑星段階にまで成長しながら、その後互いの衝突によって破壊され断片化したものと考えられます。

 衝突破壊を引き起こしたのは木星の重力作用と考えられています。

 断片化した小惑星はその後相互の重力作用を繰り返し、他の惑星に衝突して吸収されたり、遠方に跳ね飛ばされたりして、比較的安定な軌道を持つものが残っていると考えられます。

 海王星の外側を回る太陽系外縁天体群は小惑星と違って氷が主成分で、サイズは100km前後から2000km程度まで見つかっています。

 軌道はかなりの長円形も含み、軌道傾斜角も惑星に比べると格段に大きいものが多く、特に大きな楕円軌道を描くものは散乱型外縁天体または散乱円盤天体と呼ばれています。

 海王星の外側では微惑星から原始惑星への成長がさらに遅くて、ついに惑星にまで成長できな
かったようです。

・残る問題

 太陽系の形成シナリオは、ダストコア集積を中心とする京都モデルを基礎に、新しい知見を取り入れながらその大略が見えてきました。

 しかし、微惑星形成などの具体的な過程など、なお解決されていない問題があります。

 散乱型外縁天体や未発見のオールト雲などの観測は、今後の問題です。

 巨人惑星の衛星の起源の問題もあります。

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2017年07月01日

太陽系の果て

第11回 太陽系の果て 吉川 真先生

 海王星の軌道付近やその外側に、近年、多数の小天体が発見されています。

 これらを太陽系外縁天体と総称し冥王星もその1つであり、冥王星は2006年に惑星ではなく準惑星と定義されました。

 さらに、より遠方にも天体が発見され始めており、太陽系は急速にその広がりを増しています。

1. 冥王星

 アメリカのローエル天文台のトンボーが、1930年に9番目の惑星である冥王星を発見しました。

 しかし、発見された冥王星は、観測が進むにつれて、実はかなり小さな天体であるということがはっきりしていきました。

 きさは小さいし軌道も惑星らしくないので、冥王星は惑星らしくないという考えはくすぶり続けていました。

 1992年に冥王星の軌道領域に新たに小天体が見つかり、1992 QB1 という小惑星の仮符号が与えられました。

 その後、1992 QB1のような小天体が、次々と発見されるようになりました。

 そして、2003年に発見された2003 UB313 エリスという天体は、冥王星よりも大きい可能性が高いということになりました。

 エリスを第10番目の惑星にすべきなのか、それとも冥王星を惑星ではないとすべきなのか、大議論が始まりました。

 2006年8月の国際天文学連合(IAU)総会の場で、冥王星は惑星ではなく太陽系外縁天体の1つであり、準惑星という新しいタイプの天体に分類されることになりました。

 惑星の数はそれまでの9個から8個に減りました。

 国際天文学連合では、次の3つの条件を満たすものを惑星としました。

@直接太陽の周りを回り、A十分大きな質量を持つために自己重力が固体としての力よりも勝る結果、重力平衡形状のほぼ球状を持ち、Bその軌道近くから他の天体を排除している。

 新たに導入された準惑星の定義は、@とAは同じで、Bその軌道近くから他の天体を排除していない、というものです。

 太陽の周りを直接回る衛星ではない天体の中で、球形になれるほど大きいが自分の公転軌道周辺の主になれるほどには大きくない天体ということになります。

 冥王星の軌道長半径は約39.7天文単位で、太陽の周りを約248年で1周していて、近日点距離は約297天文単位、遠日点距離は49.9天文単位と太陽からの距離は大きく変化します。

 軌道の離心率が大きく0.254で、軌道傾斜角は約17.1度であり、離心率や軌道傾斜角は惑星としては最も大きい値となっています。

 冥王星の赤道半径は約1、195kmで、月の平均半径が1、738kmよりも小さく、地球から冥王星を見ると非常に暗く14等星程度です。

 冥王星には5つの衛星があり、そのうちのガロンは半径600kmほど、冥王星の半径との比が2:1ほどで、衛星というより連星のような二重天体と見なしてもよいものです。

 他の4つの衛星は、2005年に発見された半径22km程度と推定されるニクスとヒドラ、残りの2つは2011年と2012年に発見されたより小さな衛星です。

 冥王星は太陽から遠いためその表面温度は低く−230℃程度と考えられ、表面はすべてが凍り付いた世界で、表層の永の成分は主に、メタン、窒素、一酸化炭素と言われています。

 観測は地上の大型望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡によって行われているものの、表面の様子はよく分かっていないため、ニュー・ホライズンズによる探査が期待されています。

 軌道の図では冥王星は海王星と公転軌道が交差いるように見えますが、実際の軌道は同じ平面になく互いに傾いていて、このままの軌道を保つ限りは衝突しません。

2. 太陽系外縁天体

 最初に発見された太陽系外縁天体は1992 QB1で、1992年にハワイ島のマウナケア山のハワイ大学口径2.2m望遠鏡で非常にゆっくりと移動していく天体として発見されました。

 その軌道を求めてみたところ、冥王星より遠いということが分かりました。

 海王星の軌道の外側には多数の小天体が分布していて、カイパーベルト天体あるいはエッジワース・カイパーベルト天体と呼ばれています。

 アイルランドの天文学者エッジワースとアメリカの天文学者カイパーとが、1950年前後に短周期彗星の起源としてこのような天体の存在を提唱したことにちなんでいます。

 その後、実際の天体はしばらく発見されませんでしたが1992 QB1が見つかり、さらに同様な天体の発見が相次ぎ、その数は、2012年には1600個を超えています。

 太陽系外縁天体の発見数が増えるにつれて、その軌道分布に特徴があることが分かってきました。

 最も目立つ特徴は、冥王星のように海王星と公転周期における共嗚関係にあるものが沢山存在するということです。

 公転周期の比としては3:2だけでなく、2:1、4:3、5:3などの共鳴にある太陽系外縁天体もあり、3:2のものが圧倒的に多く発見されています。

 1992 QB1のようにこのような共鳴状態にはないものも多く、キュビワノ族と呼ぶこともあります。

 さらに、散乱円盤天体と呼ばれる天体のグループもあり、近日点距離が30〜40天文単位程度で、遠日点が約65天文単位から数百天文単位にも達する大きな離心率を待っています。

 惑星探査は、すべての惑星、惑星の衛星のいくつか、彗星や小惑星など、すでにかなりの天体の無人探査が行われました。

 まだ全く探査機が行っていない種類の天体が太陽系外縁天体で、地球から非常に離れているので探査機を飛行させることは非常に困難でした。

 太陽系外縁天体の領域を超えていった探査機は4つあり、1972年と1973年に打ち上げられたパイオニア10号と11号、1977年に打ち上げられたボイジャー1号と2号です。

 ただし、そのどれも太陽系外縁天体の観測は行っていません。

 アメリカは2006年1月に、太陽系外縁天体の初めての探査を行うミッションとして、ニュー・ホライズンズという探査機をが打ち上げました。

 冥王星に到着するのは2015年の予定で9年間かけて冥王星に行きますが、冥王星のわきを通過する=フライバイだけです。

 冥王星をフライバイした後にはエッジワース・カイパーベルトに入り、可能であれば冥王星以外の太陽系外縁天体の観測も行うということです。

3. 太陽系の広がり

 太陽系の観測が進むにつれて、どんどん小さな天体や遠方の天体が発見されるようになりました。

 そして、ついに遠日点距離が900天文単位を超えるような小さな外縁天体、セドナが発見されました。

 2003年にアメリカのパロマー天文台で初めて観測され、近日点距離が約76天文単位で遠日点距離が約干天文単位もある細長い軌道上を回っていることが分かりました。

 軌道長半径は487天文単位ほどで、軌道を一周する公転周期は1万年余りとなります。

 このように大きな天体が太陽からこのように離れたところにまで分布しているということは、驚きです。

 今後の観測によってますますこの種の天体が発見されてくる可能性があり、太陽系の描像はさらに変わるのかもしれません。

 実は、セドナのように非常に遠方まで達する軌道をもつ天体があることは、彗星の観測によって、以前から知られていました。

 彗星は公転周期が200年より短い短周期彗星と、それより長い長周期彗星とに分けられます。

 短周期彗星の軌道面は黄道面に近い分布が多いため、惑星の公転面を延長したところに短周期彗星の起源であるエッジワース・カイパーベルトがあると考えられていました。

 観測が進んだおかげで、エッジワース・カイパーベルトは実際に、太陽系外縁天体群として発見されたわけです。

 長周期彗星の軌道の分布には特に平面内への偏りはみられず、長周期彗星の起源は太陽を大きく取り囲む球殻の中の元になる天体ではないかと考えられていました。

 その球殻の大きさは半径が1万天文単位から10万天文単位で、提案したオールトにちなんでオールトの雲と呼んでいます。

 オールトの雲は遠すぎるためまだ観測では確認されていませんが、もし存在するのならそれが太陽系の本当の果てと言ってよいでしょう。

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2017年06月29日

カレーの歴史

 ”カレーの歴史”(2013年8月 原書房刊 コリーン・テイラー・セン著/武田円訳)は、いまやグローバルとなったカレーについて、インド、イギリス、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアの世界中のカレーの歴史を読み解いている。

 カレーは、インド系、東南アジア系、洋食系の何れも現在では国際的に人気のある料理のひとつとなっている。現在私たちが食べているカレーには大きく分けて2つの源流がある。1つは、185世紀後半、インドの広城を支配していたイギリス東インド会社の商人たちが、自分たちの舌に合うように現地の料理を大胆にアレンジしたアングロ・インディアンカレー、もう1つは、古くは商人たちの手で、19世紀にはいわゆる離散インド人によって草の根レベルで伝えられ、世界各地の食材や食文化と融合したカレーである。そして、今日では、ヨーロッパや北米、中南米、アフリカ、オセアニアなど、世界中でカレー文化が根付いている。本書には多くのカラー図版とともにレシピも付いており、料理とワインについての良書を選定するアンドレ・シモン賞特別賞を受賞している。

 コリーン・テイラー・セン氏はシカゴ在住のフードライターで、インドの食物についての造詣が深く、”シカゴトリビューン””シカゴサンタイムズ”などに寄稿している。

 竹田円氏は東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了、専攻はスラヴ文学で、訳書と翻訳協力が多数ある。

 カレーは、多種類の香辛料を併用して食材を味付けするというインド料理の特徴的な調理法を用いた料理である。それを元にしたヨーロッパ系の料理や、同様に多種の香辛料を併用して味付けされる東南アジアなどの料理も指す場合がある。カレーは18世紀にインドからイギリスに伝わった。当時、イギリスはインドを植民地として支配し始めていて、インドのベンガル地方の総督だったイギリス人が紹介したといわれている。19世紀に、イギリスで初めてカレー粉が作られた。インドにはカレー粉というものはなく、いろいろなスパイスを組み合わせて、カレーの味をつくっていた。インドのカレーとの違いは、小麦粉でとろみをつけたところにもあった。日本では、明治時代に当時インド亜大陸の殆どを統治していたイギリスから、イギリス料理として伝わった。カレーという言葉の定義は曖昧で、何かと議論の種になる。本書では、カレーとは、スパイスを効かせた、肉、魚、または野菜の煮込み料理で、ライス、パン、コーンミールなどの炭水化物が添えられた食べもの、と定義する。スパイスはその場で手作りしたパウダーでもペーストでも、店で売られている既成のスバイスミックスでもよい。この非常に広い定義には多くの料理が含まれる。イギリス統治時代のインドで生まれた古典的なアングロ・インディアンカレー、タイの洗練されたゲーン、カリブ海の活力みなぎるカレー、日本人が大好きな庶民の味カレーライス、インドネシアのグライ、マレーシアの絶品ニョニャ料理、南アフリカのバニーチャウ、ギボテイ、モーリシャスのヴィンダイ、そしてシンガポールの屋台に並ぶ激辛料理などなどがそれである。カレーの第2の定義として、汁気のあるものもないものも、カレー粉で味つけした料理はすべてカレーと認めることにする。カレー粉とは既成のスパイスミックスのことで、一般的なスパイスミックスの成分は、ターメリック、クミンシード、コリアンダーシード、トウガラシ、フェヌグリークである。こちらのグループには、ドイツのカレー・ヴルスト、シンガポールヌードル、カレーケチャップがかかったオランダのフライドポテト、アメリカのカレーチキンサラダのような多様な異種族混血料理が含まれる。カレーという言葉の起源についてはたくさんの説があるが、おそらく、スバイスで味つけした野菜や肉の炒めものを指す南インドのカリルまたはカリという言葉が元になっているのだろう。そもそもインド人はカレーという言葉を使っていなかった。しかし今日では、インド人も、とくに外国人と話をするときには、家庭で作る煮込み料理全般をカレーと呼ぶことが多い。15世紀後半、ポルトガルが香辛料貿易を支配し、ペルシア湾、マラッカ海峡、インドネシア、インド、南アフリカという広域にまたがる一大交易網を築いた。17世紀、ポルトガルはイギリスとオランダに植民地の大半を奪われた。1807年に大英帝国で奴隷貿易が違法とされ、1833年に奴隷制度そのものが廃止された。これを受けてイギリスは、解放された奴隷に代わる労働力として100万人を超える長期契約労働者をインド亜大陸から、西インド諸島、南アフリカ、マレーシア、モーリシャス、スリランカ、フィジーのプランテーションに連れてきた。新参者のインド人たちは移民先の土地の食材と自分たちの食習慣を合体させて、新種のカレーを作り出した。今日イギリスでは、数千軒のレストランやカレーハウス、ほぼ同数のパブでカレーを食べることができる。また、オランダのハーグやアメリカのニューヨークなどの都市の多くのレストランで、地元の素材で作られる洗練されたカレーを味わうことができる。カレーというグローバルな料理は今も進化し、変化する時代に適応し続けている。

序章 カレーとは何だろう?/第1章 カレーの起源/第2章 イギリスのカレー/第3章 北米とオーストラリアのカレー/第4章 離散インド人たちのカレー/第5章 アフリカのカレー/第6章 東南アジアのカレー/第7章 その他の地域のカレー/第8章 カレーの今日、そして明日

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2017年06月25日

ベネチア

平成29年

3月20日(月)

 ベネチア観光

 ベネチアはイタリア共和国ベネト州の州都、ベネチア県の県都で、中世にはベネチア共和国の首都として栄えました。

 ”アドリア海の女王””水の都””アドリア海の真珠”などの別名をもっています。

 縦横無尽の水路により車の進入を許さず、移動手段は水上バスか水上タクシーがメインです。

水の都1.JPG

水の都2.JPG

 ボートに乗り換えサンマルコ広場へ。

水上バス.JPG

 サンマルコ広場.JPG

 レストランで昼食

 ベネチア昼食1.JPG

 ベネチア昼食2.JPG

 ベネチア昼食3.JPG

○ゴンドラ遊覧


  


  


  


  


 レストンランで夕食

 撮るのを忘れてしまいました。

≪宿泊ホテル≫ダブルツリーバイヒルトンホテルヴェニス-ノース

 ヒルトンホテルベニス.JPG

 ヒルトンホテル内部.JPG

 3月21日(火) 一路、ミラノ空港へ。そして、ミラノ発、空路、アリタリア−イタリア航空直行便にて帰国の途へ。

 3月22日(水) 東京、成田着。

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2017年06月22日

沖縄・奄美の小さな島々

 ”沖縄・奄美の小さな島々 ”(2013年7月 中央公論新社刊 カベルナリア吉田著)は、最初からガクッとつまずく島の旅で、沖縄・奄美でもローカルな島ばかり歩いた旅のエッセイである。

 沖縄県は日本で最も西に位置する県であり、沖縄本島を中心に363の島々から構成されている。沖縄諸島は南西諸島の中央部に位置し、琉球諸島北半分を占める島嶼群である。明治時代から1972年の本土復帰まで沖縄群島と呼称されていたが、復帰後は沖縄諸島に統一されて呼ばれるようになった。沖縄諸島は、沖縄本島をはじめ、本島の北西海上に位置する伊平屋伊是名諸島、勝連半島沖の与勝諸島、慶良間諸島や久米島などの島々を範囲に含む。また沖縄本島の東方海上約400kmに位置する大東諸島は、琉球弧に含まれないため、地理学上では沖縄諸島に属さないことがあるが、行政的には含まれるのが一般的である。奄美大島は九州南方海上にある奄美群島の主要な島で、単に大島ともいう。本州など4島を除くと佐渡島に次ぎ面積5位の島で、大きな方から順番に、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島となっている。年間の日照時間が日本一短く、大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。指定区域に含まれる島には、奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島がある。大きく揺れ動き変動しているのは沖縄本島だけでなく、瀬底、多良間、鳩間等の小さな島から奄美までも同じような傾向が見られる、という。ローカルな島々を歩き回って、現地の人と触れあい島のいまを伝えている。

 カベルナリア吉田氏は1965年札幌市生まれ、早稲田大学卒業、読売新聞社、女性雑誌、情報雑誌で編集の仕事を行い、2002年よりフリーとなった。航空会社機内誌、島旅雑誌、旅行ガイドなどにエッセイを提供している。沖縄を自分の足で隅々まで歩き、沖縄のいまを見たいという気持ちで沖縄旅を重ねている。最近は、基地問題や再開発による街づくりなど時事、社会問題をテーマに歩くことが増え、気がつくと沖縄本島ばかりを歩いていた。

 島を歩くのを忘れていたわけではないが、長い間ご無沙汰してしまった島がたくさんある。2003年に沖縄の有入46島を全て歩き、その旅を本にまとめた。そして、2005〜2006年にかけて沖縄を自転車で走り、歩いて旅するには大きな島を中心に、いくつかの島を歩いた。それ以来、沖縄の島だけを歩く旅をしていない。この10年で沖縄の社会情勢と、観光を取り巻く環境は大きく変わった。リゾートが出来たり出来なかったりで島が観光化され、手つかずの風景が荒れ、島人の濃密なコミュニティにもヒビが入ることもある。のどかな風景にちらりと映る暗部が気にかかる。島は本来あるべき姿から逸脱しつつあるのではないか。そして、変わりゆく島の姿は日本全体の縮図かもしれない。基地、尖閣問題が本土でも連日報道される一方で、ドラマ人気により八重山人気が爆発、そして収束した。移住人気も一緒に盛り上がった、と思ったら沈静化した。10年前に島を旅したときは、海と空の美しさにただ感動して、人がひたすら優しく見えて旅は終わった。久々に歩いたら、前は気づかなかった別の一面も見えてくるかもしれない。そう思い、数年ぶりに沖縄の島旅に出ることにした。観光化が進んでいない、小さな島を中心に歩こう。そのほうが、よそ行きに飾っていない、島の素顔が見えるはずだからである。そして、沖縄だけでなく、今回は奄美の島も歩こう。奄美も元々は、同じ琉球王国に属していた。沖縄にとどまらず、琉球を知るためには、奄美もそろそろ歩き始めたい。沖縄にも冬は来る。そして冬の間は海が荒れ、島行き船が予定通りに出ないことも多い。だから春になり空気が緩み始めたら、この旅を始めよう。そう思ったのだが、3月の頭に沖縄はもう春だろうと思っていたが、冬がグズグズと居座っていた。伊是名島の玄関口仲田港は北西からの風に弱く、冬場はしばしば定期船が欠航する。波5メートルでは、船はたぶん着かない。だが、飛行機の時間が迫るのでとりあえず乗ろう。その先のことは沖縄に着いてから考えよう。

本島周辺
 瀬底島/今度こそ伊是名島/伊平屋島・野甫島/屋我地島/与勝諸島(平安座島・浜比嘉島・宮城島・伊計島)/津堅島/慶留間島・外地島/奥武島/渡名喜島/粟国島
宮古・八重山
 池間島/下地島/多良間島/黒島/鳩間島
奄美
 加計呂麻島/請島/与路島

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